VI そして全てが狂い咲く
夢でも見ているのかと思った。
もう、二度と会うことはないと思ってた。
――だけど彼等は、確かにここにいる。
「ちっ……一旦隠れないと厄介だ」
ハンプティーは素早く立ち上がり、どこかに向かって一目散に駆けていった。
――ううん、今はハンプティーなんてどうでもいい。
私は涙声で、こちらに向かって走ってくる青年達の名前を叫んだ。
「――ハル、リオォッ!」
「ありす!!」
力強い声で名前を呼ばれ、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
本当にこっちに来てる。幻でも蜃気楼でもなく、まぎれもなく本物のふたりが。
――まもなくして、リオとハルは私のいる噴水の前まで辿り着いた。
朝日で、ハルの黒髪が透けて見える。
リオの金色の髪は光が当たってきらきら輝いてる。
本当に……混乱した私の脳が作り出した幻覚か白昼夢かと思ったけど、皮肉にも、頬に残るあの痛みがこれは現実だということを証明してくれている。
リオとハルは私の姿を見るなり、ふたつの目を大きく見開いた。
……きっと、どうして私が噴水に落ちているのかわからなくて驚いてるんだな。
「――なっ、どうしてこんな所に!?」
「うげぇっ! ありす、どうしてお前こんな濡れてんだよ」
「噴水の中にいるんですから濡れていて当たり前でしょう。退いてください、ハル」
「ど、退くもなにも」
噴水の中心からは、相変わらず水が弧を描くようにふき出している。
こんなところに手を伸ばしたら、明らか濡れること間違いなし。
――だけどリオは一瞬もためらわず、自分のワイシャツの袖もめくらずに水の中へ手を突っ込み、私の身体を大胆に抱きあげた。
リオにお姫様だっこされるのは二回目だけど、なんとなく気恥ずかしい。私は彼と目が合わないようにわざと顔をそらした。
「リオ、服濡れちゃうっ……」
「構いませんよ。女性をいつまでも水に浸けておくことのほうが問題ですから」
――久しぶりに感じる、ヒトの体温。優しくて、安心できる暖かい声。
今の今までハンプティーにいたぶられた私には、リオの言動や仕草すべてがくすぐったく思える。
こうして私はようやく、冷たく濁った水の中から解放された。
「――降ろしますよ」
そう言って、リオはゆっくりと私を芝生の上に降ろして座らせた。
よく見ると案の定リオのワイシャツはびしょびしょになっていて、真っ白だったはずの袖は濡れているせいで見事に透き通ってる。
……なんだかものすごく罪悪感。再会してまだ五分も経ってないのにいきなり迷惑かけちゃって、何やってんだろ私。
すると、今度はハルが私と向かい合う形で屈みこみ、自分のズボンのポケットからグレーと黒のチェック柄のハンドタオルを取り出して言った。
「ほれ、こっち顔貸せ。拭いてやる」
「いっ――いいよ! タオル濡れるし血がつくかもだしッ!」
「馬鹿、変なとこ遠慮すんなっつーの。早く」
「……ごめん」
おとなしく目をつぶると、ハルはタオルでごしごしと私の顔を拭きだす。
――赤くなった頬にタオルが触れた瞬間、激痛が走った。
まだハンプティーに殴られたところが痛い。あまりの痛さで、涙が出そう。
だけどハルにはそれを気づかれたくなくて、波打つ痛みをこらえ、私は必死で一定の表情を保った。
やがて一通り顔面に付着した水分を拭き取ると、ハルはそのままそのタオルを私の手に握らせた。
「そのハンカチやるから、あとは髪拭くなり身体拭くなり好きにしろ。さすがに俺はそこまでしてやれねーし」
「……そうだよね。ハルが私の身体拭いたら完璧セクハラだもんね」
「やっぱタオル返せこのやろ」
「冗談だよ」
私が小さく笑うと、ハルもつられてにかっと笑う。
不思議。ハルの笑った顔を見ると、少しだけ元気が湧いてくる。
「あははっ――」
心に少しだけゆとりができた私は、目尻に残った涙の粒を指ですくい取り、ふと、隣に立つリオの顔を見上げてみた。
――あれ?
ところがリオは、能天気に振る舞うハルと違い、芝生の上にぺたりと座りこむ私を何とも言えない複雑な表情で凝視している。
その視線は決して私のことを侮蔑したり、哀れんだものじゃない。
だけど、穢れのない真紅の瞳から一直線に注がれる眼差しは、なんとなく不安を駆り立てる。
何を、思ってるんだろう。
私、気に障るようなことはしてないはずなんだけど……?
「――ありすっ」
さっきの複雑な表情から一変、リオは真剣な顔つきになり、私の隣にしゃがみこんだ。
慌てているのか、焦っているのか、あのリオの動きがしなやかさやスマートさに欠け、いつもよりぎこちない。
いきなりどうしたの?と私が問う前に、彼は私の手をとって、半場無理やり自分のほうへ身体を向かせる。
これらの動作完了までほぼ一瞬。私はわけがわからず、ただ戸惑った。
「なっ……!」
「ありす、顔をよく見せて」
「え?」
驚く私と、真剣なリオと、状況がいまいち理解出来ず変な顔をするハル。
――そのとき、私は気づいた。
もしかしたらリオに、頬のことを感づかれたのかもしれない。
ううん、きっとそうだ。常に周囲の細かい状況にまで気を配っている彼が、私の頬の変化に気づかないはずがない。
だめだ、だめだ。
あのことを彼に知られちゃだめ。
リオが、私がハンプティーに殴られたのを知ったら、絶対怒る。
いや……五分前までの私は『ハンプティーなんてリオにけちょんけちょんにされて眼鏡のフレーム谷折りになってしまえ』って思ってたけど、本当にそんなことになったら怖い!
焦った私は即座に彼から顔をそらして、彼の視線を全力で拒んだ。
「ゃ、めっ――」
「ありす」
「やだ、こっち見ないでっ!」
「……ありす、僕を見て下さい」
――だめだ。
抗えないよ。
彼の必死の声と態度に、心を揺さぶられる。
ああもう、無理。リオが相手じゃ敵わない。隠し通せるはずがない。
……ついに耐えられなくなって、かなり不本意ながらも観念してしまった私は、恐る恐るリオのほうに首を動かしていく。
ゆっくりと、少しずつ少しずつ真紅の瞳に私の姿が映る。
――綺麗な顔。
整えられた髪と同じ金色をした眉に、長いまつげ。
そんなに真っ直ぐ見つめられると、緊張で息ができなくなる。
きっと今私は耳の先まで真っ赤になってるな。
鏡を見なくてもわかるよ。だって、鼓動が異常なくらい高鳴ってるもん。
「リ、リオッ」
怖かった。彼が次に口を開いたとき、何を言うのかわからなくて、怖かった。
リオはそんな私の心配をよそに、まだ少しだけ濡れている手を伸ばし、そっと私の頬に触れる。
上から下へ
(まだまだ平気)
触れられたところが、熱く甘く痺れてく
(そろそろ、やめて)
――ハンプティーに殴られた部分を彼の長い指がとらえた瞬間、私は痛みで反射的に顔を歪めてしまった。
「……ありす」
まずい。
絶対今の反応でバレた!
「何故……頬が腫れてるんです? この腫れ方は、はっきり言って異常ですよ」
――やっぱり、リオが気づかないはずなんてなかったんだ。
言い訳も弁解も何も出てこなくて、額に冷や汗が滲むほど焦り、戸惑い、動揺した私はリオから顔をそらし、ちらっとハルのほうを見る。
「なんか、あったのかよ」
――失敗した。
こういうときに限って空気を読んじゃったハルは、リオと同じように眉をひそめ、動揺する私に問い掛けてきた。
どうしよう。
出まかせの言葉でさえも浮かばない。これじゃ、まずい。
頬が痛い。気持ちも揺れる。どうすればいいか困惑し、不自然なほど視線を泳がせていると、じれったくなったのかリオが私のあごを引き上げ、くいっと自分のほうに向かせた。
「……正直に言いなさい」
珍しく、命令形。私に対してこんな強気なリオは初めて。
胸が苦しい。本当はハンプティーの悪事を包み隠さず明かしてやりたい。
だけどそれを聞いたリオとハルが何をやらかすかわからない。
私は、迷う。
「ありす」
――そのとき
なんとリオが、私のあごをつかんだまま、自由なほうの腕を大きく振りあげた。
嘘
うそでしょ
――やだ!
私の脳裏に、あのときのハンプティーの顔が鮮明に蘇る。
冷たい瞳。無表情の顔。……向けられた、鋭い眼差しが。
「やめっ……もう、殴らないでっ!」
――無意識のうちに、私は両手でリオのことを思いきり突き飛ばしていた。
「……はっ、反抗しないから、オジサンを殺したことも責めないから、手は出さないでお願いだからッ……!!!」
一瞬リオの姿にハンプティーがだぶって見えた。
本当はそんなはずないのに。リオとハンプティーなんて似ても似つかないのに。
だけど私は怖くて怖くて、突き飛ばされた体勢のまま呆然とするリオに向かってただひたすら頭を下げて謝っていた。
沈黙のなか、私の謝罪の言葉だけが虚しく響く。
やがてリオは視線を落とし、いつもより低い声で小さく呟いた。
「やっぱり、何かあったんですね」
――もしかして私、今リオにはめられた?
……あぁ、ついにやっちゃった。
これで、リオは何らかの確信を持ったはず。
でも、仕方ない。私が思ってる以上に身体は正直だった。
拳を高くかざされて平然となんてしていられなかった――
「――あ・り・す・ちゃん?」
怯え震える私の耳に、私の名を呼ぶ声が届いた。
この呼び方、この声。心当たりはひとりしかいない。
その声を聞き届けた瞬間、全身が強張って、喉で息が詰まる。肌という肌に鳥肌が立ち、悪寒が身体中を駆け巡る。
私は即行頭を上げて髪を振り乱し、狂ったように辺りを見回した。
「……どこ、どこにいるの! ねぇっ」
「上だよ、上。この庭の入り口のほうを見るんだ」
入り口――あの門のほうだ。
恐々と庭の入り口がある方向に視線をずらしていくと、大きな門を支える高い高い塀の上に、ハンプティーは腕と足を組んで座っていた。
噴水から塀までは近いようで意外と遠い。距離にして、多分十メートルから二十メートルくらいだと思う。
だけど、たとえどんなに離れていても、私にとって彼と同じ空間に存在し同じ空気を吸うこと自体が苦痛で、どうしようもなく不快だった。
「あれ……アイツ誰だっけ?」
ハルがこの緊迫した空気にはそぐわないすっとんきょうな声で呟き、首を傾げる。
普段なら『こういうところで空気読めよ!』と怒鳴りつけてるところだけど、私にそんなツッコミかましてられるほどの余裕はない。
まだ乾かないエプロンドレスを強く握りしめ、塀の上にいるその男からさっと目をそらした。
「……ありす、もしや今までハンプティーといたんですか?」
なんとなくだけど、私とハンプティーのただならぬ空気を察知したんだろう。
リオがうなるような低い声で、今にも泣き出しそうな私に尋ねてきた。
もう隠しても意味がない。私はうつむき黙って、こくんとうなずく。
「そう、ですか」
「ごめんねリオ――」
「いいえ。こちらこそ、真相を探るためとはいえ貴方に怖い思いをさせてしまい、本当に申し訳ありません」
そう言うとリオは、うつむいた私の頬に触れ、顔を上げさせ――赤くなった部分に、軽く口付けした。
最初は、何が起きたかわからなかった。
ただ、リオの端整な顔が私の横にあることと、頬になにか暖かく柔らかいものが当たってることくらいしか感じとることができなった。
「ぁ、え――?」
――次の瞬間、すべてを悟った私は茶色の目を、零れ落ちそうなほど見開く。
うそ、なんで!? みるみる顔という顔が熱くなり、リオの唇の触れた部分がどくんどくんと心臓の音に合わせてうずく。
「突然の無礼を、どうかお許し下さい」
――やがてリオは私から離れ、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がる。
口をぱくぱくさせながら彼の動きをただ追いかけていると、やがてリオは自分の黒いベストを脱ぎ出し、あ然とする私に向かって投げ渡した。
「それ、持っててください。一応今まで僕が着ていたものですから、抱えていれば少しは暖を取れるでしょう」
私は間抜け面でそれを受け取り、馬鹿みたいに何度もうなずく。
するとリオはくすっと笑って、私と同じようにあ然とするハルのほうに向かって言った。
「――僕になにかあったら、ありすのことを頼みましたよ」
「は?」
そう言うとリオはハルの返事を一瞬でさえも待たず、その場に私たちふたりを置いて勢いよく駆け出した。
――彼の声色はいつもより、さっきよりも低くて、まるで何かに対して猛烈に憤りを感じているみたいだった。
嫌な予感がする。でも、もう遅い。リオは……高い高い塀を目指して一心不乱に走っていく。
真紅の瞳には憤怒の色。
彼の耳元で静かに揺れるハートのピアスが、なぜかとても私の目に付いた。
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