薔薇の國のアリス(38/56)縦書き表示RDF


 
※途中記載されている脱臼のことについては、ネットで調べたり保健医から聞いた話などをもとにして書きました。
が、実際に素人が無理に脱臼を治そうとするのは危険なので、絶対に真似しないでください。
脱臼をしてしまったときは、必ず医師や専門家のもとを訪ねましょう!


薔薇の國のアリス
作:鏡美 有雛



  I 薔薇に溺れて貴方に病んで


 突拍子もなく投げられた、一本の手術用メス。
鋭い銀。銀色が――禍々しい光を放つ。

「いきなり何を!」

 寝転がるシェイドにむかって混乱と怒りの混じった声を張りあげ、リオはすばやく両腕で顔を覆い防御の体勢をとる。
もし顔面に刃物が刺さってしまったらしゃれにならない。早急に決断を強いられ、リオは腕を捨てる覚悟を決めて強く強く歯を食いしばる。

 ――が、投げられたメスはものすごい速さでリオの顔の横すれすれを通り過ぎた。
一瞬だった。メスはあっという間にリオの視界から消え、残ったのはメスが頬にわずかに触れた感覚だけ。

 何故だ、シェイドは僕を狙ったんじゃないのか?

 そのとき――どすっという、メスが何か硬いものにささる鈍い音がした。
するとその不可思議な音に続いて背後から響いて来たのは――ハルでもクラウスのものでもない、強烈な断末魔。

 崖下に生えた薔薇という薔薇をつんざきそうな鋭い声。頭に直に響いてくるような奇声。
まともに聞いたら気が狂ってしまう。その断末魔に耐え切れず、ハルとクラウスはぎゅっと耳を塞ぐ。

 何が起きた? この声の主は一体誰?

 ――見間違いじゃない、リオは確かにメスの先を向けられていたはず。
が、実際に今苦しんでいるのは他の誰か。
リオは状況をうまく理解できず、ただ骨董人形のように整った顔を深く険しく歪め森中に響くその不快な絶叫を聞き続けるだけだった。

 ――ついに力尽きたのか、声は力を無くしてようやく闇に溶けて消えた。
すると最後を締めくくるかのように何か大きな物体が地面に倒れ伏す重々しい音がして、場に妙な沈黙が訪れる。

「……良かった、意外と早く死んでくれたよ」
「え?」

 シェイドの楽しそうに声を発し、かすかに笑い声が混ざる。
リオは目が点だ。彼が笑う理由がわからない。
構えていた両腕を顔から離し、リオは恐る恐る後ろに振り向く。

 ――そこには【意外な人物】が、メスが刺さった額から大量の血を流して倒れていた。

「……ト、トランプ兵!?」
「あれ、気づいてなかったんだ。俺のおかげで命拾いしたね、リオ」
「まさか――」

 リオはただただ、突如出現したトランプ兵の亡骸(なきがら)を凝視した。

 どうやら仕留め損ねたひとりが、こっそりと三人のあとをついてきていたらしい。
――血まみれのトランプ兵の手に握られた鋭い(やり)が今の今まで自分を狙っていたんだと思うと、ぞっとした。
完璧に自分の不注意だ。いくら懐中時計の件が頭にあったとはいえ、このトランプ兵の殺気に気づくことができなかった。

 醜くただれた皮膚。土色の肌。もともと生気の感じられない顔つきだったけれど、今はもっとひどい。
今の一部始終を傍観していたハルは、おびえるクラウスの手を引いて恐々とトランプ兵に近寄り、覗き込むようにして亡骸を観察する。
手、足、身体……そして最後にメスの刺さった額へ着目したとき、はっとある事に気づいた。

 ――猫は、最初から白兎を助けるつもりだったのか。

 シェイドの投げたメスは、トランプ兵の眉間のど真ん中に食い込んでいる。
始めから狙ってないと、こんなに正確に標的に当てるなんて不可能。
醜い顔に刻まれた傷を見つめ、ハルはひっそりと理解した。

 メスを投げたままの状態で止めていた左手をそっと下ろし、シェイドは笑う。
柄にもない行動を。そういうことなら先に言えと思いながらリオはシェイドのそばまで歩き、複雑そうな顔をしつつ彼の隣にしゃがみこんだ。

「一応お礼を。どうも」
「……せっかく助けてやったのに、その言い方腹立つんだけど。リオってありす嬢以外の奴には本当に冷たいよね」
「おや、今の言葉には僕なりの誠意をこめたつもりですけど?」
「最悪」
「――え、ちょっと待てそこの単細胞コンビッ! 出会って三分も経ってないのにいきなりケンカはない!」
「そ、そうですわ。落ち着きになって」

 トランプ兵の亡骸をその場に放置したままハルとクラウスは駆け出し、今にも胸倉の掴み合いを始めそうなリオとシェイドの制止にかかった。
ぶつかりあう真紅と蒼色の瞳。が――シェイドはリオを睨むのをやめ、にこりと微笑む。

「まぁいいや。で、なんで君達はここに来たの?」
「それは――」
「おっとその前にさ、猫からこの崖下で寝そべってる理由を言うべきなんじゃね? 名前を名乗るときと同じ、礼儀ってもんがある!」
「……そうだね、じゃあ教えてあげる。俺はありす嬢と一緒に森の中を逃げてたらつい不注意で崖から落ちた。それだけ」

 シェイドはクスクス笑い、崖下にいる理由をさらりと述べた。
するとそれに、今までむすっとしていたリオが過剰な反応を示す。

「――あ、ありす!?」
「うん。言っとくけど嘘じゃないからね」

 ――それは、リオ・ハル・クラウスがずっと求めていたありすへの手がかり。
意外な場所で意外な人物から意外な情報を入手したことに、リオ達三人は驚きが隠せない。
うまくいけば彼女が見つかる。シェイドの言葉に一番早く食いついたのは、クラウスだった。

「ということはシェイド様はありす様とずっと一緒にいらしたんですのね?」
「あ、ずっとってわけじゃないよ? ありす嬢が陛下に可愛い悪戯をしてるところを見かけて、少しそれに手助けしただけ」
「可愛いイタズラ……?」
「うん、俺が気づいたときには陛下の腕にぐちゃっと木の棒を突き立ててた。可愛いー」

 シェイドの口からゆるゆると発せられたのは、なんと危険な一言。
おまけに彼は笑いながら左手を動かし、ありすが女王に襲い掛かった時の真似をする。
――いくら狂っているとはいえ仮にも一国の女王に傷を負わせるなんて、なんて無謀な!
何も知らなかったリオ達三人は驚くと同時に、顔を文字通り真っ青にした。

「――それってかなりまずいじゃないですかっ!」
「だからありす嬢を連れて森の中を逃げたんだよ。別にさ、俺がその場で陛下を始末してもよかったんだけど、あとが面倒だし色々と厄介だからやめた。だから代わりにさっきのトランプ兵を殺って欲求不満解消」
「いやいやいや、その考えも十分まずいだろ」
「そうかな?」
「では、ありす様は今どちらに? どうみても見当たらないのですが……」

 クラウスは桃色の瞳をくるくると動かして周囲を見回すが、視界には沢山の薔薇と闇夜と、白衣を(まと)ったシェイドのみ。ありすの影どころか、人の影すら見当たらない。

「クラウス待って、今度は俺が質問する番。君らはどうしてここに?」
「ありすを探していたら僕の大切なものを突然現れた鷲に盗まれたんです。追いかけたらその鷲が崖下に向かったものですから、僕らもあとを追って」
「鷲?」

 リオの言葉を聞いて、シェイドは目を丸くする。
その瞬間――まるで『待ってました!』というかのように、闇の中からあの荒々しい羽ばたきが聞こえて来た。
間違いない、これは確実に先ほどの鷲の羽音だ。無駄に大きくて、翼から放たれる風も強い。
来る。なんとしても、時計を取り返すんだ。

 ――羽音が響いてくる方向をじっと睨んでいると、案の定先ほどの鷲がくちばしに懐中時計をくわえたままの状態で姿を現した。

「くぇー」
「……あぁやっぱり! この鷲、時計を返しなさいっ!」
「え、フォルテがなんでここに戻ってきてるの?」

 リオが怒声をあげたのとシェイドが口を開いたのは、ほぼ同じタイミング。
すると鷲――フォルテはシェイドの声にだけ反応を示し、羽音を大きく響かせながらシェイドの隣、リオとは向かい合う形で地に降り立った。

「くぇー」

 時計は離さず、でも気の抜けるような間抜けな鳴き声をさせ、フォルテはシェイドの顔に擦り寄っている。
なぜこの鷲がシェイドになついてるんだ、とリオは疑問に思った。

「……もしかしてその鷲、シェイドの知り合いですか?」
「んー、そうだけど」
「じゃあ君がその鷲に僕の懐中時計を奪うように命令したんですか!?」
「そんなわけないじゃん。リオったらいつも俺のせいにして……あぁひっどい」
「もう、ケンカはいい加減おやめになって!」

 リオとシェイドが再び言い争いを始めそうなところでクラウスが割り込み、もうっと言いながら頬を膨らませる。
普段穏やかな彼女がみせた、少し怒った表情。
少々大人げなかったかとリオとシェイドは反省し、むしゃくしゃする気持ちを紛らわすようにふぅっとため息をつく。

「仕方ない、ここは平和的に解決しましょうか」
「そうだね。争いからは何も生まれないし」

 ――とは言いつつも、リオは一刻も時計を取り戻しありすを追いかけたくてうずうずとした気持ちを抑えることが出来なかった。こうなったらプライドも恥も捨てる覚悟。
リオは屈辱に耐えながらシェイドに向かって軽く頭をさげ、口を開く。

「お願いします。僕の懐中時計……返してください」

 シェイドはそれを聞いて、左手を顔にそえ何か考えるような仕草をとる。
それからリオ、フォルテ、リオと交互に見つめ、なぜかクスッと笑った。
数分、無の時間が訪れる。その短い時間さえもリオには長く感じられ、そろそろ我慢の限界に達してきた頃、シェイドがついに返答した。

「いいよ。ただし条件がある」
「……条件?」
「フォルテが懐中時計を盗ってここまできた理由は、きっとここから動けない俺を助けるためだ」
「はぁ」
「俺、崖下に叩き付けられた衝撃で今脱臼してて動けないんだ。そこで、リオに俺の脱臼を治してもらいたい。これが条件」
「はぁぁ!? 何言ってるんですか!」
「大丈夫大丈夫、関節をはめるだけだからさ」

 シェイドの衝撃発言に、リオは兎耳を夜空に向けてピンと伸ばし仰天した。

「そんなの素人の僕に出来るはずがないでしょう!」
「あ、そこも平気。俺一応医療かじってるから助言くらいは出来るし。それに、どちらにせよ八時間以内に整復しないと腕がおかしくなっちゃうんだよね」
「じゃあ自分でやればいいじゃないですか」
「それが出来てたら今頃俺は崖で必死にロッククライミングしてるよ」

 リオとシェイドのやりとりを、ハルとクラウスは立ったまま傍観している。
どうでもいいから早くしろよ――彼らの本音を暴露してしまうなら、こんな感じだった。

「さぁどうする?」
「却下です」
「今ならありす嬢の情報もセットだよ」
「乗った!」

 ――リオがもう一度口を開く前にハルが横から割り込んでOKを出してしまった。
するとリオは、『俺、いい仕事した』と変な優越感に浸るハルをキッと睨む。

「こら馬鹿ハル、後先考えずに軽率な発言するのは控えてください」
「でもいつまでも嫌々言ってたらありす見つからねぇじゃん」
「私もハルに賛成ですわ。ありす様と時計を取り戻したいのなら、要求を呑むしか」
「……あぁもう、仕方ないですねぇ」

 懐中時計とありすのためだ。覚悟を決めリオはすっと立ち上がり、衣服を整え首と指を鳴らした。
――心なしか、彼は不適な笑みを浮かべている気がする。

「じゃあハル、シェイドの身体起こしてそのまま固定しといてください」
「うっそ、俺ッ!?」
「当たり前でしょう。君が承諾してしまったんですから協力してくださいね」
「……へいへい」

 ハルはしぶしぶクラウスの手を離し、シェイドの頭部の後ろに回って、よいしょと頭からそっと起こしていく。
フォルテは相変わらずシェイドの隣をうろちょろし、時々くぇーと鳴いた。
リオもワイシャツを腕まくりし準備万端。シェイドの右肩の後ろへと回り、深呼吸する。

「かなり簡単に説明するなら引いてはめる、それだけだよ。くれぐれも気をつけて」
「えぇ……日頃の恨み、ちょうどいい機会ですからここで発散させてもらいますよ!」

 一瞬もためらわず、リオは真剣な表情で一気にシェイドの腕の関節をはめにかかった。

「ぁあっ!」

 はまった瞬間、シェイドの口から痛みに喘ぐ声が漏れる。
ハルは恐る恐るシェイドの身体から手を離し、どっと息を吐いた。

「あー、なんか変に緊張したー……」
「お疲れハル。そしてシェイド、腕の調子はどうですか?」
「はぁっ……うん、綺麗にはまったかも……平気っ」

 いまだに余韻をひく痛みに苦しみ、荒い息使いをするシェイド。
やがて、彼は右腕に気を使いつつ左手をフォルテのくちばしに伸ばし、金色の懐中時計をゆっくりと取り上げる。

「はい、これ約束のものだよ」

 リオは髪を整えまくった袖を直し、黙ってシェイドから差し出された懐中時計を受け取る。そしてそれを、静かに首にかけた。
するとシェイドは今度は自分のスーツに手を伸ばし、何か取り出した。

「これも渡さなくちゃね」

 シェイドの手に握られているのは、黒くて四角く携帯できるサイズの機械のようなもの。画面には地図らしきものが表示されていて、青いランプが一箇所で点滅している。
リオはその機械をまじまじと見つめ、首をかしげた。

「これは何ですか?」
「――名づけて【ありす嬢探知機】かな。ありす嬢が今はめてる指輪に特殊な機械が組みこまれてて、このモニターを見れば完璧に彼女の居場所がわかるんだ。これが示す場所に向かえば確実にありす嬢に会えるよ」
「そ、そんな……一歩間違えればそれって――」
「俺をストーカー呼ばわりするならそれ返してもらうけど」
「いいえ何でもありません。空耳じゃないですか?」

 リオはにっこりと作り笑いを浮かべ、シェイドの気が変わる前に探知機を奪い取った。

「ではハル、三月兎。そろそろありすを捜しに行きましょう」
「おう、行ってらぁ」
「……あの白兎様、私はここに残りますわ」
「え?」

 ――クラウスはうつむき、遠慮がちに口を開く。
いきなりどうしたんだ、とリオとハルは目を見開き、視線を彼女一点に集中させた。

「だって……シェイド様、脱臼が治ったばかりで放っておくのは心配ですし、それに、あの、私ならジャンプが使えますからいざとなったらシェイド様を連れて崖から脱出できますし」
「何言ってんだよクラウス、あの反則キャラの猫のことだからそんなの楽々対処できるに決まってんだろ?」
「でも……」

 ――桜色の可愛らしい唇がわずかに震えている。それくらい、彼女は今必死なんだ。
ドレスのはしをぎゅっと握りおどおどしながら言葉を探すクラウスを見つめているうちに、リオは彼女の真意を察した。

「三月兎、そんなにこの場に残りたいんですね?」
「……えぇ」
「わかりました。では僕とハルはありすを追いますから、シェイドのことは三月兎に頼みましたよ」

 そう言うと、リオはすばやくハルの身体を行きと同じようにお姫様抱っこして、クラウスとシェイドに背を向けた。

「ちょっ、待てキザっペ白兎! 何あっさりOKしちゃってんだよバカッ!!」
「うるさいですね、君は本当に空気が読めてない。はい、じゃ僕らはさっさと行きますよ」
「離せー! クラウス戻ってこーい!」

 ――騒ぐハルを無視してリオは遥か上にある地上に向かって思いきり跳びあがり、やがて闇に吸い込まれていった。

 騒がしい人物が減り、一気に静寂に包まれた崖下。その場にいるのはクラウスとフォルテ、そしてシェイドのみ。
すると――リオたちを先導しシェイドのもとへ連れて行くという役目を無事果たしたフォルテが大きな翼を広げ、夜空の彼方へ優雅に飛び去っていった。
その場にいるのは、クラウスとシェイドだけ。



 *.+。*.+。*


「……シェイド様、お加減はどうですか?」
「んー、今はもう平気だよ」

 私は今、いまにも心臓を吐き出しそうなくらい、ドキドキしてる。
白兎様には感謝をしなければなりませんわ。あの方がもし私の気持ちに気づいていなければ、今こうしてシェイド様とふたりきりになれる時間なんてもらえなかったんですもの。
私はドレスに気を配りつつ、シェイド様の隣にちょこんと座りこんだ。

 シェイド様。シェイド様。一時はどうなることかと思ったけれど、元気になったようで本当に嬉しく思う。
そして何よりも、今彼の蒼い瞳に映っているのは私だけ、というのがとても特別に感じられて、胸の高鳴りが抑えられない。

「クラウス大丈夫?」

 シェイド様は首をかしげ、目の前で手を振ってきた。
――あぁ、なんて恥ずかしい。貴方に見とれていましたなんて、死んでも言えませんわ。

「そういえばシェイド様、脱臼したら、しばらく腕を固定しなければ」
「あ、じゃあ頼める? 俺の白衣破いて三角巾代わりにしていいからさ」
「わかりました」

 あいにくハサミを持っていないため、私はシェイド様に頼んで白衣を脱いでもらい、それを破いて三角巾に適した形に整える。
ハルじゃない、異性――しかも憧れているシェイド様の身体。
恥ずかしくって目があわせられない。指先は震えるし、頬も熱い。
そして白衣にわずかに染みこんだ甘い甘い香水の香りが、私の冷静さを欠いていく。

 落ち着いて。唇をぎゅっと噛みしめてふくれあがる煩悩を散らし、私はシェイド様の右腕に三角巾を巻き始めた。
この心臓の音が彼に聞こえてしまわないかとかありもしないことを考え、私の頭の中は破裂寸前。
目の前には憧れの人。邪魔するものは何一つない。
規則的に動く手とは裏腹に、私の理性の歯車は奇怪な音を立てて軋む。

「ねぇクラウス」
「は、はいっ」
「……ありす嬢、大丈夫だと思う?」

 ――息がとまりそうになった。
歯車が軋むのをやめ、ぴたりと動きを止めた。
悲しくなる。苦しくなる。
そうだ――いくら私が目の前にいても、どんなに蒼い瞳いっぱいに映っていても、本当に彼の瞳に映っているのはただ一人。

 わかっていた。わかっていたはずなのに、どうしてこんなにも苦しいのでしょうか?

 ――薔薇の国の住人がどんなに他の住人を愛しても、その愛は【アリスへの愛】に勝ることはない。これは、住人なら誰もが知っていること。

 私も、もちろんアリスであるありす様が好き。嫌いだなんて思わない。
けれど私は……シェイド様への想いも捨てきれない。

 初めて出会った五年前から、ずっとずっと好きだった。
貴方に少しでも近づきたくて、細菌学や毒の勉強を始めた。
追いかけて追いかけて、でも私の想いは彼に届きはしなかった。
やがて彼はありす様に出会い、恋に落ちていった。

 ――待って――

「クラウス?」

 低くなめらかな声が、私の耳に侵入する。侵食する。
貴方の声はまるで小夜啼きのよう。私の心に響いて、響いて、虜にする。
貴方の指はまるで羽根のよう。私の心をくすぐって、捕らえて、逃がさない。
シェイド様は自由な左手を私の髪に伸ばして、そっと触れた。

「やっ……」
「あ、ごめん」
「いえ、あの、違うんですっ!」

 シェイド様はすぐに手を引っ込めたけれど、私にはそれが、数分にも数時間にも思えた。
動転した私はすごい早さで三角巾を巻き終えてシェイド様の首の後ろへ回り、仕上げに三角巾のはしを結ぶ。

「お、おわりましたわ」
「うん。ご苦労様」

 シェイド様はクスッと笑う。
その笑顔は、私のためだけに向けられたもの。ありす様じゃなく、私だけの――

 抑え切れなかった。じっとしていられなかった。
私は本能に逆らえず――シェイド様の身体を、後ろからぎゅっと抱きしめた。

「……ねぇクラウス、さっきからどうしたの?」

 シェイド様は穏やかな声で私に問う。だけど、私は答えない。

「少しだけ、少しだけ……こうさせてください」

 わずかに香る甘い香水と、むせ返るほどの薔薇の香り。
白い首筋から伝わる彼の微熱は甘美な誘惑にも似ている。
――私だけを見てくださいませんか?
この言葉を伝えられる勇気が私にあれば、あらゆる負の感情から解放されるのに。

 泣きたくなるほど愛しています。
私は貴方に狂い、貴方に陶酔する。
引き込まれて、愛に溺れ、逃げられない。
貴方は触れずにはいられない、魔性の蒼。

 ――私の、毒薬。







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