シェバリの宿。
宿はパウロが選んだ。
良し悪しなど、俺とシエーナはまるでわからないので、パウロの言う事に素直に従った。
なんせ、二人とも地面の上で寝るのが当たり前、と言う生活を経験している。
逆に豪華過ぎると申し訳ないというか、気後れのようなものを感じてしまうのが、俺達だった。
侯爵夫妻としては、異端を通り越して滑稽かも知れない。
「アルマンド様達の部屋は、三階ですね。」
宿の親父との交渉もパウロ任せである。
部屋は、一番上等な部屋を取ってもらった。
と言っても、王国のロイヤルスウィートには比べるべくもない部屋だそうだが。
「この鍵、大丈夫なのか?」
パウロに手渡された鍵を見て、思わず口に出た。
トラゴンクエストのさいごのかぎに、ちょっと突起を付けましたと言う感じの、簡素な鍵だ。
イモビライザーとか、そんな高度な技術を使った鍵がないのは仕方ないが、ピッキングとか軽く出来ちゃいそうなコレはちょっと不安になる。
「鍵、ですか?」
パウロが不思議そうに首を傾げる。
この世界の鍵は、こんぐらいが一般的なのかもしれない。
変な事言ったか。
「大丈夫よ。誰か見張りにつくんでしょ?早く行きましょ。」
シエーナはうずうずしているようだ。
そんなに腹減ったのか。
いや、まぁ元々食い意地は張ってたからなぁ。
「お二人の荷物、使用人に運ばせましょうか?」
「いや、良い。自分で運ぶ。」
言って、鍵から目を離し、一纏めにくくり付けた荷物を担ぐ。
使用人は、今彼らが泊まる一階の大部屋に荷物を運び込んでいる。
護衛の二人は宿の構造を検分中である。
たった一日の滞在に、いらん労力を使わせてる気がするが、旅に必要なモノが盗まれると困るし、急な襲撃に遭わないとも限らない。
俺の命を狙う理由がある者など、王国側には掃いて捨てるほどいるのだ。
「では、待ってますんで、運び終わったら食堂で。」
「あぁ。わかった。」
シエーナの分もあるので、荷物は結構重い。
着替えや非常食、後は細かい身の回りのモノぐらいしかないんだが。
部屋は、特にどうと言うような部屋ではなかった。
質素過ぎる事もなく、豪華と言う訳でもなく、そんなに広い訳でもない。
これが、一番良い部屋だと言われても、あまりピンと来ない。
清潔ではあったが。
「何してるの。早く行きましょ。」
シエーナが、服の裾を引っ張り出した。
やめんか。伸びるだろ。
「はいはい。」
言って、振り返ると、シエーナは手を繋いできた。
一瞬で、何か熱いモノが頭に向かって駆け巡る。
その後には、動悸だけが残った。
頭の中は、真っ白だ。
「アル?」
シエーナの手を、思わず振りほどきそうになる。
何故か、エルロンドの顔が頭に浮かんだ。
「大丈夫だ。行こう。」
「ごめんなさい。嫌だった?」
そんな事はない。
思ったが、口に出せなかった。
俺は首を横に振り、笑った。
多分、上手く笑えていると思う。
「大丈夫?」
シエーナは、少し慌てているようだ。
俺は、シエーナの手を、しっかりと握り返す。
震えが、止まった。
微かに震えていたのに、俺は初めて気がついた。
「行こう。パウロが、待ってる。」
一歩、踏み出す。
大丈夫だ。おかしな所は、一つもない。
更に一歩。
普通に歩けている。
そのまま食堂まで、何事もなく辿り着いた。
手を繋いで入ってきた俺たちに、パウロは目を丸くしていたが。
食事は、美味く、量が多めだった。
鳥肉のスープと、ハンバーガー、茹でた野菜、とシンプルな献立だが、調味料が良いのか食べ飽きる事なく平らげる。
シエーナが時折、心配そうな目でこちらをチラチラ見てきたが、特におかしくなる事はなかった。
多分、大した事じゃない。
ちょっと、驚いただけだ。
そう、思い込む。
「少し休んだら、外を見て周るか。」
言っても、シエーナの表情は晴れない。
「俺は留守番しときます。他の二人を付かせますが、あいつらの首が飛ぶんで、目の届かないとこには行かないで下さいよ。」
パウロがちょっと真剣な顔で言ってきた。
彼は飯も食わずに俺の横に控えている。
他の四名は別のテーブルで、俺たちと同じモノを食っていた。
同じテーブルで食いたかったが、彼らは遠慮するだろう。
一応、今回の旅で俺はそこそこ金を持っている商人と言う設定なのだが、彼らからすれば侯爵である主君と同じ卓で同じモノを食うのは畏れ多く、味もわからなくなるほど緊張してしまうだろう。
そんな食事をするなら、独りで食った方が、俺も気が楽だ。
「気をつけるよ。」
木のコップに入った食後の湯を飲みながら、応える。
茶やコーヒーは、高級品だ。
サルムートが、そういった口に入る類の高級品を大量生産しようと躍起になっているそうだが、生産が安定するのはまだまだ先だろう。
今は、麦や芋、日持ちのする野菜を作る畑や、果樹園を作る方が優先順位が高い。
「あと、暗くなるまでには、戻って来て下さい。万が一の事がありますので。」
「わかった。」
俺は思わず苦笑した。
まるで、俺が子供のようだ。
そろそろ三十になる子供など、洒落にもならないが。
「行こうか。シエーナ。」
木のコップを置いて、立ち上がりながら言うと、シエーナも慌てて立ち上がった。
視界の端から、護衛の二人がこちらに向かって歩いて来る。
「まだ何もないとは思いますが、何かあったらすぐに戻って来て下さいよ。」
珍しく、パウロは執拗だった。
それだけ、心配ならお前がついて来れば良いだろうに。
「わかってるよ。パウロ。」
いくらか苛立ちながら、シエーナの手をとった。
シエーナは、少し驚いたようだが、素直に握り返して来る。
シエーナの手は、少し湿っていた。