II ルージュ様とお呼び!
◇
――ガシャンッ
突然、窓ガラスが割れるような音が響いた。
俺はその音のせいで深い眠りの世界から一気に味気のない現実へと引き戻される。
うっすらと目を開くと、視界に映ったのはいつもとかわらない白い壁紙で覆われた天井。
――なんか、臭い?
ベッドから静かに身体を起こし立ち上がってクローゼットへ向かい、そしてクローゼットを開き白いワイシャツを一枚取り出した。
しっかりとアイロンを施された、着慣れたワイシャツ。寝巻き代わりにしている黒いTシャツの上からそれを羽織る。
そして傍らに放置していた黒いシルクハットとネクタイを掴んで、俺は足音も立てずに自分の部屋を出た。
――俺は、一瞬だけ自分の紫色の瞳の視力を疑った。
扉を開いた先に広がっていたのは真っ赤な火の海。
なんで……なんで俺の家、燃えてんの?
熱い。熱い。熱い。
たった少しの時間しか火の前にいないのに、もう額から汗が吹き出てきた。
気持ちの悪い熱気が俺の肺へじわりじわりと侵入し、息を吸うのがどんどん辛くなっていく。
やっべぇ……
俺は慌てて手で鼻と口を覆い隠し、極力呼吸することを抑える。
パチ、パチと赤い火の粉を振りあげる炎によって、爽やかな白色だったはずの廊下は徐々にどす黒い色へ汚染されていく。
「なんなんだよ……これっ」
夢だと思いたい。悪夢だと割り切りたい。だけど今こうして身を焼かれるような熱さを感じているから、これは夢なんかじゃなくて。
毛穴から絶えることなく噴き出す汗はやがて俺の目にずるりと流れ込み視界を汚く濁らせた。
――怖い。俺、こんな体験したことなんかねぇよ。
男のくせに情けない。だけど、身体が思うように動かないんだ。
こういう場合一体どうしたらいい――
――それより、皆はこの状況に気づいてんのか!?
考えるよりも先に俺の足はある場所へと走っていった。
息を切らしながら火の中を必死で駆け回り、辿り着いた先はピンクの扉の前、『アイツ』の部屋の入り口。
――ふざけんなよ
見慣れたはずの扉なのに、ここも燃え盛る炎の影響で半分くらい真っ黒になっちまってる。
一瞬躊躇したが、拳をぐっと握り、帽子を深く被って俺はその扉を開いた。
洒落た出窓。ピンクの壁紙。ピンクのベッド。数えきれないほどの薬品がならんだガラスケース。
白い煙に覆われてキナ臭さが充満しているが、幸い火はまだ回ってない。
俺はぎゅっと唇を噛みしめ、覚悟を決める。
やがて俺は扉を開いたままそのピンクのベッドへすばやく駆け寄り、こんな状況にも気づかずこんこんと眠り続ける『アイツ』の肩をつかんで思いっきり揺らした。
「おい! 起きろよクラウス!!」
「……ん」
だが、我が幼馴染――クラウス・ローズマーチは平和そうで安らかな寝顔を浮かべ、起きる気配がない。
――気づけ、バカ!
普段なら女の子に手を出すのは俺のポリシーに反するが――この際仕方ない。
俺は肩を揺らすのをやめ、今度はクラウスの柔らかい頬をぱちぱちと叩いた。
「こら、起きろっつーのオイッ!」
「……ん、痛たたたたッ! 痛いですわハル!」
どうやら、俺の決死の行動は役に立ったらしい。
クラウスは若干痛がりながらも垂れた桃色の瞳を開き、身体を起こす。
――良かった、目ぇ覚めたか
俺は一瞬安堵の息をつきそうになったが、廊下の赤い炎の事を思いだし再び焦りだす。
うかうかしていられない。一刻も早くこの場から脱出しなければ。
眠たそうな表情を浮かべながら俺を見つめるクラウス。
薔薇の国一愛らしい、俺の幼馴染。
――コイツだけは、俺が守らねぇと。
俺は今まで羽織っていたワイシャツをさっと脱ぎ、きょとんとするクラウスに向かって投げた。
「……どうかしましたの? ハル」
「それ服の上から着ろ。俺にも今の状況がよくわかんねぇんだよ! ――なんか知らねぇうちにこの家が燃えてんだ」
再び黒いTシャツ姿になった俺はネクタイをズボンのポケットへ適当にねじこみながら叫ぶ。
だが言葉が足らなすぎたのか――クラウスは目をぱちくりとさせちっとも動こうとはしない。
「えっと、寝惚けてらっしゃいますの?」
「寝惚けてそんな縁起でもない事言うかっつの! ……ほら、信じらんねーならそこの扉の外見てみろッ!」
必死の表情のまま扉を指さして叫ぶと、クラウスもようやく俺の指の先に広がる光景を見つめる。
扉の外には真っ赤な炎。立ちこめる白い煙だってこのキナ臭さだって、偽物なんかじゃない。
それを視界いっぱいに映したことにより、どんどん青ざめていくクラウスの顔。
……当然の反応だな。俺だって、未だに信じられねぇんだから。
呆然として今にも泣きだしそうな表情のクラウス。俺は彼女の細い腕を掴むと思いっきり引っ張り、ベッドから引き剥がした。
「どうすれば――どうすればいいんですっ」
「落ち着け! とりあえず、自分の服と薬品かき集めて逃げる準備しろ。――お前は俺が責任持って助け出してやるから」
俺だって本当は泣きたい。現金一括払いで建てたマイホームが燃えてるなんて、認めたくねぇ。
だがそんな心境をクラウスに悟られるわけにもいかず、俺は強がって平気なフリをして、ベッドのそばにある薬品の入ったガラスケースの元へ向かう。
「うりゃっ」
「……待って、ハルッ!」
クラウスがどうやら腹をくくったようで、決死の表情で俺のワイシャツを羽織った。
そして先ほど自分が着ていた黒いドレスを手にとってガラスケースのところへ慌ただしく走ってくる。
一瞬だけ目を合わせた俺ら。やがて同時に戸を開き、薬品の入った小ビンをはじから順番に取り出し、それをクラウスに持たせるという作業を繰り返す。
白い煙はまるであざ笑うかのように部屋の中でどんどん渦巻いて、俺らを焦らせる。
そろそろ、まずいな。
小ビンを掴む手を止めると、ポケットの中へ必死に薬品を詰め込むクラウスのほうへ向いて、もういちど覚悟を決める。
「……クラウス、そろそろここ出るぞ」
「大丈夫ですわ。起爆性のある毒物の小ビンなら全部持ちました」
俺らは目を合わせ、こくんと頷く。
同時にピンクの扉のほうへ全力で駆け出した。
――だが、時すでに遅し。
廊下はもう深い深い赤色を纏った炎で支配されていて、当然飛び出せるような状況じゃない。
脳内に鋭い戦慄が走る。再び不快な熱気が肺をじわじわと犯し、耐えきれなくなったクラウスが思わず咳き込んだ。
「げほっ……くぅっ」
「やめろ、煙吸うなクラウスッ! ……ちっきしょ」
廊下にはもう出られない。火の回りが予想以上に早すぎたんだ。
ついに扉にまで火の粉が移り、ゆっくりと勢力を拡大させながら扉を焼いていく。
自分の何かが焦げるような臭いがしてだんだん頭がクラクラしてきた。
襲い掛かる眩暈。絶望にも似た、激しい衝動。
自分が男だということを忘れ、今ここで泣き崩れられたらどんなに楽か。
だけど俺にそうさせないのは、クラウスの不安げな表情が隣にあるから。
俺は、ずっとそばにいたというプライドにかけてコイツを守らなきゃいけないんだ。
――そのとき、俺の脳裏にあの『窓ガラスが割れる音』が蘇った。
鮮明な音。なんでこのタイミングで浮かんで来たのかはわからないが。
――そういうことかよ
「けほっ……どうしました? ハル」
悲しみと不安を含んだ桃色の瞳には、不気味にゆらゆら揺れる炎と俺が映る。
もう笑うことしかできねぇよ。
だって、白兎は『あの方法』できっとありすと一緒にここから脱出したんだから。
「――行くぞクラウス! 兎耳と身体、守ってろ」
俺は白兎やチェシャ猫みたいに優れてない。
だけど周りはすでに業火の餌食。他には逃げられない。
もう、賭けるしかないんだ。
俺は一瞬のうちにクラウスの細い身体を抱きかかえ、部屋の中へ逆戻りする。
目指す場所はただ一点。そう……出窓だ。
もう、家なんかどうでもいい! 今は生きることが優先だろ。
やがて俺は革靴で床を思いっきり蹴って、窓ガラスへと突っ込んだ。
――こうなったら、馬鹿の意地ってやつを見せてやる。
◇
儚く砕け散るガラスの雨。美しい、雨。
だけど、それと共にリオの鮮血も舞う。
気がついたときには私の身体はリオの身体と共に地へ墜落し、ハルの家の裏手に生えた芝生の上に思いっきり投げ出された。
「がっ……!」
身体が痛い。地に落ちた衝撃のせいもあるけれど、何よりも窓ガラスの破片が身体にささるのが辛い。
カシャンと音を当てながら、未だに2階の窓から降り注ぐガラス。それらは容赦なく私達の身体へ襲来する。
痛い。痛い。苦痛に顔を歪めながら、私は私の身体を抱え込んだまま離さないリオの顔を見た。
白い肌に、たくさんの血筋。切り裂かれた頬。
彼のワイシャツにも数え切れないほどの切り傷が刻まれ、真っ赤な血が滲んでいる。
自ら捨て身の覚悟で窓ガラスに突っ込んだんだ。私より何倍もダメージが大きい。
「リオ……リオ」
「――大丈夫、ですか……?」
「馬鹿! 貴方本当にバカバカバカッ!」
これで何回目なの? いい加減、気づいてよ。私は貴方にそこまで守ってもらいたいわけじゃないのに。
涙と憤りの感情が溢れそう。だけど、私に彼を責めることなどできるはずがない。
倒れこんだ芝の上、徐々に私達の身体に熱気のようなものが届く。
リオと私は何とか身体を起こし、さっとハルの家のほうに視線を移す。そこはリオの言ったとおり、狂ったように燃え盛る家と赤き業火が。
嘘でしょ? なんで、一体誰がこんなことを!
――ガシャンッ
するとそのとき、少し遠くで窓ガラスをぶちやぶるような音が響いた
格好はなぜか黒いTシャツだけど、見慣れた黒いシルクハット。そして彼の腕には黒い兎耳の少女。
そう、ハルとクラウスが、上から降ってきたんだ。
やがて彼らは私達と同じように思いっきり芝の上に落下する。
だが彼らは私達とは違ってうつぶせ状態で投げ出された。
あ然としながらその光景を見つめていると、突然ハルがむくりと起き上がって悲痛の声をあげた。
「……いってええぇ! マジでふざけんなバッキャロー!!」
「ハ、ハル! 窓ガラス破って脱出なんて何を考えてるんですの!?」
「馬鹿、こうするしか方法はなかったんだ!」
どうやら――あのふたりは元気そう。
少々痛がりながらも口喧嘩を繰り広げるふたりを見て思わず安堵の息をつく。すると隣に座っていたリオがゆっくり立ち上がって私のほうへ口を開いた。
「ありす、立って」
「……了解」
リオの傷だらけの手を借りて私もよいしょと立ち上がり、すぐにハルとクラウスの元へ駆け寄る。
ガラス片の上に倒れこむ彼らの姿。芝のところどころに血が飛び散っているのがなんとも痛々しくて。
やっぱ、ハルもクラウスをかばったんだな。クラウスは比較的無傷だけど、ハルはTシャツから伸びた腕がリオのように切り傷だらけ。それを見て私は少しだけ胸が苦しくなった。
「えっと、ハル大丈夫?」
「なぁありす、これが大丈夫な姿に見えるか? えぇ? オマケに家も燃えてて気分最悪だ」
「……ハル、なんで家が燃えてるんですか」
「そんなの俺も知らねーよ! お前らが窓ガラス割って脱出する音で俺は起きたんだから! てゆーかお前らはなんで火事が起きたってわかったんだよ」
一足先に回復した私とリオの質問攻めに合い、うなだれながら立ち上がるハル。
彼に続いてクラウスも立ち、腕に抱えている黒いドレスに絡まった細かいガラス片を掃いながら私の隣に並ぶ。
私はクラウスの今の格好を見て、多分ハルのワイシャツを借りたとみた。
「私はもちろん知りませんでしたわ。ハルが部屋に入ってくるまで」
「あ、私も! リオが来るまで気づかなかったもん」
「……じゃあ一番に気づいたのは白兎か。お前はなんで気づいたんだ?」
「僕ですか? キナ臭さもあるんですが、一番は……今さっき不審な物音が聞こえたから、ですかね」
リオの発言に、その他三人は首をかしげる。
不審な物音……時間帯的に、シェイドではないな。彼は私が眠る前に退却したし。
あごに手をそえ、考えこむ。
【陛下が君のところにやってくるよ】
【もうすぐ貴方の所に危険なヤツがやって来るわ】
シェイドとアリスの言葉がどうも引っ掛かる。
だって、きっと彼らはよっぽどの根拠がない限りそんな事を言うタイプじゃない。いや、あくまで推測だけれど。
――ガタッ
「ひゃっ!」
「何の音ッ!?」
大きな音が重々しく響いたと思ったら、それは家の一部が焼け落ちる音だった。
白い煙も、さっきとは比べ物にならないほど深く渦巻いている。
――もう、一体誰がこんなむごい事したのよ!
今にも叫び出しそうな口を押さえ込み、まるでその気持ちをぶつけるかのように拳を握る。
容赦なく燃える家の前で黙り続ける私たち四人。
雰囲気は、とても重々しい。
そのとき
怒りに震える私の耳に、不自然な音が届いた。
それは地の叫びにも似た、凄まじい足音。しかも軍隊のようにそろった、気持ちの悪いもので。
私はほぼ反射的に、隣に立つリオのワイシャツの袖をぎゅっと握った。
――怖い。
会ってはいけないようなものが近づいて来ている気がする。
私はなぜか猛烈に、一刻も早くここから逃げ出したいという衝動に駆られた。
「リオ……誰かがこっち来るよ」
「わかってます」
リオは真剣な顔つきで音のする方向を見つめ、静かに腰のホルスターから銃を抜く。
続いてハルも少し前に出て腰に装備していたマシンガンを手にとって構える。
――ついに、足音のするほうに、誰かの姿が――
「逃げられると、思ったか?」
私の耳に届いた低い声。ううん、低いといっても、これは女の声で。
豪奢な巻き髪。赤い瞳。格好はタイトなドレスから真っ黒なボンテージ姿に変わっているけれど、手には大きな金の鎌が握られている。
信じたくない。信じたくないけれど。
間違いない。
あれはルージュ……紅の女王!
彼女の姿を見たことで城での恐ろしい出来事が脳内を駆け巡り、悪寒に似た不快な感覚が身体を走る。
怖い。やめて。首を切らないで。
するとボンテージ姿の女王は、こちらを見て冷たく不気味に笑う。
「やめてっ……女王は嫌ッ!」
「ありす、どうしたんですか!?」
「ありすっ」
リオとハルは知らないんだ。私が城で女王と何があったのかを。
今にも泣き出しそうな声を出し震える私を見て、彼らは銃を構えたまま焦ることしか出来ない。
「――この家に火をつければまるで巣を追われたねずみのようにお前らが這い出てくるかと思ったら、案の定だったな」
次に辺りに響いたのは男の声。低くて無駄に大きい……そう、忌まわしきエースの声。
渦巻く白い煙の中、目を凝らすと女王の後ろには、火のついたたいまつを握るエースが重々しく立っている。
震える身体を押さえ目を細める。恐る恐る彼の身体を確認すると、切断されたはずの腕はもうくっついていた。
それだけじゃない……二人の後ろには、トランプに人間の頭が生えたような気持ちの悪い軍団がアリの様にうじゃうじゃと群がっていた。
この家に火をつけたのは、彼らの仕業?
許せない。でも怖い。怒りと恐怖がぶつかって気持ちが悪い。
たくさんの女王の軍勢を見て、私たち四人は呆然とするしかなかった。
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