V 十六夜夢想曲
*.+。*.+。*
『ハルお兄様』
――ああ。
『お兄様、大好きなハルヴェルゼお兄様』
――これは。
『いつもみたいに指と舌絡ませてさ、キスしてお兄様。大丈夫、今ならクラ姉もいないよ』
――あいつの。
『だってお兄様も×××のこと、この国の誰よりも愛しているでしょう?』
*.+。*.+。*
「――待ていッ、年下はダメだ年下はあああ!」
「えええッ!?」
ベッドに横たわるハルが急に大声で叫び出したかと思えば、ばたんと寝返りを打った。
……って、いきなりなんなんだよ! 捻挫した足ずるっずる引きずってまでハルが寝てるっていう部屋に来てみれば!
のんきすぎ。もう怒った。
私はわざとスリッパを踏み鳴らしながら、ハルが眠るベッドに近づく。
開けっ放しの窓から吹き込む夜風が肌に染みて。レースのカーテンがわずかに揺れて。
残り三歩。その間もハルは顔をしかめ、うーうーうなりながら眠る。
よっしゃ……標的確保! 倉澤ありす、いっきまーす!
「そんなにお前は年上の人妻が好きかあああッ!!!」
「……うぎゃああ耳元で叫ぶなー!!!」
私の怒声がハルの鼓膜に見事ヒット。
紫色の瞳をかっと見開き、ハルは思いっきりとび起きた。
「はあ……はっ……断じて違う! 俺は可愛くて清楚な同い年の女子が好きなんだ!」
「誰もそんな事聞いとらんわ」
誰かこの空気の読めない馬鹿を止めてくれ。
ハルは息を荒らげながら起き上がり、身体にかかっていた真っ白な掛け布団をめくって一息つく。
――お?
よく見るといつの間にやら黒いTシャツ姿に変わってるハル。
それに、いつもの帽子も被ってない。
ワックス仕立ての髪に、耳に開けられたピアス……こうやって見ると、ハルって高校の同級生とたいして変わらないな。なんだか、懐かしい。
「……なんでお前が部屋にいるんだよ。ここは女人禁制だバッキャロー」
「何言ってんの、クラウスは普通に部屋に入れてるくせに」
――だめだ、この足でずっと立ちっぱなしは辛い。
なるべくくじいた足には体重をかけないよう気をつけながら、私はそっとハルの隣に腰かけた。
「様子見もかねて遊びに来てみたんだ。それに、ハルにはちょっと話したいこともあったから」
「……俺への熱い告白か?」
「ふざけんな」
「俺はいつでも真面目に不真面目だぞ」
……ああ。
切れ長の瞳で私を見つめるハルは、黙ってればかなりイイ男。
モデル体型だし、リオやシェイドにはちょいと劣るけどそれでもすごく整った顔立ち。こんな人、そこらを探してもなかなかいない。
かわいそうに。神様はなぜ、彼の容姿に見合うほどの知性を彼に与えてやらなかったんだろう。
ああもう涙ちょちょぎれるよ、ドンマイすぎて泣けてくるよハル。
「――ちょ、泣くなよありす! 俺お前になんかしたかッ!?」
「違うよ、これはハルという人間に対しての哀れみの涙だよ」
「……言うなチクショウ」
ついノリで出しちゃった涙を拭き、気を取り直してハルを見る。
そうだ、私はハルとたわいもない会話をするためにここに来たんじゃない。
シェイドから聞いたこと全てを、忘れないうちにハルに伝えるために来たんだ。
……でも、どこから話せばいいんだろう。
ロザヴォーグ家にまつわる話? それとも黒兎の正体から?
やばいな、そこ全然考えてなかった。
とりあえず話だけでも切り出してみるか。
「あのさ――」
「白兎の話か?」
「え」
「だから、もしかして白兎の話をしにきたのか?」
――珍しく勘が鋭いな。
私が面食った顔をすると、やっぱりな、とでも言うようにハルが笑った。
「……わりぃけど、その話は無しだ」
「な、何で!?」
「事情っつーもんがあるだろ、白兎にも。猫に何吹き込まれたかは知らねぇけど、俺はあえて聞かない」
ハルの意外な発言に、私は返す言葉を失った。
あんな目にあったのに、どうして彼はこんな割り切れてるんだろう。
私が首を傾げると、ハルは少し寝癖のついた髪をいじりながら、らしくない真剣な声色で話を続ける。
「俺考えたんだよ、ありすが寝てる間にさ。たしかに、あの白兎を見たときはビビった。なんか黒いし、ハンプティーやっちまうし、おまけに俺まで……容赦なく殴られたし」
「……うん」
「だけどさ、思い出したんだ。ありすは知らないだろうけど――どこぞのハゲマッチョと白兎が俺の家の前で戦ったとき、ピアス取られそうになった瞬間白兎がものすごい勢いでキレた」
「……え」
「すごかったんだぞ? 『テメー、調子乗って僕のピアスに触れたら次は手加減無しでブッ殺すからな!』とか柄にもない事叫んで」
「……」
「それなのに、それなのにだ。対ハンプティー戦のときはあっさりピアスを外した。あんなにピアスを外すことを嫌がってたのに、だ」
――途中のリオの言葉は明らかハルの捏造だが、そう言われてみれば……何故あれだけ外すのを、いや、秘密について話すことさえも嫌がってたリオがハンプティーと戦うときはピアスを外したんだろう?
「ずぅっと考えてたらさ、そのうち結論が出た。俺、気付いたんだ。白兎は――自分の秘密を暴露してでも、ありすの敵討ちしたかったんだって」
「はっ、そんなわけ」
「いやあ、バレバレだろ。だって尋常じゃないくらいキレてたじゃん、お前も散々見たべ」
「……」
「でもさすがにそのあとの事までは対処しきれない。それを痛いほどわかってる。だからあいつは俺に『もし僕の身に何か起こったら、ありすを頼む』って言ったんだろ」
――たしかに、それが真実ならすべてが繋がる。
絡まっていた糸がするりととけていくような、そんな感覚が頭の中で走った。
「もし白兎が狂ったのが俺たちのためだってなら、俺たちに白兎を責める資格はない。怖い思いをさせられた? それがどうした、白兎のほうがもっと怖くて痛い思いをしてるはずだ」
「……うん」
「まあ……俺もぶっちゃけ怖かったよ。あんな白兎見たことなかったし。だからこんなにすんなりこの事態を受け入れようとしてる自分が、自分でもわからない。だけど、もう全て済んだことなんだから今更ぐちぐち言っても仕方ないだろ」
――なんか、ハルを説得するつもりで来たのに、逆に私がハルにたしなめられちゃってるんだけど。
「俺たちに出来ることは、今まで通り白兎と接する。そんだけ。白兎のこと信じてるから、俺は何があってもアイツのこと嫌いにならねぇよ」
ごもっとも。
なんかびっくり。
ずっと精神年齢の低い馬鹿だと思ってたのに、心の奥底では私より数倍大人な考えを持ってたっていう。
それに、リオのことも私以上に信頼してるみたいだし。
どうしよ――もうハルに言う事なくなっちゃったじゃん。
無駄に視線を泳がせる私に気付くと、ハルは私の手をとってぎゅっと握り、明るく笑った。
「ま、気にすんな。あれは胸糞悪い夢だったと思って忘れちまえ」
「……だよね」
ハルの手から伝わる微弱な熱が、私の荒んでいた心を、傷を、すっと癒してくれる。
こんなにあっさりと気持ちの整理がついちゃうとは思わなかった。
そうだよ。そうだよね。
リオがローシェスに身体を受け渡してまでハンプティーと戦ったのが私のためだったとしたら、私は彼を責めちゃいけないんだ。
どんなことがあっても。どんな思いに駆られても、笑顔で。
――まだ心から笑える自信はないけど、それでも。
窓から零れる冷ややかな月の光。
しっとりと肌をなでる空気を感じながら、ハルに軽く寄りかかって私はぼんやりと天井を眺めた。
……ハルといると結構落ち着く。無駄な気遣いは必要ないし、友達感覚で話せるし。
リオもシェイドもクラウスも紅の女王もエースも、皆ハルみたいな性格だったら良かったのに。いや、そりゃさすがにないな。
「ねえハル」
「んー」
「さっき、何の夢みてたの? かなり険しい顔してたよ」
「……えッ」
しんみりとしてしまった空気を変えようととっさに頭に浮かんだ話題を出してみた。
――ところがどっこい、ハルは話に乗るどころか、顔を真っ赤にして押し黙った。
不自然に訪れた沈黙。え、ちょ、何ですかその反応。まさか。
「もしかして、その、思春期男子特有の――」
「違う違う違う違うッ! 普通の夢だ、妹にキスせがまれるだけの何の変哲もない夢だ!」
「いやいやいや十分おかしいだろ!」
前言撤回、なんだこのケダモノ! ああ恐ろしい!
ある意味さっきと空気が一変。変質者を見るような目でハルを見つめると、ハルは真っ赤な顔をしながら千切れんばかりに首を横に振った。
「いやほら妹っつってもさ、妹のようで妹じゃない奴だし! それに俺今まで一度もそういうキスとか――いや、不純異性交遊まがいな事したことないッ」
「なぜそこだけ言葉を正す」
「マジだって! 信じろよ!」
切れ長の紫色の瞳が必死に私に訴えかける。
顔つきも本気だ。赤いけどマジな顔になってる。
あー面白い。やっぱハルいじるのって最高に面白い。
笑いたいだけ笑ってから、私は今にも泣き出しそうなハルの肩をポン、と叩いた。
「大丈夫、信じるさ」
「やっぱ――」
「だってハルって女の子に興味なさそうだもんね!」
「……お前えええッ!!!」
次の瞬間、半べそをかくハルが私の両頬をむいっとつまんで引っ張った。
うっわー、とことん単純だなあこの人。じゃなくて――
「痛たたたたたッ! そこ腫れてるとこだって!」
「うわ、わりぃ」
「……もぉッ」
危ない危ない、あとちょっとで逆に私が泣かされるところだった。
ハルがふと手の力を緩めると同時に頬に走る痛みが引いて、私はようやく安堵の息をつく。
――っていうか何なんだこの状況。両頬に手をそえられてる状態で、薄暗い部屋の中じっとりと見つめ合う私たち。
いや、この言い回しは違うな。正しく言い直すなら『見つめ合ってる』じゃなくて、『お互い他に向くところがない』だ。
「ハル、そろそろ手離してよ」
「おう」
「……えっと、そう言いつつ全然手離れる気配がないんですが」
「おう」
「人の話聞いてないっしょ」
――なんだかなあ。
たとえハルいえど、たとえ日頃空気の読めない馬鹿少年いえど、ハルはさっきも言った通り黙ってれば相当な美形さんだ。
そんな美形さんにこうも真っ直ぐ見つめられると、さすがに調子狂う。それでも両頬をつかまれてる以上目はそらせない。
ああもう、こういうときは一体どうすれば?
「……りすはさ」
「へ、へぇ?」
「ありすはさ、誰かとキスしたことあんの?」
――え、何いきなり踏み込んだ話をーッ!?
そうか、きっとさっき見た夢の影響だな。そうとしか思えない。
一瞬ためらったけど、別に隠すほどの話じゃないし。一間おいたあと私は正直に返答した。
「……ないよ。女の子同士の間接キスならあるけど直はない。今まで付き合った彼氏ともそこまで進まなかったし」
「そっか」
「こんなの聞いたところでハルは何がしたかったわけ?」
「いや、別に何も――」
はあ、ものすごく意味深なんだけど。まあ、いいか。
……っていうかまだ手離さないつもりなのかこの男は。そろそろ自力で逃げちゃおっかな。
ハルからは目をそらさず、だけど気づかれないようさりげなーく距離をとろうとお尻を動かしてみる。
よっしゃ、今4センチくらい動いたぞ。しかもバレてない、この調子だ私!
そろり、そろり。ハルの視線が痛い。でも私は気にしないでベッドの上をちまちま動き続ける。
よしよし、もうちょい――
「ちょ、おい待てありす!」
――もう、ちょいいいいッ!?
……気がつけば、目の前にハルの顔。
「ん、ぐっ」
何が起きてるのか思考が追いつかない。追いついてくれない。
夜の匂いと薔薇の香りと静寂で支配された部屋で。
嫌な音を立てて軋むベッドの上に倒れこんで。
感じるのは、ふたつのくちびるが重なり合った感触だけ。
|