オーズの過去。
ホーンラビットに遭遇してから、更に二日。
北に進み続けた俺達の遥か前方に、森と小高い丘の上にある村が見えてきた。
解放奴隷が作った村の一つで、サンヴィヴァンと言う村だ。
丘の斜面に果樹園と野菜の畑、麓に麦畑が広がる、人口二百ほどの村である。
森にはそれほど手強い魔物はおらず、野鳥や鹿や猪なんかがいて、村には狩人も多い。
四年前からこの土地に入植しているので、自分達の口に入る分ぐらいの収穫はあると思う。
「寄っても、大丈夫だろうか。」
オーガスタの言葉が、脳裏に蘇る。
宿を、断られた。
それは即ち、一泊だろうと他人に食わせる余裕はないと言う事だ。
正直、そんな生活をしている領民を見たくない、
断られるぐらいなら、暗くなる前に村を出て野宿する方がマシだ。
「七人ぐらいなら、なんとでもなるでしょう。」
パウロが呑気な声で答える。
なんとでも、か。
心を刺す言葉だ。
今世、いや、開拓を始めた頃は、俺もよくそう思ったし、言ってもいたと思う。
そう思えなくなったのは、いつ頃からだろうか。
今、俺が此処にいるのも、なんとかなる、と思ったからではない。
俺は、逃げ出したのだ。
もう限界だった。
限界だと思った時から、領地をこれからどうするかとか、誰をどのように配置させるだとか、計画と進捗のズレはどこにあるかだとか、そんな事を考える事ができなくなった。
考えるのが嫌だとか、そうゆう事じゃない。
ただ、出来なくなった。
「美味しいモノ、あると良いわね。」
シエーナが呟く。
馬車の御者をしているオーズが笑い声をあげた。
「食べ物の事ばかりですね。シエーナ様は。」
「何よ。バカにしてるの?」
「いえいえ、流石は平民出の奥方だと、感心してるんですよ。」
「バカにしてるじゃない。」
ちょっとドスの効いた声のシエーナ。
シエーナが本当に怒るとこを始めて見るような気がする。
元々、割とアウトローな生活してたからか、前世のやんちぃな若者を思い出す。
「あぁ、すいません。言い方が悪かったですね。普通、貴族の人ってそんな事を気にする方はいないもんですから。」
オーズの表情から笑みが消え、引き締まったモノに変わる。
「貴方、飢えた事ないんでしょ。」
「ありますよ。俺は、孤児でしたから。」
表情と違い、声は軽い。
なんか、喧嘩にでもなりそうだ。
止めるべきだろうか。
いや、パウロは何も言わず、真っ直ぐ馬を進めている。
彼が止めないと言う事は、言わせた方が良いのかも知れない。
「王都で、飢えて死にかかってるとこを、フォレスタ様に拾われたんですよ。俺は。だから、飯が毎日食えるかどうかってのが、どれだけ大事か、俺はよく知ってます。」
シエーナの口元が歪む。
まぁ、女と言うのはその場の感情を爆発させちゃう事が多いからな。
ちなみに、俺はオーズが孤児だった事は知っている。
フィリップ達が、山に篭っていた頃の話も、聞いていた。
フィリップと共に山に篭ったのは、十二名。
フィリップ以外は安い給金で働いていた使用人ばかりで、当初はかなり困窮したそうだ。
王宮が叛乱に関わった証拠がないから、と釈放された彼らだったが、一度騎士に捕らわれた身である。
再就職するにも難しいモノがあったり、親父に恩義を感じていたり、恋人や夫が親父に連座して処刑されたり、様々な事情はあったが、そこから脱落する者はいなかったそうだ。
サルムートが山から食えるモノを採取し、トロンテスは狩りで初めはなんとか食糧を調達した。
手先の器用な者は、弓矢や木彫の器なんかを作って最低限の、命を維持する為に必要なモノを作った。
自分から出ていかねば、他所との交流など皆無といった生活である。
いくら日本と比べて文明が遅れているとは言え、こちらは貧民層でも日本での西暦600年代程度の生活はしている。
つまり、農業によって得た穀物を、多少でも口にする程度、食器があり、酒があり、鉄器がある。
俺が死んだ数年前に、農耕をしていた痕跡が間違いなくあると学会で認められた縄文時代でさえ、おおよそ紀元前一万年。
フィリップ達の生活は、一時的とは言え、それ以下だった。
「だから、俺は感心したんですよ。よくわかってらっしゃる、と。」
シエーナは、そっぽを向いた。
ちょっと、機嫌が悪かっただけなのかも知れない。
もしかしたら、疲れていて苛立っていたのか。
「オーズ、分を弁えろ。使用人の口の利き方か。それが。」
見兼ねたのか、イェーガーが口を出した。
俺も、パウロも何も言わない。
「良いじゃないですか。俺は、上の人にはよく考えて欲しいんですよ。食える事が、どれだけ大事なのか。」
言って、オーズは俺に視線を向けてきた。
何故か、哀しくなるような、そんな眼をしている。
意味が、わからない。
俺は、奴隷だった。
この中の誰よりも、食う事の有難さをわかっているつもりだ。
思わず卑屈になるほど、それは俺の中に染み付いている。
「オーズ。」
パウロが、初めて声をあげた。
「それ以上は、お前が言って良い事ではない。」
「誰も言わないから、俺が言ってるだけですよ。」
「フィリップ殿が、お前を官吏にしなかった理由をよく考えろ。」
パウロの声は、穏やかだった。
だが、威圧感はある。
エンリッヒ家で、最も強い男の威圧は、オーズだけでなく、皆を黙らせるに十分過ぎた。
村の入口に着くまで、皆押し黙ったままだった。
俺は、ずっとオーズの言葉と哀しい眼の意味を、ひたすら考えていた。