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薔薇の國のアリス
作:鏡美 有雛



  II Angelic Devil


 ――リン

 柔らかい鈴の音が、胸をくすぐる。

 この音を鳴らしながら歩くのは、知っているかぎりではひとりだけ。
私の最後の望み。そして最後の、賭け。

 ――はっとなって目を開くと、赤いリオの背中越しに、空に向かってひょろりと伸びた人影がみえる。

 まさか。

 がさ、がさ、と伸びた芝生を踏み締める音。
リオの背中越しに、荒い呼吸音が聞こえる。
血の臭いに混じって漂う甘い香り。
思わず、リオの動きもぴたりと止まる。

 リオの背中越しに、ついにちろちろ動くピンク色の猫耳が見えた。

「シェイド……?」

 リオの唇が重なる一歩手前、私は大きく目を見開いてその人影を見る。
そのとき、その人物が片手をにゅっと伸ばし、ぎゅっとリオの黒い兎耳を掴んだ。

「……んー、また出ちゃったんだね裏のリオ」

 独特の低く甘い声。耳に残る、いい加減聞き慣れてきた口癖。
ああ、今の一言で私の疑問はすべて確信へと変わった。
来てる、確実に。逆光のせいで真っ黒になってるけど、この人は――

 間違いなくシェイド。

「黒いリオは嫌いじゃないけど、ありす嬢にちゅーするのはちょっと反則だよねぇ?」

 荒々しい呼吸をおさえかすれ気味な笑い声をあげながら、シェイドがリオの耳から手を離すと――リオの黒い耳にはぷらんと、赤いハートのピアスがぶら下がっていた。
いつの間に。私がそう尋ねようとした瞬間、私の身体を抱くリオの手がふと緩まって――

 刹那、

 黒かった兎耳が、根元からゆっくりと『白』に飲み込まれていく。

 じわりじわりと広がる白。黒から灰へ。灰から白へ。
すべて――今まで起きたことすべてが、消されていくみたいに。

 呆然としながらリオの兎耳がすべて白に染まるのを見届けると、幾重の銀の鎖に巻かれたように重くなっていた心が、まるで呪縛から解き放たれたようにすうっと軽くなり――やがて、身体中の力がするする抜けていくのを感じた。

 残されたのは、リオの胸のぬくもり。

「――クラウス、ありす嬢をお願い!」

 シェイドがそう叫ぶのを聞き届けた瞬間、私は夢と闇が絡み合う夢幻の世界に堕ちた。





 *.+。*.+。*


 リオ。
耳が白くなったってことは、元に戻ったのかな?

 乱れて。裂いて。
毒々しいとげを全身に放ち、まるで狂い咲きした黒薔薇のようだった貴方。
ああ、貴方のあの黒い姿が今は夢の跡。
だけどあれは夢じゃない。私の心の傷は、癒えない。

 リオ。
私もう、貴方には会えない。


 *.+。*.+。*



 ――ん?

 うっすら目を開くと、私はいつの間にか知らない場所にいた。

 私はどうやらどこかに寝転んでいるらしい。
視界には小さなシャンデリアの吊された真っ白な天井。それだけで、それ以外何も映らない。
肌に触れるのは暖かいもの。ふんわり、羽毛のよう。
鼻を通るのは馨しい薔薇の香り。あの生臭い血の臭いはもうしなかった。

 目をつぶると、あの惨劇がビデオテープのように再生される。
――笑うリオ。地に落ちてバラバラになったハンプティー。赤い赤い、忌まわしい出来事が、まるで旋律のようにぐるぐる脳裏を駆け巡る。
やだ。やだ。慌てて目を開け、その不快な旋律を打ち消すように首を振った。

「ここは……?」

 私は仰向けのまま、少しだけ頭を動かしてみる。

 ――すると私の目に映ったのは大きくて真っ白なダブルベッドと、その隣にアンティーク調の椅子を置き、ちょこんとその上に座っているゴスロリ服の少女。

 私はその子の名前をよく知っている。
まだ完全に機能しない声帯を使い、細く小さな声で、そっと彼女を呼んでみた。

「クラウス」
「……ありす、様?」

 レースとフリルをこれでもか、というほどあしらった強めなドレスとは不釣り合いなほどか弱い声で反応を示し、クラウスは椅子から身を乗り出して寝転がる私の顔を覗き込むようにして見た。

「良かった、お目覚めになられたんですね」
「どうしてここに……ってそんなことより、もしかして私気絶してた?」
「ええ。ありす様が気を失ってらっしゃる間に、二度も太陽が沈みましたわ」

 二度――ということは約二日も意識飛ばしてたのか私は。
薔薇の国に来てからどんだけ身体弱くなってんだろ。なんか笑える。

「ここは、どこなの?」
「まだはっきりとは言えませんが、別室に飾ってあった写真を見るに、どうやら公爵夫妻の家みたいです。そしてここは屋敷の一室。でも肝心のふたりはどこを探しても」
「……そう」

 ――悲しい。悔しい。すべて思い出せるのが哀しい。
ハンプティーがまだ生きていた頃、『この家の主はオレが殺してどこかに埋めた』と言っていたのを私はまだ、鮮明に覚えていた。
ハンプティーが言ったことが本当に正しいのなら、夫妻はもうこの世には――

「そうだ、ありす様。その……お顔やらエプロンドレスがかなり汚れていたので、ありす様が寝ている間に身体を拭いて着替えさせてしまいましたの!」
「えっ?」

 驚いて身体にかけていた布団をぺろんとめくると、血と泥で変色したエプロンドレスではなく、本当に黒色のシンプルな長袖パジャマ姿に変わってた。

「この家のクローゼットの中に入ってたものを勝手に拝借してしまったのですが――どうか洗濯が終わるまで」
「大丈夫、このパジャマでも我慢できるよ。っていうかそこまで嫌じゃないし」
「まあ、良かったですわ」

 そう言いながら頭をぺこりと下げるクラウスの顔にはようやくいつもの愛らしい笑みが浮かび、それを見て私も安堵の息を漏らした。

 他人の家。ベッドの上。
少しそわそわするけど、全然落ち着かないってわけでもない。
本当を言えばもうちょっと眠ってたい。だけどその前に、私には聞かなきゃいけないことがあったのを思い出した。

「……ねえ、誰が私をここに運んだの? ハルは?」
「ありす様の身体は私ひとりの力では到底支えきれないので、一緒にいたシェイド様に抱えて連れてきてもらいましたの。だけど、ハルは――」

 そう言いかけると、クラウスは笑顔をやめ急に斜め下に視線を落としだした。
無言。妙な沈黙が流れ、なんだか突然、周りの空気の重さが増した気がする。

 嘘、なんなの?

 まさかハル、私をかばったせいで――

「ハルは木の棒でつついたらふらふら起き上がったので、自力で歩いてもらいましたわ。今は隣の部屋でぐっすり眠ってます」
「……ええッ!? 心配して損したんだけど!」
「あらありす様ってば、ハルのことが心配だったんですか? ハルが聞いたら喜びますわ」
「いや、今の無しで! ハルには言わないでねお願いだからっ」

 寝転んだまま手をばたつかせ必死でクラウスに訴えかけると、クラウスは小さく笑い声をあげて笑った。
垂れた兎耳がふわりふわりと揺れ、彼女の可愛さをいっそう引き立てて……久々の萌えをありがとよ、お嬢!

 ――クラウスは、私に何があったのか聞こうとはしなかった。
それははたして彼女なりの気遣いなのか、単に聞く気がないだけなのかはわからないけど……クラウスはただ寝転ぶ私の横に座り、様子を伺うだけ。
クラウスにあの身の毛もよだつほどの血生臭さはなく、代わりに馨しい薔薇の香りと花のような笑顔がある。
豪華な部屋に、暖かいベッドに、心強いひと。なんだかだいぶ贅沢。

「ありす様、無事で良かったですわ……」

 クラウスの桜色のくちびるから零れる甘い声が、心地よく胸をくすぐった。

 ――そのとき。
部屋のドアが軋んだ音を立てながら開き、

「失礼。入るよ」

 わずかなドアの隙間から、シェイドが顔を出した。
――やっぱりあれはシェイドだったんだ。私間違ってなかった。
二日ぶりに見たシェイド。黒いスーツもピンクの猫耳も健在。

 彼が姿を現した途端、クラウスの顔が真っ赤に……ってわかりやすいなあもう!

「あれ? ありす嬢起きてるの?」
「うあっ、はい! ありす様なら先ほど目を覚ましましたのよ」
「そう。……じゃあ悪いけど、ちょっとだけクラウス席外してくれるかな」
「ええ、では私ハルの様子を見てきますね」

 そう言うとクラウスは意味もなくゆるく巻かれた髪を整えながら立ち上がり、ドアのそばに立つシェイドの横をそそくさと歩いて部屋から出て行った。

 部屋にはシェイドと私のふたりだけ。うわ、なんか気まずいんですけどコレ。
黙り込んでひたすら視線を泳がせていると、革靴で床を踏み鳴らしながらシェイドが私のほうに寄ってきた。

「おはよ――って今は午後十時だからこんばんはだね。疲れはとれた?」
「まだ」
「そっか」
「……ねえその腕、どうしたの?」

 シェイドの腕には、見覚えの無い三角巾がぐるぐると巻かれている。
否、三角巾じゃない。布の生地からして、これ多分ちぎった白衣とか――?
私が首を傾げていると、シェイドはベッドにゆっくりと腰かけ、天井を見つめながらふーっと息を吐いた。

「ちょっと転んだの。ありす嬢は気にしないでいいよ」
「ふうん、自称優秀な猫さんでも腕痛めちゃうほど格好悪く転ぶときあるんだ」
「……当たり前さ。前にも言ったでしょ、世の中に常に完璧でいられるものなんてないって」

 シェイドは私の顔を見るなり、涼しげな蒼い瞳を細めてクスクス笑う。
そしてスーツの内ポケットから何かを取り出して、私にすっと差し出した。

「はい、湿布。顔腫れてるからしばらく貼っておいたほうがいいかも」
「……ちょっ、これ使えんの?」
「ないよりはマシでしょ。我慢しなさい。それと、ちょっと起き上がって」
「はあ、なんで?」
「ここに運んでる途中で気づいたんだけどさ、ありす嬢どこかで足くじいたよね? そこも腫れてるの。というわけで湿布貼って包帯巻くから、ありす嬢は素直に足を出しましょう!」
「やだ無理やだ無理ッ。私足太いもん。それにそれくらいなら私でもでき――」
「ありす嬢、言う事聞かないと俺何するかわかんないよ? 今はちょうど夜だし、これダブルベッドだし、邪魔者は見ての通りいないからねぇ。んー、俺にとってはかなりナイスなシチュエーション」
「……うあーもうっ、起きればいいんでしょバカシェイドッ!」

 ものすごい勢いでシェイドの手から湿布を奪い取り、私はよいしょと布団をめくりあげ即座に起き上がる。
もう一度、よいしょ。悔しいほど綺麗な顔で笑うシェイドの隣にどんっと腰かけ、私はようやく息をついた。

 っていうか、自分も手負いの身なのに包帯なんか巻けるの?って思ったんだけど――どうやらその心配は必要なかったみたい。
シェイドは私の足の前に屈みこむと、三角巾でぶらりとなった左手と右手を器用に使い、私の足に湿布を貼って、その上からすばやく丁寧に、長い長い包帯を巻き終えた。

「……すごっ」
「そう? こんなの誰でも出来るよ」

 足がうまく固定されてあんまり痛くなくなった。本当にすごいな、手抜きとか一切無いよ。
シェイドは最後にテープで包帯の端を止めると、道具一式をポケットにしまいながら立ち上がって、再び私の隣に腰をおろした。

 ――揺れる黒髪。彼から漂う甘い香り。
うっとりとそれに酔いしれていると、ふいにシェイドが口を開く。

「……ありす嬢ってば俺がいないうちにリオの裏の姿、見ちゃったんだね」
「え」
「どうだった? 惚れ惚れするでしょ? すごく神秘的で、まるでカミサマ。さすが俺の幼馴染だよね。素敵すぎるよ」
「……」
「そうそう、ハンプティーの死体はとりあえず適当に処理してきたよ。こんな豪勢な屋敷の庭で死臭放たれるのは勘弁だもん。だからありす嬢、安心して」
「……そう」

 ――私はリオがそのあとどうなったのか、聞こうとしなかった。
いや、違う。心のどこかで聞くことを怖がっているのかもしれない。
拒絶してるんだ。これ以上傷つきたくないから。

「ありす嬢」
「ん」
「やっとふたりきりになれたからさ、話そうと思ったんだけど……」
「……何。じらさないで、早く言って」
「んじゃー遠慮なく。ありす嬢さ、リオの秘密と過去についての話――興味ある? もし興味あるなら俺の知ってる範囲で教えてあげようと思って」

 ――リオの過去について?

 何を唐突な。
はっとなってシェイドの目を見ると、彼の目はいつになく真剣だった。
どうやら嘘じゃないみたい。っていうかこんな場面で嘘ついたら鼻フックかましてやる。

「え、待って、本当に教えてくれるの? 超絶ひねくれ気まぐれ男のシェイドが?」
「だってありす嬢、気になるでしょ?」
「まあ……」

 一間おいて、小さく息を吸う。
本当に聞いてもいいのかな。
リオの秘密。過去。幼馴染だからわかること。
この機を逃したら、一生聞けるチャンスは巡ってこないと思う。

 怖い。本当は、聞くのが怖いけど。

「……リオの秘密、知りたいよ」

 シェイドのスーツをきゅっと握り、うつむきながら私は言った。

「いいよ。ありす嬢が聞きたいのなら」

 閉ざされた過去。封じられた裏の顔。
そして、リオの出生の秘密。
私はシェイドの口から、そのことすべてを聞くことになる。


 
 
次回、リオとシェイドの過去がちらり。






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