薔薇の國のアリス(45/56)縦書き表示RDF


 
推奨BGMは、B'zの『アラクレ』です。


薔薇の國のアリス
作:鏡美 有雛



  VIII 恐怖劇の主役は貴方


 ついにリオが。

「嘘……」

 ――ピアスを、外した?

 あんなに外すことを嫌がってたのに。
あんなにピアスについて話すことを躊躇ってたのに。

 私はハルの横に並び立ち、ただただ呆然とするしかない。
じわりじわりと、手のひらに冷たい汗が滲む。
しばらくすると、額にも湿った感覚が広がっていく。


【僕がそれほど血塗られた恐ろしい魔性を秘めているからですよ】


 ハルの家がまだ存在していた頃――思い出すのも恥ずかしいけど、ベッドに横たわる私の上でリオが言ったセリフが、なぜか頭の中で鮮明に蘇った。

「――く、んっ……はぁ」

 すると突然、リオは両手で頭を抱え、苦しそうに身をよじりながら(うめ)き声を漏らし出した。

 力強く地に足をつけているものの、彼の後ろ姿はどこか不安定で危なっかしく見える。
……さすがのハンプティーも彼の突然の行動の真意が読めず、動くに動けないみたいだ。きょとんとまではいかないけれど、遠目でもわかるほど間抜け面になってるよ。

 どうすれば、いいの。

「――ッ!」
「ちょっ……ありす待てよ」

 そっとハルの手をほどき、一歩、また一歩と、私はリオに向かって歩き出す。
進む足。渇いていく喉。私を呼ぶハルの声も私の心には届かない。
ただ本能のままに、私は苦しむリオとの距離を縮めていく。

 リオが苦しんでる

 どんなに痛い目に合っても涙ひとつ見せなかった、あのリオが

 リオを――私が救ってあげなくちゃ。

 私の頭の中で、私じゃない私の声が響いてる。
やまびこのように何度も何度も繰り返してる。キンキン響いて脳内がひどくうずく。
自分でも何を言ってるのかよくわからない、でも私はなぜか必死になっていた。

「……ぁあ゛あぁぁうあッ――!」

 突如、耳をつんざくような大きな叫び声があたり一面に響く。
紅の女王の咆哮(ほうこう)によく似た、断末魔の一歩手前のような声。
いつものリオからは想像できない声を聞いて、どんどん壊れていく彼の姿を見て、私は動揺が隠せない。

 ――リオ!

 ……急に、苦しそうに身をよじっていたリオの動きが止まった。
突然訪れる静寂。それがあまりにも不自然すぎて、私は思わずぴたりと足をとめる。

 ――その瞬間、私の視界には信じられないものが映りだす。

「こらぁありす! 勝手に動くなって何回言ったらわかるんだよ」

 あとから追いついてきたハルに強く手をつかまれて、私は一瞬びくんと飛び上がった。
けど、私はハルに目をくれようとはしなかった……いや、出来なかった。

 ――リオの真っ白だったはず兎耳が、徐々にどす黒く染まっていく。

 根元から耳の先へ、深い深い黒が侵食していく。
まるで底無しの闇にずぶずぶと呑まれているみたい。
目を疑うようなその光景を私はただぼぅっと眺めることしかできなかった。

 何なの、あれ。
――どうして耳が黒くなってるの。
ねえおかしいよ。リオ、どうしちゃったの?

 ……刹那、(ろう)人形のようにぴくりとも動かなかったリオが、ゆっくりと顔を上げ、自分の頭から手を離した。

 その頃にはもうリオの耳は真っ黒になっていて、クラウスの耳のように白い部分なんて一点もない。
だいぶ前進したせいか、リオを見つめるハンプティーの表情が手にとるようにわかる。
ハンプティーも私と同じように眉をひそめ、変わりゆくリオの姿に目を見張っていた。
――怖いよ。なぜか悪寒が全身を駆け巡り、怖くて怖くて、私はそっと隣に立つハルに擦り寄る。

「ねえハル……あれ、は」
「俺もあんな白兎見たことねえよ。何なんだよあの耳……」

 広い広い庭に風が吹きすさぶ音よりも小さな声で会話を交わす私たちの手は、震えていた。
じっとすればするほど私の手に微弱ながらもハルの震えが伝わり、彼がいかに焦っているかがよくわかる。でもきっと、ハルも私と同じ事を思ってるに違いない。

 ――何も出来ないちっぽけなふたりは、小さく寄り添いリオの背中を見つめるだけ。


 そのとき


「あははぁッ……」

 長きの沈黙を破り、リオが突然――けらけらと笑いだした。

「……『僕』がこっちに出てきたのは一体何年ぶりでしたっけぇ。五年、いや三年? どちらにせよ、永く閉じ込められていた事に変わりはないかな」

 ――どうしたの?
なんだか、雰囲気が違う。

「表の僕もずいぶん意地が悪い。おかげでびっくりするほど身体がなまっちゃいましたよ」

 そう言うとリオはワイシャツの袖をまくり上げ、まるで準備運動でもするかのように両腕を軽く回しだす。
……私には彼の言ってる意味が理解できない。ただでさえ兎耳の変化のせいで頭がぐちゃぐちゃになってるっていうのに、次から次へと目や耳を疑いたくなるような出来事が飛び込んでくる。
私はどうしたらいいの。一体、リオの身に何が?
頭がズキズキと痛み、胸を揺らすほど大きな鼓動が、いっそう速さを増す。

 やがて腕を回すのをやめたリオは、顔を自分の遥か上にいるハンプティーに向けて、かすかに笑い声を含んだ声で話しかけた。

「ごきげんよう! えっと名前は……そうだそうだ、たしか下種(げす)のハンプティー・ダンプティー」
「貴様――さっきからオレをおちょくっているのか!?」
「嫌だなあーそんな血走った目で睨まないで下さいよ、吐き気もよおしちゃいますから。うえっ」

 けらけら笑いながら汚い言葉を並べ、困惑するハンプティーに向けて容赦なくそれを放つリオ。
あまりの変貌ぶりにうまく対処できないのか、それとも単に言い返す言葉が浮かばないのか、ハンプティーは顔を歪めぎゅっと唇を噛みしめている。
普段の誠実で冷静な彼の口からは絶対に発されることはないだろうその言葉に、私は驚く。

 ――これが、リオの言っていた《裏の顔》なの?

 足がふらつく。なんだかくらくら眩暈がする。
倒れないよう、私はとっさにハルの腰あたりに手を回してしがみつく。

「ハ、ル」
「……よくわかんねーけど、もう絶対俺から離れんなよ。なんかすっげえ嫌な予感するし」
「あのリオ――いつものリオじゃないよ」
「俺も思った」

 ハルは私を自分の身体から引き剥がそうとはせず、かわりに私の頭に触れ、何かを怖がる子供をあやすようにポンポンと軽く叩いてきた。
ハルの暖かく熱を帯びた手が触れるたびに私の髪から小さくなったしずくが一滴、二滴と滑り落ちて頬を濡らす。その冷たい感覚が、泣いているみたいで、なんだかそわそわする。

 青い青い芝生の上に、真っ直ぐと立つ青年。
朝日に透けた金色の髪から伸びる、真っ黒な耳。
姿はリオだけど、リオじゃない誰かがそこに居る。

 あなたは――誰?

「さてさてハンプティーくん、君は幸運ですねぇ。僕の手で逝ける機会なんて滅多にありませんよ」
「……馬鹿言うな。武器無しの兎に、一体何が出来るっていうんだ」
「舐めてもらっちゃあ困ります。こっちの僕は、表の僕なんかより数百倍も数千倍も強い」

 そう言うと、リオはわざとハンプティーに向かって大きな声で笑ってみせた。
……まるで自ら、攻撃を誘ってるみたいだ。

 一方、挑発されたハンプティーの広い広い額には、青筋が数え切れないほど浮かび上がり今にも破裂するんじゃないかってくらいパンパンに膨れあがっている。
絶対そろそろぶち切れるな。リオがこれ以上挑発的な態度をとったら、きっと――

「さあ、そろそろ戦い始めません? 僕は早く君を殺りたくてウズウズしてるんですよ」

 ――ばか! リオってば、今のは完璧NGワードだろ!
危うく大声で『え、お前なに言ってんの!?』と突っ込みを入れそうになったけど、喉から声が飛び出す寸前でハルに口を塞がれた。
唇にハルの手が触れた感触を感じて、私ははっと我に返る。
そうだ、今叫んだらハンプティーとリオに気づかれる。身の安全のためにも、ここはじっと耐えるしかない。

 薔薇の匂いを含んだ柔らかい風が、青々とした芝生の上を駆け抜ける。
でもハンプティーとリオの周りを取り巻く空気は決してそのような優しいものではなく、むしろ薔薇のとげのように鋭く、痛々しい。

 ――始まる。

 所詮私の直感だけど、きっと間違ってはいない。
あまりの緊張で心臓が喉から出てきそうだ。
言い知れない不安に駆られ、私は生唾をごくりと飲み込んだ。

「僕が武器を持たないのは、諦めたからじゃない……武器なんて持つ必要がないから、ですよ」

 ――先制はハンプティーだった。
今の一言でついに怒りの頂点に達したハンプティーが、笑うリオに向かって猟銃の引き金を引いた。
鼓膜がはじけ飛びそうだ。やっぱりリオやシェイドの銃と違い、猟銃の発砲音は重い。一発放たれるたびに音の振動で心臓が破裂しそうになる。

 狂ったように引き金を引くハンプティー。
歯ぐきは剥き出しになり眉は限界までつり上げられ、まるで般若のような顔になっている。
その恐ろしい表情は、はっきり言って見るに耐えない。

 ――放たれた銃弾が、リオめがけて雨のように降りしきる。
が、リオは悲鳴ひとつ上げずに軽々とそれを避ける。
真っ白なシャツをひるがえしながら華麗に銃弾をかわし、芝生の上を縦横無尽に駆け巡るリオの動きは無駄がなくしなやかでとても雄々しい。
その姿は最早、駿馬か稲妻。人間離れした彼の身体能力を改めて思い知らされた瞬間だった。

 神速で動くリオに翻弄され、ハンプティーの手元は次第に狂っていく。

 ――凄い。

 この強かかつ美しい彼の動きに魅了されない者なんてきっといない。
降りしきる銃弾の雨はリオにかすりもしない。ただ虚しく、青い地面をぱちんぱちんと弾くだけ。
日に透けた金色の髪を揺らし、黒い耳を揺らし、リオは舞い踊るように芝生を駆ける。
あんなに動き回っているのに息切れひとつしていない。というより、むしろ時間が経つにつれスピードとキレが増していた。
凄い、凄いよ。自然と目が奪われる。
本来ならばかなり緊迫した状況であるはずなのに、私はリオの姿にまじまじと魅入っていた。
ハルの身体に回す手にも力が入る。こういうときに不謹慎だけど、なんだか胸が弾んでしまう。

 ――そのときカチッと、乾いた音が響いた。

「くそっ……こんな時に!」

 ハンプティーは額や鼻頭に尋常じゃないくらい汗をかき、焦った顔で何度も何度も猟銃の引き金を引くが――弾は出てこない。
弾切れか。たしかにあれだけ無駄に撃っていれば、そんな状況に陥ってもおかしくはない。
ハンプティーはすぐに自分の腰あたりに手を回し、弾の補充をしようとする。が、指先が震えうまく予備弾が取り出せないみたいだ。

「チクショッ……!」
「――おや?」

 弾の襲来がやんだことに、リオが気づいた。
今まで軽快に動かしていた足を止め、不思議そうに塀の上のハンプティーを見上げる。

「クソクソクソッ! 早く、はや――」
「残念でした」

 その瞬間、リオが勢いよく地面を蹴り上げ、高く高く飛び上がった。

 額にぐっしょりと汗を滲ませたハンプティーは、焦りと混乱で口をぱくぱくとさせ、弾の出ない猟銃を構えたままリオの動きを追う。
終わりだ。ハンプティーにはもう、逆転のチャンスなんてない。

 ――リオは空中で拳を構える。

 すべては一瞬の内に起こった。
降下のスピードを利用し、リオはハンプティーに思いきり殴りかかった。
リオの拳は見事に顔面をとらえ、殴られたハンプティーは後ろにのけぞり、塀から落下しそうになる。
――が、一足早く塀の上に着地したリオに喉元を強く掴まれ、一気に引き戻された。

「げ、ぐぉッ――!」

 唾液の絡んだ悲痛な声をあげ、ハンプティーは顔を真っ青にする。
だけどリオは喉から手を離そうとせず、あろうことか――満足そうに笑みを浮かべながら、自分の目と同じ高さのところまで彼の顔を引き上げた。

「フフ、ずいぶん無様な格好になっちゃいましたねぇハンプティーくん?」
「き、さまぁっ」
「あぁその表情……すごくそそりますよ。もっと、もっと僕を楽しませて」

 そう言うと、リオは恍惚とした表情でハンプティーを上から下まで舐め回すようにじっとりと見つめる。
一方ハンプティーは苦しみと恐怖で歯をがちがちと鳴らし、全力でリオの視線を拒絶していた。
さっきの威勢はどこに、と問いたくなるほどの変貌っぷり。……だけど、気持ちもわからなくはない。

 あのリオは、どこか異常だ。

「ハンプティーくん、君は表の僕に相当嫌われちゃってるみたいですねぇ。じゃなきゃ、表の僕は裏の僕を外に出そうとなんて思わない」
「あ、あ――」
「『奥』からずっと、表の僕とありすのやり取りを見てました。ああもう、キミはなんて愚かなんだ。よりによって、ありすに手を出すなんて」
「が――」
「表の僕の名誉のためにも、ありすがキミにやられたことを僕がそっくりそのままキミにやり返してあげましょう」

 リオは、けたけたと笑う。
次の瞬間――リオが笑いながら渾身の力を込めてハンプティーの頬を殴った。

「ぎゃああっ!」

 あまりの威力にハンプティーの眼鏡のレンズは粉々に粉砕し、いくつものガラス片がハンプティーの顔を切り裂いた。
一瞬にしてハンプティーの青白くなっていた顔が真っ赤に染まる。
あまりに痛々しくて、耐え切れずに私は目をそらした。

「……これだけじゃ、なんとなく物足りませんねぇ」

 リオが不服そうな声でぼそっと呟く。

「僕はキミの、すべてを壊したい」


 本当の恐怖は、

 ――ここから。







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