萩野古参機関士
主人公の台詞はすべて「―――。」と言った感じになっており、そのところは、貴方が勝手に考えて当てはめて下さい。
「坂道だ、くべろ」
萩野古参機関士のその言葉と共に、重心位置が厳密の作られたスコップ、小スコを握り直し、ガッと炭庫に先を突っ込んで石炭を山盛りに取り、紅蓮の炎が燃え盛る火室に体全体をもって投げ込む。ただ投げ込むのではなく、空気の通り道を考えながらくべるのが仕事だ。
「若いの、『男』だと言うなら、気合い入れてもっとくべろ。坂道の後には随道だぞ。」
クソッタレ、このやったら細い腕が怨めしい。んだらぁ、やったるわ。
一気呵成に石炭をくべて、黒煙を吐き出させてから、火室の焚き口を閉める。一瞬外を見ると、勾配票が、カァン!と凄まじい勢いで後ろに走っていく。明らかに速度超過で機関車は随道に向かって行く。随道進入を客に知らせる汽笛を、萩野古参機関士が鳴らすのと同時に濡らした手拭いで鼻から下を覆う。
間を開けずに随道に入る。中には光源はなく、また、逆流する煤煙に視界は薄暗くされる。排気ドラフトの重苦しい音、足回りがたてる甲高い金属の擦れる音、連結器がたてる重量物が勢いをもってぶつかり合うような音、それらが混じり合って反響しドロドロと不気味な音となって耳を刺激する。随道内では、極力石炭をくべない。文字どおり煙に巻かれて最悪廃人になるか死ぬ。ふと液面計を見れば、水位が下がって来ていたので、注水器のハンドルに手をかけた途端に、機関士が言う。
「力行中に注水器を使おうとするな。給水器を使え。どちらにせよ勧めはしないがな。」
「―!」
確かに力行、つまりは蒸気を供給し続けて力いっぱい走らせるときに、蒸気溜の蒸気を浪費し、冷たい水を入れるよりは、比較的温められた水を入れられる給水ポンプの方がいい。
高いところにある給水機のバルブを開く。給水ポンプに蒸気が入り、ピストンを動かすことによって水を吸い上げてゆく。給水温め器に一度水を送ってからボイラに入れるという形をとっており、給水温め器で100度ほどになった水がボイラに入るのだ。注水器では直接蒸気を使ってボイラに冷たい水を入れてしまうから厄介だ。
回して水を入れてから気づいた。そんなことをしたら、圧が下がってしまう。15気圧下のボイラ水の沸点は200度。そこに高々100度程度の水を入れれば、勿論水温は下がり蒸気の発生量は減る。思わず萩野古参機関士を見ると、意地の悪いにやにやとした表情で、こちらを見ていた。そして僅に頷く。さっきの勧めはしないってこの事かぁ!頷き返すと、この小失敗を取り返すべく、はいだらぁっとくべる。うっ、腹が痛い。まさかこの瞬間にキたのか?嫌だ。ボクは……
随道を抜けて一息入れていると、萩野機関士と目が合った。
「若いの、大丈夫か、顔が真っ青だ。」
「―――。」
「そうか、だが、倒れたら洒落にならん。」
「―――。」
「確かにあと、二駅、直ぐだけども、」
「――!」
「解った。『男』としての意地ってんなら、仕方ねぇ。」
★☆★☆★☆★☆
交代の駅に着いて、引き継ぎを終えると、萩野機関士は、先に行ってメシ食ってろと言った。抗議しようとも思ったけど、萩野機関士の目をみたとたんにそんな気持ちは吹き飛んだ。腹も痛いし、とっとと行こう。
ーーーーーーーーーー
「なあ、立脇、アイツ、管理局長のとこの娘だかなんだかだから潜り込んだバカだと思って居ったが、『男前』じやないか。」
「古参機関士がそんな風に言うとは思わなんだ。」
「なに、伊達に戦の前から機関士はやってねえ。戦の時なんざ、勤労学徒やら、女やら、本当にそういった連中と乗務しとったよ。それに比べりゃ、な?」
「古参機関士、アイツはどうなるかねぇ?」
「さあな。お上は蒸機や、俺らジジイを切り捨てたがってる。アイツが、機関士になる前に蒸機がなくなっちまいそうでなぁ。」
そう、時は昭和31年。もはや戦後ではないのだ。電化の話もちらほら上がり始めている。時には誰々が電気機関車やデーゼル機関車への転向をするなんて事もある。蒸気機関車の新造はしないとも聞く。大正以来の老朽機を置き換えないという事は、いよいよ蒸機以外のモノで置き換えるのだろうか。萩野機関士は煙草をくわえながらそんなことを考えていた。