3年間暮らした街を旅立ってから徒歩で10日間。
戦場となったグライアル平原を越え、ラッセル山道を越えて、ようやくカトランジェの街に到着した。
その道中、石畳で舗装された道がかなり破壊されていたのは仕方のないことだろう、何しろ2年前に終結した戦争では、セフィロト軍がこの街道を通って王都に向かったはずだから。
それでも、その沿線にあるカトランジェは思ったほどの被害が見られずほっとした。
「……なんだか、懐かしいな」
ラッセル山道の途中からカトランジェを見下ろし、思わずぽつりと呟いた。
しかし、隣で相変わらず不機嫌そうな顔をしたアレイさんは何の返答もしてくれなかった。
それが不満で頬を膨らますと、彼は呆れたような溜息をついてくしゃりと髪をなでてくれた。紫の瞳には優しい光が灯っていた。
「とりあえず急ごう。日暮れが近付いている」
「うん」
今日中に、ねえちゃんに会いたいから。
二人そろって再び歩を進めた。
秋も終りに近づいた夕刻の、ひやりとした風が頬にかかる髪を揺らした。
街はずれの森の中、静かにたたずむ教会は世間より葬り去られてから既に20年以上の時が過ぎているのだ。閑散とした前庭に人の気配はない。
深い森の中で絶海の孤島のようにポツリと浮かぶそれは蔦の巻く乳白色の壁と灰色の屋根、銀色の大きな十字架とを抱く小ぢんまりとした建物だった。前面に取り付けられた色とりどりのステンドグラスは6枚羽根の天使をモチーフにしており、職人の技術と想いが存分に込められた逸品だ。
自分にとってここは懐かしい場所だ。あの銀髪のヒトと会った日も、初めてゲブラと会った時も、天使崇拝の歴史を知った時も――
その教会の裏手、少し開けた野原に一つ墓標が立っている。
「ああ……」
思わず声が漏れた。
墓標に駆け寄って跪く。
刻まれた名を、読み上げた。
「……ミーナ=ファウスト」
本名を刻まなかったのは、セフィロト軍に発見されたときのことを思ってだろう。
少し遅れて追いついたアレイさんも、すっと膝を折った。
「ねえさん」
戸惑うような彼の声は、死を思い出した悲しみとも、再会できた喜びともつかぬ響きを纏っていた。
「やっと……会えたよ、アレイさん。ねえちゃんに、会えたよ……」
「そうだな」
彼がそう言って肩を抱いてくれた時にはもう限界だった。
堰を切ったように涙が溢れ出し、おれは大きな声をあげて泣いた。
まるで、生まれたままの赤子のように。
ねえちゃんにたくさんのことを報告した。
戦争に負けたこと。死にかけたこと。記憶をなくして、でもアレイさんともう一度出会って結婚したこと。ルシファのこと。ケテルのこと、再契約と止めた時の枷。そして――
「あとね、子供、生まれたよ。男の子と女の子、一人ずつ。クラウドさんとダイアナさんが……代わりに、育ててくれるって」
思わず声が震えた。
が、頑張って押しとどめた。
「女の子の名前、ラスティミナにしちゃった。きっと強くて優しくて、美人さんになるよ。目の色がアレイさんと同じ……紫色で……」
それ以上言葉が出なかった。
アレイさんはずっと黙って隣にいてくれた。
それだけでもう、十分だった。
暗くなってしまってから街に戻った。とりあえず宿を探して歩くと、懐かしいバーの入り口が目に入った。
どうやら鍵は掛かっていないようだ。
二人でそっと、その店に侵入した。
ねえちゃんの店の中はカビ臭いにおいがした。当たり前だ、もう3年も放っておいたのだから。
「奥に泊まれないかな?」
どうにか蝋燭を見つけ出して明かりにし、店の奥へと進む。
うす明りで確認すると、店の奥にある客間の一つはなんとか使えそうだった。ただ、ベッドは一つしかない。
隣のアレイさんと顔を見合わせた。
結婚しているのだから、今更恥ずかしがる関係ではないのだが……これは自分が「ラック」でこのヒトが「アレイさん」である以上、大問題だった。
秋も深まり、夜は寒い。くっついて寝れば暖かいことは分かっているのだが、そんな近くに彼がいたら、自分の心臓は爆発してしまうかもしれない。
何しろ、記憶が戻ってからは、まだなのだ。
「大丈夫だ、俺は床で寝る」
「えっ?」
驚いていると、アレイさんはさっさと新しいシーツを準備して床に寝床を作ってしまう。
「疲れているだろう、早く寝ろ」
「え、あ、うん……」
戸惑いながらも装備を解いて眠る準備をする。ほとんど短衣一枚だけになり、ベッドに横たわった。
シーツに包まったが、どうにも落ち着かない。
心臓の音がすぐそこにいる彼にまで聞こえやしないだろうか。
「ね、アレイさん。明日はゆっくり街のみんなに挨拶しに行こうね」
「……ああ」
彼の声が遠い。
ああ、なんだか寂しい。
一人シーツにくるまっていると、どうしようもない寂寥感に襲われた。
「ねえ」
「何だ?」
「やっぱりさ……一緒に寝よう?」
思い切ってそう言うと、返事がなかった。
「……だめ?」
沈黙。
怒ってしまったんだろうか?
そう思ったとき、彼の紫の瞳がこちらに向けられた。
「それをお前が聞くのか?」
「……」
どこか厳しい声だった。
「俺は構わないが、お前は……」
「……いいよ。おれ、アレイさんと一緒がいい」
とても寂しかった。
もしかすると、ねえちゃんの墓参りをしたことでまた自分は落ち込んでいたのかもしれない。彼に慰めを求めたのかもしれない。
「いいんだな」
確認を取った彼の瞳は真剣だった。
まっすぐに見つめてくる紫水晶から目を逸らせなかった。
少し躊躇った彼も寝台にあがった。
アレイさんは大きいから、自分は完全に腕の中に収まる形になる。
大きな腕に抱かれて、やっぱり幸せだった。ここは、ずっと前から世界で一番安心できる場所なんだ。
ふいに見上げると、端正に整った顔が近くにある。
戦争の時にばっさりと切れてしまった髪は短いままだった。
「もう、髪伸ばさないの?」
「ああ」
残念だ。アレイさんの髪はさらさらですごく手触りがいいから好きなんだけれど。
そう思って短い髪に手を伸ばす。
そのためには少し腕から抜け出して顔を近づけなくちゃいけない。伏せられた長い睫毛が頬に影を落としていて、どきりとした。
アレイさんは本当にきれいだ……。
その美しく整えられた顔に釘付けになっていると、ふと目が開いて紫の瞳がこちらを覗きこんでいた。
「ア、アレイ、さん」
心拍数が跳ね上がる。
だめだ。心臓がおかしくなる。
紫水晶から目が離せない。このまま、吸い込まれてしまう――
ゆっくりと目を閉じると、優しいキスが唇に降ってきた。
その感触に、胸がきゅーっと締め付けられる。
髪を触っていた手をそのまま後頭部に当てて、今度は自分から近づいた。
今度はゆっくりと、唇を甘噛みするように口づける。
「ラック……」
深いバリトンが響く。
まるでアルコールに酔ったように頭の中がぼんやりとしてきた。
ああ、どうしよう。こんなにも、愛しい。
もう一度どちらからともなく唇を求めると、今度は口腔に舌が侵入してきた。温かく柔らかな舌の感触がさらに脳内の麻薬を増長する。
「ラック」としては初めてでも、体は覚えている。この濃厚な口付けと、この先に待つ甘美な時間を。
纏っているのは薄い短衣一枚だけ。
大きな彼の手はゆっくりとそれを下から捲りあげていく。
心臓が早鐘のように鳴り響いている。
思わず彼の胸元にぎゅっとしがみついた――まるで、初めての時のように。
「ラック」
それでも、甘いバリトンは自分を夢へと誘っていった。
素肌の背に、彼の手が触れる感触が心地いい。
何度も何度もキスをしながら、はだけた彼の胸に触れる。滑らかな感触がひどく心地いい。胸から肩、そして背に手を這わせるように撫でていった。
いつしか彼の手も自分の全身を隈なく撫でている。
「ああ……アレイさん……」
全身が疼く。体の芯から蕩けてしまいそうだ。
舌が首筋を這うと、ぞくり、と背筋を何かが駆け抜ける。さらにその背筋を指でなぞられ、思わずびくりと震えてしまった。
顔が熱い。頭がぼんやりとする。
「声、出してもいいんだぞ?」
どこか意地の悪い彼の台詞に唇を尖らせると、さらに熱い舌が耳朶に触れた。
「ひぁっ」
熱い息がかかって思わず声が漏れる。
それを契機に、快感の波が襲ってきた。
耳が弱い事を彼はよく知っている。反対側の耳にも指が侵入してきて、思わず嬌声を上げた。
「ひやぁあっ! あっ……」
電撃が走るような感覚。
全身がぴくり、ぴくりと引き攣った。
「相変わらず……弱いな」
「やっ……めて……っ」
「やめると思うのか?」
こういう時の彼は本当にイジワルだ。
あれ、いつもイジワルだっけ?
なんてことを考える余裕はすぐになくなってしまう。
彼の指が、背を伝い、大腿を伝って下着の内側に侵入してくる。
「ん……」
ぬるりと濡れているのは自分でも分かる。
簡単に彼の指を受け入れてしまった。
「ぁ……ふ……あぁ」
熱い吐息が彼の口内に流れ込む。
「ん……んむっ……!」
唇を塞がれたまま。
快楽の波に押されて意識が一瞬真っ白になった。
微かに痙攣の残る肢体と整わない息遣い。きっと頬も真っ赤に染まっているはずだ。
最初はひどく恥かしかったのに、今は心の底から満たされていた。
が、もちろんこれで終わるはずはない。
「まだ、これからだ」
紫の瞳がイジワルそうな光を帯びる。
「ふ……ふえぇ……」
こうなってしまってはもう逆らう術など残されていない。
彼の為すがまま、何度も果てた。
逞しい胸に抱かれ、大きな腕に包まれて。
心の中が満たされていくのを感じていた。
何故だろう、初めて本当に結ばれたような気持ちになったのは。
まるで初めての時のように、下腹部に鈍痛が残ったのは。
「アレイさん……大好き」
そう呟いただけで、胸が押しつぶされそうなほど締め付けられるのは。
答えの代わりに瞼に唇が押し当てられた。
くすぐったくて思わず笑う。
目の前には、見慣れた彼の胸の傷があった。
「これ……最後にケテルに貫かれたやつだね」
そっとその胸を撫でる。
そのまま指でなぞり、今度は肩口の引きつった傷跡を手のひらで包み込む。
「これは、おれがつけた傷だ」
鋭いラースの牙で肩をかみ砕いた時の。
「それからこっちはおれをかばった時の……」
縫合跡が痛々しい腹部の傷。そして、肩から腕にかけて伸びる傷跡。
ほとんど全部自分のせいでついた傷跡だ。
「ごめんね……ごめんね、アレイさん。いつもおれのせいで怪我してばっかりだ」
一つ一つ刻まれた傷と、自分の業を思って胸が裂かれそうに痛んだ。
じわり、と目の端に熱い滴が膨らむ。
が、アレイさんはぎゅっと抱きしめてくれた。
「それは俺も同じだ」
深いバリトンは悲痛な響きを含んでいた。
彼の指が背をなぞる。大きく刻まれた十字の傷跡を撫でるように。
「セフィラにやられたのも……」
そして、左腕を撫で、さらに甲に口付けた。
「グラシャ・ラボラスに左腕を喰われたのも……」
最後に、胸の上の傷にも唇を寄せた。
その感触で、思わず吐息が漏れた。
「ケテルに殺されかけたのも、すべて俺が……」
胸元の傷痕をきつく吸われて、自分の口からは妙に艶っぽい声が漏れた。
「俺が……」
傷に沿うようにして、次々と所有印を刻んでいく。
そのたびに、自分の体はびくりびくりと跳ねた。
胸元に収まった黒髪を抱え、唇から快楽の声を洩らしながら。
「もう傷つけさせない。誰にも渡さない」
「アレイさん……」
強い意志を帯びた彼の言葉に、全身が震えた。
「愛している、ラック。愛している……」
あの戦場の真ん中で雨に打たれながら聞いた言葉を繰り返し、繰り返し唱えていた。
そうしたら、あの時の満たされた感情が舞い戻ってきた――あの時、もう死んでもいいと思ってしまったから、ケテルの狂行を許してしまったんだろう。
だって今――おれは、今すぐに死んでも構わないと思ってしまっている。
「おれも……愛してる。アレイさん……」
想いを伝えてから3年。やっと自分たちは、結ばれたのかもしれない。
戦場で願った恋は、ようやく成就して実を結んだ。
目覚めると、すぐ近くに長い睫毛が伏せられた端正な顔があった。
「アレイさん」の寝顔は何年ぶりだろう。
欲望に負けてその唇にキスをすると、彼はすぐに目覚めた。
「おはよう、アレイさん」
「ん……ああ」
ゆっくりと紫水晶が光を反射する。
そこには自分の顔が映っていた。
ああ、なんて幸せなんだろう。
グレイスの時に享受した幸せを、ラックとしてもう一度体験してしまった。
「起きて、アレイさん」
そう言ったが、紫の瞳はまた閉じられた。
「んもう!」
もう一度起こそうか、と思ったとき、ぐいっと引き寄せられて唇を塞がれた。
思わず目を見開いたが、その温かで優しい感触に、すぐにぼんやりとなる。
離れていくのが惜しいと思ったのは仕方ない。
「もう少し、このままで……」
珍しくおねだりをするアレイさんが、なんだか可愛いなんて思ってしまった。
「うん、そうだね」
とはいえ、自分も幸せで幸せで。
だから、彼の腕の中でもう一度目を閉じた。
恐怖を思い出して泣いてしまった自分を優しく包み込んでくれた日――初めて彼を意識した日を思い出しながら。
これから始まる冒険を思いながら、世界で一番安心できる場所でもう一度眠りについた。 |