I 欲情 in 浴場
――静寂に包まれていたはずの風呂場。
そこに前触れもなく現れたのは、意外な人物。
「うっそ……なんで此処に」
やがてその人物は真っ白な湯気を割きながら私のいる浴槽まで近付いてきて、にっこりと柔らかく笑う。
だが私は笑えない。ものすごく笑えない。
むしろ青ざめた顔でその人物を静観することしか出来ない。
「……私もご一緒してよろしいでしょうか、ありす様?」
――それは、クラウスだった。
黒いバスタオルを巻いている彼女は、私の返答を待つことなく浴槽にすらりとした足を伸ばし、侵入してくる。
その際に浴槽の水面が微妙に揺れ、私の何ともいえない焦りも微妙に増した。
うっそ、待て!
私なんか頭の黒いリボン以外ほぼNO装備でかなり恥ずかしいんですけど!?
「え、えーとっ……」
「やっぱり、いけません?」
垂れ気味な桃色の瞳が困り果てたようにじぃっと私を見つめる。
しかも、バスタオルの上から何となくわかる彼女の身体のラインがとても綺麗で妖艶。
そんな彼女から衝動的に目をそらし、私はまるで餌を求めるコイのように激しく口をパクパクとさせた。
――そ、そんなナイスバディを見せびらかしつつ殺人的に可愛い顔しないでくれ。私がもし秋葉原のお兄さんだったらイチコロだぞ!?
そんな顔されたらかなーり断りづらい。あ、もしかして確信犯?
震える全身を両腕で押さえ込み、死にかけた声で小さく呟いた。
「……えぇもうどうにでもなさってくださいよ。私どうせ客人の分際なんで、拒否なんざもってのほか――」
「じゃ、遠慮なくそうしますわ」
「あっさりですか」
そう言いつつも私はさりげなくカニ歩きをして、クラウスの傍から徐々に離れた。
なぜなら、絶対隣には並びたくないから。
今の心境は……あれだ、中学の修学旅行の初日にクラスの女子達と風呂に入る、まさにあのときの心境!
別に見られてるわけじゃないのに、無性に身体を隠したくなるってヤツだ。
私は大量のお湯をかき分けながら泥棒のようにそろりと動く。
……我ながら気持ち悪い動き方だなぁとも思ったけど、仕方ないんだって。
そしてようやくマーライオン様のすぐ隣に陣取ると、両腕でばっと上半身を隠した。
「あの、ありす様」
「あ、はぃぃッ! な、何か御用でございましょうかクラウスさんッ!?」
「えっと、その……エースにさらわれたあと、何が起きたんですか?」
クラウスは私と向かい合う位置に腰掛けて肩までお湯に浸かると、恐々とした表情を浮かべながら尋ねてきた。
……何でそんな暗い顔してるんだろう?
そんな彼女を横目で見つめながら相変わらずお湯を吹き出すマーライオン様に寄りかかって、深くため息をついた。
「そりゃあもう、凄かったよ? まずエースに城に連れて行かれたと思ったら、今度は鎌を持った女王様に追いかけられて……最終的には城の地下牢に一週間も閉じ込められた」
――もちろん、今の言葉に皮肉なんか一切ない。
だがなんとクラウスは今の言葉を嫌な意味で受け取ってしまったらしく、ひどく暗い表情でうつむいてしまった。
場の空気が一気に重くなり、気持ちの悪い静寂が訪れる。
そこら中に舞う白い湯気もなんとなくこの不快感をあおる要素へと変化をとげた。
「……ありす様、本当にごめんなさい。私、いくら謝っても足りませんわ」
「あ、あのね、言っとくけどクラウスが責任感じることはないんだよ!? 自己責任だって、うん」
「でも……」
「それにさ、えーっと……地下牢に閉じ込められたところをギリギリ救ってもらえたんだ! ラッキーラッキー」
そう言いきった後、落ち込むクラウスに向けて精一杯の笑顔を送った。
というより今の私には、それしか出来ることが思いつかない。
――本当は、笑えないことばっかりだったけどさ。
目の前でエースの腕がとれて血を被ったり腐乱死体の横で気絶してたり20階から落とされたりとか、かなり壮絶だったけど!
「あの……ちなみに『そいつ』って誰の事でしょうか?」
「えー、聞いても得しないよ? ほら、猫だって猫。シェイド・ローゼンラグフォンっていう長ったらしい名前を持ってるホストみたいな奴――」
「まあ、シェイド様が!?」
すると意外なことにシェイドの名前を出した瞬間、クラウスの柔らかい声のトーンが1オクターブ上昇した気がする。
それはまさに、今さっきまでの沈んだ態度とは真逆といっても可笑しくないくらいに。
垂れ下がって沈んでいたはずの桃色の瞳までもが、若干光を帯び始めた。
……ん? しかも心なしか、顔が赤くなっている気がするのは私の目の錯覚?
白い湯気でもやもやとした視界。だけど、クラウスの口元が可愛らしい三日月を描いているのはわかる。
暗い雰囲気がいつの間にか少々華やいでいるのも感じ取れる。
ものすごく、嫌な予感がした。
「……ク、クラウスッ!」
「は、はいっ? 何でそんな険しい顔をしていらっしゃるんですかありす様?」
ありえない。あってほしくない。
でも、彼女の突然の状態変化からしてそれしか考えられない。
「ねぇ、まさかまさかの話だよ!? もし間違ってたら、私謝罪のためにこの風呂場を逆立ちで一周しても良い。……クラウスの好きな人って、もしかして……あの腹立つほどひねくれてるシェイドじゃあないよね?」
やめてくれ。私の思い過ごしであってくれ。悪夢なら覚めろ。
祈るような思いを胸に、向かい合わせで座るクラウスの顔を凝視する。
大理石の天井についた水滴がぽたりと頬に落ちる。
嫌な沈黙が流れ始めたとき、ついにクラウスが顔を紅潮させながら口を開いた。
「……なんでわかってしまったんでしょうか?」
あああぁぁぁぁッ!
全身全霊で信じたくない。いっそ、何もかも聞かなかった事にしたい。
頭を両手で抱え込み獣のようにうめくと、きょとんとするクラウスに向かって思いきり叫んだ。
「……なんで!? あんなのの一体どこが良いの!!? 無駄にロマンチストな快楽殺人者のひねくれ者の根暗ホスト野郎じゃない!」
「だって紳士的じゃありません? それに、あの方は私の恩人ですもの」
はぁ?
シェイドが紳士なら、リオは新世界の神だよ。
……そうか、クラウスはハルの幼馴染。きっと精神年齢の低すぎるハルのせいで男を見る目が正常位置からだいぶ狂ってしまったのだろう。
マーライオンがテンポよくお湯を噴き出す音が、浴場に響く。
私は憐れむような、あきれたような目つきでただただクラウスを見つめることしか出来なかった。
「クラウス、まだハルのほうが可愛げあるからマシだよ? 絶対ハルにしといたほうが良いよ? 今旬な馬鹿ランキングNO.1だよ?」
「ありす様。私前にも言いましたが、ハルは親密な幼馴染。それ以下でもそれ以上でもありませんわ」
私の全身全霊をかけた忠告もあっさり一蹴され、儚い望みは絶たれてしまった。
最早諦めにも似た感情が心を支配していくのが何とも切ない。
なんとかそれを吹き飛ばしたくて、マーライオン様から溢れ出すお湯を両手で救い顔にパシャッとかけた。
「あら、ありす様」
「へ?」
「今気づいたのですが、指輪をしていらしたんですのね! なんて綺麗な白銀なんでしょう」
クラウスの視線をゆっくりと追うと、それは私の左手に向けられている。
そういえば薬指に無理矢理はめられた指輪の存在を綺麗さっぱりと忘れてた。
「あー……うん」
「それ、ありす様の世界のモノではありませんよね? 誰かにもらったんですか?」
「これは担保代わりにシェイ――」
あ、あっぶない!
今ここで下手にチェシャ猫の名前を出したら危険だ。
逆の立場から考えてみると……私の友人が私の好きな人からもらった指輪をはめてる(しかも意味深な位置に)ってことでしょ?
もしそんな事があったら、私だったら確実に嫉妬に狂って殴りかかる。
駄目だ駄目だ、それは何としても避けたい最悪の出来事だ!
「シェ……シェイクの中に落ちてたんだよ……最近のファーストフード店は食品偽造が多くて困るねぇハハハ……」
我ながらものすごく苦しい嘘である。
いくらなんでもシェイクに指輪が入るなんて事ありえるか!
だが予想外にもクラウスはその部分については何も指摘せず、代わりに白銀の指輪を指差してこう言った。
「あら? その指輪、お湯につけると英文が浮かんでくる仕組みなんですね。ずいぶん手が込んでますわ」
「……え!? うっそ、何それ初耳なんだけど!?」
「ほら、段々はっきり浮かんできてます。えっと……『クラサワアリスハオレノモノ』……?」
「ギャアァァッ! ちょ、えっと、誤解です誤解です誤解です! だから絶対怪しい細菌とかぶっ掛けないで下さいッ!」
あのクソホスト猫クソひねくれ猫クソ根暗猫ッ!
次に会ったら、今度こそリオに成敗してもらおう。
◇
――ああ、気まずかった。
まさかあの美少女クラウスの想い人が最低シェイドなんて予想もしてなかった。
というか今の出来事全部を私の悪夢ということで済ませたい。
あの後あの空気に耐え切れずささっと浴槽から逃げ出し、今現在は浴場に隣接する脱衣所にいる。
浴場のドアを開いた時に入り込んでしまったのか、脱衣所には微量だが熱気が漂っていた。
張り巡らされたクリーム色の汚れひとつない壁紙。
大きな鏡と洗面台が設備されていて、部屋の一角には着替えを置くための大きな台。
そしてその台の上にクラウスが自分の普段着ているモノを親切で持ってきてくれたのか、タオルや着替えらしきものが一式用意してあった。
……しかし、ネグリジェとはなんぞや!
私いつも寝る時はジャージかスウェットなんですよ。
だが目の前に置かれているのは、大胆に肩や胸元が出るタイプのネグリジェ。
おまけに至る所に黒レースがあしらってある。
まぁサイズに関しては、お互い身長が約165センチだから大丈夫そうだけど……。
何コレ、勝負服? 違いますよね?
でも脱衣所のどこを見回しても、他に服は置いていない。
いや、あってもクラウスの着替え用だろう。
半場仕方なくという感じでそのネグリジェを装着しタオルで髪の湿気を取り除いて、まだクラウスのいる浴場を後にした。
――あぁ眠いな。
だって実際今の時刻は早朝5時半くらいだよ?
よし、私も客間借りて寝かせてもらおう。
眠い目をこすりながら、慎重に歩を進めていく。
弱弱しく一歩を踏むたびに、フローリングの廊下が小さく軋む。
しかしこの家は迷宮かと思ってしまうほど扉と廊下で張り巡らされている。
このままじゃ脱衣所のドアを開いた目の前に広がる廊下をどう進めばハルに遭遇できるのかさっぱりわからない。
扉。絵画。扉。絵画。扉。
白い廊下の壁は、まさにそれの繰り返し。
「ハルー……どこー……?」
幾手にも分かれた廊下に腹立たしさを覚えながらも、闇雲に右へ左へと曲がってみる。
これはまるで、あの城での恐ろしい逃走劇のデジャヴなようで不快だった。
色んな方向へ自分らしくないすがるような細い声で呼びかけてみる。
すると天の神様どもに願いが通じたのか、不意にパタパタとリズミカルな足音が聞こえてきた。
「ありす、こっちこっち」
声のするほうに身体を向けると、長い長い廊下ではなくすぐ近くに設置された階段の中間らしきところで、ハルが手を振って立っている。
「あぁもう、探したよハル!」
「わりぃ。俺てっきりお前はクラウスと一緒にいるかと思ってたからさ」
「まぁその事はもう良いとして……私も寝たいの。だから客間とかあるなら貸してくれない?」
肩にかけたままのバスタオルを握り締めたまま、階段上のハルに交渉を仕掛けてみた。
だがそれに対して彼は黙り込み、眉間に思いきりシワを寄せる。
何ですか? その顔とても不細工ですよ?
……すると次の瞬間、勢いよく両手をパンッと合わせて頭を軽く下げてきた。
「ありす、その事なんだがスマンッ!」
「い、いきなりなんで謝るのよ!?」
――珍しい。
やがてハルは頭を上げると、少々困り果てた表情を浮かべ私を真っ直ぐ見つめ返した。
……精神年齢低めの帽子屋ハルが素直に謝るということは、何かとてつもない裏があるのでは?
意外な行動に反射的に構えるようなポーズをとり、ハルに向かって強く訝しむような視線を送った。
「ほら、何よ」
「あのさぁ、それがさぁ……一室しか客間の整理してなくて……この家の主として俺的にもすんげぇ悪いとは思ってるんだけど、片付けが済むまで白兎と相部屋でいい?」
ハルの強張った、でもどこか能天気さも含んだ声が耳にじんわりと浸透する。
そしてそれを脳が整理していく。
客間を、白兎と相部屋……あの白兎と相部屋?
ちょっと待て。
「……はあぁッ!? 普通に考えてそんなシチュエーション危なすぎるでしょ!」
「ごめんごめん……でも大丈夫だって! クラウスと俺の持てる力全て注ぎ込んで片付け進めるつもりだし、アイツならエロい事とか多分しないと思うから! 約半日の辛抱って事で」
「エロ……ってそんなダイレクトな表現しないでよ馬鹿!」
「えー」
階段にゆるりと立つ帽子屋に向かって大きく吼えると、彼は掌を返したように態度を変えて手すりに寄りかかりながらあきれた目で私を見返してくる。
それが客人に対する態度か? お前は【良い子のテーブルマナー基礎編】からやり直せッ!
「そんな事言われても変更は出来ないぞ? 本をただせばアポ無しでこんな朝早くから此処に来たお前らが悪いんだ。なら廊下にベッドでも持ってくるか?」
「無茶を言うな」
「じゃあ我慢しろ。ほら大丈夫だって、どうせ数時間寝るだけだろ?」
――こんの、デリカシー無し男め!
徐々に込み上げて来た怒りがポンプのようにせわしく頭に血を昇らせていく。
やがてそれがボルテージマックスに到達した瞬間、肩にかけてあったバスタオルをぐるぐる丸める。
……そしてそのでかいタオル巻きを、甲子園の一流ピッチャーも真っ青なほどの威力をこめてハルの間抜け面めがけて投げつけた。
「くたばれアホハルッ! 地獄に堕ちろ!」
「ぶふぉうッ!」
――倉澤ありす、思春期真っ只中の17歳。
今まで彼氏が出来た回数3回、ただしキス経験は0回。
次回が乙女のピンチとなるか否かは、神のみぞ知る――!
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