閑話 フィリップとハリー。
「お久しぶりです。フィリップ殿。」
「うむ。」
マルガンダの、フィリップの屋敷の一室。
ハリーは、態々こちらでの対面を望んだ。
アルマンドの屋敷に、立ち入ろうと言う気はない。
旅の供をしているとは言え、正式には、自分はまだ出奔した、かつての家臣でしかないのだ。
「お忙しい所、お呼び立てして申し訳ありません。」
言うと、フィリップは微かに首を横に振った。
この四年で、随分と老いた。
目尻と額の皺が、痛々しい。
かつて、王都から王国中を飛び回っていた時の、燃えるような気配はない。
枯れた巨木のような印象を受けた。
「構わんよ。よく、戻って来た。シュナから報告は来ておる。今日は、泊まって行きなさい。」
不意に、涙が零れそうになった。
地方の小さな役所で、下っ端の役人をしていた私を拾い、侯爵家に迎えてくれたのは、この男だ。
本当に、世話になった。
返しきれない、恩義がある。
「エリーゼ様の事は、もう良いのか?」
「はい。悔いはありますが。今は、シエーナ様もいらっしゃいますので。」
優しい男だった。
次期家宰に、と自分に目をかけてくれ、厳しく当たられた事も多かったが、今はその優しさが、胸を打つ。
「フィリップ殿。」
「なんだ。」
「病、なのですか。」
フィリップは、眉を下げて、笑みを浮かべた。
珍しく、困ったような笑みだ。
フィリップが病だと思ったのは、ある種の勘だ。
魔法医となってからは、あまり外した事がない。
「老い、だ。ハリー。」
湖水のような、深く澄んだ眼をしている。
声も、何処までも穏やかだ。
死への絶望は、欠片もない。
フィリップなら、死をただ当たり前のモノとして、受け入れて逝くだろう。
「一度、診察を。」
「もう、診てもらったよ。今すぐ、どうなると言う事はない。魔力の変換も、起こってはいない。ただ、少しずつ弱っていっているだけだ。」
「せめて、薬を。貴方は、まだ侯爵家に必要な方です。」
「落ち着け、ハリー。お前の役目は、この老いぼれを生き永らえさせる事ではない筈だ。」
フィリップは、また困ったような笑みを浮かべている。
やんちゃな子供に手を焼く、老人のような表情。
「アルマンド様を、頼む。一年、と仰られたが、お前がいればより早く帰って来られるかも知れん。その時は、お前に診てもらう事にする。」
嗚呼。
この老人は、私の恩人は、変わっていない。
今も、静かに燃え続けている。
「畏まりました。」
否、と言う事は出来ない。
命を賭した者の眼だ。
医師と言えど、例えそれが歴史に名を残す名医だとしても、きっとこの眼には逆らえない。
ある意味で、医師が永久に治す事ができない病。
覚悟、と言う病だ。
「さて、私の話はもう良い。お前の四年間を、聞かせて欲しいのだが、時間は有限だ。これも、お前達が帰って来た時にとっておこう。」
不意に、フィリップから覇気が消えた。
ただの穏やかな老人にしか見えない。
「明るい報せが、二つある。間違いなく、アルマンド様に伝えてくれ。」
「明るい、報せですか。」
「うむ。キートスが、婚約した。主のいない間に、嫁を娶る訳にはいかんと、首を長くしてアルマンド様の御帰還を待っておる。」
「あの、キートス殿がですか。」
「うむ。当家の主だった者には、他にも独身の者が多い。これを切欠に、身を固める者が増えると良いのだが。」
確かに、明るい報せだ。
アルマンドは、驚きつつも、自分の事のように喜ぶだろう。
以前は、余り感情を出さない主だったが、再会してからのアルマンドは、昔よりも随分と表情に変化がある。
口に出さないのは、相変わらずだが。
「もう一つ、と言うのは?」
「うむ。アルマンド様が、喜ぶかどうかは別なのだがな。御身に関わる事であり、また世間一般では、祝われて然るべし事だ。」
フィリップらしくない、勿体ぶった言い方に、首を傾げる。
明るくはあるが、喜べない、と言うのも引っ掛かる。
間を置いて、フィリップはゆっくりと口を開いた。
「アイラ殿が、懐妊した。」