現代社会ネクローシス 第一章 −旅立ち−
現代社会で闘うあなたへ、『空想的な終焉』という名のエールを…
というモットーで書いています。あくまでモットーです、人によっては余計気分を損ねてしまうかも…。ということで、暗い内容でもOKな、心強い方にオススメな連載小説です。
といっても、テーマ的にも、よりたくさんの人々にぜひ読んで頂きたいのが本音です。 少しでも私のメッセージが伝わったら幸いです、どうぞよろしくお願いします!
ネクローシス…細胞の壊死のこと。細胞の崩壊により、放出された加水分解酵素によって、周囲の細胞の壊死をひき起こすことも多い。 (一部略)
旺文社 生物事典 四訂版より
あなたは、最後まで、耳を傾けていてくださるのでしょうか。一つの仮定に過ぎない、このお話に……
※※※※
ある時代のあるところに、『東京都』という記号が、そこかしこに散らばった場所があった。
そこでは、とうの昔に誰も立ち入らなくなった巨大な箱が、いくつも、ひび割れた土地に突き刺さっていた。そのどれもがぼろぼろで、かつて空をも映し出していたであろう物質は、どこを探しても存在しなかった。重力に引っ張られ、壁を這う植物に誘われるまま、少しずつ大地へ戻ろうとする彼らを、ひき止める者はいなかった。そんな荒れた廃墟でも、いまだに、大きく天につきだした、細くて黒いかつての高級ビルだけは、“当時”の面影を残し、背筋を伸ばしたままでいた。その高さ故、まだ植物どもの侵略を受けずにいたのだ。現に、やせ細った小さな男の子を一人、頭のてっぺんに保つくらいの強度があったのも、納得できよう。
※※※
街で一番背の高い黒いビルの頂上から身をのりだして、ある夜、どうしようもない暗闇と目を疑うほど美しい星空の狭間で男子は、月光をも惑わすまぶしい光をじっと見つめていた。光は、ぐっと大きくきらめいたかと思いきや、何千何万もの光の筋となっていった。何の恥じらいもせず夜空を引き裂き、散らばり、真っすぐこの世にふってくる幾多の光の筋。その中で、とある命が燃え尽きる様を、彼はじっと目に焼き付けていたのである。頬をつたう涙を、拭うのも忘れて。
「ねぇちゃん……」
男の子がそう呻くように声をこぼしたのは、すべてのミッションが『成功』し、下界でうごめく群集がわっと歓声をあげた、その後のことだった。夜闇が長い間支配していた街のあちこちで、バチバチとぶっきらぼうに光がともる。と同時に、火の手がいくつかあがったものの、どれもたいした騒ぎにはならない程度のようだった。男の子は、生まれて始めて目にしたこの文化的な光の数々に、どうしようもない戸惑いと圧迫感を感じずにはいられなかった。ちょうど、突如空に追いやられた夜闇と同じような心地、といえばいいだろうか。こうして、男の子が生まれるずっと前に失われ永遠に戻ることのないはずだった文明は、過去から資源という資源、物資という物資を調達するという、時空間を超えたプロジェクトの成功により、再び世界を支配したかのように見えた。
生温い夜風が、さびれた時代の歯車をつき動かすかのごとく、ごーっと吹き抜けていく。自分のシラミまみれの髪がもみくちゃにされるのも気にせず、慄然と彼は目の前に用意されつつある時代に対峙していた。資源を失った人々は都会から去り、山や里で食べ物を見つけては物々交換を行う日々をつつましく送ってきた。産業革命以後誕生し使われ続けた機械製品はどれも、街に捨てられたり、資源が豊富な国に売られたりした。本が薪として使われるに従って、文字を読めない人が増えてきた。そのような時代に、男子は生まれ育ってきたのだ。この夜まで。それが、これから、この出来事をきっかけにどう変わってしまうというのだろう。
どうとでもなればいい。姉ちゃんが、姉ちゃんがいない世界なんて……
男の子は、そこではたと、海の方―半島の先がある方角を見た。実は、文明も何もないと思われた今までの時代でも、半島の先にある屋敷、『国立研究所』にだけ、唯一並外れた技術と頭脳を保持し進歩を続けた『人類』がいたのだ。なんでも、外には生まれてすぐ消える命が沢山ある一方、そこでは不老不死の科学者『仙人』がごろごろいるのだとか。そして自ら達の生活だけをより豊かにするべくしのぎを削り、何処からか資源をかき集めては、奴らは屋敷の中で研究をひたすら続けているらしい。今回の例のプロジェクトも、所詮そんな奴らの研究成果の一つにすぎなかった。結果的に、外の民の生活全体にも大きく影響を及ぼしたといった点で、今までの研究成果とは一味異なるのだが。
思いつめた男の子は、海へ、ちょうど半島の屋敷の方角へ向かう夜風に言葉を託してみた。
「姉ちゃんを返せ……っ!」
自分達外の人間を殺しても何とも思わない奴らが、愛する姉を強制的に奪い去った奴らが憎くて憎くてたまらなかった。一際輝く奴らの住処をじっと睨みつけてみる。だけど、いくら思いつめても何も起こらないし、何も変えられなくて。彼は、年の割には冷静な思考の持ち主なのであった。大きく息を吐き出すと頭を横にふり、そろそろとビルの内部に戻った。入ったとたん、目をまるくして驚く。来た時には、埃まみれで、今にも崩れてしまいそうなデスクばかりあったのが、今では綺麗なデスクが、その上に書類やガラクタを載せたまま、きちんと整列してあるではないか。
本当に、姉ちゃんは、奇跡を起こしてくれたんだ……
男の子はそうしてようやく、ミッションの『成功』を、実感することができたのであった。
下界に行く気はさらさらなかったので、男子は様変わりした最上階の角で縮こまり、明るい朝の訪れを目を閉じて静かに待つことにした。はじめは、目の奥でざわつく先の不気味な光の数々を追い出すのに必死だった彼だが、いつしか眠り込んでしまっていた。
翌日、男の子が目を覚ました時はもう、太陽は堂々と輝き、久しぶりに人気で賑わう廃墟の奥の奥までそのギラギラとした日差しをつきつけていた。男の子はすっかり赤くはれてしまった目をこすり、しばらく壁にもたれてぼんやりしていた。幸いにも男の子には、帰る場所、彼を待つ人がいた。それは、杉や檜ばかりで食物の全く乏しい山の麓にある家で彼の帰りを待つ、祖父の存在だった。
早く帰ってお姉ちゃんの死に際を教えてあげないと。
わかっていた。だけどやはり、動き出せず――夏の熱気にすっかりやられて、ひなびた菜っぱのごとく、灰色の空間にごろりと転がっていたのだ。赤い目を、ぱちぱちさせて。
あー、早く行かないと。そうか、僕、喉が渇きすぎて動きにくくなっているんだ。いけないなぁ。急いで降りないと。
キーキキーッ、バキボキギー
しぶしぶ立ち上がった男の子の体を、早速轟音と振動が襲う。男の子はその音に震え上がり、そっと、窓枠から下をのぞきこんだ。下では、車――彼には、ただうごめく機械だとしかわからなかったが、赤い車が、耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げて道端という道端に赤い液体を振りかざしては、ガタガタ走っていった。大切そうに物を沢山抱え込んだ人という人を、滅茶苦茶に跳ね飛ばしていったのだ。男の子は顔を青ざめて、目を反らした。ことの結末を見たくなかった。
バッガーン
ひときわ大きな音をたてて、朝の惨劇はひとまず幕をおろす。
男の子は身の危険を感じ、早くこのおかしな空間から逃げ出したくなって、無我夢中にビルの暗くて長い階段を駆け降りていった。そして、恐る恐る扉を開けると、
そこには、血まみれになった老婆が、転がっていた。
男の子は塔の中に戻ろうか、一瞬戸惑った。が、何かしてあげよう―少なくとも、手をさしのべることぐらいはしよう思い、向き直った。老婆は目を閉じ、顔を最大限に歪めて、痩せて尖った肩で息をしつつ腕で傷口を押さえて、じっと佇んでいた。
「あのー、大丈夫ですか?」
男の子は勇気をふりしぼり、かすれた声で問い掛けた。その時だ、老婆の目がかっと見開き、痩せこけた彼の全身を見渡した。そして、大声で次のように喚き出すではないか。
「自分が坊やだからっての、あ、甘えるんじゃないよ。わしが力尽きるのを待っておるんだろ? この馬鹿やろうが!」
「え、あの、ちが……」
老婆は懐から菓子パンをとりだすと、甲高い声でこう叫んだ。
「これはわしのパンじゃ!! わしが手に入れたんじゃ。くれてやるか! わしじゃっての、生きてるんじゃよ。」
そして、菓子パンをがつがつ食べ出したではないか。赤い血を地に滴らせつつ。男の子は、わっと泣き出したくなった。しかし、まるで金縛りにあったかのように動けない。老婆は、無事そのパンを食べ尽くすと、赤い塊を吐き出し、そのままぱったり倒れてしまったのだった。
「し、死んじゃった……」
男の子はくるりと背を向けると、駆け出した。目の端に、塔にめり込んで炎上する車と、一人の焦げた死体を蹴って蹴って蹴りまくる群集を感知してしまった時は、本当に身の毛がよだった。それほど水を飲んでいないにもかかわらず、汗ならぬ汗が後からわきだしては、彼の体力を余計に奪っていく。それでも彼の頭は、先の老婆のことでいっぱいだった。
直接の死因はあの暴走車だということはわかっている。何が理由であんな事態を引き起こしたのかはわからないが、多分、食料が上手く手に入らない現実に嫌気がさし、やけくそになって無差別に人を跳ね飛ばしたのだろう。しかし、もっと嫌なのが、死んだ運転手の行為でない、この自分の存在だ。自分が存在しなければ、あの老婆は、死ななかった、とまではいかなくとも、あんなぎらついた目を剥き出した恰好で、死ぬことはならなかっただろうに。ただ佇んでいるだけの、そんな自分の存在に、恐怖を感じ死んでいった人がいる、これほど、悲しくて、おぞましいことはあるだろうか。
男の子の頭は、たてつづけに起こった衝撃的な悲劇に、すっかり困惑しきっていた。そして、ようやく目的の、河原に辿りつくと、
そこには、得体の知れないモノども―そのほとんどが空き缶やビンなどであったが、むろん男子にはそれが何なのかわかるわけがない―に、埋め尽くされた河が横たわっていた。
透き通っていたはずの水は、黒く淀み、悲哀にあふれた異臭を放っていた。その様に絶句したのは、言うまでもない。
「どう、しよう?」
疲れ果てていた彼は、ふらりふらりと、今にも倒れそうないきおいで崩れかけた堤防を降りると、河のすぐ側にしゃがみこんだ。鼻を押さえつつ、そっと泡をふく水をすくってみる。ひどい喉の渇き故、はじめはまだ飲んでやろうと思っていた。しかし、その水の感触―ドロドロと震える指の間から落ちる液体を眺めて、すっかり気がかわってしまったのだった。
どうしよう。こんなところで僕、干からびたくない。
男の子の目の前を、ピカピカ光る缶が通り過ぎようとしたのは、そんな時だった。もしかしたら、あの中には、飲める水があるのではないか。そんなわずかな期待を胸に、彼は迷わず缶を持ち上げてみたのである。
どぶどぼどぼっ
「ギャッ」
男の子は、缶から漏れだした紫の液体に驚き、思わず体勢をくずしたのだった。缶を河へつき戻して。缶は浮き沈みを繰り返しながら、無限の空間へ静かに流されていく。男の子はその空き缶の運命に、自分が思わず投げ出したがばかりに、無限にさ迷いつづけなければいけなくなったその空き缶の境遇に気づき、泣き出したくなった。そして、ついに膨れ上がった感情を抑え切れなくなって、彼は大の字に倒れ込む。ふと、右腕をあげ、針金のように細い指の一本一本を、太陽にかざしてみる。もう、何も動きたくなかった。知りたくなかった。
祖父に会いたいだけなのに、家に帰りたいだけなのに……
男の子が死を覚悟したその時だ。ブシューっと、大きな破裂音がしたかと思うと、すぐ近くで水が吹き出す音が、あの水が地面にたたき付けられる音が、するではないか。男の子ははっと目を開けた。はいずるような格好で河原をよじのぼった。
み、水だぁ!
そこでは、劣化した管の亀裂からきらめく水のしぶきが沸き上がり、周囲を濡らしていた。男の子は目を輝かして、迷わず水しぶきの中へと飛び込んだ。大きく口を開け、全身が濡れていくのも気にせず嬉しさのあまり跳びはねて、飲めるだけ飲んだのだった。少しだけ、生きる活力を見出だした時には、吹き出していた水は止まり、ただ、真っ黒な管が地面に横たわっていたのだが。そう、彼と同じような目的で河におとずれた人々が、管をもっと根本の方で破壊し、水の流れをすっかり我がものとしていたのだ。
男の子は濡れた髪を顔からどけるとそそくさとその場を去った。
誰にも話し掛けずにいよう。もう、どんな爆音や悲鳴がしようと、自分のことだけ、自分が生きて家に辿りつくことだけ考えよう。祖父のためにも、何か食料を持ち帰りたかったけど…奪われるのも嫌だし、かといってそれを求める人をはねつけるのも嫌だ。今まで通り、つましく生きのびていけたらいいや。季節は夏なのだし。
彼はそう心に決めて、ただ地面ばかり見るような格好で、歩き出したのだった。
※
とある街角に差し当たった時のこと、
「あら、ジュン君じゃない!」
急に聞き覚えのある声がして、ようやく男の子―ジュンは立ち止まり、顔をあげた。そこでは、積み上げられた灰色の変わった物体―何かカプセル状の巨大物を壊そうと、沢山の人がよってたかって手に手に尖った物体を握りしめ、ねばっていた。そして、その人だかりの中に、確かに、近所に住むおばさんを見つけたのだった。彼女はラテン系の日本では珍しい外国人女性で、両親を病で亡くしたジュン達を気の毒に思い、時々やってきては食べ物をくれる数少ない優しい人でもあった。現に今も、物体の山から彼の姿を見つけ、新聞紙にくるまれた焼き芋を両手に駆け付けてきてくれたのだ。
「はぁ、はぁ……ちょうどいいところに来てくれたわね、あんたのこと気にかけた所だったのよ。って、まぁ」
おばさんは普段通りの笑顔でやってきたわけだが、ジュンのつかれきったオーラと悲しみに満ちたその目に気づき、さっと表情を硬くした。
「えっと、そうね。お姉ちゃん、お気の毒だったわね。はい、これ。焼き芋二つ」
そう言って、焼き芋をジュンの胸に押し付けてくる。ジュンは新聞紙からのぞく焼き芋を目にした。それはそれは、まるまる太ったおいしそうな焼き芋だった。だけど、どうしても手が出せない。それは、何も食べさせてもらえないまま旅たった姉や、今まであったことを考えての無意識的な拒絶だった。そんなジュンの複雑な気持ちを察したのであろうか。おばさんは息を吐くと流暢な日本語で、こうせがんできた。
「遠慮しないで、受けとって頂戴よ。じゃないと、私が困っちゃうわ。あなたのお姉さんのおかげでね、私は久しぶりに、めいっぱい食べることができたのよ。リカちゃんに、何もしてあげられないけど、リカちゃんが愛した、あなたにこうやってすることで、おばさん感謝の念を伝えられるかなって思っているの。だから、食べて頂戴。おばさんからのお願い、ね?」
「…。」
「焼き芋食べたら、きっと元気がでるから。さぁ」
ジュンは、そうしてようやく、食料を手にしたのであった。そこに、水を得て、喜んでいた先ほどの彼はいなかった。
「今、食べないの?」
「はい。祖父と一緒に、家で頂きます。いつもありがとうございます」
ジュンは深々と、頭を下げた。
「あらあら、いいのよ。遠慮なく食べてね。言わなくてももうわかっているでしょうけど、くれぐれも気をつけて帰るのよ。世の中物騒だからねぇ。あ、それと、これもあげる」
おばさんはポケットから飴玉を取り出すと、丁寧にその包み紙を外し、ジュンに見せた。
「ほら、お口を開けて。これは飴玉と言ってね、とっても甘くておいしいのよ。いざ、悪い奴から逃げなくてはいけない時、腹ぺこじゃぁ話にならないでしょう?」
ジュンはこくりと頷くと、口の中に飴玉を入れてもらった。その甘さとおいしさに、思わず顔がゆるむ。さっそく飴をかみ砕こうとする彼に、おばさんは急いでこう言い足した。
「噛んじゃだめよ。優しく嘗めるの。くれぐれも喉につまらせないように」
「はい、気をつけます。ありがとうございました」
「あ、それとそれと、もし焼き芋食べて、元気が残っているのなら、またここにおいで。あれを崩すの、手伝ってくれる人を探しているのよ」
おばさんは灰色のカプセルの山を指差すと、ぺらぺらと喋りだした。
「じつはね、私が見つけだした食料は、たいていああいった固い箱の中にあったのよ。ま、どれも何処かに開けるふたがあって、そこを開けたら食料が詰まっているって感じだったけど、あれは蓋がなくてね―というか、どうやって開けるか全く検討がつかなくて。で、しかたなく打ち壊そうとしているわけだけど、それがまた頑丈でねぇ。人手がほしい、と思っていたところなのよ。知っている? 昔から、やがて資源が枯れ果て、食糧が圧倒的に足りないような状況になるっていう予測はあったらしいのよ。だから私は、その昔の時代からやってきたあの中には、大切な食糧やら生活用品やらが、厳重に保管されているのではないかって 考えているの。ほら、例えば、誰か部外者に襲われて奪われないように、と。あなたはどう思う?」
ジュンは改めて、そのカプセル状の物体の山をまじまじと観察した。どれも同じ、のっぺりとした円柱である。それらは先っぽがすこし盛り上がっているのが印象的な、コンクリートの塊だった。彼女の言う通り、よっぽど頑丈に出来ているらしい。数人の大人が必死にピッケルで突いているが、びくともしない。
「僕も、そう思います……」
「そうよね、私もそう思うの。さ、はやく帰って、またこっちにおいで。でないと、あの中の食糧が他の人に全部とられてしまうかもしれないから」
「はい、また来ます」
ジュンはそう上辺だけの返事を残すと、
「それでは」
と一礼し、その場を後にした。
「じゃぁね、また来てねー」
おばさんの明るい声が耳に残る。ジュンはきわめて複雑な面持ちだった。
※※
結局、ジュンが家に辿り着けたのは、日がすっかり沈んでからだった。ジュンは焼き芋を二つ、しっかり抱いて、なんとかあの廃墟から抜け出せたのであった。
「じいちゃん、ただいま」
へとへとな足取りで、枯葉の積もった蚊帳の中に入る。ジュンの祖父はその中で、木に寄り掛かって座っていた。息こそあるものの、すでに動けなくなるほど衰弱していたのである。
「おぉ、おぉ。ジュンや。よう帰って来た」
しわがれた声でいうと、祖父は、深いしわが刻まれたその顔をめいっぱい緩ませ、椅子の足のように細い腕をあげた。
「おじいちゃん、あのね、あのね……」
焼き芋と、帰り道の途中で河の上流部でくんだ、きれいな水が入った容器をその場に落とすと、ジュンは祖父のひざ元へ崩れおちていった。祖父に抱かれてようやくひとしきり泣くことができたのだ。祖父は、そんな彼の頭を優しく撫でたのであった。
「つらかったのぉ」
祖父がそう、頃合いを見て、彼に話し掛ける。
「うん。うんうん……」
ジュンは大きく深呼吸を繰り返すと、涙をぬぐい、ふらつきながらも立ち上がる。自分の役目を思い出したのだ。
「おじいちゃん、あのね……これ。お水と、焼き芋」
奥から水と二つの焼き芋を持ち出すと、祖父の側に置き、座り込んだ。
「ほぉ。ありがとうな、ジュンや。焼き芋かぁ。なつかしいの」
「うん。あの、近所のおばちゃんがくれたんだ。お姉ちゃんに、感謝していたよ」
祖父が目を細める。
「ほぉ。そうかそうか……よかったの。リカもきっと、お前が元気であればあるほど、嬉しく思うだろうて」
「僕は、嬉しくない」
ジュンは間髪いれずはっきり言い切った。
「ジュン」
祖父は顔をしかめて、低い声でこうとがめる。
「こんなところで強がって、命をけずっては、いかん。誰が、誰がリカを覚え、リカを思う?わしゃもう後先短い。お前しかいないのだよ。ほら、焼き芋を食べた、食べた」
「嫌だい。僕、おじいちゃんの為に持って帰ってきたんだよ。僕お腹いっぱいで、いらない」
「ジュン、食べなさい」
「嫌だ」
「現実が受け止められずにいるのも、わからんわけじゃない。お前が姉を愛しているからこそ、食べるのを拒わりたくなるのも。じゃがの、わしを困らせるつもりか? リカが命を絶ってまでした奇跡を、無駄にするのか?」
ジュンは黙り込んだ。どこからか、秋の虫の音が聞こえてくる。いよいよ辺りが暗くなってきたのだ。しばらく間を置いて、
「ほら、お食べ」
祖父が丁寧に新聞紙をほどいて、焼き芋を彼に手渡してきた。ジュンは黙ってじっと芋を見つめていたが、突然、ガブリと勢いよく噛み付いた。
黙々と食べ続ける彼の目から、後から後から、大粒の涙がこぼれては土を濡らす。祖父はそんな彼の様子を見て、どこかほっとしたようだった。
「ほほぉ、偉いぞ、ジュンや。ありがとうな」
ジュンは目をこすると、口に芋を頬張ったまましゃべる。
「ん…。あり、じいちゃん食べないにょ? ごれ、すっごくおいびーよ?」
「ほぉ。そうじゃの。わしも少しもらおうか」
祖父は芋を適当に分割し、大きい方を、ジュンの足元にある新聞紙の上に置いた。
「どうじて? ぼく、ごれ以上、いらないじょ?」
「わしゃ、朝も昼も、ずっとここで座っておるだけじゃ。こんなにも食べなくとも、平気じゃよ。さぁ、お食べ」
「でも……」
「早く食べないとな、虫がわいてしまうよ。もったいねぇ話じゃないか」
「ぶわぃ」
ジュンのぼやけた返事が、場を和ませる。祖父とジュンはめいめいに食べ終わるとごちそうさまを言い、寝る準備―といっても藁くずをかき集めるだけなのだが―をした。ジュンははじめ、都会で見たこと全て祖父に報告しようと思っていた。だけど、焼き芋という絶妙な甘さを存分に堪能できた今、このせっかくの幸福感を台なしにしたくない…。結局、喉まで出かかった言葉のほとんどが言えずじまいだった。忘れてしまおう。幸せなことだけ覚えておこう、というわけだ。それでもやはり、祖父に伝えたいことはあったのだが。
「おじいちゃん?」
ジュンは自分と同じように藁くずの上に横たわっているであろう祖父の方向を向いて、呼びかけた。
「おぉ、なんじゃ? ジュンや」
「おじいちゃんの所からも見えたんじゃないの? 昨夜の光」
「あぁ、あぁ。よーぉ、見えたとも。そうじゃな、優しいリカの最期を飾るに相応しい、綺麗な光じゃったのぅ。悔しいことにな……」
「お姉ちゃん、幸せに逝けたのかな? 向こうで、何かひどい目に会うことは無かったのかな?」
「うむ。百年ほど前の地球はの、まだまだ資源がたくさんあって、教育機関も充実し、人間の道徳もしっかりしておったらしい。大丈夫じゃったろう。人として、親切に扱われ、暖かく送り出されたんじゃないかの」
「そっか。それならまだ、良かったとは言い切れないけど、安心したや」
「それになぁ、もう一度言うが、お前が元気に生きる限り、彼女の世間様への奉仕は報われたこととなる。忘れるんじゃないぞ。生きるのは必ずしも楽ではないがの……。彼女のような、犠牲者がいることを忘れちゃいかん。お前の両親も、きっとリカと同じ気持ちじゃろうて」
「ふーん。…お姉ちゃん、天国でパパやママに会えたのかな?」
「もうとっくに会っておるじゃろうて」
「なら、良かった」
しばらく沈黙の後、おやすみ、と祖父が言った。おやすみ、とジュンも答える。一人欠けてしまったものの、それは普段通り和やかな夜の訪れのように思えた。しかし、目をつむると一転、血だまりの中口を開けたまま動かなくなった老婆、無謀な運転の果て、死んでもなお人々に蹴られる運転手、河の果てに消えていった缶―などが、わっとジュンの心をしめつけてくるではないか。ジュンは必死になって数千という光に包まれ笑顔で亡くなった姉を想像し、とにかく、気持ちを落ち着かせようとした。
姉ちゃん、助けて。姉ちゃん、パパ、ママ……
その夜、ジュンはずっと震えていて、なかなか寝付けなかったのであった。
※※※
それでも、人間不思議なもので、いつかは勝手に眠ってしまうものらしい。ジュンがはたと目を開けた時、辺りはすでにうっすら明るくなっていた。せわしく鳴く蝉の音がふってくる。が、最近、その鳴き声は日に日に弱っていく一方だった。夏も、終わりに近づいてきたのである。ジュンは、そっと起き上がると、ため息をついた。まだ眠り足りないのが正直なところだったが、かといって布団にもぐるのもまた怖い。ジュンはふと、自分の近くに転がっている、昨日まで芋をくるんでいた新聞紙を拾い上げた。文字が全く読めなくとも、絵や写真の一つや二つ見て眠気を晴らそうとしたわけである。
「あれ?」
ジュンは目を見張った。手にしたのは、もっぱら絵柄が中心で、まるで何かの宣伝のように伺われるページであったのだが、驚くのも仕方ない、なんとそこに、昨日ジュンが街角で見かけたあの巨大なカプセルとそっくりな絵が描かれていたのだ。それは、例のカプセルが大きな白い建物の地下かなり奥深い場所に管を通して埋められている、といった内容の絵だった。もちろん端には大きな字で説明らしき文章が付け加えられている。
ジュンの声に目覚めたのであろう。ジュンの祖父は大きく伸びをすると、ジュンの方に向き直った。
「おはよう、ジュンや。どうしたのじゃ?とても驚いた顔をして」
「あ、ごめん、起こしちゃったね」
「いやいや、構わんよ。それより、何かその紙にあったのかい?」
「…うん。あのね、ほらコレ見て。コレと全く同じの、僕昨日見たんだよ。街角で。」
「ほう。見せてごらん」
ジュンは祖父に新聞紙を渡す。幼少時代にほんのわずかな期間だったが教育をうけた祖父は、顔を記事に近づけて、黙読しはじめた。しばらくして、ジュンに問う。
「これは、どんな状態で放置されていたのじゃ?」
「ん? あのね、なんかいっぱい山積りになってて、大人の人々が一生懸命壊そうとしていたんだけど、ビクともしないんだ。おばさんいわく、中には食糧やら生活用品やら入っているんじゃないかって話だったけど……違うの?」
「なんということじゃ。まったく真逆じゃよ。こりゃ、大変じゃ。早く止めてやらにゃ、いかん」
ジュンは眉をひそめて、祖父に尋ねる。
「じゃ、何が中に入っているんだって言うんだい?」
「猛毒じゃ。あぁ。世界をまるごと滅ぼしかねない破壊力を持つ、毒…だと思うぞ、確か。ワシも記憶が確かじゃなくての、すまないね。でも、人体に有毒なのは確かじゃ。なんせ、人を殺す武器として使われるくらいじゃったからの」
「なんで、地下に埋めたの?兵器を作るため?」
「違う違う。こりゃまた、矛盾した話に聞こえるかもしれんがの、その毒は、発電…昔の人は、生活するのに電気が不可欠じゃったのは、知っておるだろ。その電気を創りだす際、一緒に出来てしまう困った毒なのじゃ。確かな。なんてったって、ワシが生まれた頃にはもう、電気を得る手段という手段が、すでに途絶えてしもうていたから、全て人伝えと、この新聞記事から読み取ったことから、わしが考えたことに過ぎないが」
「昔の人は、その毒をなんで地中に埋めたの?」
「その毒を処理しきる技術がなかったのじゃ。今現代もあるとは思えんが…。とにかく、地中奥深くに埋めたら、大丈夫じゃろう、だなんてノンキなことを考えておったのだろうよ。まさか、今回のプロジェクトで、引っ張り出されてしまうなんて、思ってもいなかったんじゃろう。いや、それにしても、まずいぞ、これは。」
祖父が唇をかみしめる。ジュンはまだ事の重大さがわからず、首を傾げるばかりだった。
「とにあえず、おばちゃん達を止めたらいいんだよね?それなら僕、できるよ!その物体が転がっていた場所、覚えているし」
ジュンが祖父に言う。祖父はうーむ、と唸った後、
「それじゃ、いかん」
とだけ、答えた。
「どうして?」
ジュンの怪訝そうな顔。
「お前がいくら、頑張って―この記事を持って、訴えかけたとしても、誰も信じてくれんじゃろう」
「だけど、早く止めてあげないと、大変な事に……」
「そうじゃ。じゃけど、お前はまだ子どもだ。直接言っても、何の効果もないばかりか、大人達はお前を襲ってくるかもしれん。うるさい、邪魔をするな、とな。じゃから、そうじゃの、あの『国立研究所』におる、お偉い方に言ってもらう方がいいと思うのじゃが……」
「え、もう一度あそこに行かなきゃいけないの? お姉ちゃんを殺した、あいつらに、会わないといけないの?」
「まぁ、それが一番安全で、一番確かな方法じゃ」
祖父はうつむいて、ため息交じりにそう答えた。ジュンがわめく。
「嫌だよ! 僕嫌だ、そんなの。できないよ……。たとえ世界が滅びようとも! そこは譲れないよ?」
「待て待て。そう焦るな。お前は確かに、あの『日本研究所』の、出口のあの門の所まで行かなきゃ、何にも事態は改善せん。しかしの、別に奴らに会って話しをしなければいかん、というわけでもないのじゃよ。奴らは変なプライドの塊じゃからの、ほら、リカの時のように、門番に話せば、それでいい。相手も、門番を通じて、お前と話しをしてくるじゃろう。遅かれ早かれ、奴らの耳に、この現状が届けば、それで何とかしてくれおるじゃろ……奴らに、良心の一欠けらでも、残っておれば、の話じゃがな」
ジュンは祖父から目をそらし、小声で呻いた。
「僕、それでも嫌だよ」
「ジュンや。おぉ、ジュンや。お前は悪うない。全ては、足すら動かんワシが悪いんじゃ。足すら動けばぁ、足すら動けばぁ、こんなかわいいお前に、危険な目を合わせるなんてことは……」
そこで祖父の言葉は途切れた。かと思えば、すっかり茶色に変色し、ハエがたかるようになった足―いまにも骨がすけてしまいそうな勢いの足を、ばしばしと、力をこめてたたき出したではないか。ジュンはびっくりして祖父を見上げた。そこには、ジュンが生まれてはじめて見る祖父の泣き顔があった。ジュンが急いで、祖父の腕を押さえる。祖父は、我に帰り、腕からふっと力をぬくと、涙声でジュンにせがんた。
「世界を救えるのは、お前だけなのじゃ。つらいがの、難しくて、全く理不尽なお願いじゃがの、無力なワシを許しておくれ。こんなご時世まるごと、許してやっておくれ。…あぁ、全く、なんでこうも、あぁ」
顔を抑えて呻く祖父を、ジュンが見ていられなくなったのも、仕方ない。
「ぼ、僕行くよ。行ってみて、最善をつくしてくる。だから、じいちゃんはここで待っていて」
祖父がジュンの方を見、尋ねる。
「ホントに、してくれるのかい? それで、いいのかい?」
「うん。姉ちゃんの変わりに、お願いしに行くんだ。きっと姉ちゃんが、今ここに生きているなら、きっとこの事態に、人一倍、悲しむだろうからさ。そう思ったら、僕、平気さ。だから、もう、泣かないで」
ジュンはまっすぐ祖父の方を見据えると、そう、勇気を振り絞って言いきったのだった。
「ジュンや」
「ん? どうしたの?」
「本当に強くなったのぉ。あぁ、今やお前だけがワシの光じゃ。どうかの、元気に無事、帰っておいで。もしも、相手が頑なに言うことを聞かんようなら、諦めて、さっさと帰っておいで。そうなれば、もう、時の運にまかせるしかないけどな。お前の命が、一番大切なのじゃよ。あぁ、神様の加護がありますように」
「僕なら大丈夫だよ? だって、ほら、パパやママ、姉ちゃんが見守ってくれているんだもの」
そんな強がった台詞を言ってみせたものの、ジュンは目に熱くこみ上げてきた涙を抑えきることができなかったのだった。
※
とある荒廃した山の藪の中、一人の足が腐った老人と一人の少年が抱き合って、おいおい泣いていた。どれほど泣いただろう、ついに涙まで枯れはてた時、少年は老人に言った。
「僕、早く行かなくちゃ。手遅れになっちゃう」
老人は軽く頷き、小さく言う。
「そうじゃのう、そうじゃった」
少年は笑顔で立ち上がると、木にもたれかかったまま動けない老人に言った。
「元気で待っていてね。僕、絶対帰ってくるから!」
「あぁ。ここで待っておるとも。いつでも、帰っておいで」
少年は老人と別れの挨拶を交わした後、山の外へ、得体の知れぬ煙渦巻く都会へ、輝く太陽を仰ぎつつ歩いていったのだった。自分の身の上を思い涙を流す祖父を前に、ろくな言葉をかけてやれなかった事実を、己の弱さを悔やみながら。