あの角の向こうにPDFで表示縦書き表示RDF


あの角の向こうに
作:山鳥テル


プロローグ
 子供の頃の話だ。ずっと小さな小さな頃の話。私の家の前には道があって、その道の向こうに十字路がある。角を曲がれば道はさらに続いている。きっとそれは当然のことなんだろう。でも小さかった私は、そこに見える角まで行くことが出来なかった。たったひとりでは。
 ひとりであの角まで行き、そしてそこから見える新しい景色をこの目で見たい。その先はいったいどうなっているんだろう。いつもそんなことを考えていた。でも幼い私の足は、あの角までの道のりがとても困難だった。親と一緒に行った事ならいくらでもある。でもそれじゃダメなんだ。たったひとりで見てみたいんだ。あの角の向こうを。きっと何かを見つけられる。新しいものがある。それを見つけた時のことを考えると、とてもワクワクする。いつもいつも、そんな風に思い続けていた。
 あれから十三年が過ぎた。

早瀬総合病院
「愛美ちゃん、お薬の時間よ。」
 看護士のお姉さんはいつものように私のベッドに薬を運んでくれる。袋には私の名前である小野寺愛美様という字が書かれている。点滴に繋がれた内出血だらけの細い手で袋を開けると、中からいつもの薬を取り出す。三種類の違った薬をひとつづつ、ペットボトルの水で流し込む私の日常。そんな生活がもう十年も続いている。
 早瀬総合病院の三〇八号室は三階の一番奥にある病室で、出入りの少ない人が入る三人部屋だ。でも今は私一人しかいない。昔は入退院を繰り返していたのだが、今はもう家に帰ることもなくなった。私はずっとここでひとり暮らしている。窓際から見える病院の門を横切る道が私の世界のすべてだ。小さかった頃と少しも変わりはしない。いつまでたっても、あの道の角を曲がれない。その向こうを見ることはできない。私はこの病院から出ることすらできなくなってしまった。
「気分はどう?」
 看護士さんはいつものように体温計を私に渡して血圧計の準備を始める。私は体温計を受け取ると、脇に挟んで答える。
「いつもと…同じです。」
 看護士さんは血圧を測り、私の胸をはだけて聴診器をあてる。もうすぐ十六だというのに、私の胸はまだ芯ができたくらいでしかない。ブラジャーすらつけたこともない。そんなものは病室生活には必要ないから。治療をするために沢山の人に胸を見られてきた。だからもう胸を見られることなんて少しも恥ずかしくもない。
 ピピピと体温計の音がする。看護士さんはそれを受け取り、ケースに戻す。
「ずっと微熱があるわね。はい。いいわよ。」
 私はパジャマの前を合わせて運ばれて来た食事に目をやった。見飽きた病院食のローテーションは十分把握していた。ぜんぜんおいしくないけど、それしか食べるものはない。一度ケーキを食べてみたいけど、それを食べると呼吸ができなくなるので我慢するしかない。味気ないおかゆにスプーンを突っ込む。やはり全部は食べられそうにない。
 食事を終えたら窓の外を眺める。病院の塀と手前に並ぶ杉の木。それから向こうに伸びる道。あの角から反対側の角に、色んな人や車が現れては消えて行く。あの人たちは何の感動もなく、あの角を通っているだけなんだろう。私はただここで想像する。あの角の向こうを。見たこともないその景色を。私は思い描く。先に続く道を。そこに立ち並ぶ建物を。そんな風にして、私の一日はゆっくりゆっくり過ぎて行く。ただそれだけの人生。ただそれだけの時間。それが私の時間。そんな私の一日が、誰知ることもなく過ぎ去ってゆく。

区立堀宮高校
「おはよーっ!」
愛美が教室に入ると大勢の友達が一斉に声をかける。愛美はその誰よりも輝く笑顔で元気に叫ぶ。
「おはよーっ!」
「愛美、今日も元気ねっ!」
「もっちろん! あたしから元気を取ったらなんにも残んないもんね!」
 その通りだ。小野寺愛美は生まれてから十五年間、病気らしい病気もしたことがない。元気が服を着て駆けているとさえ言われた子だった。今日も多くの友人を伴って自分の席にやって来た愛美は、後ろの席に座っている幼馴染の親友、高山唯衣に声をかけた。
「おはよー、唯衣! 今日も早いねっ。」
「おはよう、愛美。」
 愛美と違って少し大人しい唯衣は、愛美が引き連れた多くのクラスメートに圧倒されながら微笑んだ。その唯衣の机にも、男女を問わずおかまいなしにクラスメートが押し寄せる。愛美の人気は絶大だ。
「相変わらずラブレターの束ねー、愛美。」
 机の中には数通の愛美宛の手紙が突っ込まれている。それを取り出してパラパラとめくる愛美。こちらもやはり男女同比率だ。
「ラブレターじゃなくてファンレターなの。でも全部に目を通せないから困るんだけどなー。」
「そんなの別にいいじゃん。ほっぽっとけばいいんだよ。」
「はっ、そんなことを言ってるから、おめーにゃ誰からも来ねえんだよ。」
「なによ、あんた、うっさいわねー。」
「こらこら、ケンカやめなよ。」
 愛美を取り囲んでクラスメートの半分が騒いでいると、そこに担任の先生が入ってくる。
「きりーっつ!」
 学級委員長の愛美が号令をかけると、集まっていたみんなは大急ぎで自分の机に戻って行く。
「礼!、着席。」
 がたがたと椅子や机の音。全員が着席したことを確認して、担任は口を開く。
「みんなおはよう。新学期も今日で三日目だ。まだ休み気分の者もいるようだが、早く気持ちを切り替えてくれ。でないと小野寺君に嫌われることになるぞ!」
 みんなの爆笑が起きた。愛美は照れ笑いをした。
「さて、今日の一〜二時限目だが、屋外学習をすることになった。」
 とたんにクラス内が大歓声だ。先生はそれを両手で制する。
「静かに、静かにしなさい。静かにせんと自習に切り替えるぞ。行き先は学校を出て、商店街を抜け、早瀬総合病院の裏山に行く。いいか、その間に見たこと、感じたことを後でレポートにして出してもらうからな。」
 いっせいに「えぇーっ!?」という不満の声。また先生は両手で制する。
「遊びじゃないんだぞ。それじゃあ、それぞれ四人の班を作って一緒に行動するように。」
 またしてもいっせいに「小野寺さん!」とか「愛美!」という声が上がり、愛美の席にしがみついてくるクラスメートたち。先生は何度も両手を振って生徒たちを制する。
「こらこら! いい加減にしないか! 席の順だ!」
 大きな落胆の声があがり、クラスメートたちは席に戻っていく。愛美の席の周りに座っている子だけは大喜びしていた。ただ唯衣はあまり嬉しそうではなかった。
「それじゃ、他の教室は授業をやっているんだから、大きな声や音をたてずに、玄関へ移動だ!」
 先生の指示を受けて生徒たちは一斉に立ち上がると、先生の注意もよそにバタバタと大きな音を立て、話し合い笑い合いながら玄関へと目指す。
「唯衣、行こう。」
「う、うん。」
 愛美に言われて唯衣もおずおずと席を立つ。だが愛美は他のクラスメートに引っ張られて教室の外に連れ去られてしまった。すると、唯衣の両脇に二人の女子生徒が立って唯衣の二の腕を掴んだ。驚く唯衣に女子生徒は耳元でささやいた。
「高山さん、愛美を独り占めしようったって許さないんだからね。」
「愛美の班と交代しなよ。愛美に他の班の方がいいって言いな!」
 また脅迫だ。なまじ愛美と一番仲が良い唯衣は、こんな脅迫はいつものことだ。
「だ、だって…、先生が…。」
「さからうのかよ!」
 女子生徒は掴んだ唯衣の腕をねじ上げようとする。その時、先に教室を出ていた愛美が叫ぶ。
「唯衣! 何してんの? 早くいこうよ!」
「ちっ!」
 女子生徒は唯衣の掴んだ腕を緩めた。唯衣は女子生徒を振り払うと、急いで愛美のもとへと走り寄った。
 それから愛美のクラスは校外へ出て歩道を進み、商店街を抜けて大きな病院を迂回し、病院の裏山に続く登山道へと入った。その間、愛美の周りはずっと多くのクラスメートが取り囲んでいた。唯衣は愛美と手を繋いでいたために、クラスメートに押されたり突付かれたりして歩いていた。中には故意的に足を踏んだり蹴ったりされたようにも思えた。だが唯衣は何も言わず、ただ愛美の後をついていった。
 町を一望できる小高い丘に登った先生と生徒たちは、そこで先生から町の歴史や発展を聞かされる。愛美は一番前に立って先生の話をうんうんとうなずきながら聞いている。愛美の手から開放された唯衣は、ずっと後ろに離れ、人が少ない場所に立っていた。足を見ると少し赤くなっている。誰かに思いっきり蹴られたみたいだ。でも唯衣には意図的に蹴られたのか、そうでないのかを特定することはできなかった。何しろ学校からずっと愛美を取り囲むクラスメートの中心で歩いて来たのだ。誰かの足が当たっても全然不思議ではない。唯衣はその場にしゃがむと、少し痛む足についた泥を落としてため息をついた。
 その場での先生の話は終わり、次の場所へ移動が始まる。また愛美の周りを取り囲みながら、クラスメート達が移動して行く。唯衣はさっき先生が説明していた丘に来て街を見下ろした。丘の下は二メートルほどの絶壁になっていて、落ちないように七〇センチほどの高さの木でできた柵が作られている。唯衣がそこに立つと心地よい風が唯衣の髪とスカートを揺らした。唯衣はスカートがめくれないように押さえながら、近くの病院から遠くの学校に目を移していた。そこから先のずっと向こうには高いビルが立ち並ぶ都心が姿を見せている。病院の食堂だろうか、美味しそうなパンの臭いが唯衣の鼻に届いていた。
 その時、唯衣の背中に激しい衝撃を感じた。誰かが唯衣を突いたのである。それが誰なのかは分からない。唯衣の体は木の柵を越えて転落して行った。それはまるでスローモーションのように感じられた。
「キャーッ!」
 誰かの叫び声が聞こえた。唯衣は何がどうなったのか、訳が分からなくなった。完全に頭が混乱していた。
 気づいた時には唯衣は空を見上げていた。周囲りには木々の木立があった。青い空の隣には、クラスメート達が自分を見下ろしているのが分かった。どうやら地面に横になっているらしい。起きなくちゃと思って体を動かそうとしたとたん、右足に激しい痛みを感じた。その痛みはあまりにも強烈だったため、唯衣は苦痛で顔をゆがめた。
「唯衣ーっ!」
 愛美の叫ぶ声が聞こえた。だが唯衣は耐え切れない脚の痛みに悲鳴すらあげることができずにいた。

早瀬総合病院
「今日も微熱は引かないわね。」
 看護士さんが私の熱を測った体温計を見て言う。でも昨日の看護士さんではない。ここの看護士さんは全部で五人。そのうちひとりは滅多に見ることはない。だからだいたい四人のローテーションみたいだ。
 点滴は今日も私の細い腕に繋がっている。ポタリポタリと落ちる点滴薬を、私は物心ついた頃から見続けている。看護士さんに聴診器で胸を触られ、薬を飲んで窓の外を眺める。また私の一日が始まった。
 お母さんも最近めっきり来なくなってしまった。勿論、私は両親に感謝している。病弱な私の治療費を払うために、両親はずっと働き続けてくれている。だから週に一度ほどしか顔を出さない母でも、決して恨んでなんかいない。むしろ私は母に来てほしくはない。私を見る母の、とても辛そうな顔をよく知っているからだ。母にそんな思いをさせている自分が嫌いでしょうがないからだ。でもいくら自分を嫌ってもどうすることもできない。例えば今までに何度も自殺を考えたことはあった。でも結局そんなことできはしなかったし、できないものをこれ以上考えても仕方がないと思うようになったのだ。それから私はこの境遇に慣れることにした。これが私の人生。ここが私の居場所。そう考える以外にはなかった。体はボロボロになっても、心までボロボロにはしたくない。押しつぶされたりしたくない。だって生きていけないもの。
 点滴薬の最後の一滴が落ちた。私はナースコールを押して看護士さんを呼んだ。こんな針、見よう見まねで抜くことくらい簡単だ。でも看護士さんのお仕事を奪っては申し訳ない。看護士さんはすぐに来てくれて、私の骨と皮のような腕から針を抜いてくれた。抜いた跡を絆創膏で塞ぐけど、いつものように真ん中が血で染まる。私はそれを見て日の丸だと思って笑った。
 ベッドから降りてスリッパを履く。点滴の片づけをしている看護士さんが手を貸してくれる。
「だいじょうぶ? トイレ?」
「はい。それから、少し散歩。」
「無理しないようにね。」
「はい。」
 私の散歩は病棟のこの階の端から端までだ。それ以上歩くと苦しくてたまらなくなる。それに足も痛みを訴えてくる。こんなに細くなってしまった足。私はパジャマを持ち上げて、ほとんど肉のついていないふくらはぎを見つめた。
 いつもおしっこをするとめまいがする。だからトイレからすぐに立ち上がることができない。水を流して扉に掴まりながら外に出て手を洗う。そこでまずひと息いれなくてはならない。
 トイレを出てから廊下に目をやる。私の病室はすぐ手前だ。今日は反対側の端まで歩いてみよう。途中、ナースステーションがあり、それから休憩室もある。そこで気が向いたらたまにテレビを見ることがある。でも最近のテレビはあまり面白いものがない。学校へでも行っていたならば、俳優や歌手の話題についていこうと思うのだろうけども、話し相手の一人もいない私はそんなことを覚えても仕方がないのだから。
 休憩室のソファーで腰を降ろして少し体力を取り戻した私は、なぜかその日、冒険をしてみる気になった。別の世界を見てみたくなったのだ。別の世界に行くには専用の機械を操作しなくてはいけない。それはエレベータだ。エレベータは同じ空間なのに、まったく別の世界に私を運んでくれる。一度、私はエレベータに乗り、別の階で下りたことがある。間取りが同じなのでそこが私の病室のある階かと思い、そちらに向かって歩いて行った。でもそこには私の病室はなかった。私はものすごく奇妙な感覚に囚われた気がした。その時はすぐに私を知っている看護士さんが私を見つけてくれたので、無事に帰ることができたのだが、それから元気がある時には、別の階の探検をするようになったのだ。
 私はエレベータに乗ると、どの階に行こうか迷った。B1だけは押したくなかった。一度そこに行った私は、地の底に落ちたかと思ってすごく驚いた。そしてそのまま気をうしなってしまったのだ。病室がある階とはぜんぜん違う景色。激しくうなりをあげる騒音。胸を圧迫されるような重たい空気が私を包み込み、そのまま気が遠くなってしまったのである。後で聞くとそこはボイラー室という場所だったらしいが、私にはよく分からなかった。
 屋上も眩しすぎていやだ。だからその日もエレベータに乗ったまま、なかなか行く先を決められないでいた。
 私が悩んでいると、エレベータの戸が勝手にしまり、下に動き出した。私は怖くなってエレベータの一番奥に後ずさりをした。エレベータが止まって扉が開いた途端、ものすごい喧騒が私に降りかかった。そこは一階だった。
 大勢の外来患者や付き添い、面会を求める人がごった返している。何人かの人が私の方を見る。心臓が苦しいくらいに高まる。
 エレベータに乗って来た男の人は私に話しかけてきた。
「降りないの?」
 男の人に尋ねられても首を横に振るだけだった。彼は五階のボタンを押して扉を閉めた。エレベータはまた動き出し、三階を過ぎて五階で止まった。男の人は私を不思議そうな目で見ながら降りて行った。私はドキドキする胸を押さえながらボタンの所にまで戻って、三階のボタンを押した。その時にはもう私の意識はほとんどなかったように思う。エレベータが三階に到着し扉が開いたのを、消え行く意識の中で見たように思う。
「愛美ちゃん! 愛美ちゃん!!」
 その時はもう、看護士さんの呼びかけすら、私の記憶にはなかった。
 気がつくと自分のベッドにいた。やはり腕には点滴が差さっていた。すでに夕方らしい。遠くの山は茜色に染まっている。すごく疲れた気がする。エレベータの冒険は当分できそうもない。
「あの…。」
 誰かの声がした。看護士さんではない。もっと弱々しい、聞き取れないかとさえ思える声だった。私は声がした方を見た。私の斜向かいのベッドに彼女は寝ていた。彼女は右足に厚いギプスをつけられていて、さらにそれは天井から吊るしてある。彼女は私を見て少し会釈をした。
「こんにちは。」
 私は声をかけた。
「こんにちは。」
 彼女もそう言った。そしてなおも続けた。
「私、高山唯衣。さっき、ここに入ったの。あなた、ずっと寝てたみたいで…。」
 唯衣ちゃんはすごく素敵な女の子だった。
「そう。私は小野寺愛美。ここにずっといるの。」
「ずっと? 病気なの?」
「うん。子供の頃からの病気で、治らないの。」
「そうなんだ。」
 唯衣ちゃんは自分のことのように悲しそうにしてくれた。
「足を怪我したの?」
「うん。折っちゃったの。ここの裏山で、丘から落ちちゃって…。」
「ふうん…。」
 私にはそれがどんなにすごいことで、どんな恐怖で、どんなに痛いのかも分からなかった。
「愛美ちゃんだっけ? あなた歳は?」
「十五。もうすぐ十六。」
「え? それじゃ同じだね。」
 唯衣ちゃんはそう言った。私には唯衣ちゃんの方がずっとお姉さんに見えたし、唯衣ちゃんからもそう見えただろう。背も肉付きも胸も、ずっと私より大きくて綺麗だった。
「じゃ、学校は?」
「私、ずっとここに入院してるの。中学一年の時、三日くらい出たっきり。」
「えーっ!? そうなんだ…。」
 唯衣ちゃんはそれから黙ってしまった。可愛そうに思われるのはもう慣れっこだから何でもない。
「ねえ、学校って楽しい?」
 私が聞くと、唯衣ちゃんは少し困った顔をした。
「うん。楽しいこともあるし…、嫌なこともあるから…。どっちもどっちかな。」
「ふうん…。」
「愛美ちゃんはお友達はいないの?」
「ううん。」
「そう。じゃ、私がなってあげる。お友達に。」
「うん。ありがとう。」
 唯衣ちゃんはとても良い子だった。それから私は少しの間、彼女の学校のことや女の子の流行りのことを教えてもらった。でも私の体はそれだけで負担がかかっているのだ。
「唯衣ちゃん、ごめんなさい。もっと聞いてたいんだけど、私、お話するだけでもすごく疲れるの。」
「あっ、ごめんなさい! 苦しいの?」
「うん。でも少し寝れば治るから。また起きたら続き、聞かせてくれる?」
「うん。いいよ。お大事にね。」
 唯衣ちゃんに無理して微笑んだ私は、目を閉じるとすぐに意識が暗闇へ吸い込まれていくのを感じていた。

区立堀宮高校
 愛美のスパイクが敵のブロックをかわす。ボールはコートに一直線に走り、そのまま床を跳ねて転がって行った。審判がホイッスルを鳴らし、一段と喚声が巻き起こった。
「まなみーっ!」
 体育館の応援席はみんな愛美のファンのようだ。愛美はそのファンに向かって笑顔で手を振った。上気した頬に流れる透明の汗。その汗にからみつく髪の艶やかな色。弾む胸と躍動する腿の筋肉。すべてが愛美の活気溢れる若さを誇示していた。
 学級対抗バレーボール大会が終わった後、愛美の着替えを待つクラスメートは、彼女の席を取り囲んでヒロインの話で持ちきりだった。
「マジ、スッゲエよな、愛美ってさ。」
「こないだの学年模擬試験でもトップの成績でしょ。」
「美人だし、運動神経抜群だし、頭いいし。こんだけ揃ってりゃ頭くるはずなのに、憎めないんだよな。」
「うん。人気すげーもんね。」
「先輩だってみんな知ってっからなー。」
「つか、他校の奴らだって知ってるぜ。」
「マジ、不思議な子だよねー。」
「絶対、将来は総理大臣だよ。」
「あ、それ、言えてるー。」
「でもさー。誰かのお嫁さんになるのは間違いないっしょ。」
「あんなの嫁にすんのって、どんなスゲー奴なのかな。」
「あ、それ、俺、俺、俺!」
「ありえねー。」
「いっちゃんありえねー。」
「てか、冗談でもありえねー。」
「アハハハハハ…。」
「あ! 愛美、おかえりー!」
 着替えを終えた愛美が汗の匂いを漂わせて現れる。
「どうしたの? みんなで何さわいでんの?」
 だが愛美のことを話し合っていたなんてマジメに答える者はいない。お互いに目と目を合わせるだけで気持ちは通じるのだ。
「愛美、放課後みんなで遊びに行かない?」
「ごめーん、今日はダメなんだ。」
「えー? また誰かに告られんのかよ。もういい加減にしろよな。」
「まったくよお、釣合いが取れねえってわかんねーのかなぁ。自覚のねえ奴ばっかだぜ。」
「それ、自分。」
「ははは、違うよ、愛美ったら生徒会に呼ばれてんのよ。ねー。」
「うん。そうなんだ。」
 愛美ははっきりとうなずいた。
「生徒会? なんで生徒会が愛美呼ぶんだ? 生徒会は一年生は関係ねーじゃん。」
「ちがうって。愛美、一年なのに立候補するように言われてんだってさ。」
「マジ!? スゲエ!」
「よくやるぜ、まったく。」
「このガッコのレジェンド作っちまうな。」
「こんなスゲエのに告る身の程知らずのヤツの顔が見てみたいものよねー。」
「じゃ、見せてやらあ! 俺、愛美のこと好きだ! 付き合ってください!」
「お! やりゃあがった!」
「じゃ、俺もだ! 愛美、好きだ!」
「ちょっと待ったぁー! 俺も愛美を愛してるぜー!」
「ちょっと、何やってんのよ、あんたたち!」
「じゃ、あたしだって負けないんだからね。愛美ー、あたしもだーい好き! チュ!」
「おいおいおい!」
「きゃー!」
「やめてよもう!」
「ダメダメダメ! 愛美はみんなのものよ!」
「そうだ! みんなの愛美だよな!」
「おう!」

早瀬総合病院
「愛美ちゃん、私、明日退院することになったの…。」
 唯衣は言いにくそうに愛美のベッドの隣でそのことを告げた。愛美は唯衣の手を取って喜んだ。
「そうなの? おめでとう。」
 唯衣はまだ松葉杖をついていたが、あとは通院を続けるだけでいいと診断されたのだった。
「ありがとう。短い間だったけど、色々とお話できて、楽しかった。」
「ううん、それは私が言うことよ。学校の楽しいお話、本当にありがとう。」
 愛美は生気のない微笑を浮かべた。愛美の手は小さく、そして冷たかった。強く握るとすぐに粉々になってしまいそうな愛美の手を、唯衣はそっと両手で包み込んだ。
「そうだ。いくつか読もうと思ってた本があるの。これ、あげるね。とってもいい本だから読んでみて。」
 唯衣は数冊の文庫本を差し出す。
「いいの? まだ読んでないんじゃないの?」
「ううん、いいの。たぶん、読む時間ないと思うし。」
「忙しいの?」
 すると唯衣は少しはにかんで顔を伏せた。
「ううん、そうじゃないの。私、想像するのが好きで、いつも色んなこと考えてると、すぐに時間が経っちゃうの。だから、本読んでる時間、ないの。」
 それからすぐに愛美の顔に戻る。
「だから、愛美ちゃんにあげる。よかったら読んで。」
 そう言って唯衣は数冊の本を差し出した。愛美はそれを受け取ると、表紙をパラパラとめくる。
「ありがとう。うれしい。でも…。」
 愛美は本を閉じると自分のベッドの周りを見回した。
「私から、あなたに何かあげるものはないかしら。」
「ううん、いいのよ、そんな…。」
 唯衣は手を振ったが、愛美はベッド台の中をまさぐって、折り紙を出してきた。
「ごめんなさい。こんなものしかないの。」
 愛美が差し出したそれは、黄色い折り紙で折ったウサギだった。
「わ、かわいい! ウサギさんだ。こんな風に折り紙で折れるのね。」
「これはね、私がここでずっと鶴ばっかり折っていて、そのうち飽きてきて、研究してみたの。それでこんなウサギになっちゃったの。私が折り方を見つけたのよ。」
「へえー! すごい! そうなんだ! じゃ、大事にするね。ありがとう。」
 唯衣は折り紙のウサギを優しく見つめた。愛美はペンを出してきて、折り紙のウサギにこう記した。
『唯衣ちゃんへ』
「ありがとう。これで思い出ができた。」
「うん。唯衣ちゃんも、ご本をありがとう。」
「うん。」
 それからすぐに愛美は疲れて、眠ってしまった。
 愛美が目覚めたのは次の朝だった。窓の外はあいにくの曇り空で、いつ降り出してもおかしくない雰囲気だった。唯衣のベッドに目をやると、ベッドはからっぽだった。まだ荷物は置いてあるのでリハビリに行っているのかも知れない。愛美は体を起こしてベッドに座ると、唯衣がくれた本を一冊取ってパラパラとめくった。字は読まずに挿絵ばかりを読み進め、本の終わりに到達する頃には看護士さんが薬を持って現れた。それから熱を測り、聴診器をあてる。愛美のいつもの時間だった。
「今日は点滴はしないの?」
「熱が下がったみたいだから、様子を見るんだって。」
「そう。」
 看護士さんは食事を置いて出て行った。内出血の跡で埋まった愛美の二の腕に針がささってないのは珍しい。この腕にもたまにはお休みをさせてあげなくては。愛美は骨と皮だけの自分の腕を優しくなでた。
 しばらくすると唯衣がリハビリから戻って来た。すっかり松葉杖の使い方にも慣れている。
「あ、愛美ちゃん、おはよう。」
「おはよう。今日もリハビリだったのね。」
「うん。最後にって。辛いけど、仕方ないからね。ダイエットのつもりで。」
 愛美は笑ったが、唯衣は痩せ細った愛美を見ていま言ったことを少し後悔した。
「退院はいつごろ?」
「お昼すぎ。だから昼食はもうないの。」
「そう。ひさしぶりに家に帰って食べられるのね。」
「うん。愛美ちゃんも早く退院できるといいね。」
「うん。」
 それは無理だと思った。愛美も、唯衣も。
それから二人は最後の会話を楽しんでいたが、やはり人と会話するのはかなり疲れるらしく、愛美は昼前には眠りについた。次に愛美が目を覚ました時、唯衣はもういなくなっていた。
 唯衣の残してくれた本の上には、一枚のメモが置いてあり、「またお見舞いに来ます。色々ありがとう。唯衣」と書かれていた。
 愛美に、また同じ日々が戻って来た。

区立堀宮高校
「バイバーイ!」
「またねー!」
 校門で手を振る大勢の生徒たち。みんな愛美の友達だ。クラスメート以外にも、他のクラスの子や先輩までいる。そして愛美と同じ方角に帰る生徒たちを引き連れて校門を後にする。愛美の周りには話し声が絶えることはない。
「そういえば愛美、高山サンのお見舞い行くって言ってなかったっけ?」
「あ、うん。行こうと思ってたんだけど、今日退院しちゃったんだって。」
「なーんだ、そっかー。案外軽かったんだねー。」
「骨折っつーても楽勝だな、それじゃ。」
 愛美は少し口を尖らせる。
「唯衣にとってはすっごく痛くて辛かったんだから、そんなこと言うもんじゃないよ。」
「ほーら、すぐ愛美は高山サンかばうんだから。ひょっとしてデキてんじゃないかと思っちゃうよ。」
「だよなー。いっつも高山サン連れてこうとするもんなー。」
「あんな目立たない子、愛美がいないと忘れられた存在なのにさー。」
「もう、変なこと言わないで。唯衣はずっと幼馴染で気心知れた親友なんだから。」
 弁明しながらも笑みを浮かべる愛美。
「でもさ、結局お見舞い行けなかったんだよね。」
 愛美は女友達の言葉にすぐに答えた。
「うん。だから今度の日曜は唯衣の退院パーティを開こうと思うの。あたし、唯衣にケーキを焼いてあげるの。」
「あ、いいなー。愛美のケーキはプロ並みだもんね。」
「うん、すっごく美味しいんだよね。」
「あ、オレも食いてーな。」
「うん、みんなも食べられるくらい、大きいのを焼くつもりよ。」
「やったー!」
「いよぉーっしっ!」
「サイコーっ!」
 街中で歓声があがる。愛美は万遍の笑顔になる。そんな愛美を取り囲むクラスメートは愛美の家までずっとつきまとっていた。
「またねー、バーイ。」
 やっと大勢のギャラリーから開放された愛美は家の大きな門をくぐった。すぐに愛犬のリックとマックが駆け寄って来る。二匹とも大型のコリーなので飛びつかれるとけっこうな負担になる。玄関を開けると母の手料理の匂いが鼻をくすぐる。
「ただいまー。」
 靴をきれいに揃えて上がると台所から母が顔を見せた。
「おかえりなさい。すぐにごはんだから、早く着替えてね。今日はお父さんも早く帰るって。」
「はーい。」
 母はまだ若い。姉と間違われてもおかしくない。それに愛美に似てとても美人だ。
 愛美が二階に上がろうとして階段の下まで来た時、ちょうど上から兄の哲也が降りて来た。
「よお、帰ったのか。おかえり。」
「ただいま、お兄ちゃん。今日は早いのね。」
 哲也は大学生。父と同じ弁護士を目指している。
「ああ。今日は早く終わったんでな。たまには可愛い妹の相手でもしてやるかと思ってさ。」
「何言ってんのよ、お兄ちゃん。あたしなんか相手にしてると彼女と間違われちゃってモテなくなるよ。」
「はっ、別にいいさ。それならそれで。その方がお前をずっと見てられるしな。」
「え? 見てられるって?」
 愛美が哲也の顔をのぞき込むと、哲也は少し顔を赤らめて壁にもたれる。
「お前、ファンが多いしさ。俺のツレもみんな、お前を紹介しろってうるせーんだよ。でもな、お前は絶対オレが守るから、心配すんな。」
 ドキッとするほどの可愛い笑顔を哲也に見せて愛美は階段に足をかける。
「うん、アリガト! お兄ちゃん、期待してるね。」
 そう言って愛美は二階の部屋に駆け上がった。台所から出て来た母は手に花束を抱えていた。
「まあまあ、お仲がよろしいこと。兄妹でへんなことにはならないでね。」
「んなわけ、ねーだろ! 馬鹿なこと言うなよなっ!」
 顔を赤くして哲也は台所に消える。母は笑いながら玄関の花瓶の花を替えていた。

早瀬総合病院
「小野寺愛美さんの容態が急変しました!」
 ナースステーションに看護士が飛び込む。それを聞いた年配の看護士は、院内電話ですぐに医師を呼ぶ。若い医師が駆けつけた時は、もう愛美の呼吸はかなり弱くなっていた。
 愛美はすでに吸入器をつけられ、大きな点滴の管と計器のケーブルに繋がれていた。胸は大きくはだけられ、ふくらみかけの胸を惜しげもなくさらしている。その胸に聴診器を押し当てながら、医師は看護士に薬の投与を指示する。愛美の意識はほとんどなく、窓の外に見えるはずの路地の角が頭に浮かんでいるだけだった。
「心拍数がどんどん低下しています。」
「呼吸もです。」
「すぐご家族に連絡を! それまでなんとか持たせるんだ!」
 必死の延命治療の中、愛美は一瞬意識を失う。闇が愛美を包み込み、激しい苦しみが愛美を襲う。だがすぐに苦しみは消え、解放されるように胸のつかえが取れた。
 愛美がゆっくりと目を開けると、そこは愛美の病室の天井付近だった。真奈美の足の下には先生や看護士さんたちに治療を受ける愛美がいた。そして目の前に白い髭をいっぱい生やした老人がいた。老人は優しそうな顔をして愛美に言った。
「可愛そうなお嬢さん。お前の人生はほとんどこの病院だったね。」
 愛美は宙に腰をかけて老人を見つめた。
「私、死ぬの?」
「ああ、そうじゃ…。」
 老人は悲しい目をする。だが愛美は顔色も変えず、窓の外に目をやった。そこにはいつも見ていた路地と角が見えた。
「お前はいつもあの角を見つめていた。あの角の向こうを色々想像して毎日を暮らしていた。」
「ええ、そうよ。それが私の毎日。ずっとずっとそう。」
「お前ほど不幸を背負った子も珍しい。あの角の向こうをただ想像するだけで見ることすら叶わぬ。ワシがあの角の向こうを見せてやろうか?」
 老人が言うと、愛美は首を横に振って老人に目をやった。
「もし、あの角の向こうを知らない人が不幸だとするのなら、地球上のほとんどの人は不幸になっちゃうわ。」
 それから愛美はまた窓の外に目を戻す。
「私、まだはっきりと覚えてる。あの日、家の前に続く道をひとりで歩いて行った時のことを。
 あの日、私は角の向こうを見てみたかった。角の向こうに続く知らない道。見たことのない街並。初めて会う人。そんなものを求めて、私はあの日、歩いて行った。そして、とうとう見たの。あの角の向こうを。」
「ご家族はまだか!?」
「もうすぐ来られます!」
「ダメだ! 持たないぞ!」
「愛美ちゃん! しっかりしなさい! 愛美ちゃん!」
 医師や看護士の呼びかけにも、ベッドの愛美はまったく反応を見せない。そんな自分の姿をチラッと見てから、また愛美は話を続ける。
「私が病気を発症したのはあの時なの。あの角の向こうの素敵な景色を見た時に。私は幼心に感動しながら、その場に倒れたの。」
「お前はそれからどこにも行けない体になってしまった。他の子のように駆け回ることも、大声ではしゃぐことも、何もできなくなってしまった。それは大きな不幸ではないのか?」
 やはり愛美は首を横に振った。
「うふふ。私、あまのじゃくだよね。きっと普通の子ならすごい不幸だって言うと思う。でも私はそうは思わない。もし、あの時、あの角まで行ってなかったら。私は病気にもならなくて、元気な小野寺愛美でいられたと思うの。そしたらね、きっとお友達もいっぱいできて、恋もして、家族に愛されて。そんな普通の日々を送れたと思う。
 でもね、私はずっと思い続けるの。あの角の向こうを見られなかったっていう悲しみを。」
「その時は見られなくても、後でいくらでも見られるんじゃないのかね。」
「ううん。私にとってはその時でなきゃいけないの。人には大事な瞬間。その時じゃないといけない大事な時間があると思うの。私にとって、あの日がそう。後で見たところで何の感動も得られない。ただ後悔するだけ。きっと私は命を捨ててまで、あの景色が見たかったんだと思う。」
「なぜ?」
 老人の問いに愛美は迷わず答えた。
「感動に理由なんてない。」
 老人は押し黙った。愛美は更に続けた。
「だから私はこの人生を不幸なんて思ってない。」
「他の多くの子は毎日いろんな経験をしておる。そんな人生をうらやましくは思わんのかい?」
 やはり愛美は首を横に振った。
「ここで暮らした私の人生は他の誰にも経験できない私だけのもの。病室のベッドでずっと音楽を聴いていたり、好きな本を読み続けたり、想像にふけったりしていられる。世の中にはそんな私をうらやましく思う人もいるはず。人は何もかもすべてを経験できるものじゃない。私は私の人生に悔いは残さない。」
 老人はこれ以上ないほど優しい微笑を浮かべて深くうなずいた。
「では、ワシと一緒に行くか?」
 愛美はゆっくりとうなずくと、立ち上がった。体はすごく軽くてどこも痛みはなかった。老人は愛美に手をさし伸ばし、愛美はしっかりと老人の手を掴んだ。
「心停止!」
「心臓マッサージを!」
「愛美! 愛美っ!!」
 愛美の母が病室に飛び込んで来る。看護士のひとりがそれを制止する。医師は懸命の心臓マッサージを繰り返す。だが呼吸器の奥の愛美は幸せそうな顔を……。
「唯衣! なにボーっとしてんの!?」
 ふいに愛美に肩を叩かれた唯衣は思わず顔を上げた。
「ああ、愛美。ごめん、ちょっと考え事を…。」
「うふふ、また想像にふけってたって感じね。さ、パーティ始まるよ。主賓がいないと困るじゃん!」
「うん、ありがとう。すぐに行くね。」
 唯衣は松葉杖を持つと、それまでの病室や老人の想像を忘れて席を立った。そして多くのクラスメートと、愛美が焼いたケーキの待つ部屋へ、ギプスの足を引きずりながら歩いて行った。
 唯衣が今まで座っていた場所には唯衣のカバンと筆箱が残されていた。筆箱の蓋は開いていて、黄色い折り紙で折られたウサギがペンの間に見え隠れしている。そのウサギにはこう書かれていた。
『唯衣ちゃんへ』

あの角の向こうに 終


この作品はかなり前に書いたものの、まだどこにも発表していなかったものです。ちょこっと見直しましたが、誤字などまだあると思います。よろしかったら感想などいただけたら幸いに思います。
山鳥テル http://yamatori.web.fc2.com/













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