腐水
お久しぶりです。
長々とお待たせして、申し訳ありません。
太陽の光を遮るほどの分厚い雷雲が、空を覆っていく。
恐ろしい勢いで魔力が渦巻いていた。多分この魔眼がなくても、誰にでも感じられるだろう。
空間の歪みから飛び出してきた男達も、皆一様に空を見上げていた。
その顔からは、恐怖以外読み取れない。
突然、雲の間から生まれた光の塊が視界を埋め尽くした。
凄まじい光と音。いつまでも、続くと錯覚しそうな、時が歪んだ感覚。
斬られたからか、意識が朦朧としているのに、そんな感覚がしっかりとある。
吐きそうだ。
無茶苦茶が過ぎる。
これが、魔法なのか。
光と音が絶えても、眩暈と吐き気が酷い。
膝から、崩れ落ちた。
「アルッ!?」
シエーナの声が、聞こえた気がした。
駆け寄って来るシュナとイェーガー。
パウロが、生き残りと切り結んでいる。
俺も、戦わないと。
そう思った所で、意識が途絶えた。
目を覚ますと、子供の頃に住んでいた、エンリッヒ家の屋敷に、俺はいた。
親父と母さんが、窓際に置いたテーブルで向かい合って談笑している。
確か、此処は両親の寝室だった筈だ。
懐かしい。
午前中は、日当たりの良い部屋で、親父の趣味なのか、様々な材質のチェスの駒が飾ってある。
まぁ、チェスって言ってもそれっぽいだけで、前世のそれとは別物だが。
やけに、リアルな夢だ。
そう、夢だ。
あれ、って事は俺は寝てるのか?
なんか重大な事を忘れてる気がするんだが。
「アルマンド。」
親父が、俺を呼ぶ。
こんな声だったっけ?もう、あまり覚えてない。
「アルマンド。」
母さんも、俺を呼んだ。
二人とも、幸せそうな笑顔だ。
「こっちにおいで。」
あれ。
足が動かない。
「どうしたんだい?」
俺が聞きたいわ。
なんで、動かないんだ。
足元を見るが、特に変わった事はない。
ただ、足が床に張り付いてるみたいに、動かない。
「ほら、こっち。」
顔を上げる。
母さんの顔が青い。
眼から、鼻から、口から、耳から血を流している。
「え?」
親父を見る。
全身を、槍で滅多刺しにされていて、血塗れだ。
急に、恐ろしくなった。
何より、二人とも、血に塗れた顔で、笑いかけてくる。
やめてくれ。
なんでだ。
「アルマンド。」
親父が、笑顔のまま此方に歩いてくる。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
足が動かねぇ。
もう、張り付いてるとかじゃない。
完全に、竦んでいる。
「やめろ。よせ。」
言うと、親父は不思議そうに首をかしげた。
歩みは、ゆっくりだが、止まらない。
剣。
腰に手をやったが、鞘すらない。
「くそッ!」
親父は、もう目の前だ。
血塗れの手が、俺の顔に向かって伸びる。
ゆっくりと、頬に冷たい手が触れた。
やばいやばいやばいやばいいやだやばいまずいやめてくれいやいやいやまじでやばいっておい死にたくない
「そうだ。お前はまだ、こっちに来るんじゃない。」
腐った水の匂いがした。
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遠くから、声が聞こえる。
暗い。
あれ。
さっきまで、明るい所にいた気がするんだが。
「アル!!」
眼を開けた。
あぁ、それで暗かったのか。
「ハリー!早く来い!」
シエーナと、パウロか。
「アル、起き上がっちゃダメ。」
いや、多分やりたくても、無理だ。
身体が、酷く怠い。
あと、腐った水の匂いがする。
ん?
「お久しぶりです。アルマンド様。」
部屋に、ハリーが入ってきた。
随分と老けたと言うか、深みが増した顔になったな。
あぁ、懐かしい。
ん?
「血を、流し過ぎたようですね。魔法薬の調合が、間に合って良かった。しばらくしたら、すぐに動けるようになりますよ。」
うん、いや違う。
他にも、聞きたい事があるんだ。
違う。
思い出したい事が、あるんだ。
ダメだ。
どうにも、頭がしっかりしない。
「シエーナ。」
声を出すのに、酷く苦労した。
喉と舌が、張り付いたようになっている。
「水、ですね。奥様、少しずつ差し上げて下さい。」
「お前がやれよ。ハリー。」
「私がやるより、奥様にして頂いた方が喜ばれるだろうさ。パウロ。」
おおう。パウロにそんな口聞くとは。
なんか、お前ちょっと変わったな。
前は、なんか付き合いにくそうにしてたイメージがあるんだが。
言葉使いは、荒っぽいしな。パウロは。
視界の隅で、シエーナがいそいそと水差しから水をコップに注いでいる。
まだ、微かにあの匂いがした。
腐った水のような匂い。
それがなんなのか、結局この時は思い出せなかった。