「理解できない」
「異世界にいきたい」
私にとっては君の頭の中身がそもそも異世界だ。
そう思ったが、彼の言葉に私は単に「そうか」といって頷いただけだった。
「そこに未知の世界があると思っただけでわくわくするよね」
いや、あんまり。私は特に好奇心旺盛というわけではないし、現状特に不満はない。
返事を求める子犬のような視線を感じたので、「そうかもな」ととりあえず答えたまでだ。
「アヤちゃんと行きたいな」
「ああ、行く手段があればな」
そんな手段なんて有るわけがない。あったら世紀の大発明だ。
だからこそ、頭を縦に振った。
まさか、それが事態の引き金になると思わなかった。
そう、私は会話の相手が誰であるのかときちんと考えていなかったのだ。
そういえば天才と馬鹿は紙一重だという言葉があった気がする、と頭の片隅で思ったときには、ことはもう起こってしまった後だった。
ああ、取り返しがつくのなら、数分前の、ウカツなことを言ってしまう直前まで戻りたい。
+ + +
「……ここはどこだ?」
開口一番。私の口から零れたのはお約束どおりの台詞だった。
セオリー、定石。どう書いても同じ。ひねりの欠片もない、よくある台詞だ。
返ってきた言葉は、よくある台詞とは少しだけ言えなかった。主に、発音的な意味で。
「うん、あのね。*▽◇××●だよ」
はい?
「今、どこといった?ァ……?」
「うん、*▽◇××●」
「すまないが、聞き取れない。もっとはっきりいってくれないか?」
日頃、歯切れがいいはずの彼の言葉がイマイチよく聞き取れなかった。
彼はうーん、と困ったように顔をしかめて、もう一度大きく口をあけて言った。
「*▽◇××●」
――――やっぱり、聞き取れなかった。耳がおかしくなったのだろうか。
「んー。アヤちゃんには理解できないのか。残念」
「馬鹿にしてるのか?」
「ううん、違うよ。単純に、動物の言葉を人間が理解できないのと一緒。人間の可聴域にない音なんだな。発音もできないかもしれないや、もしかすると」
「君は何故できるんだ?」
「俺が人とちょっと違うせいじゃない?」
にか、っと彼が笑う。そうすると白い歯が零れて、もともと童顔気味の彼の顔がもっと幼く見えた。
これで20代って詐欺ではなかろうか、詐欺。
実年齢は私よりも年上。しかし、どう見ても年下の男の子に見える。
「笑っていうことか、それは」
笑えない所だろう、そこは。
人と違う。そのせいで彼は排斥され、人に持ち上げられ、人に敬遠され、都合のいい時だけ人に擦り寄られてきたというのに。
「いいんだよ、そのせいでアヤちゃんがずっと傍にいてくれるんだもん」
「いい年した男がもん、とかいうな。首を傾げるな。可愛くみえるのが腹立たしい」
「だって、アヤちゃん、弱いだろ。男らしい人間ダメなのしってる。逆に男でも女でも可愛いタイプに弱いよね。ほっとけないタイプに弱い」
「まさか、そのせいでその外見なのか?」
「ううん、生まれつき。それは弄ってないよ。俺の両親の顔知ってるんだ、遺伝だってわかってるだろ」
さぁ、どうだか。彼の両親が揃って童顔なのは認めるが、彼の場合、手を加えていてもおかしくはない。
例えば若返りの薬。
つい最近までは夢物語だったそれも、彼の手にかかれば現実になる。
彼は今世紀で最大とまで言われた天才なのだそうだ。
残念ながら、普段の会話からはその知能は窺い知れないどころか、小学生と会話しているような脱力感に襲われるのだが、
彼の研究をよく知るものは彼を言葉の限りを尽くして賞賛し、それでいて距離を置く。
理解できないのだそうだ。
彼の作ったものは素晴らしく、人類の発展の為に大いに役立つものになると言う一方で、どういう工程を経てこれができたのか、
理解できないという。
彼自身であれば、条件さえ揃えれば研究結果を再び再現することができる。つまり、偶発的な事象ではないことになる。
ところが、彼の論文にしたがって他人が実行して見ようにも、できないのだ。
彼の指示に従えばできる。ところが、彼の監督下にないところで同じようにしようと思っても再現できない。
研究発表時には多くのものが納得し、理解する。したつもりになる。その瞬間までは。これは妥当である、信頼できる結果だと。
しかしどうだろう、彼とは関係ないところで論文を読んでいると、自分が何を読んでいるのかわからなくなる。
急に見慣れたはずの文字が、まるで理解できなくなるのだ。
文字を読んでいたはずなのに、あたかも絵でも見ているような気分になってしまう。
それがデータであれ、紙に印刷されたものであれ、手書きであれ。
彼の論文を朗読して録音したものもダメだった。
まるでイルカの出す超音波を人間が理解しようとするようなものだった。
発狂した学者すらいた。
彼が作り出したものの効果は疑いようがないのに、その工程を理解する術が他人にはない。
彼を現す言葉があるとしたら、それは「理解できない」だ。
理解できないものを人は排斥したがる傾向になる。
そのくせ、彼の手から生み出されるものは享受したいらしい。なんと浅ましい。
多数の企業、多数の秘密結社、犯罪グループが彼を狙い、彼を諦めた。
理解できないから。
彼を捉えようとしても、彼が望まない限りそれはできない。
不思議な事に「彼」という存在を知覚・認識できなくなる。酷いと、ある種物忘れのようなものにかかってしまう。
世が世なら、魔女として祭り上げられていたのではなかろうか。
あたかも、それは魔法のようだったから。
普通ならできないことをやってのける彼。例えば異世界にひょい、と来てしまう様なことは彼には不可能ではないことだったのだ。
ただ、普通ではない人は代償もそれなりに大きい。そう、彼の周りには人がいない。居つかない――――私以外は。
私は頭を振って余計な思考を振り払った。
直前の、彼の台詞を思い出し、それにコメントを付け加えた。
「今の時代は女は可愛いだけでは生きていけない。ましてや男なんて可愛くても生きていけないぞ」
「アヤちゃんが傍にいてくれるなら生きていけるよ。衣食住はなんとかする」
「なんとか……なぁ。じゃあ、今なんとかしてくれ。その私が発音できないこの場所に、私の生きていける場所はなさそうだ」
太陽が西から昇っている。空に当る部分は真っ白で、雲にあたる部分が青い。
月と思しき輪郭もまた青。
地面はどういう素材で出来ているのか表面はつるつるとしていて、虹色に光っていた。
樹木のようなものは葉が地面に接しており、幹や枝にあたる部分は下に向かって伸び、根が天を仰いでいた。
色はきらきら光っているとしか表現できない。
とても、落ち着けそうになかった。
「目がチカチカする。私はここに長時間いたら気が狂いそうだ。大体、なんでこんな所に何しにきた」
なにもかも、あべこべの世界。
理解できない、まるで彼みたいだ。
「何って。何も?」
ふんわりと笑って彼は首を振った。
嘘だと私は思った。
「何か理由があったんじゃないのか?」
「異世界いきたいっていったじゃない」
「いっていたが、それだけが理由か?」
「未知の世界ってわくわくするよね、といったよ」
「わくわくするかもしれないが、私は落ち着かない」
「アヤちゃんときたいといった」
「何故」
「アヤちゃんときたかったから」
にこり、と彼が笑った。
闇色の光が、辺りを照らしていた。ブラックライトに少し似ている。
ブラックライトのような日光を拝むような経験をすることになるとは思わなかった。
手のひらでその光を受けながら、私は首をかしげる。
光は熱くはなかった。
「……どうして?」
私ときたいと思ったんだ?
瞬きして、彼を見つめた。
「うーん、怒らない?」
「怒らないからいってみろ」
上目遣いでこちらを伺う彼が妙に可愛らしいのに、それが似合っていてやはりムカツク、と私は思った。
「うん、あのね――――」
上目遣いをしながら、甘えたような声で彼が言った。
「俺とアヤちゃんが結婚するなんて、太陽が西から昇るようなことがない限りありえないっていってたから。じゃあ西から上る所にいけばいいのかなって」
えへ、と笑う彼を見て私は頭痛を覚える。
まさか、そんなことで。
私は数日前に「アヤちゃん結婚して」といわれたときのことを思い出した。
ちょうど彼が言った通りの理由で断ったのだ。
彼が理解できなかったからではない。
彼が疎ましいからでもない。
彼の周りには人がいない。彼には選択権がないから、そんな考えに至る。それではいけない。
結婚はできないとおもった。だからありえないと答えた。
「そんな理由で……」
「大事だよ。俺にとっては。一番大事なのはアヤちゃんがずっと俺の側にいてくれるかどうか。世界なんてどうでもいい。アヤちゃんがいるからあの世界にいるようなもんだ。別に場所はどこだっていい。ただ、アヤちゃんがずっと一緒にいてくれるなら、太陽が西から昇ろうが、海の中だろうが、銀河系の別の星だろうが構わない」
「最後から二つは私が死ぬ、やめてくれ」
一般的な地球人であれば、とりあえず後者二つでは生活できないことになっている。
「うん、だからここにきたかったんだ。ここなら、太陽は西から昇るし、呼吸もできる。まぁ、銀河系の別の星であっても、アヤちゃんと暮らせるようにかえてみるのも一興だけどね」
恐ろしい事を言うものだ。
世迷言だと言い切れないから困る。
「私に結婚を承諾させるためにここにきたのか?」
「ありていに言えばそう」
「私が承諾するまで、諦めないのか?」
(――――彼の周りには人がいない。)
「うん、無理強いするのは嫌だけど、気が変わってくれるまでがんばるよ」
「私がいいのか?」
「うん、他の誰でもダメだよ。例え誰が傍にいてくれるといっても、俺はアヤちゃんを選ぶよ」
(――――彼には選択権がないから、そんな考えに至る。それではいけない)
「私が承諾したら、元の世界に戻るのか?」
「どっちでも構わないよ、アヤちゃんが望むようにすればいい。ここでもいつもの世界でもない所に行きたいって言うのならそうする」
(――――結婚はできないとおもった。だからありえないと答えた)
ああ、それなのに、彼は私のどこがそんなにいいのだろう?
理解できなかった。
縋るような眼差しで彼を見つめたら、心の奥底まで見透かしそうな透明な瞳がそこにあった。
「アヤちゃんといたいと俺が思ったから、君はそこにいるんだよ」
彼が大切なものを見るような眼差しで、私を見つめた。
眼差しに心が揺れる。
『彼を捉えようとしても、彼が望まない限りそれはできない』
いつか彼について考えた時の事が頭をよぎった。
私しか彼の傍に居ないのは、彼がそう求めたから?そうなのだろうか?
「私が君の傍にいることを、君は、望むのか?」
「うん」
「そうか」
「うん、そうだよ」
頬を染めて、こくこくと彼が頷いた。それはそれは幸福そうに。
――それで私の心は決まった。
+ + +
彼は本当に、”理解できない”存在だ。
「…わかった。本当に私がいいんだな?」
私にわかるのはたった一つのことだけ。
「勿論」
「私が側にいればいいんだな?」
そのためにはなんでもするつもりだということを。
「うん」
嬉しそうに彼は微笑む。
「わかった。分かったから戻しなさい。元の世界へ」
彼が、心の底から私と共にありたいと願っている事だけは理解できた。
盲目的なまでに、私と共に有りたいと。
やったーと彼が大喜びしていた。
それを見ていると、人生早まっただろうかと思う。
でも仕方ない、こんな変人の面倒を見れるのは私だけだろう。
馬鹿と天才は紙一重。天才と変人は紙一重。
こんな男と付き合えるのも、彼が付き合いたいと思うのも私だけだろう。
だから、最後までつきあってやろうじゃないか。
死が二人を分かつまで。
「ねぇねぇ、新婚旅行はどこにいこうか?深海がいいかな?」
簡単に死が二人を引き裂いてしまいそうだったので、とりあえずそれだけはやめてもらった。