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無職転生 - 異世界行ったら本気だす - 作者:理不尽な孫の手

第11章 青少年期 妹編

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第百七話「ノルン・グレイラット」

--- ノルン視点 ---

 兄を恐ろしいと思うようになったのはいつからだろうか。
 少なくとも、最初はそうじゃなかった。

 初めて出会ったとき、兄は父を殴っていた。
 私は父が好きだった。
 どうしようもなくダメな所はあるけど、私に惜しみなく愛情を注いでくれているのがわかったし。
 そうでなくとも、五歳にも満たない子供として、何の疑いもなく親を愛していた。

 兄は、そんな父を殴っていた。

 いきなりやってきて、父を殴ったのだ。
 そのときの会話は、私にはよくわからなかった。
 今でこそ、兄が過酷な土地を越えてようやく父に出会えたのに、
 父が小馬鹿にして喧嘩になったのだとわかる。

 けれども、当時の私には関係のないことだ。
 兄が、父を、殴った。
 馬乗りになって何発も殴られた父を見たとき、
 私は父が殺されてしまうと思ったのだ。

 そして、それが当時の私にとって唯一無二の事実だった。
 こんな相手を、家族として認められるはずもなかった。

 怖いのではない。
 嫌いになったのだ。

 嫌いという感情は長続きした。
 誰もが兄を褒めたからだ。
 父はもちろん、その後に出会った妹や、メイドも。
 彼らが褒めれば褒めるほど、私の中の意固地な部分が大きくなった。

 兄と同じくして、妹も嫌いだった。
 彼女は一緒に通いだした学校で、事あるごとに私に張り合ってきた。
 勉強でも、運動でも。
 そして、ありとあらゆる事で私を凌駕し、見下してきた。
 私は彼女と一緒にいるだけで、常に劣等感に晒された。
 仲良くはなれない、そう思った。

 劣等感に苛まれる現状。
 それを良しとしなかったのは、祖母だった。
 彼女は血のつながらない妹を蔑むと同時に、私に過度な期待を持っていた。
 いや、期待ではなかったのかもしれない。
 ただ祖母は言ったのだ。

「ラトレイア家の淑女として、恥ずかしくない能力を持ちなさい」

 そして、礼儀作法や細かな儀式の勉強を強要された。
 私はうまくできず、なんども失敗して、怒られた。
 そのたびに、祖母は言った。

「冒険者に身をやつせば、血まで濁ってしまうのでしょうか」

 父と母、両方の事を言っているのだと、すぐにわかった。
 祖母は一生懸命がんばっている父を、蔑んだのだ。
 私は祖母が嫌いになった。

 だから、兄の師匠と名乗る人が来て、
 母の居場所を見つけたときにも。
 祖母の家ではなく、父についていくことを決めたのだ。

 そう。父は迷っていた。
 私を祖父母のところに置いていくかどうかを。
 母はミリス貴族の血を引き、父はアスラ貴族の直系だ。
 血筋としては申し分ない。

 祖父たちは、私を自分の家に迎え入れようと考えていたらしい。
 けど、私は嫌だった。
 だから、父に頼んで、泣きついて、一緒についていった。

 なのに。
 なのに、父は、私を兄のところへと追いやった。
 ここから先は危険だからと。
 兄が北の方に拠点を構えたから、先にそこへいけ、と。
 お母さんを見つけたら、必ず後から追いかけるから、と。

 私は泣いた。
 嫌だといった。一緒にお母さんの所に行くと喚いた。
 父の元を離れるわけにはいかない、と思っていた。

 もし、そこにルイジェルドさんが現れなければ、私は父と一緒に行っていたかもしれない。
 そして、ベガリット大陸の過酷な旅で病気にでもなって、父を困らせていただろう。

 ルイジェルドさん。
 彼のことはよく覚えていた。
 最初にあったのは、兄と出会ったのと同じ日だ。
 転びそうになった私に手を差し伸べてくれた。
 やさしい手で頭を撫でてくれた。
 りんごをくれた。

 あの時は、名前も知らなかった。
 兄の護衛だと知ったあとも、名前は聞けずじまいだった。

 彼はあの時と何も変わらず、私の頭を撫でて、優しく私を諭したのだ。

 そして、私は兄の所へと赴く事になった。
 旅が始まると、妹がやたらと張り切りだした。
 父や妹の母の前だと決して脱がない仮面を脱ぎ捨てて、
 リーダー面して、あれこれと無茶な計画を立てたのだ。

 馬鹿なことをしている、と私は思った。
 大人が二人もいるのに張り切っても、意味なんかない、と。
 そう思ったのだ。
 けど、ルイジェルドさんも、ジンジャーさんも、妹に従った。

 ずるいと思った。
 妹の言い分ばかりが通り、自分の言い分は通らなかったのだから。

 けれど、ルイジェルドさんが私を気遣ってくれたから、耐えられた。
 彼は、ずっと私を見てくれていた。

 でも、そんな彼も、兄の事を褒めた。
 奴は凄い男だ。
 会うのが楽しみだな、と。
 滅多に笑わないのに、薄く笑って言うのだ。

 きっと、私の知っている兄と、彼らの知っている兄は違うのだ。
 そんな風に考えた。

 ああ。
 だとすると、この頃だろう。
 兄の事を怖いと思い始めたのは。

 兄は、強い。
 尊敬できる人物だと、みんなは言う。
 けれども、私の中の兄は、父を殴り倒している兄だ。

 もしかすると。
 もしかするとだが。
 兄は私のことも殴るのではないだろうか。
 ちょっとでも気に食わない事を言えば、殴るのではないだろうか。

 会うのが怖くなった。
 そんな兄の下で、何ヶ月も暮らすのも怖かった。
 不安で眠れなくて、夜中に何度も起きた。
 そのたびに、ルイジェルドさんが慰めてくれた。
 膝の上に乗せてくれて、夜空を見上げながら、昔話をしてくれた。
 悲しい話が多かったけど、なぜか安心して眠ることができた。


---


 久しぶりに会った時、兄は酔っぱらい、女の人を横に侍らせていた。

 ブエナ村で幼馴染だったという人で、その人と結婚していたのだ。
 私はその人のことを覚えていなかった。
 朧げに、妹と妹の母にくっついていた人がいたかもしれないとは思ったけど。
 こんな感じの人ではなかったように思う。
 もっとこう、よく覚えてないけど。何かが違った気がする。

 兄は幸せそうだった。

 それを見て、私は怒りがこみ上げてきた。
 父は、女の人には手出ししていない。
 母が見つかるまでそういうのはお預けだといっていた。
 妹の母にも手を出さなかったし、いつも一緒にいた女の人にも手を出さなかった。

 なのに。
 なのに、兄は違ったのだ。
 怒りがこみ上げてくる。
 でも、何もいえなかった。
 怖かったからだ。
 もし、言えば、殴られるのではないかと思った。
 兄が私を殴れば、ルイジェルドさんは怒ってくれるだろうか。

 ルイジェルドさんは兄に会えて嬉しそうにしていた。
 もしかすると、怒ってはくれないかもしれない。
 逆に私を怒るかもしれない。
 わがままを言うなって。
 私は何もいえなかった。

 そして、翌日になってルイジェルドさんがいなくなった。
 彼はずっと居てくれると思っていた。
 居なくならないで欲しいと思った。
 けれど、行ってしまった。

 さらに怖くなった。

 家には、兄と、妹と、兄のお嫁さんがいるだけだ。
 妹は兄に会えて張り切っている。
 兄のお嫁さんは優しい人だと思う。
 けど、私の味方ではない。
 この家に、私の味方はいない。

 これから父が来るまで、恐怖におびえて暮らさなければならない。
 妹は、兄に可愛がられるだろう。
 私は、きっとそうじゃない。
 妹はちやほやされて、私はもっと頑張れと言われるのだ。

 妹は、私が努力してないから出来ないのだという。
 けれど、出来ないものは出来ないのだ。
 どれだけうまくやろうとしても、練習しても、妹の足元にも及ばないのだ。
 一体どうすればいいというのか。

 私は、怒られないように、何かをして比べられないように、隠れるようにすごした。
 雪のつもる中、外に放り出されるのは怖かった。


 兄の言葉で学校に通うことになった。
 ミリシオンで通っていた学校と違い、少々特殊な所であるらしい。
 同じ学年でも、年の近い子ばかりというわけではなく、いろんな年齢の人が勉強をしているのだとか。
 正直、行きたくなかった。
 どうせ、また妹と比べられるのだ。

 しかし、幸いにして妹は学校に行くつもりは無いらしい。
 私にとってそれは光明だった。
 妹がいなければ、私も少しは頑張れるかもしれない。
 そんなことを思った。

 兄は妹に対し、一つの条件を出した。
 試験である。
 学校に入学するには、試験が必要なのだ。
 私も受けることになった。

 私は失望した。
 試験なんて受けても、合格なんてするはずもない。
 そう伝えると、兄は金でなんとかすると言い出した。
 その無神経な言い方に、私はつい声を荒げてしまった。
 妹が怒り、喧嘩になりかけた。

「やめなさい」

 兄の底冷えするような声で、恐怖が芽生えた。
 殴られるかもしれないと思った。
 怖かった。
 涙が出てきた。
 これから、ずっとこんなビクビクして暮らしていかなければならないのかと。


 試験当日。
 私は兄から、寮についての話をきいた。
 学生が親元を離れて暮らしつつ、自主性をはぐくむ。
 そんな施設が、この学校にはあるらしい。
 これだと思った。

 きっと、妹は試験に合格するだろう。
 そして、学校に来ない。
 もし、私が寮で生活すれば、兄とも顔を合わせなくてすむ。
 私は誰とも比べられず、自由に生きることができるのだ。

 一度考えると、そうするのが最良のように思えてきた。

 数日後、試験の結果が返ってきた。
 兄は私に、どうしたいのかと問いかけてきた。
 私は恐る恐る、「寮暮らしをしてみたい」と提案してみた。

 もしかすると、怒られるかもしれないと思った。
 父には、兄と一緒に暮らせといわれている。
 兄も手紙で同じ事を言われたはずだ。
 だから、わがままを言うなと怒られ、殴られるかもしれないと。

 でも、兄は思いのほか簡単に許可してくれた。
 怒ったのは妹だ。
 妹はずるい、贔屓だと喚きだした。

 彼女は今まで、ずっと私より優遇されてきたから、
 自分だけが試験で試されたことが気に食わないのだ。

 でも、どうして兄は許可してくれたのだろうか。
 わからない。
 兄がわからない。
 考えてみると、妹と喧嘩した事以外では、一度も怒られたことがない。

 ……もしかすると、兄は私には興味がないのかもしれない。
 家で世話をするのが面倒だから、これ幸いにと寮に放り込むつもりだったのかもしれない。
 私が提案しなくても、結局は寮に入れられていたのかもしれない。

 そう考えると、なぜか少し悲しくなった。
 私にとっても都合がいいはずなのに。


---


 寮生活は何もかもが新鮮だった。
 まずルームメイトが新鮮だった。
 ルームメイトのメリッサ先輩は、魔族だったのだ。

 祖母は、魔族は悪者だと言っていた。
 魔族とは排斥されるべき存在で、絶滅すべき悪だと、私に教え込んだ。
 もし、ルイジェルドさんと出会っていなければ、きっと私は今もそう思っていただろう。
 だから、メリッサ先輩と出会った時も、ちゃんと礼儀をわきまえた態度をとることができた。

 きちんと挨拶できた私を、メリッサ先輩は歓迎してくれた。
 中途編入の私を暖かく迎えてくれて、色々と世話をやいてくれた。
 食事の仕方、トイレの使い方、寮のルール。
 全てメリッサ先輩から教わった。
 寮に住む者はみな家族なので、仲良くするようにと、自警団の先輩にも言われた。
 怖そうな顔をした種族の人だけれど、責任感の強い人だという。

 これからの生活に、私は胸を踊らせていた。
 十日に一度、兄の家に顔を出すというのは面倒だったが、
 兄も学校生活についてはあまり詳しく聞いてこないので、気は楽だった。


 寮での生活が始まった。

 まず、授業が難しかった。
 ミリスの学校とは、違う教え方をしていたからだと思う。
 一から習えばまた違ったのだろうけど、途中からだったので、理解できない事が多かった。

 ミリスでは宗教の授業があったけどラノアには無く、代わりに魔術の授業があった。
 これも最初の部分を飛ばしたから苦手だった。

 もし成績が悪かったりしたら、家に連れ戻されるかもしれない。
 そう思い、寮でも勉強した。
 でも分からなくて途方にくれていた所、メリッサ先輩が優しく勉強を教えてくれた。

 そこで初めて、すでに習った所だと理解した。
 きっと、妹ならすぐにわかったのだろう。
 自分の理解力の無さが嫌になる。

 学校は敷地も広く、何度も迷子になった。
 特に、ミリスの学校には無かった運動や魔術の実践授業では、教室の場所がわからなくて戸惑った。
 その度にクラスの人が探してくれたり、見知らぬ先輩や先生にお世話になった。
 兄にも一度だけ、見つかった。
 その時、兄はこの学校で一番凄い人と一緒で、恥ずかしかった。

 兄は学校では恐れられていた。
 六人の子分を引き連れて、好き放題しているらしい。
 そのうちの二人は、寮の中でも特に偉そうにしている人で、
 メリッサ先輩にも、あの二人には逆らわない方がいいと脅された。

 兄はあの二人を使って、学校中の可愛い女の子の下着を集めているらしい。
 兄のお嫁さんは知っているのだろうか。
 知らないのかもしれない。
 下着なんて集めてどうするつもりなのかは知らないけれど、
 父があんなに苦労している時に、兄はそんな事をして遊んでいるのだ。
 怒りがこみ上げてくる。
 軽蔑した。

 しかし、そんな事をしているというのに、
 思いの他、兄の評判はいいものだった。

 一般生徒に乱暴はしないし、好き放題といっても、誰かを不幸にしたりはしていない。
 それどころか、学校の不良に弱い者いじめはするなとまで言っているらしい。
 同じクラスの怖い子が、兄と話した事があることを自慢気に話していた。

 魔術は誰よりも上手く、教え方も上手。
 私よりずっと小さい子に教えてあげた事もあるらしい。

 クラスメイトや、メリッサ先輩や、先生は。
 そんな兄のようになれ、と言う。
 兄を目指せという。

 何を考えているかわからなくて。
 怖くて、嫌いで、軽蔑してる兄のように。

 なりたくない。
 けど、それ以上に、口惜しい事に。
 兄もまた、妹と同じく、私より全てが上なのだ。
 私がどれだけ努力しても届かない存在なのだ。

 相手を嫌っているのに。
 軽蔑しているのに。

 でも、私はそんな相手より、下の存在なのだ。


---


 ある日。
 私は寮に戻って、ベッドに突っ伏した。

 色んな感情がごちゃまぜになっていた。
 悔しさ。悲しさ。やるせなさ。怒り。
 気持ちが涙となって溢れた。

 しばらくして、メリッサ先輩が帰ってきた。
 泣いている私に、どうしたのと、優しく聞いてきた。
 私は彼女をつっぱね、なんでもないと毛布をかぶった。

 私は、どうすればいいのだろうか。
 兄に対する私の態度は間違っているのだろうか。

 ……そうだ。
 兄は私の思っているような人物ではないのかもしれない。

 あの日、兄が父を殴った日。
 私は幼かった。
 その後、何度も父に「兄も辛かったのだ」と言われても理解できなかった。
 けれど今なら、今なら、少しは理解できる気がする。
 私も、今、辛いから。
 ここから、頑張って、一生懸命やって。
 それで元気になった所を、「気楽に遊んでいたんだろう?」と言われれば。
 やっぱり私だって怒ってしまう。
 父が相手でも、喧嘩をしてしまうかもしれない。

 でも、だとして。
 どんな顔をして兄に会えばいいのだろう。
 兄は私にどうして欲しいのだろう。
 兄と父はどうやって仲直りしたのだろう。

 考えて。
 考えて。

 お腹が痛くなった。
 胸の下あたりがキュウキュウと締め付けるように。
 吐き気もした。


 私はベッドに潜り込んで過ごした。
 何も出来なかった。
 兄と顔を合わせる、ただそれだけの事が出来ない。

 こういう時、いつも助けてくれたのは父だった。
 嫌な事があってベッドに潜り込むと、父が来てくれて、優しく撫でてくれた。
 お父さんと別れてからは、ルイジェルドさんだった。
 膝の上に乗せて、大きな手で頭を撫でながら、色んな話をしてくれた。

 ここには、誰もいない。
 メリッサ先輩は世話を焼いてくれる。
 けど、味方じゃない。
 お兄さんに会おうとか、授業に出た方がいいとか。
 そんなことばかり言ってくる。

 そんなの分かっている。
 でも、体が動かないのだ。


---


 私が悩みだして、どれぐらい経っただろうか。
 考えて、疲れて、眠って。
 そんな事を繰り返すうちに、何日も経ったような気がする。

 私はベッドの端に座っていた。

 気づけば、兄が目の前にいた。
 椅子に座って、背もたれにひじを乗せて。
 こちらをじっと見ていた。

「ノルン」
「兄さん」

 初めて、兄を兄さんと呼んだ気がする。

 ほとんど同時だった。
 幻ではないらしい。
 ここは女子寮だ。
 なぜいるのだろうか。

 混乱する。
 そんな私を兄はじっと見ていた。
 しばらく見詰め合った。

 こうして、兄の顔をまじまじと見るのは初めてかもしれない。
 不安そうな顔だ。
 父に似ている気がする。
 私にとっては安心する顔だ。
 当然か、親子だもん。

「ノルン。ごめんな。お前、こっちに来てから、つらいだろ?」

 兄は、ぽつりと口を開いた。

「俺さ、お前のこと、よくわかんなくてさ。
 こんな事になっても、どうすればいいのかわからないんだ」

 兄は、不安げにそんなことを言った。
 その姿が、父にダブって見えた。

「……」

 それから、兄はずっと、動かなかった。
 不安げに私を見て。
 でも、決して椅子から動かなかった。
 父なら、無遠慮に私を抱きしめただろうし、
 ルイジェルドさんなら、私の頭に手を置いただろう。

 けれど、兄は近づいてこない。

「ぁ……」

 なぜか。
 わかった。
 近づいてこれないのだ。
 私に拒絶されるのが怖くて。

 そう思った時、不思議と心の中がスッキリした。
 兄に対する嫌悪感は湧いて来なかった。
 怖いとも思わなかった。
 兄は父と似ているのだ。

 兄はきっと、絶対に私を殴らない。
 きっと父も、もう絶対に殴らない。

「……うぅ……」

 私は兄を許さなければならないのだ。

「ぅ……ひっく……」

 気づけば涙がボロボロと零れ落ちていた。
 喉の奥が震えて、嗚咽が漏れる。

「ごめんなさい、兄さん……ごめんなさい」

 兄は恐る恐るといった感じで、私の隣に座った。
 そして、ゆっくりと、私の頭に手を載せて、自分の胸に掻き抱いた。

 兄の手は暖かく、胸は広くて硬かった。
 そして、父によく似た匂いがした。

 私はその日、一晩中兄の胸で泣いた。


--- ルーデウス視点 ---


 結局、俺は何も出来なかった。
 彼女は何も話してはくれなかった。
 何が不満で、何がわだかまっていたか。
 本心はわからなかった。

 ノルンはただ、泣いていただけだ。
 泣き終わったら「もう大丈夫です」とぽつりと言っただけだ。
 その顔は思いのほかスッキリしていた。
 俺の目を見ていた。
 まっすぐに。

 それを見て、なぜだかホッとした。
 もう大丈夫だと思えた。
 だから後のことをシルフィに任せ、部屋を後にした。


---


 翌日からノルンは明るくなった。
 何がどう変わったというわけではない。
 廊下で俺の姿を見つけると「兄さん、おはようございます」と、挨拶をする程度だ。
 会話も少ないし、不用意にベタベタする事もない。
 俺と比べられる、という状況は何一つ変わっていないはずだが、
 ノルンはもう、気にしていないようだった。

 俺は彼女の事を理解できなかった。
 俺は何もいえず、何も出来なかった。

 不甲斐ない事だ。
 引きこもりの気持ち、出来ない奴の気持ちはわかると思っていたつもりだった。
 けど実際に直面すると、このザマなのだから。

 恐らく、
 恐らくだが、
 ノルンは自分で自分の気持ちに整理をつけたのだろう。
 自分の気持ちに整理をつけて、今の状況を乗り越えたのだろう。

 偉い子だ。
 パウロやアイシャは、ノルンの事を出来の悪い子だと思っているのかもしれない。
 けれども、俺はそうは思わない。
 少なくとも、生前、俺に出来なかったことをやったのだから。

 もし俺が、生前にノルンのように、自分で自分に整理をつける事ができていれば。
 何か変わっただろうか。
 あの優しかった兄貴にぶん殴られる未来は、回避できただろうか。

 わからない。
 過去の事はわからない。
 俺とノルンでは状況が違う。
 整理をつけても、外に出られたかどうかはわからない。
 異世界に転生して、ロキシーに出会わなければ、きっと引きこもりのままだったようにも思う。

 大体いまさら戻る事も出来ない。
 過去は変わらない。
 こじれてしまった家族との仲はもう戻らないのだ。
 兄貴の真意も、何もかもが闇の中なのだ。


 ……ただ、長いあいだ奥歯に挟まっていたものが、取れたような気がした。

 もし、ナナホシが元の世界に帰る時が来たら、
 その時は、兄貴に一つ伝言を頼もう。

 あの時は心配してくれてありがとう、そしてごめんなさい、と。
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