III 猫ときどき狼
◇
――真紅の瞳の白兎は、ただただ困惑していた。
ありすとはぐれて、一週間。
一週間一睡もせず国の隅々まで必死で探したというのに彼女は見つからない。
ということは、残すところはあまり調べなかった紅の女王の城の内部。
「騙されたッ……!」
リオは苦悶の表情を浮かべながら白い耳を揺らし、薔薇畑の薔薇を容赦なく踏み潰して、女王の城に向かって全力で走っていた。
リオが力強く一歩踏み込むたびに、踏まれた紅い薔薇の花びらは儚く地へ舞い落ちる。
なんであのとき素直にシェイドを信じてしまったのだろう。
アイツが僕のことを騙すのは、いつもの事だってわかっていたはずなのに。
左手で胸元の懐中時計を開くと、現在午前3時を指している。
仕事中じゃない限り、きっとシェイドは彼のお気に入りの場所の【城20階第3バルコニー】で夜風にあたっているに違いない。
絶対シェイドはありすの居場所を知っている。だから『ありすは城にはいない』と嘘をついたんだ。僕をからかうためだけに!
何としても彼を捕まえて、絶対――絶対問い詰めてありすの居場所を吐かせてやる!
まさかそのバルコニーにありすがいるとも知らず、足に容赦なく絡みつく薔薇を振り切ってリオはただ城に向かって走り続けた。
◇
――猫は、ただただ笑っている。
足がすくんで動くに動けない。
私だけに向けられた彼の真っ直ぐな眼差しが、何故かとても恐ろしくて。
沈黙のバルコニー。後ろには私の胸の位置と同じ高さの塀。
人が来る気配はゼロ。
動いているのは、冷たくて穏やかな風だけ。
シェイドは突然スッと腕を上げ、自分の額に突きつけられた冷たい銃の側面を白い指でそっとなぞる。
――実に奇妙な光景で、最初何をしているのかさっぱりわからなかった。
だが一通りなぞって銃から指を離すと、彼は鼻で笑い、やれやれと言って蒼色の目を細める。
「……リオ・ロザヴォーグって筆記体で彫られてるね。薔薇の装飾もある。ということは、ありす嬢は牢に入るまで白兎と一緒にいたのかな?」
「あっ!」
「あは、実に気に入らないね。リオはね、一週間前俺に会った時、ありす嬢とは他人きどって俺にカマかけてきたんだよ? そんなにありす嬢をひとり占めしたいのかな」
――今の一言は、口元は笑っているけど心から笑っているようには感じ取れなかった。
うそ、リオとシェイドは私が牢に閉じ込められている間、接触していたの?
私が銃を真っ直ぐ構えたまま震える足取りで再び一歩後退すると、なんとシェイドも微笑んだまま一歩足を進めた。
怖い。来ないで。
2歩、3歩と後退していくと、またもやシェイドが2歩、3歩と接近してくる。
どんどん後退しているうちに、ついに背中にドンッと鈍い衝撃が走った。
とても頑丈で固いものが背中に当たり、驚いて銃を構えたまま後ろを振り向く。
……これは、塀?
ということは、私は今バルコニーのギリギリのところまで追いつめられているんだっ!
バルコニーの柵の役割をしているこの塀を飛び越したら、城20階から落ちたことになり人生バッドエンド。
かと言ってシェイドの横をすり抜けて逃げるのは到底不可能。
どうすれば。どうすればいいの。
――カツンッ!
汗ばむ手から、するりと黒い銃が白い地へ滑り落ちた。
あまりに予想外の出来事で、焦り慌てて足元に転がった銃を拾おうと屈みこもうとした瞬間――
――笑みを浮かべるシェイドに、後ろから思いきり抱き締められて、身動きを封じられた。
「きゃっ……!」
やだ、動けない。
上半身が彼の両腕によってしっかりと動きを制限されている。
私が思わずあ然とした表情をしていると、シェイドはいかにもおかしそうにクスクスと笑う。
私の間抜け面のすぐ横に、端整なシェイドの顔。
絶えることなく降り注ぐ月光で照らされた白い塀に、重なり合う私達の黒い影がぼんやりと映った。
今までになかったほど激しく心拍数が急上昇して……酸素が、うまく吸えない!
「俺のこと、怖がらないでよ」
「あー、もう! リオがっ……リオが貴方を見たら殺らなきゃ殺られるって言ってたんだから! 怖がるに決まってるでしょっ!」
「へぇ。じゃあありす嬢はリオの事信じてるの?」
「す、少なくとも貴方よりはねっ! だからどっか行って! 本当に本気で!」
無理無理無理、息がつけない!
これほどの美形にこんな猛烈に抱き締められたことなんか一度もない!
顔が熱い。
心拍数がどんどん大きく波打っていく。
どうした私、落ち着け。私を抱き締めているのは快楽殺人者! 殺されるかもしれないんだって!
だがどんなに必死に心を制御しようとしても高鳴る鼓動が止まらない。
しかも彼の手が胸のすぐ横に回されていて、この異常なドキドキが伝わってしまいそう。
青白い月光に照らされた静かなバルコニーで佇む少女と殺人者。
何も知らない人から見たら、なんとも可笑しな光景。
穏やかに吹いていた風さえもがついに黙り込み、沈黙が流れる。
「ありす嬢、まともに顔見たのは今が初めて。俺的にはすっごい可愛いと思うけど」
「……ま、『まともに顔見た』って言うけど、私、貴方と会うのは初めて!」
「あ、そっか。ありす嬢は知らないんだよね。君は、あのとき眠ってたから」
あのとき?
シェイドはクスクスと笑う。
相変わらず腰と胸の辺りを力強く抱き締められていて、身動きはとれないまま。
顔が。顔が熱い。
私の顔がとにかくシェイドの顔と近くて、彼の息がもう少しで私の耳にかかりそう。
彼の甘い香水の香りが、私の鼻の近くで妖艶に漂っている。
「……ぁ、あのときって、何ッ」
「薔薇の森で寝てたでしょ? しかも色気のない白ジャージ姿で。だからありす嬢が起きてるときに会うのは、今が初めて」
するとシェイドは微笑んだまま、黒いエプロンドレスに一瞬目をやった。
――なんでシェイドが幻の白ジャージのこと知ってるの?
だってあれは、私を薔薇の国へ連れてきた白兎と、私を勝手にエプロンドレスに着替えさせた人物しか知らないワケで……って、あぁ!
「もしかしてシェイドが私の服を勝手に変えたの!?」
「あは、正解」
――このやろ、笑い事じゃない!
複雑に絡まっていた糸がほどけたように、やっと一番の謎が解決したと言うのに何故か気分が釈然としない。
そういえばたしかにそれを踏まえてリオとハルとの今までの会話を振り返ってみると……ハルが【薔薇の森でありすを見つける前に猫の姿を見た】っていうのもつじつまが合う。
……ってそんなことより、ジャージからエプロンドレスに着替えさせられる過程でもしシェイドが目をつぶってくれてなかったら、色々とやばいものを見られたって事になるんじゃないか!?
羞恥心とか色んな感情が富士山の噴火口のごとく湧き上がり、きつく抱きしめられて動きさえ封じられていなければ私は今すぐにでも足元に転がる銃を拾って、このデリカシーゼロの猫男の額に銃弾を乱射していただろう。
するとシェイドは片手だけ私の身体から離すと、怒りと羞恥で真っ赤になった私の顔を楽しそうに見つめ、しまいには顎をつかんでクイッと引き上げた。
もうやだ。泣きたい。今すぐここを離れてしまいたい。
美しい蒼色の瞳はいつまでも私を捕らえて離さない。
私は彼に殺されるの? それとも……一体何をされるの?
彼の指にはまった大量のシルバーの指輪が顎に当たり、ヒヤリとした感覚が全身に走った。
「ねぇ俺ね、ありす嬢のこと、実はすっごい好きなんだよ? ……君が生まれる前から、狂おしいほど本能で求めてた。それはもう、求婚したいくらいに」
「なぁっ!」
「だから心配しなくても俺はありす嬢のことは絶対殺さないし、かと言ってありす嬢に殺されもしないよ。君の心から身体、全てを手に入れるまではね」
「ぁ、しぃっ、白ジャージとピンクの携帯を私に返してさっさと立ち去れえええッ!」
……うん、残念ながらコレが今の私の精一杯の一言!
顔は近いわ速攻殺されるかと思ったら甘い言葉を吐かれるわで心臓の心拍数が限界に達してきた。
殺さないって、信じて良いのかさえもわからない。
男はやっぱり狼だ!
目の前は白い塀。後ろにはシェイド。
銃は地に落ちたまま。拾うにも身動きが取れないので形勢逆転はほぼ不可能。
私の身体はもはや彼のなすがままにされるしかない。
「残念ながら白ジャージも携帯も今ここにないんだよね」
「そんなの見りゃわかるわよ! 早く取って来いって言ってるのッ!」
「それは無理」
「ふ、ふざけないでよ!」
「ふざけてなんかないって……じゃあ仕方ない、代わりにコレをあげる。ありす嬢にジャージ返すまでの担保ってことで」
するとシェイドは私の顎からようやく手を離して自分の黒いスーツの内ポケットを探り、小さな【何か】を取り出す。
――それは神秘的で綺麗な光沢を放つ、白銀の指輪。
「はい、これで我慢して。500万の価値しかない安物の指輪だけど洋服の担保にはなるでしょ」
そう言うと彼は、当然のように私の左手の薬指に指輪を通す。
黙ってその一部始終を見つめていると、はっと我に返った。
「じゃ担保としてありがたくいただく……って馬鹿かお前! 500万は全然安いうちに入らないっ!」
「あれ、そう? 俺の給料3日分くらいの価値しかないんだけど」
この指輪を売れば部屋が半分埋もれるくらい新しいジャージが買えるじゃないか!
驚いた拍子に勢いよく後ろに振り返ると、あまりに突然の行動でビックリしたのか、シェイドは私の身体からやっと両手を離した。
「おっと」
「給料3日分で500万円の指輪が買えるって、一体貴方どんな職業なのよ! あぁホスト!? ホストなの!? うん絶対そう! 顔立ちとか変態度とか合計したらホストしかありえないでしょ!」
「ホストって何? 俺の職業は【薔薇の国の死刑執行担当】だよ」
「そうかやっぱり……って、え?」
――死刑、執行人?
普段じゃ絶対聞かない単語がさらりと彼の口から発せられ、思わず目を見開いた。
彼は今身体から手を離しているから、足元に落ちている銃を拾うには絶好の機会。
だけどなぜか私はその行動を忘れ、ただただ目の前で綺麗な笑みを浮かべるシェイドを見つめていた。
……いや、目をそらすことを許されないような、そんな気がしたから。
バルコニーに再び穏やかな風が吹き始め、月光が踊る。
「薔薇の国の死刑執行人はね、時給10万で24時間勤務、休みは無し。と言っても一ヶ月で多くても5回くらいしか仕事はないよ。まぁ仕事なくても時給は発生するんだけど」
「貴方の給与明細なんかどうでもいいっつーの。死刑執行人って……まさか、人を殺すのが仕事なの?」
――やっぱり油断できない。私はいつ殺されてもおかしくないのかもしれない。
いつの間にかどこかに飛んでいたはずの恐怖が再び私を捕らえ、指一本動かすことすら許さない。
私が力なくふらりと塀に寄りかかるとシェイドもすらりと伸びた足を踏み出し、私の隣へ来て塀にだらりとひじをついた。
隣で微笑を絶やさない彼の繊細な黒髪が、風で細かくなびく。
「人を殺す以外に何の仕事があるの? 死刑執行人は、罪人を処刑するんだよ。さっきも、双子の処刑を済ませてきたんだ」
双 子。
ロゼルと、ロゼッタのこと。
「――! ぁ、あなたロゼルとロゼッタを殺したの!?」
「んー残念ながら、殺してはいないね。だって俺から言わせてもらえば刑は軽いし、アイツ等はまだ12歳だから。半殺しで止めてあげたあ」
塀についたひじで頬杖をつきながらシェイドはこっちには目もくれずにクスクスと笑った。
――歪んでる。なんでさっき人を殺してきたというのに、笑っていられるの。
「はは。俺のこと軽蔑した?」
「……」
「まぁ確かに、この仕事してて良いことはないな。性格歪むし、快楽殺人者なんてあだ名つけられて怖がられるし……大好きなありす嬢にはこうやって嫌がられちゃうからね」
「……」
「無言、か。でもね、俺だって最初は好きでこの仕事始めたわけじゃないんだよ?」
*.+。*.+。*
前任の死刑執行担当が、死んでしまった。
死刑執行人はただひとり。その他にはだれもいなかった。
【では早く次の死刑執行担当を決めなければ】と城の中のトランプ兵達は嘆きの声をあげる。
でもそんな黒い職、誰もやりたがらない。
執行人なんてやったら性格が歪んでしまうと、誰もがそう言って首を横に振る。
だが執行人が決まらなければ、罪人が地下牢に溢れてしまう。
そしてきっと女王陛下はお怒りになり、やがて薔薇の国の平和も崩れてしまう。
決めなければ。決めなければ。
薔薇の国の、城の中で重役につく者達は焦った。だから彼らは【人の意志を尊重する】という一番大切なことを忘れてしまった。
『やだよ! 俺、死刑執行人なんかやりたくない!』
当時わずか15歳だったシェイドは、大勢のトランプ兵が【シェイド・ローゼンラグフォンが次期死刑執行担当に選ばれた】という事を報告するため彼の家に押しかけてきたとき、精一杯の反論の声を彼らへあびせた。
『死刑執行人はな、国で一番ひねくれているお前にしか出来ない。我慢しろチェシャ猫。これはこの薔薇の国の未来のためなんだ』
先陣を切った当時20歳のエースは、まだあどけない面影を残したチェシャ猫に向かって太い声を高らかに響かせる。
『嫌だ! 死刑執行人なんて、俺に出来るはずがないじゃん! ぃ、嫌だああああぁぁ! 離せよぉーッ!』
*.+。*.+。*
「――っていうのが可哀想なシェイド少年の過去のお話。感動した? しないよね」
シェイドは相変わらず塀に頬杖をついたままバルコニーの塀の下に広がる風景を見つめ小さくため息をつき、憂鬱そうな表情を浮かべる。
そんな彼の隣に立つ私はエプロンドレスの端を握って、恐る恐る話しかけた。
「……じゃあその『シェイド少年』は結局、死刑執行人を始めてから殺人の虜になったの?」
「うん。シェイド少年はね、執行人をしているうちにソレが楽しくなってきちゃったんだよ。返り血を浴びるのは嫌いだけど処刑を受けて悶えている人の顔がたまらなく好きらしい。だから今まで死刑執行人をやってきたんだ。あぁなんて可哀想な少年なんだろう」
自分の過去の話なのにまるで他人事のようにそれを語るチェシャ猫の顔は、どことなく切ない。
ふと彼の尻尾に目をやると、ふさふさのピンクと紫の尻尾は力なくぶら下がっていた。
――これは、彼の触れられたくない過去だったの?
気まずくなって思わず彼から目をそらすと、横からさっきとは打って変わった軽快な声が飛んできた。
「んー、じゃあ君の質問タイムはもうおしまい。今度は俺がありす嬢に質問する番だねっ! ありす嬢はリオの事好きなの?」
「えっ……ええぇ!?」
シリアスな雰囲気を思いっきりぶち破る質問がシェイドの口から発せられ、無意識のうちに強張っていた顔の筋肉が一気に緩んだ。
この人、いきなり何を言い出すか想像できないから、さっきからずっと驚かされっぱなし。
そんな私の困ったというような様子を頬杖をついたまま横目でちらりと見て、シェイドは楽しそうにクスクス笑う。
塀にだらりと寄りかかったまま自分の心を落ち着かせ、穏やかな風にあたって気持ちよさそうにあくびをするシェイドに向かって仕方なく口を開いた。
「……まぁ好きだよ、リオは私にとって頼れる人だし」
「そっか。その反応なら良かった」
「は、何が?」
「だって聞いた感じじゃ、ありす嬢のソレはリオに対しての『恋』の感情ではないでしょ? だったら俺にもまだたくさん勝機はあるんだなと思ってね」
するとようやくバルコニーの下から目を離し身体を少しだけ起こして頬杖をつくのをやめた。
やがてシェイドは透き通った蒼色の瞳で再び私のほうを真っ直ぐ見つめ返す。
「ありす嬢のその細くて白い左手の小指から伸びた綺麗な赤い糸。くるくるぐるぐる目には見えない美しい螺旋を描いて、やがて糸が辿り着く先は金髪紅眼の白兎かもしれないけど、もしかしたら俺かもしれない」
「……な、何が言いたいのよ」
「んー、つまりは、恋するなら俺にしとけって事だよ。ありす嬢、君もたまには俺みたいな暗黒の存在にも目を向けなきゃ駄目だよ? 俺は君を裏切らないから」
フッと笑い、そう言いきると何事もなかったかのように再びシェイドはバルコニーの塀にひじをつき、下を覗く。
発言がいちいち唐突過ぎて、いちいちつっこむ気にもなれない。
「俺を選べばね、嫌な思いも悲しい思いもしない。俺は強いから、ありす嬢を守りきる自信あるし」
――ふと視界に入ってきた彼の尻尾はさっきとは変わり、楽しそうに真っ直ぐに伸びて時々右へ左へと揺れた。
今の言葉はロマンチックなのか、それとも自分の好きな言葉を並べてみただけなのかはわからない。
――だけど、何故か少しだけ私の心が揺れてしまった。
脳裏から足元に転がったままのリオの銃の存在が綺麗に消え去り、代わりに何故かシェイドでいっぱいになっていくのに私は全く気づいていなかった。
まだ少し残った恐怖によって震える手を、少しずつ彼の端整な顔へ伸ばし触れようとする。
「シェ……」
「さぁありす嬢、残念ながらついにタイムリミットが来てしまったよ! 俺は一応ありす嬢とふたりっきりで過ごせて満足したから、そろそろ君の王子様の所へ戻って良いからね」
そう言うと彼は笑って私の額にさりげなくキスをして
私の身体を素早くよいしょと抱きかかえ
バルコニーから、ぽいっと投げた。
――そう、【地上20階の第3バルコニー】から。
「ぅ、うそォ……!」
落ちる。落ちる。落ちる。
あまりにも一瞬の出来事。何が起きたのかうまく理解できない。
声を出すこともできず、足掻くことも出来ずに下へと落ちていく私の茶色の瞳には、
月光に照らされピンクの耳を揺らしてクスクス笑う、腹立たしいシェイドの笑った顔が見えた――
|