姉さん
今朝は太陽がまぶしい。布団の中で目を閉じていてもそれは礼儀を知らないかのように僕の目をこじ開けようとしてくる。でも僕はそんな光の攻撃に耐えながら布団の中に丸くなろうとしていた。
数週間前の布団の中は暑くて耐えられなかったけど、この季節の朝はほのかに涼しさを感じて二度寝には最適だ。それは夏が去って秋が近づいている証拠なのだろう。
「お坊ちゃま。起きてくださいませ。お嬢様が待たれていますよ」
男の低い声が聞こえる。この声は確か……勝蔵さんだ。朝は店のみんなは忙しいのに迷惑をかけるのは気が引ける。それより、姉さんを待たせたくはないので布団から出た。
着物を羽織ると寒い隙間風が白い肌を撫でるように流れた。うう、寒い朝は嫌いだ。
僕は、昨日と同じ茶色い着物を羽織った。夏用の着物は少し肌寒く、腕を擦りながら下へと降りると甘い香りと水分を含んだ重い空気が一帯を満たしていた。
家は城下町でちょっとは知られた菓子屋だ。小豆の匂いがこの家の朝の香りであり、このにぎわいと言えば綺麗になるが朝の慌てようがこの家の風景だ。生まれた時からこの家を見ていた僕にとってはあたりまえの風景になっていた。
「おはよう。もう、こんなに寝ぐせつけて。わざとやっているでしょ」
濡れた手を拭きながら姉さんが僕に近づいてきた。白い肌に赤い着物が良く似合う僕の大好きな姉さんだ。姉さんはいつも僕の寝ぐせだらけの髪を手櫛で整えてくれる。それもこの家の朝の風景であり、小豆に砂糖を入れる最高の時間と同じだったりもする。この店の餡が美味しいのはこんな秘密があったりする。
「うん。姉さんに撫でてもらいたくて」
「またそんなこと言って、それじゃあ行こうか」
明るい笑顔の姉さんが差し出した手を握って僕達は毎朝の日課の散歩に出た。
僕にとっては朝早くの散歩だが、この城下町にとってはいい時間で仕事はもう始まっていた。
にぎわい始めた町を僕と姉さんは決められた道も時間も目的も持たずただ歩く。初めこの散歩を始めたのは、創作意欲をあげるためだった。
最近では見た目が綺麗な菓子でないと売れなくなってきていて、そのために生き物や植物を模したものを多く作るようになってきた。姉さんはそれが店で一番上手く作れる人だ。だから、姉さんが新作のため外を見てくると言えばみんな暖かく見送ってくれる。それがいつの間にか日課の散歩になっている。
もちろん、姉さんは怠けてばかりではない。時々だが生き物を何時間も眺めて特徴を観察しているだけの日もある。それが姉さんの残り短い仕事だ。
ちなみに、僕の仕事は要の餡の味を見ることだ。僕の舌は店で一番だとかみんな言っているけど、甘い苦いぐらいしか言えない僕にとっては荷の重い仕事だ。僕の餡を姉さんが形にする。それを模してみんなが作る。それが今の店のやり方だ。
「お、菓子屋の嬢ちゃんじゃないか。相変わらず綺麗だねえ」
魚屋のおじさんが姉さんに近づいてきた。おじさんの毎朝の褒め言葉に姉さんは小さく微笑みを見せる。いつもと同じ変わらない風景だ。だが、この風景はもうじき無くなってしまうんだとおじさんは再確認させてくれた。
「嬢ちゃんの結婚の祝いには最高の鯛を用意してやるから楽しみにしていろよ」
そう、姉さんはもうじき結婚する。あとは姉さんがはいと返事をすればその日のうちに式が上げられる所まで来ていた。姉さんが返事を待たせているのは悩んでいるからだ。だが、親父も店のみんなも吉日を待っているだけだと思っている。姉さんが苦しんでいることを知っているのは僕だけだった。姉さんも分かっているだろう。悩んでいるだけだと結果は変わらないのだと。
「魚屋だけにいい顔はさせないよ。綺麗な着物を用意してあるんだからね。早く着たところを見せておくれよ」
「うちだって、今年最高の酒を仕入れてあるんだ。宴会の時は頼んだよ」
「結婚は早めにしてくれよ。嬢ちゃんのために作った花火が湿気ちまう」
姉さんを囲むようにみんな集まってきた。みんな姉さんの結婚を心から楽しみにしていて、みんな姉さんを少しでも喜ばせようと2ヶ月前から頑張ってくれている。
「ええ、みなさん。その時はよろしくお願いしますね」
姉さんの笑顔でのお辞儀を見るとみんな納得したように散り散りになり仕事に戻っていった。
「姉さん。本当に結婚するの」
「ええ……するわよ。……お父様が決めた人ですもの。きっと素敵な人だから」
姉さんは相手の男にあったことが無い。親父達が勝手に決めたのだ。従兄弟達も似たような結婚をしていたから姉さんもそうなるかもしれないと薄々思っていたが、一目も会わず返事をしろとは親父も無茶なことを言う。それだけ絶対に結婚をさせたいのだろう。
「お坊ちゃま、お嬢様。探しましたよ。至急お戻りください」
「勝蔵さん、どうしたのですか。そんなに慌てて」
肩で息をしている勝蔵さんは相当急いでいたようで、前掛けには白い粉がいっぱいついていた。
「そ、それが、旦那様が婿殿を連れてくると。それで、二人には菓子を作って出迎えるようにとのことです」
姉さんの顔は喜びの表情は無く、驚きと戸惑いの表情が混ざっていた。
「そう、なら帰りましょうか」
姉さんは力なく僕の手を引いてくれた。親父に菓子を作ってくれといわれた時、いつも姉さんは笑顔で答えていたのに今回はそうではなかったのが心の内を明かしているようだ。
「姉さん。何を作るの」
僕は何種類もの餡が入った銅鍋の前に立って姉さんの顔を眺めていた。姉さんは菓子を作る時に一番いい顔をする。姉さんは小首を傾げながら笑顔で唸っていた。
「そうね……夏も終りだし青もみじにしましょうか」
「分かった。だったら白餡だね。濃さはどうする」
姉さんは困った顔を見せて笑っていた。困った姉さんの顔も好きだ。
「もう、味のことは分からないこと知っていて言っているんでしょ」
「うん。だって姉さんだもん」
僕は姉さんに笑顔を見せて鍋に向き直った。その味の付けられていない餡に少な目の砂糖と一握りの塩を入れておいた。
「勝蔵さん。もてなしのお茶は冷たい緑茶でお願いします」
「は、はあ。分かりました。坊ちゃんがそういうなら」
勝蔵さんは頭を捻りながらお茶の仕度を始めた。
そして僕は、姉さんを見る仕事に入った。僕の餡を姉さんが形にする。昔はこれがあたりまえでこれ以外になかった。だけど、店が大きくなってからは、僕達が直接菓子を作ることは極端に減った。頑張ったから当然だと親父には言われたけど、楽しみを奪われた姉さんが元気になるのには数年という大きな時間が必要だった。
「で〜きた。ねえ、どうかな」
姉さんが自信満々に見せたのは白と緑の色合いが美しいがまだ本当の紅葉ではない今の季節を感じさせる涼しげな秋だ。それに添えるのは夏最後の爽やかさなお茶。疲れて来るであろう相手に甘くて重い菓子ではなく、控えめな甘さをお茶が綺麗に引かせる。これが、この季節この日この時間での僕なりのもてなしだ。
「うん。いいんじゃない。姉さんらしい」
「お嬢様。旦那様が帰られました。こちらへ」
「分かりました。今行きます」
姉さんは着崩した赤い着物を調え、一つに縛っていた長い髪を広げた。少し癖のある長い髪は姉さんを大きく見せる変わりに姉さんを隠しているようにも見える。
姉さんはお茶と菓子を持って僕の前から消えた。僕は姉さんの作った紅葉をかじりながら長年揺らいでいた決意を固めていた。
「おお、よくやった。さすが我が息子だ」
店に出すための餡の味を見ていたら親父が来た。姉さんが戻ってこないことに不安が過ぎったが、親父の大きな手が頭に乗せられ考えることを無理矢理にやめさせられた。
「あの餡の味。季節を読んだいいものだ。もう舌はわし以上かも知れぬな。どれ、そろそろ小豆を見るか」
「それはいいよ。ところで親父、姉さんはどこ行ったの」
親父は他の餡の味を見ながら頷いて店の人たちに指示をしていた。その間の小さな時間にどうでもよいかのように答えた。
「ああ、後の婿殿と町を見てくると出て行ったぞ」
僕の顔は何一つ変わっていないが、心の中では怒りという感情が熱をだし始めている。姉さんの白い肌は太陽に弱い。だから、外に出ることが好きな姉さんは朝の散歩だけで我慢しているんだ。そんな姉さんを外に連れ出すなんてどれだけ姉さんのことを知らないんだと姉さんの未来が心配になる。
「あのさ親父。頼みがあるんだけど」
菓子がほぼ出揃った頃、俺は親父に心のうちを明かす決心を付けた。
「なんだ。お前の頼みなら何でも聞いてやるぞ。刀が欲しいかそれとも嫁が欲しいのか」
「その……姉さんにもっと菓子を作らせてあげたいんだ」
「何を言い出すと思ったら、作らせてやっているだろう。現に今日だって……だろ」
「違う。そんなお遊びみたいなものじゃないんだ」
柄にもなく大声を出すと親父は驚いていたが、すぐに顔が変わってその顔は小さな苦虫を潰している。でも、僕は思いを語るのを止められない。
「姉さんが菓子を作っている時の顔を親父も知ってるだろ。あの生き生きした表情。それに、姉さんは僕では敵わない芸術の才能を持ってるんだよ。今後、僕の味だけでやっていけるか自信もないし、姉さんの菓子だと自信を持って人様に食べてもらえるんだ。だから、僕は姉さんとこれからも菓子を作りたいんだ」
親父は不精に伸ばした髭を音を立てながら触り唸っている。そして、親父は手を叩くと僕に正座をさせた。
「わが店の心得は覚えているか」
店が大きくなるずっと前、大御爺様が菓子屋を始めた時に菓子職人としての心得のことだ。
「人様の舌と心と思い出に残る自信を持った味。です」
「そうだ。よく覚えていたな」
笑顔の親父が見えた数秒後、厨房が揺れて僕は冷たい地面に頬をぶつけていた。地面から見上げた親父の顔は鬼を思わせるほど赤く恐怖の顔だ。
「自分の菓子の味に自信を持てないだと。貴様、その味を人様に出していたのか!」
しゃがんだ親父は僕の頭に手を載せた。さっきとは違い力が強く伝わってくる。まるで、鷲摑みにされているようだ。
「味だけで人様の心を満たしてみろ。そのためなら何でも手伝ってやるからな」
最後、親父はいつもの優しい顔に戻っていた。だが、遠まわしに味だけにこだわって見た目など気にするな。僕一人で最高の菓子を作れ、姉さんに頼るな。まるで、親父の中には姉さんはもういないかのような台詞に聞こえた。
「ど、どうしたの。怪我してるよ」
しばらくの間、地面に寝そべっていたら姉さんが帰ってきた。姉さんは僕の顔を見るなり駆け寄ってきて僕の頬を撫でた。親父に殴られた頬は優しくて柔らかな姉さんの手でも針のように感じる。その心を読み取られないように笑顔を作ったが、さらに姉さんは心配するだけだ。
「とにかく手当てしなきゃ。ここじゃできないから部屋に行くよ」
姉さんに手を引かれて姉さんの部屋に入れられた。昼の間、日の光が差す僕の部屋とは違い姉さんの部屋は薄暗くひんやりとしている。
「勝蔵さんに聞いたよ。お父様に殴られたんだって、いったい何言ったの。お父様、あんなに溺愛しているのに」
「姉さんと菓子作りを続けたいってお願いしてみたんだ」
一瞬、姉さんの手が止まったけど、すぐに治療に戻った。
「急にどうしてそんなことを言い出したの」
「だって……あんなに楽しそうな姉さん久しぶりに見たんだもん」
すると、姉さんは完全に手を止め僕を見つめてくる。僕は、思いを告げた。
「姉さんだって菓子作りを続けたいんでしょ。このままだと、一生菓子を作れなくなるんだよ」
姉さんは大きなため息を吐き肩の力を抜いた。
「お菓子作りは好きよ。私の作ったお菓子をみんなに食べてもらって笑顔になるのを見るととても嬉しいの」
「だったら」
と、結論を急かす僕の声を姉さんは僕の口元に指を当てて塞いだ。
「でもね。私のワガママのために誰かが傷ついたり悲しんだり辛い思いをして欲しくないの。私のお菓子は人を笑顔で楽しい気持ちにしてくれるものにしたいから。だから、もうこんなことはしないでね」
姉さんの言いたいことは分かりたくないけど分かってしまう。自分のやりたいことを叫ぶことのできない姉さんが可哀想でどうにかしてあげたいとまだ僕の心には残っている。姉さんには秘密なのだけど。
「それにね。もうお菓子を作れないってことはないんだよ。お店では作れないけど、喜ばせたい人のためなら作れるからね」
僕の目には姉さんの笑顔は開き直りにしか見えなかった。
その日の夜。殴られた頬が熱くて眠れない。水を取りに行こうと部屋を出ると、向かいの姉さんの部屋から月の光が漏れていた。その少し開いた戸を閉めようと近づくと、姉さんが一人でお酒を飲んでいた。
「誰かそこにいるの」
少し開いた戸から覗いていた僕と姉さんの目が合ってしまった。僕は、恐る恐る姉さんの部屋へ入った。その部屋は昼間とは違い月の青い光で照らされ日中より明るく感じるほどだ。
「まだ起きていたの」
「頬が熱くて眠れなくて。姉さんこそ、お酒苦手じゃないの」
お猪口にほんの少しだけ入ったお酒を姉さんは舐めている。畳の上にはお銚子が二本転がっている。今、姉さんが持っているものを含めて三本。お猪口一杯で記憶を無くすほど弱い姉さんにしては異常な量だ。
「苦手だよ。でもね、少しでも嫌なことを忘れられたらいいなって思って」
「何かあったの」
聞いてはいけないと分かっている。だけど、今姉さんのことを知っていて心配しているのは僕だけだ。僕は姉さんの全てを知っておかなければならない。姉さんを一人にしてはいけないんだと、妙な使命感がある。
すると、ねえさんはお猪口に残ったお酒を一口で飲み干した。はだけた着物から覗く白い肩はほんのり赤くほてっていた。千鳥足の姉さんは僕に近づこうと歩き出した途端、その場に座り込んでしまった。僕は、崩れるように座り込んだ姉さんの体を支えた。そうしていないと、姉さんは頭を強打して寝てしまいそうだ。
「姉さん。本当に大丈夫」
「一人にされると危ないかな」
僕が姉さんを優しく寝かせると姉さんは僕の顔を見ながらうつろな表情を見せた。
「独り言だから質問されると恥ずかしいな。黙って聞いていてね」
そう言うと姉さんは僕に背を向けて外の月を眺めながら大きな独り言を語り始めた。
「初めて会ったとき、かっこいい人だなって思った。それに、太陽が苦手といった私を何度も心配してくれた優しい人だった」
姉さんが言っているのは今日会った男のことだろう。つまり、第一印象は姉さんにとっていい人だったようだ。
「でもね。その人、私のことは聞いてくれなくてずっとお店のことしか聞いてこないの。儲けはどれくらいだとか、何人働いているのかとか、あの人にとって私はお店との繋がりでしかないのかなって思って」
横になって遠くを見ている瞳の姉さんは僕の手を強く握っている。その握る力が強くなって、姉さんの顔が暗くなっていった。
「そう思うようになると、彼の優しさは演技なのかなって思って。優しく手を引いてくれたり、笑顔を見せてくれたり、体を心配してくれるのも全部嘘なんじゃないかって、私と結婚するための嘘だって思ってしまう」
すると、姉さんは脅えた顔をした。脅える姉さんは僕を引き寄せ抱きしめながら僕の胸に顔を埋めてきた。
「ね、姉さん」
突然抱きしめられそのまま横にされた僕は、戸惑いながら姉さんの甘い香りに魅了されていた。
「怖かったの。彼と結婚したら私はどうなるんだろって。あの偽りの優しさはいつまで続くのだろう。もし、この優しさが終った時、私はどうなるんだろう」
小さくなって僕の胸の中で丸くなった姉さんは、少しずつ眠りに着こうとしてきている。このまま眠ってもらいたい。寝ている間なら辛い現実を忘れられるから。薄れ行く意識の姉さんだけどまだ独り言を続けていた。
「今日の朝まで怖くはなかった。……だけど、また恐怖が戻ってきて……怖いよ。私……何も分からない人と……私を見てくれない人とは……結婚……したくないよ……」
小さな寝息を立てている姉さんの目には少しの涙が輝いていた。今宵、姉さんの心の声を聞くことができそれが本心だとその涙が物語っている。
強く抱きしめられた僕は離れようと動くと、姉さんは少しだけ意識を目覚めさせて涙で潤んだ瞳で僕を見つめた。
「お願い。今夜は一人で寝たくないの。一緒にいて……」
そしてすぐに姉さんの意識はなくなる。まるで寝言のようにも聞こえるが、姉さんの頼みを僕は断ることができなかった。
強く抱きしめられながら寝るのは何年ぶりだろう。姉さんの赤い着物にしわができるなど考えずに眠る僕は昔自由で笑う姉さんの夢を見られることを願っていた。
今何時だろう。暖かで暗く静かな世界だ。朝日が僕の目を覚ませようとしてこない。こんなに暗くて暖かな世界に僕は来たことがない。不思議に思った僕は意識がある目を少し開けてみた。
狭い視界には朝日の差さない涼しい世界とその世界で小さく微笑む姉さんの顔があった。
「おはよう。本当に寝ぐせ酷いんだね」
温かい朝を迎えた理由が分かった。僕は姉さんに優しく抱きしめられていて僕は姉さんの胸の中で寝ていたのだ。姉さんの心臓の音が聞こえる。姉さんは僕の頭を手櫛で整えてくれている。
「二人そろって寝坊しちゃったね」
「姉さん。今何時なの」
「朝の散歩が終っているころかしらね」
姉さんがクスクスと笑っている。朝から姉さんの笑顔を見られて僕は幸せな気持ちが芽生えていた。
「お嬢様、坊ちゃま。起きてください。旦那様がお呼びですよ」
勝蔵さんの声で夢心地だった世界から現実の世界へと叩き落された気分だ。
もう少し夢心地に居たかったが、現実に戻ると焦りが出て来た。今の僕は姉さんに抱かれていてもし、この光景を誰かに見られたら……。背中に冷たい汗が流れて僕は飛び跳ねるように姉さんから離れて立ち上がった。
「どうしたの急に。それに、顔赤いよ」
赤い着物がはだけた姉さんは不思議そうな顔で僕を見ていた。僕はその姉さんの顔を直視できず目を背けてしまった。
「そ、それより、早く行こうよ。親父に怒られるよ」
僕はほんのり冷たい姉さんの手を引いて厨房へと向った。
姉さんの部屋を出てから薄々気付いていたけど、厨房に来て核心に変わった。この家の朝の匂い、小豆や砂糖の香りがしないのだ。いつもはみんなが忙しそうに動いている厨房は静まり返っていて水の落ちる音が響くぐらいだ。
厨房の変わりに家中の部屋がにぎわっていた。いつもは菓子に向かって必死なみんなが笑顔で楽しそうに家中の部屋を掃除しているのだ。盆や年末でもないのに家中の掃除をしている光景は見慣れないもので、何かいつもとは違うことが起きることを予告しているように僕には見えた。
「お二人とも、こちらですよ」
勝蔵さんに呼ばれた僕達は親父の前に座らされた。朝から親父に呼ばれることも珍しいことでこれも何かの前触れかと思わされていた。
「二人とも、今朝は遅い目覚めだったな」
「昨夜、二人で遅くまで話していたものですから」
姉さんが大事な所を省いて理由を説明した。すると、親父は銜えていた煙管と叩くと小さく頷いた。これで話が終ればよいのにと僕は何度も心の中で呟いていた。だけど、今の質問はただの挨拶代わりであって本題ではない。それは親父の表情からしてもよく分かる。
「そうか。それでだな。急な話だが、昨日婿殿が来ただろ。その時、婿殿が気に入ってしまってな、今日中にも返事が聞きたいといってきてな」
「返事……ですか」
このいつもと違う朝はそれを予告していたのだろう。それも、この様子だと姉さんに出せる答えは一つしか用意されていないかのようだ。
「もちろん。お前が嫌だといえばそれまでの話だがな。その時は新しい婿殿を探してやる。お前もいい年だ良く考えろよ」
優しい表情の親父だが、見えない重圧で姉さんを追い込んでいるように僕には見える。
それに、ここで姉さんが拒んでも親父がうんと言わせるだろう。家の中の空気は今夜にも式を挙げそうな空気になっていた。こんな状況まで追い込まれて優しい姉さんが素直になれるはずがないと僕は分かっていた。
「私……します」
姉さんの小さな声は親父や聞き耳を立てている店のみんなには聞こえなかったようだが、隣で強ばりながら座っていた僕には遅れて目覚めてきたセミの鳴き声より大きく聞こえて脳裏に響いていた。
「聞こえないな」
親父は聞き入れる答えは一つしかないくせに姉さんに再度言いたくない言葉を言わせようとしていた。
「私、あの人と結婚します」
俯いたまま半分やけになったかのように叫んだ姉さんの顔は長い髪で見えなかった。だけど、滴が落ちるのだけは見えた。
「そうかそうか。それなら急がなければな、今日は店を休みにして祝いの準備だな」
親父は然も今思いついたかのように、にこやかに店のみんなに指示をしだした。店のみんなも喜びながら酒を片手に準備を始めだした。
「それなら、婿殿に挨拶をしに行かなければな」
親父は忙しそうに立ち上がるが、姉さんは僕の予想していた表情を覆すほどの笑顔を親父に見せて首を振った。
「お父様。最後のワガママを聞いていただけますか」
最後も何も姉さんはワガママや甘えたりしたことがない。そんな姉さんの急な申し出に親父も驚いていたが、娘にはじめて甘えてもらえて嬉しかったのだろう今日で一番の笑顔だ。
「おう、なんだなんだ。着たい着物でもあるのか」
「式や宴は明日にしてもらえないでしょうか。今日一日だけ自由をください」
姉さんの頼みに舞い上がっていた親父や店のみんなも凍りついたかのように止まった。だが、すぐにみんなにこやか表情に戻った。
「ああ、それぐらいならいいぞ。長い間待っていたんだ一日ぐらいいいだろう」
そして、みんな僕達の周りからいなくなっていった。僕と姉さんを残して周りの世界は早い時間と速度で回っている。この世界の主役は一体誰なのだろう。姉さんの世界で姉さんは取り残されているのではないかと、僕は隣で表情を変えることなく一点を見つめる姉さんを見てそう思った。
「遅くなったけど、お散歩に行きましょうか」
姉さんが喜びも怒りも哀しみも楽しそうな表情も何もない無気力な表情で僕に手を差し出した。僕はその手を取り遅くなった散歩に出た。何もかもが少し変わった世界は僕と姉さんにいつもとは違う世界を見せることになっていた。
「嬢ちゃんおめでとう」
「おお、この日が待ち遠しかったぞ」
「明日だって、最高の日にしてやるからな」
姉さんが無理矢理の返事をしてから間もないのに城下町は姉さんの結婚で持ちきりだ。会う人会う人に祝福された姉さんは笑みを見せることなく祝福の言葉の中をただ呆然と歩き続けている。僕はそんな姉さんについていくだけだ。
すると、姉さんは急に止まり木陰に入り木を見上げ始めた。夏は過ぎたのに日差しが強くて姉さんには辛い時間帯だろう。休憩のつもりで木陰に入ったのだと思ったが、姉さんが見つめる先には季節遅れのセミがいた。あちこちでセミの鳴き声は聞こえるけど、真夏ほどの賑わいではない。その薄い鳴き声の一つが姉さんと僕の目の前で鳴いていた。
「セミってどうして鳴くと思う」
ただセミを見ていた姉さんが僕に聞いてきた。あまりにもいきなりで小さな声だったから独り言だと思うほどだ。それに、姉さんは僕に振り返ることもなくずっとセミを見ていた。
「姉さんは知っているの」
質問に質問で返すといつもの姉さんならそれ答えになってないと怒り出す。だけど、今日の姉さんはいつもの姉さんと違った。僕の答えなど聞いていないかのように独り言のような話を続けていた。
「私も知らない。だけど、一生懸命に鳴いているのは分かるかな」
姉さんに言われてもう一度セミを見てみた。見た目、目では分からないが耳に聞こえるセミの声は誰のためか何のためか分からないがセミが全身で鳴いているのだけ伝わってくる。誰かが聞いてくれるわけでもなく、誰かが答えてくれるわけでもないのに彼は僕達の目の前で鳴き続けていた。
「彼は必死になって何を叫んでいるんだろうね。友達を呼んでいるのかな。それとも、歌っているのかな」
姉さんはまるで目の前のセミが答えてくれると思っているかのように優しく問いかけていた。
だけど、その姉さんの表情は無表情なもので生命を感じないものだった。問いに答えてもらえることもなく姉さんはセミに問いかけ続ける。
「何を叫んでいるか分からないけど、君は全力で生きているのかな。君が叫びたいことをその喉がかれるまで叫ぶことができるのかな。それは羨ましいことだね」
姉さんとセミを見つめ続けていると、セミの鳴き声が聞こえなくなってきた。途切れ途切れで弱くなってゆく鳴き声は最後には止まった。
さっきまで煩いと言いたくなるほど聞こえていた声が止まったのだ。すると、姉さんはセミにそっと手を伸ばした。だが、姉さんが手を触れる前にセミは木から落ちて姉さんの足元に白い腹を見せて動かなくなっていた。
姉さんはその場にしゃがみ動かなくなったセミを凝視しだした。セミに触れようとはしていないが、変わらない無表情でそれを見つめていた。
「君は満足したのかな。誰にも答えてもらえてもらえなかったけど、自分の言いたいことを大声で言えて君は一生を満足できたのかな」
姉さんは地面にその白い手で穴を掘ってセミを埋めた。いつにない姉さんの行動で話しかけたいけど、その背中から漂ういつもと違う空気は話しかける勇気をそぎとるほどだ。
「彼は本当に羨ましいな」
「どうして、死んじゃったんだよ」
姉さんの本当に羨ましそうな声に僕はつい聞いてしまった。姉さんがセミと同じ結末を望んでいるのではないかと頭を過ぎったのは言葉を吐いてからだ。でも、姉さんは表情の薄い顔を見せて僕の不安を断ち切ってくれた。
「そうじゃないよ。確かに、私たち人間より短い一生だったかもしれない。だけど、彼はあんなに大きな声で叫んでいたんだよ。私はここにいるよ。私を見てって、それができるなら短い一生でも満足できるのかなって思ったの」
姉さんの言いたいことを読み取ろうとしたが、嫌な予感しか出てこなかった。かと言って、このまま姉さんを一人にして良いものかとも悩んだ。だが、考えているうちに姉さんは先に行ってしまって、僕は答えを知ることができずそれについていくしかなかった。
またしばらく歩いて姉さんはまたピタリと止まった。今度は小川の側で大きな桶を何個も並べたおじさんの前だ。おじさんは小川に少しずつ桶から何か流し捨てていた。姉さんはしゃがんで桶の中を見ているようだ。僕も姉さんの横にしゃがむとその中には赤い金魚が沢山いた。
「おじさん。金魚を逃がしているんですか」
姉さんは力がない声でおじさんに聞いた。すると、おじさんは少し振り向いてすぐに前に向き直った。一瞬見せた表情は暗いもので姉さんの表情に似ていた。
「そうだよ。欲しかったら持っていっていいよ」
それだけ言うとおじさんは次の桶に手をかけていた。桶の中には沢山の金魚がいてその桶も沢山あった。緩やかな流れの小川には逃がされたばかりの金魚が流されずその場に何匹も漂っている。
「どうして逃がしているんですか。おじさんが育てたんですよね」
僕が聞くと、おじさんは肩を動かしてため息を吐いていた。そして、桶を傾いていた手を休め僕達の方を振り向いた。
「もう、金魚の時季も過ぎたし、これから寒くなるだろ。金魚の餌もタダじゃねぇ。金をかけて冬を越させるより、来年新しく仕入れたほうが安上がりなんだよ」
「逃がすなんて悲しくないですか。せっかく育てたのに……」
すると、おじさんは薄く笑って桶を傾け始めた。
「そりゃあ悲しいさ。金をかけて育てたのに一文にもならねえ。持っていても金がかかるだけなら、一人で生きていって欲しいってもんだ。そうすれば、何処で何しようと俺には関係ない話だからな」
おじさんのその台詞を聞いて姉さんは黙って立ち上がり歩き出した。無表情で感情が薄い今の姉さんでも今の話は癇に障ったのだろうか。僕は急ぎ足で姉さんの隣に並んだ。どんな感情かは知らないが、家を出てからの無表情無感情の姉さんよりかはいい。どんな顔をしているのか楽しみにしながら微笑を隠しきれずに姉さんの顔を覗いた。だが、姉さんの表情は何も無く、その瞳にも光は無く遠くを見つめていた。
「怒っていたんじゃないの」
「どうして怒るの」
僕を見つめる姉さんの瞳は生気を感じず、作り物のようで恐怖すらあった。こんな姉さんは見たことが無い。僕の大好きないつもの姉さんではないようだ。
「だって、おじさんが酷いこと言ったから怒っているんじゃないかって思って」
すると姉さんは隣を流れる小川を横目で見た。僕もそれにつられて小川を見た。そこには小川には不似合いな赤い金魚が次々と流れてきていた。おじさんが川上で逃がしていた金魚だろう。
「彼たちは何を思って親の元を離れたのかな。怒り、喜び、悲しみ、それとも……なんだと思う?」
姉さんの言う彼たちとは金魚のことだろう。僕は留まることなく小川を泳いでくる金魚を姉さんとしゃがみこんで見つめながら考えた。
「自分の都合で追い出されておじさんに怒りをもっていると思うよ」
僕の意見を聞いても姉さんは小さく呟いただけで、端から聞くつもりは無いかのような態様しか見せてくれなかった。
「そうね、そう思っている子もいるかもしれないね。でも私は、ほとんどの子は感謝していると思うな」
姉さんは小川に指先を入れて流れをその指先で感じていた。その白い姉さんの指の間を金魚が縫って泳いでいる。
「たとえ、お金のために育てられたとしても、自分を育ててくれた人。親の望みに答えられるのが子供の最高の親孝行だと思う。もし、答えられなくて親から見放されても、親を怨むのは間違っていると思う。見放されたなら親に育てられたその命、親にそそがれた思いを無駄にしないように一生懸命に生きていくのが子供の役目だと思うの」
そして、姉さんは立ち上がり空を見上げた。その空はこの季節にしては青く日差しの強い空だった。
「これが最後の散歩になるのかな」
僕の方を振り向いた姉さんは微笑んでいた。その微笑みは姉さんのものではなく無理したものだと痛いほど分かる。その微笑みは僕の全身を針が刺されるほど痛いものだった。
「ねぇ、お菓子でも作らない」
姉さんはそう言って僕の返事など聞かず家へと足を向けた。
「姉さん。何を作るの」
厨房に入って髪を一まとめにした姉さんは静かで綺麗な厨房を見渡しながら最後に俺の目にあわせた。
「お題決めてよ。何でも作るよ」
いつもは姉さんが閃いたら菓子を作る。だけど、今回は僕に作るものを決めて欲しいそうだ。姉さんに作ってもらいたい菓子。普通なら季節物や生き物など言うのだが、僕の中にできたお題は例を見ないものだ。だけど、いまの姉さんに一番作ってもらいたい菓子かもしれない。
「姉さんの本心を形にしたもの。お願いできるかな」
すると、姉さんは再び厨房を見渡して目を閉じてコクリと頷いた。
姉さんは赤と黄色の着色をした餡を混ぜながら小さく丸めていた。そして、次には寒天を水に溶かし始めた。真夏には良く使った寒天だが、秋が近づき始めたこのごろは主役として使われてはいない物だ。
そして、姉さんが出してきたのは華やかな大皿だ。姉さんが両腕を一杯に広げても持てないぐらい大きな皿だ。菓子を盛るにしては大きすぎるものだった。すると、姉さんは小さく分けた餡を形にしていった。橙色の小さな餡の玉は姉さんの手の中で命を吹き込まれていまにも泳ぎだしそうな金魚が作り出された。
そして、大皿に寒天を注いである程度固めたあと、作った金魚を大皿に並べはじめた。まるで、初めからどこに置かれるか決められていたかのように全体を見ても絵になっていた。その池の中には金魚たちだけの世界があるかのようだ。
「できたよ。はい」
姉さんに渡されたのは大皿ではなく、無地の皿に一匹の金魚が入ったものだ。食べやすいように取り分けてくれたのか思ったが、大皿の池の世界に欠けた部分はない。
「この大皿は何」
「秘密。この一匹の金魚が私の本当の気持ち」
姉さんにその小皿を渡されて僕はその金魚を見つめていた。姉さんが片付けをしている間ずっと考えたけど、僕の望んだ姉さんの本心が聞こえてこなかった。金魚、姉さんは金魚になろうとしているのだろうか。
髪をほどいた姉さんの顔や背中にも生気はなかった。菓子作りをすれば前みたいに明るくて笑顔の姉さんが見られると思っていた。だけど、作っている時も完成した時もずっと同じ表情同じ空気で変わることは無かった。
片づけを済ませた姉さんは無言で部屋へ入ろうとしていた。その姉さんの影はもう掴むことができないかのように見え僕は焦った。そして、僕は考える時間を省き、姉さんを引き止めるための言葉を吐いた。
「どうして金魚なの。どうしてセミじゃないの」
柱の向こうに消えそうな姉さんの顔は見えないが、暗く小さい声だけは静かな厨房に煩いほど響いた。
「愛を注いでくれた人がいる。なのに、私欲ために命を絶つわけにはいかない……でしょ」
そして、姉さんは響く声がなくなると共に僕の前から消えた。
そうか、そうだったんだ。姉さん、ようやく素直になってくれたね。分かったよ。姉さんが望んでいたこと。そして、僕のすること。
今夜は満月のようだ。外は金色の月が輝く明るい夜だ。そんな月だと気付くことなく外では親父や店のみんな、さらには町中の人や遠い親戚まで集まってお祭り騒ぎで宴会をしていた。
この騒ぎの原因は聞くまででもないが、その主役がいないのにここまで騒いでいるみんなを見るとそのことを忘れそうになる。
その騒ぎの中心にいたのは主役以上に舞い上がった親父だ。親父は一升瓶を片手に騒いでいて、勝蔵さんは親父を止めようとしていたが止められることもなく騒いでいた。そこにいるみんなは親父の全身から溢れる喜びを分けてもらったかのようにその親父を微笑ましく見守っていた。今の親父に説教したり止めたりするのは無粋というものだろう。
親父の隣に立った僕を見て親父はさらに嬉しそうに笑った。
「いい夜だ。お前も飲むか」
酔った親父は僕に一升瓶の口を向けた。だが、僕は首を振って親父を誘った。
「それより親父に頼みがあるんだが聞いてくれるか」
「なんだ。今夜は機嫌がいいから何でも聞いてやるぞ」
「実は、姉さんに僕の作れる最高の菓子を食べさせてあげたいんだ。だから、小豆と砂糖の選び方を教えくれませんか」
そういうと、親父は強く握っていた一升瓶を落として立ち上がり俺の手を取った。
「おう、もちろんだ。教えてやる今すぐ教えてやる」
「旦那様。相当酔っていられるようです。教えるのは明日にしては……」
勝蔵さんが止めに入ったが、親父は止まらなかった。
「息子の頼みを断る親がいるか。さあ、行くぞ」
「では、せめてお供させていただきます」
僕と親父の後ろに勝蔵さんがお供をしながら蔵へと向った。
敷地の端にある食材の蔵は宴会騒ぎの空気をまったく感じさせない。日の昇る日中でも日光が差さない暗くて涼しい所だ。
その季節その日その時間に使う砂糖と小豆を選ぶのは店の当主の役目であり、それ以外に誰にもさせないのだ。僕が見極めさせて欲しいと言った裏には、店を継がせて欲しいというのと同じ意味があったのだ。
蔵の一階は店の人も入って砂糖と小豆以外は親父の指示で取ってくる。だが、この二つだけは二階にあり、親父しか入れないことになっていた。
親父は千鳥足で階段を登り始めた。
「旦那様。危険ですからお供させてください」
「ふざけたことを言うな。長い付き合いだ。それを侵してはならないと良く知っているだろう。ささ、行くぞ」
勝蔵さんを一括した親父は僕ににこやかな顔を見せて二階へと上がった。
二階には何種類もの小豆と何種類もの砂糖が並んでいた。生まれて初めて見る蔵の二階は菓子作りの重圧を含んでいるようで心地の良い所ではなかった。
何種類もある小豆たちには目もくれず、親父は部屋の一番奥へと導いた。そこには黒い漆塗りの箱に入った小豆と砂糖があった。貯蔵用にしては少量すぎて、精々10人分の菓子を作れるのが関の山の量だ。
「それにしても今宵は本当によい日だ」
親父は小豆をいとおしそうに撫でていた。その小豆には傷一つ無く鮮やかな色をしていて、砂糖も白く雪のようで、一目で特別高級なものだと分かった。
「姉さんが結婚するからですか」
「それもそうだが、お前の申し出があったからな。いい日だ。子供の成長を一度に味わったかのようだな」
親父は砂糖と小豆が入った箱を抱えると下へ降りるために階段へと向かった。少量だがかなり重いようで、親父の足は右へ左へと踊っていた。
「危ないから僕が持とうか」
「いやいい。これは、わしの手で厨房へ持っていく」
僕に背を向けた親父は階段へと足をかけ始めた。とても危なっかしく下で待っている勝蔵さんも慌てているようだ。勝蔵さんが階段へ足をかけようとすると、親父の激怒した声が聞こえる。
一歩目を踏み出した親父に僕は声を掛けた。ここならまだ勝蔵さんには見えないし聞こえないところだからだ。
「親父、僕のことどう思っているの」
親父は、首だけで振り向くと優しい顔を見せた。
「お前は家の大切な後継ぎだ。それに、お前ならわしよりいい菓子が作れて店をさらに有名にできると確信している。お前には量りきれないほどの期待をしているぞ」
「それなら、姉さんはどう思っていたの」
すると、少し曇った表情をした親父は口元で小さく微笑んだ。
「店のために頑張ってくれたことには感謝している。だが、奴は所詮そこまでだ。どんなに尽くしてくれようと、いつかは必ず店からいなくなる。そんな奴に店を任せるような期待はできない。そう思うだろ」
「そう……やっぱりね」
僕は二歩目を踏み出した親父の背中を軽く押した。すると、親父は音を立てながら階段を転げ落ちていった。
勝蔵さんが上手く受け止めたようだが、親父は頭から血を流して一人では立てそうに無いぐらい足が曲がっていた。だが、あの黒い箱は傷つけないように抱え込んで守っていた。
僕が親父のそばまで駆け寄った。すると、親父は震える腕でその箱を僕に渡した。
そして、慌てて何を言っているか分からない勝蔵さんをなだめると、震える声で僕に言った。
「だ、だがな。奴はわしの可愛い娘だ。み、店に埋まらず、外で最高の、人生を送らせてやりたい。菓子のことしか、考えていなかった、あの子を、菓子のことも、店のことも、か、考えずに、幸せにしてやりたい。わ、わしは、あの子の、父親だからな」
全身が痛むようで動こうとしない。だが、意識ははっきりとしていた。
「こ、これは、わしが選んだ、最高の小豆と、砂糖だ。これを、お前が、最高の菓子に、仕上げてくれ。ふ……わしは、不器用なのだろうかな」
今の騒ぎを聞きつけた多くの人が親父を抱えて蔵から出て行った。まるで、突風が吹いてみんな連れて行ったかのように蔵の中は静かになった。
「だからなんだよ。親父も……言うのが遅いんだよ」
僕はまだ必要ではないだろうと黒い箱を蔵の隅に戻して姉さんの部屋へ向った。
姉さんの部屋を覗くと、姉さんは外に浮かぶ金色の満月を見上げていた。表情は分からないけど、その後姿は切なそうに僕には見えた。
「そこにいるなら入ってきたら」
振り向いてもいないのに姉さんは僕がいることに気づいた。僕は、顔が熱くなって姉さんの部屋に静かに入った。
「親父が大怪我した」
「知ってる。騒ぎはここまで聞こえたから」
姉さんの部屋の窓から見える外の世界は、静かな美しい夜の景色なのに聞こえてくるのは騒ぎ声だ。その騒ぎの中に旦那様とか血とか怪我とかそれを連想させる言葉が飛び交っていた。
「これで、明日結婚できないね」
「そうね。年明けまでできないでしょうね」
親父が大怪我をしたと聞いても姉さんは驚きも心配もしていないかの雰囲気だ。
「まだ考え直せるよ。姉さんは本当に結婚したいの」
姉さんは僕の質問に答えることなく床に横になった。薄手の布を敷いただけの寝る場所だと主張しただけのその上で姉さんは僕に背を向けて大人しくなった。
「姉さん答えてよ。姉さんは本当に」
「ねえ、もう遅いから寝ない」
「答えを聞かせてもらうまで僕この部屋を出ないよ」
強気に出ると姉さんは上半身だけを起こして無表情の表情を見せた。そして、自分の隣を叩いて、僕にそこにくるよう指示した。
姉さんに言われるまま薄布の上に横になると、姉さんも向かい合って横になった。目の前にある大好きな姉さんの顔は無表情で作られたような表情のままだ。
「結婚……ねぇ。……どうしてそこまで反対するの」
「姉さんは本当の気持ちで結婚したいって言っていっているの」
「もちろん。そのつもりよ」
「嘘だ。じゃあ、あの日のあの言葉はなんだったんだよ」
あの日、初めて男と会ったあの日の夜。姉さんは結婚したくないと呟いていた。僕はその時泣いていた姉さんを救いたくてここまでやったんだ。
「どうして……どうして……どうして、そこまで悩ませるの」
無表情の姉さんだが、少し落ち込んだような色を表情に含ませて姉さんは呟いた。
「な、悩ませるなんて……僕はただ」
ただ、姉さんのことを思ってやったんだ。自分では本心を語れない姉さんのために僕はただ手助けをしていただけだ。
「ねえ、金魚の気持ちを知っているかな」
金魚、それは散歩の時に見たものか姉さんが作った方だろうか。どちらにしても、金魚とは姉さんのことだ。
「金魚はね。今までいた世界には危険はないし食べ物も与えられていた。だけどね、何も分からない世界に出された金魚は怖いんだよ。だから、旅にでる勇気が出なかった。でもね、おじさんに感謝して、期待に答えようと勇気を出して小川を下ったんだよ。その勇気、決意を無駄にしようと子供が手を差し出してきた。その手に捕まれば望んでいた生活が来るかもしれない。そう思ってしまうと、金魚の決意は揺らいでしまう。そんなことして金魚の決意を揺らがせるようなことはしないでよね。悩んで、悩んで、悩んで出した答えだからね。例え、その決意が間違っていても、自分で出した答えなら満足できると思うよ。私は」
そう語った姉さんは目を閉じた。
僕は何も知らなかった。
姉さんの気持ち、聞かなきゃ良かった。
二人とも語らなくても分かっていた。
僕だけが二人の間で踊っていた。
そうだ。僕だけが踊って騒いで僕だけが……。
明日の朝決めよう。姉さんの決意を聞いた僕の決意を。
翌朝。僕は肌寒い思いをしながら目を覚ました。昨日の朝とは違い、隙間風が僕の白い肌を撫でてゆく。僕の目は閉じたままだけど、僕の状況ぐらいそれで十分分かった。唯一温もりを感じるのは左手だけだった。
うっすらと目を開けると、僕の左手を握った姉さんが横になったまま目を開けて隣にいた。昨日の朝は僕を抱きしめて笑顔で見つめていた姉さんが、今は無表情で遠くの方を見ていた。まるで、僕など隣にいないかのような表情だ。
握られた左手に少し力を入れるが、姉さんは魂を抜かれたかのように天井の向こうを見ているかのような目をしていた。
その時、分かったんだ。 僕は、姉さんの瞳の中にはいなかったのだって。姉さんのあの笑顔も声も優しさも全て僕が弟だから注がれたものだって。
そりゃあそうだよな。普通の男にならともかく、ただの弟に結婚を引き止められても何とも感じないよな。それどころか、迷惑……それを通り越して邪魔なだけだよな。
少しでも僕を必要としてくれていたのなら、あんな瞳で遠くを見つめてなんか無いよな。僕が普通の男だったら、あの姉さんのことだ少しぐらい助けてって言ってくるだろうに。
姉さん。ごめんなさい。助けようと思っていたけど、苦しめていたのは僕だったんだね。
町一番大きな川に掛かった大橋に足を放り出して座った僕は、人がいないことを確認して川の中に飛び込んだ。
流れが速くてもう起き上がることができない。これでよかったんだよな。姉さんにとって邪魔な奴はみんな無くなればいいんだよね。例外なんて無いよ。だって、僕の姉さんを苦しめているんだから。
水の流れる音と、昇り始めた朝日が川の水の中でも美しいほど感じ取れる。
苦しいを超えて何も感じない。心地良さすら感じるようになった時、僕の耳にセミの鳴き声が聞こえてきた。
ああ、姉さんの言うとおりだ。彼らが羨ましい。自分の思いを命を削りながら叫んでいる。
僕も、心にあった姉さんの思い。叫ぶことができればよかった。
姉さん。愛しています。