II 忌まわしき過去へ
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「ねぇねぇお母さんっ」
「なぁに、ありす」
「どうして私にありすっていう名前をつけたの?」
「あぁ、それはね……ありすがまだお母さんのお腹にいる時、リナが『弟でも妹でも名前は絶対ありすにするんだ』って言い出したからなの。アリスのお姉ちゃんのロリーナとリナってなんだか名前の雰囲気似てるでしょ? だから下の子は絶対ありすがいいって聞かなくて」
「へぇー」
「私最初は迷ったのよ。だって倉澤ありすって変じゃない? でも、今は気に入ってるわ。リナもありすも大好きだから」
「私もお母さんだいすき!」
「あら、嬉しい」
お母さんは柔らかく笑う。私はその笑顔を見るのがとても好きだった。
倉澤真吾、鈴香、梨奈、ありす。
私たちは四人家族。近所でも有名な『仲良し一家』。
涙もろくて、生きとし生けるもの全てに優しいお父さん。
笑顔が可愛くて、友達のように接してくれるお母さん。
私と顔も性格もそっくりで、とても頼れるお姉ちゃん。
――どこに行く時もいつも一緒。運動会や入学式などは、必ず皆そろって出席する。
大富豪でもなく美形でもなく何かに秀でてるわけでもなく、どこにでもある平凡な家庭だけれど、私の家族にはそのぶん幸せがたくさん詰まっていた。
「――ぁ、ありす! また髪の毛短くしちゃったの!?」
「うん。だってテニスやるとき顔にかかって邪魔なんだもん」
「もったいない……お母さん、ありすは髪長いほうがいいと思うわよ? せっかく私たちと違って色素の薄い綺麗な髪してるんだから」
「お父さんも、ありすのロングヘアーが見たいなぁ」
「あたしもー!」
「そ、そのうちね、そのうちっ」
「じゃあ、お父さんとお母さんとリナとありすの約束だからね」
――毎日がキラキラ輝いてた。
何の変化もない平凡な日々を不幸だと感じたことなんてなかった。
深い深い愛情に包まれて、いつの間にか私は14歳まで育っていた。
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、大好き。
今まで付き合った彼氏よりも、友達よりも、この世界の誰よりも大好きだよ。
ずっとずっと、死ぬまで私たちは一緒。それ以外考えられない。
それなのに、悲劇は突然やってきた。
――忘れもしない、14歳のある日の夜。
暗い夜空。だけど星はなく、赤みを帯びた月がぽつんとあるだけだった。
人通りは少なくて、吐く息は白くて、乾いた空気が肌にささるようで痛かった気がする。
それ以外は、あまり覚えてない。思い出したくもないし。
一緒にいたのはお父さんとお母さん、そしてお姉ちゃん。
たしかその日は外食しようと思ってたんだけど――何故か車のエンジンがかからなくて、仕方がないから徒歩で近所のレストランに向かったんだ。
「ありすー、レストランに着いたら何頼む?」
「えっとね……まだわかんない」
「そっか。じゃ、着いたら一緒に決めよ」
四人で列んで歩いていると、やがて通り慣れた横断歩道にさしかかった。
信号は赤。しかも車の通りがいつもに増して多かった。
吐息が白い、白い。私達は白線の一歩前で立ち止まり、じっと信号が青に変わるのを待つ。
「ありす、リナ。危ないからもうちょっと下がってなさい」
「わかったお父さん」
「ありす、下がろ」
「いい子ね」
私たちが言われた通り一歩下がると、両親は穏やかに笑った。
優しい笑顔。心が、安心感で満たされる。大好き。大好きだよお父さん、お母さん。
信号は赤。吐息は白。暗闇で、無数の車のランプが点滅する。
――それが、私たち姉妹が生きている両親を見た、最期の瞬間。
全ては一瞬の出来事。
一緒に信号待ちしていたはずのお父さんとお母さんが、たくさんの車が行き交う道路に勢いよく飛び出した。
でも自分から飛び出したんじゃなくて、誰かに後ろから思いきり押されたように――
「……おとぉ……さっ!」
時が、止まったように思えた。
私と姉が横断歩道の前で呆然と立ち尽くしていると、顔にぴしゃりと生温いものがとんできた。
震える指先でそれを拭う。ぬるり。それは、お父さんかお母さんの血。
何が起きたのかわからなかった。
ただ、私たちの前に血にまみれた肉塊がふたつ転がってることしか理解できなかったの。
目の前が、真っ暗。どうして?
――即死だった。
大好きな両親は、私と姉の前で猛スピードで走る車の列に轢かれて亡くなった。
だけど、矛盾点や不可解な点が多数存在するにも関わらず、証拠不十分でその出来事は単なる『交通事故』として片付けられた。
誰かがお父さんとお母さんを道路に突き飛ばしたんだ。
ことの一部始終を見ていた私と姉は、そう確信していた。
だけど、その証拠が見つからない。外は暗かったしあまりに突然の出来事だったから、犯人の顔なんて見てない。
悔しかった――でも何より、悲しかった。
私の宝物。世界一すきなひと。私を生んで、心から愛してくれたひと。
こんな形で別れることになるなんて、考えてもなかったよ。
「どうしてっ……」
お通夜は、あっという間に終わった。
ううん。本当はかなり時間がかかったんだろうけど、嘆き悲しむ私にとってそんなのどうでも良かったんだ。
目に映る全てのものが色を失くした。世界が終わったような気がした。
ありきたりな表現だけど、大切なものを失ってしまった私には本当にそんな風に感じられたの。
生きている心地が全くしなくて、まるで自分が人形になったみたい。
どうして。どうしてよ。
どうしてお父さんとお母さんがこんな目に遭わなきゃいけないの?
優しいふたりを返して。置いていかないで。私をこの世にひとりにしないで。
――祭壇に敷き詰められた満開の菊の花は風もないのに揺れてて、黒で縁取られた写真の中の両親はいつものように優しく微笑んでいた。
姉はお葬式のことで親族の人たちと話し合ってる最中。
だからこのお通夜の会場には、私ともう二度と目を開くことのない両親だけ。
気がつけば私は虚ろな表情で、ふたりの棺の前に座りこんでいた。
――何もかも、嫌。もう耐えらんない。
絶望感と虚無の塊みたいになった14歳の私は、嫌々着た喪服のポケットからあるものを取り出す。
それは、黄色のふたで閉じられた透明のビン。
中身は大量の睡眠薬で、お父さんがごくたまに飲んでいたやつだ。
一心不乱にビンのふたを外し逆さまにして、手のひらに錠剤の山を作る。
喪服の黒。錠剤の白。
――私、もうこの世界に生きていてもしょうがないよね。
お姉ちゃんには悪いけど、私はお父さんとお母さんのあとを追うことに決めたの。
ふたりのいない世界に生き続けるということが、とても無意味に感じられたから。
最初は刃物で逝こうと思ったけど、もしも失敗した時に身体に傷が残るのが嫌だったからやめた。
でも、本当はわかってた――いくらこの睡眠薬を飲んだって、死ねないことくらい。
だけどこうでもしないと私の心が、苦しみが報われないんだよ。
すがりたかった。すべてを取り戻したかった。
誰もいないことをもう一度確認したあと、私は一気に手のひらいっぱいに広がる錠剤を貪るように口に詰めた。
錠剤が唾液と絡み合う。流れていく。あぁ、瞳から溢れ出す涙で視界がぐにゃりと歪む。
喉に薬が引っ掛かってうまく呼吸が出来ない。
このままじゃ睡眠薬の効果じゃなくて、呼吸困難で――
「ありす、まだいる?」
――おねぇ、ちゃん。
姉の細く高い声を聞いて私は反射的に、口に含んでいた薬全部を手のひらに吐き出した。
喉が痛い。口の中が苦い。だけど今派手に咳きこんだら、お姉ちゃんにばれちゃう。
「ありす」
私の返事がないのを変に思ったのか、入り口に立っていた姉がだんだんこっちに近づいてくる。ローファーの音が、コツ、コツと規則的に鳴り響く。
まずい。見られちゃダメだ。吐きだした薬を握る手を、さっと後ろに回し隠した。
「あぁありす、いるなら返事くらいしてよ」
「げほっ……ご、ごめんリナお姉ちゃん。ちょっとだけ、ひとりで泣きたい気分だったんだ」
「……そっか」
危なかった。視線を泳がせつつ、ちらりと姉の顔を見る。
姉のまぶたはパンパンに腫れてマスカラもほとんど落ちて、まさに悲惨なパンダ状態。
おまけに鼻水垂れ流しだしびっくりするほど鼻の頭が真っ赤になってて、もはや年頃の乙女の顔じゃない。
「リナお姉ちゃん」
――すると、真っ黒な喪服をまとった姉は私の前にすっとしゃがみこみ、苦笑いを浮かべ私の髪を撫でてきた。
「ありす……お父さんとお母さんいなくなっちゃったけど、これからも姉妹で仲良くやっていこうね」
「え……」
「一緒に頑張ろう。辛いことがあったらお互い励ましあって、乗り越えていこう? ……あたしにはもう、ありすしか――」
――姉はこみあげる涙をこらえきれず、すべてを言い切る前に泣き出した。
すすり泣く声、小刻みに震える身体。ところどころで情けない喘ぎ声が聞こえてくる。
姉のそんな姿は、14年間一緒にいて初めて見たと思う。
正直戸惑った。だって、たった今私は死のうとしてたんだから。
ぎゅっと握りしめた手に、薬と唾液の感触が伝わる。手の熱と唾液が絡んで、薬が溶けていく。
「……ごめん。じゃ、あたしまだ叔母さんたちと話し合わなきゃいけないことがあるから行くね」
「う、うん」
さんざん泣いたあと姉は立ち上がり、それからは一言も話さずに静かに会場から立ち去る。
姉の後ろ姿は今にも倒れそうなほどふらついてて、とてもとても弱々しかった。
追いかけたくても、なぜか怖くて出来なかった。
――ひとり取り残された私は、後ろに回していた両手を目の前に持ってきてそっと拳を開く。
強く握りすぎて汗が滲んだ手のひらには、粘り気のある唾液に包まれたたくさんの錠剤。
私は無言のまま、ただただその生ぬるい塊を見つめる。
――私、何やってんだろ。
私がお父さんとお母さんのあとを追ったって、何の解決にもならない。
それどころか、大好きなお姉ちゃんを余計に悲しませるだけ。所詮、自己満足。
生き残った人が、一番苦しむのはわかってるのに。馬鹿みたい。私って、本当に馬鹿だ。
後先考えずに一時の感情に任せて動く私は、なんて未熟な子供なんだろう。
「おと……さん……おかぁさんっ」
涙が溢れ出す。とまらない。
拳を強く握ったら、手の中の錠剤が粉々に割れた。
私、お姉ちゃんのために生きるよ。
お父さんとお母さんがなんで亡くなってしまったのかは結局わからないままだけれど。
お父さんとお母さんが生きていた頃と同じように、お姉ちゃんと一緒に幸せな日々を送りながら平凡な『倉澤ありす』を貫くよ。
髪も伸ばそう。お父さんとお母さん、長い髪が見たいって言ってたよね。約束したからにはちゃんと守るよ。
――私が死ぬその日まで、待っていて。
ふたりの眠る棺にしがみつき、私は大声をあげながら泣き崩れた。
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「――苦しかった。この気持ち、ずっと誰かに聞いて欲しかったんだ。……いや、別に聞いてもらったところでなんにも変わらないんだけどね」
心に溜まっていた色んな想いをぶちまけ、私はようやく息をつく。
本当はまだ言いたいことがたくさんあったけれど、これ以上オジサンに重い話を聞かせるのは良くないかな、と思ってやめた。
気がつくと、私の頬は濡れていた。知らないうちに泣いていたみたい。
ほの暗い闇に包まれた、薔薇の森。肌を撫でる空気は少しだけ冷たい。
黙って私の話を聞いていたオジサンは複雑そうな表情を浮かべ、ついに口を開く。
「……おじさん、ありちゃんがそこまで思いつめてたなんて知らなかったよ」
「だって誰にも気づかれないようにずっと隠してたもん」
「そうだな。そうだよなぁ」
ずっと正座をしていたから足がだんだんしびれてきた。
頬についた涙の粒を指先で拭い取って、いばらのとげに注意しながらよっこらせと体勢を崩す。
オジサンの顔は、相変わらず曇ったまま。やっぱり引いちゃったのかな?
「ごめんね、エルガさ――」
「ありちゃん、君はよく耐えた。辛かったな、苦しかったな。気持ちは痛いほどわかるよ。ありちゃんは、よく頑張った」
予想外だった。絶対引いてると思ってた。
驚いて目を見開いて目の前に座るオジサンを真っ直ぐ見つめると、やがて彼は懐をあさり始め、そこから何かを引っ張り出す。
「これ、使いなさい」
オジサンの小さな手から差し出されたのは真っ白なハンカチだった。
だけど、オジサンのサイズに合わせて出来てるからとてつもなく小さい。多分、ガムの包み紙よりも小さい。
オジサンは穏やかな微笑みを浮かべる。小さくて、くしゃくしゃな笑み。
「……我慢はよくない。大丈夫、おじさんは君を受け入れられるから」
私は、何も答えられなかった。驚くことしか出来なかった。
だけど身体は正直で、自分でもよくわからないうちに、ぽろっと涙が零れ落ちる。
――三年間、ずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。
「……ぁ、りがと」
手をそっと伸ばし、オジサンからその小さなハンカチを受け取る。
やっぱり小さすぎる。こんなんじゃ涙一滴拭っただけでびしょびしょになっちゃうよ。
だけど私は彼の善意が嬉しかった。とても、愛おしく感じた。
零れ落ちる涙が止められない。だけど、涙と一緒にずっと心に潜んでいた悲しみの感情もはがれ落ちて、ちょっとだけなにかが軽くなった気がした。
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