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君の声
作:葵 凜香


「亮とは二度と口ききたくない!」
 別れる時、麻美に言われた言葉だった。

 亮と麻美は数カ月前に別れた。
 学生の頃はいつでも優しい亮だったが、就職してからは仕事に追われていた。慣れない仕事で亮はストレスが溜まり、麻美にあたることも度々あった。お互いの不満は些細な口喧嘩で爆発し、三年の付き合いに終わりを告げた。あの言葉を投げつけた麻美は、それ以来亮の前に姿を見せることはなかった。
 亮はずっと後悔していた。別れて気付いたのは自分の勝手さと麻美への気持ち。今でも麻美のことが心から離れていなかった。

 亮は仕事に向かうために電車に乗ったが、考え事をしていて先頭車両に乗ってしまった。出たい改札は後方で、人の波に逆らって長いホームを歩いた。すれ違う大勢の人々は怪訝な顔で亮を睨んでいた。
 思いっきりぶつかり、相手の携帯が足元に落ちてしまった。しゃがんで携帯を拾い、すみませんと謝りながらそれを差し出し顔を上げた瞬間、2人の動きがピタリと止まった。
「……麻美?」
 目の前にいたのは麻美だった。驚いた顔で唇ははっきり『りょう』と名前をかたどった。我に返った麻美は無言で携帯を受け取り、おじぎをして亮の横を擦り抜けて行った。
「麻美!」
 亮は慌てて麻美の腕を掴んだ。
「少しでいいから話し出来ない?」
 振り返った麻美は困った顔で首を横に振った。すぐに次の電車がホームに入り、またたくさんの人がホームを埋め尽くし流れて行く。掴んだ手は離れて麻美は人の波にのまれて行った。
 本当にあっという間の出来事だった。
 その場に立ち尽くす亮にまた人々がぶつかり我に返った。時間が無いことに気付いて、とりあえず急いでオフィスに向かった。
 それから数日間、亮は駅で麻美を探し続けた。いつもより早く家を出て、ホームの端で麻美が通るのを待っていた。未練がましいのはわかっているが、どうしても話がしたかった。今の気持ちを聞いて欲しかった。
 でも何日待っても麻美に会うことはできなかった。

「桐原元気ねぇじゃん」
 仕事の昼休み、同僚の吉永がボーッとしている亮の頭を軽く叩いた。亮は深い溜め息をついた。
「俺ってそんなにおかしい?」
「最近よくボーっとしてる。何かあった?」
 吉永は缶コーヒーを渡しながら向かいの席に座った。
 吉永は同僚の中で一番親しく、付き合っていた頃から度々麻美の話をしていた。
「この前な……麻美に会ったんだ」
「麻美って元カノの麻美ちゃん?」
 吉永はタバコをくわえ、ライターを取り出しながら話を聞いた。
「2週間くらい前に駅で会ったけど、全然話できなくて。あれからずっと駅で張ってるけど、アイツ通らないんだ」
 亮はもう一度深い溜め息をついた。そんな様子を見ながら吉永はニヤリと笑って見せた。
「俺、麻美ちゃんがよくいる場所知ってるけど?」
 吉永の言葉に亮は勢いよく食いついた。
「マジで?! ドコ?!!」
 気付けば亮の顔は吉永の顔が目の前にあった。
「うぉ! お前焦りすぎ! 改札出たトコの喫茶店、帰りにあそこにいるのたまに見かけるけど」
 落ち込んでいた亮に少しの希望が生まれた。

 その日の夕方、亮は仕事の合間をみて吉永から聞いた喫茶店に向かった。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
 店内を見回すと一番奥の席に麻美がいた。亮はウエイトレスを声はほとんど聞かず麻美のもとに向かった。
「一緒にいい?」
 麻美は顔を上げて亮を見てすぐに視線を読んでいた本に戻した。亮は向かいの席に静かに座って、コーヒーを注文した。
「ちょっとでいいから話聞いて」
 麻美は本から視線を外さずにバッグからノートとボールペンを取り出した。そこで視線を外してたが、左手には本を持ったまま素早く文字を書いて、ノートを亮の差し出した。
”読書中”
 亮は目を丸くして顔を上げた。
「なんでノートに?」
 不思議で聞いてみると、麻美はノートを自分の方に引いてまた文字を書いた。
”別れる時に『もう口きかない』って言ったから”
 亮は呆気にとられていた。
「……は? ってかそんなこと今さら」
 麻美は亮の言葉を遮るように軽く睨み、ノートを取り上げた。
”私の勝手でしょ?!”
 頑固モノ……。
 麻美のそんな性格は数ヵ月では変わってなかった。こうなると麻美は意地でも話さないつもりだろう。亮はため息混じりに少し微笑んだ。
「わかった。話を聞いてくれるだけでいいから」
 麻美はやっと本を閉じた。
「俺、麻美と別れてからもずっと麻美のこと考えてた。あの時は本当にごめん!、 何て言うか……俺はまだ好きだから。
やり直すのは無理かもしれないけど、たまにでいいから会ってくれない?」
 亮は思ってる事を飾らずに伝えた。麻美はしばらく考えてノートに文字を書き始めた。
”私も亮のことずっと気にしてた。あんな別れ方だったしね。亮とはもう付き合えない。友達でいいなら”
 読み終わって顔を上げると、麻美は伺う様に亮を見ていた。友達だって釘を刺されたけど亮は嬉しかった。麻美とまた繋がりができたのだから。
 亮はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、時計を見て立ち上がる。もうオフィスに戻らないといけない。
「じゃあまたここに来るから!」
 そう言うと麻美は笑顔で手を振った。店を出た亮は思わずガッツポーズした。麻美とちゃんと話を出来るようになりたい。亮はそう思いながらオフィスに向かう。その足取りは異常に軽く感じた。

 麻美は振りながら亮がノートに残したメールアドレスに目をやった。
『俺はまだ好きだから』
 耳に残ったその言葉を噛み締め、麻美はゆっくり微笑んだ。
 店を出て行く亮を見て、自分のも教えておけばよかったと思った。でも麻美は亮を呼び止めることはできなかった。
 付き合ってた頃、亮はいつも優しくしてくれた。でも就職してから忙しさで会えないことが増えた。麻美もしかたがないことだとわかっているつもりだった。しかし、そんな理由を無視して麻美は拗ねたりわがままを言ったり。ただでさえ仕事で疲れている亮に追いうちをかけ、小さな喧嘩で大きく爆発した。
『亮とは二度と口ききたくない!』
 ……ウソでも冗談でも、例え一時的な感情だとしてもあんなこと言ってはいけない言葉。そのせいで二人の関係は壊れ、さらに罰が当たった。麻美は大きなため息をついた。
 亮と別れた後で麻美は喉に腫瘍が見つかり、手術の結果声を失った。麻美はあの時のことを声にして謝ることもできない。

 麻美は仕事帰りにできるだけあの喫茶店に寄るようになった。あいかわらず仕事が忙しい亮はもちろん毎日来る訳じゃない。それでも時間を作って会いに来てくれた。
 前とちっとも変わってない。麻美の好きな亮のままだった。
 亮の言葉を耳で聞き取り、ペンが文字にして答える。返事はしない、笑い声も出せない。麻美は変だと思われないか、といつも不安になりながら話をしていた。
 亮から何も言われないまま半年が過ぎた。

「おっ! 麻美ちゃん!」
 麻美がいつもの様に一番奥の席で本を読んでいると、男の人が声をかけてきた。
「わかる? 俺!」
 吉永だった。亮と付き合ったいた頃に何度か一緒に食事したことがあり、麻美は笑顔で頭を下げた。
「今日は桐原来んの?」
 多分来ないと思います、心ではそう思ったが麻美はただ首を横に振った。
 声を失くして、『はい』か『いいえ』だけで答えることがすごく増えた。でもそれだけじゃ答えられないことは山のようにある。
「麻美ちゃんさぁ、……そろそろ桐原と口きいてやってよ」
 吉永にそんなこと言われるとは思わず、麻美は視線を落とした。
「アイツさ、麻美ちゃんとちゃんと話せるのすごい楽しみにしてるよ? 付き合うとかそんなの無しでちゃんと話しない?」
 麻美はノートとペンを取り出して文字を書いて、吉永に渡した。
”今から書くこと、亮には言わないで下さい”
 ノートを見て、吉永は眉間に皺を寄せた。
「……なに? 俺とも喋ってくれねぇんだ?」
 吉永の一言が心に刺さる。麻美はノートを手元に戻して、また言葉を書く。視界は涙で歪んでいた。
「麻美ちゃん、泣いてんの?」
 麻美は首を横に振って、吉永にノートを差し出した。
”吉永さんごめんなさい。
私、声が出せないんです”
「どういう意味?」
 予想外の答えに吉永は少し困惑していた。麻美は文字を続けた。
”手術をして声帯を取り除きました。
今の私は声を出すことができません”
 読み終わった吉永はゆっくり麻美を見た。麻美も顔をあげて視線を合わせ、『ごめんなさい』と口を動かした。
「ごめん……マジでごめん!」
 吉永の表情は罪悪感に満ちていた。麻美はそうさせたことを申し訳なく思った。
”亮には言わないで下さい。
同情とかされたくないんです”
 麻美はキレイな言葉を並べた。本当は嫌われたくない、その一心だった。今のままでいいから、もっと亮と過ごしたい。亮に好きでいてほしい。だから麻美は隠し続けることを選んだ。せめて亮から愛想尽かされるまで。
 吉永は何度も謝って店を出て行った。
 もう少し待っていたら亮が来るかもしれない。でも、麻美は伝票を持って席を立った。今日だけ笑って会える自信が無かった。

 夜になって麻美の携帯が鳴った。
『今ヒマ?』
 亮からのメールだった。
『うん、ヒマだよ』
 麻美はすぐに返事をした。メールだと対等に話せてる気がした。
『今日いなかったけど忙しかった?』
『うん、ちょっとね』
 麻美がメールの返信を待っていると、いつも使われていない着メロが鳴った。
 ――着信 桐原 亮
 慌てた麻美は、無意識に通話ボタンを押していた。耳に当てると、亮の声が響く。
「もしもしくらい言えって」
 声を期待していた亮は少しの間を掻き消す様に笑った。麻美はその笑い声がチクリと痛かった。
「まぁいいや。聞いてくれるだけでいいから、わかったら電話をトントンって叩いて」
 麻美は通話口を2回叩いた。
「麻美に会うようになってもう半年以上経つだろ?俺なりにいろいろ考えてるけど、今結構楽しいよ」
――トントン
「昔の俺のこと、許してくれてる?」
 麻美は大きく頷きながら携帯を叩いた。
「よかった!」
 ホッとしてる亮を思い浮かべて、麻美は笑顔になった。
 亮は息をゆっくり吐き、話を続けた。
「俺、やっぱりまだ麻美のことが好きだから、友達っていうのは正直キツイ」
……トントン
「もう一度付き合って欲しい。ダメならこの先、一切連絡しない。もしOKならちゃんと声に出して返事して」
 嬉しかった気持ちが一気に地に落ち、麻美から笑みが消えた。
 麻美は目を閉じて、気持ちを胸一杯に溜めた。そしてゆっくり口を動かす。

”私もだよ。
私も亮のことが好き”

 でも気持ちは声にはならない。
 やがて受話器越しに亮は大きくため息をついた。
「……やっぱダメだよね。本当ごめん。もう、迷惑かけねぇから」
 麻美は涙を流し、必死に首を振った。

”待って!
私は声が出ないの!
私も亮が好きなの!
ずっとずっと好きなの!!”

 麻美の声にならない叫びは響く届くはずもなかった。
「それじゃ……元気でな」
 亮の最後の言葉を伝えた携帯からは、無機質な電子音が流れ始めた。これで2度目の別れだった。
 麻美は声が出ない事を憎み、今でも中途半端でわがままな自分を憎んで泣いた。それでも麻美は不通の携帯に向かって亮への想いを静かに叫び続けることしかできなかった。

 あの電話から一週間、亮はまだ吹っ切れずに頭を悩ませていた。
「叶わない恋ならもう会えない方が良かった……」
 亮は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
 どうしてあの日、麻美と再会したたんだろう。もっと時間が経てば気持ちは薄れて忘れられたかもしれないのに。亮はそんなことばかり考えていた。

「戻りました」
 営業に出ていた吉永の声で亮は我に返った。
「桐原お疲れ」
「おつかれ。吉永、この後残業?」
「いや、今日は書類提出したら終わり」
 吉永は愛飲している缶コーヒーを口に運びながら椅子に座った。
「お前最近どう? 麻美ちゃんと」
 麻美にあの話を聞いてから吉永は二人の事を気にかけていた。
「……ふられた」
「は?!いつ?」
「一週間前。やっぱり話してくれなかった」
 うなだれる亮に吉永は言葉を失いコーヒーを静かに置いた。そしてゴクリと息をのんで口を開いた。
「桐原さ、麻美ちゃんから聞いた?」
「何を?」
「麻美ちゃんが口きかないことには、もっと別の理由があるとか」
「何それ……?」
 要点が理解できずキョトンしている亮に、吉永はすべてを話すことを決心した。
「桐原には絶対言わないでって言われたけど、……麻美ちゃん、声が出せないんだ。病気で声帯を取り除いたって」
 亮は真実を知った瞬間、嫌悪感に襲われた。そのまま固まり、ピクリとも動けなかった。
 長く続く沈黙の中、吉永が口を開いた。
「麻美ちゃんにはお前に同情されたくないから黙ってて欲しいって言われた。よく考えてみろよ。麻美ちゃんがそれを言わなかったのはお前に好きでいて欲しいからじゃねぇの?お前の負担になりたくないって思ってるんじゃねぇの?
前回はぶつかっておしまい、ここでお互いが引いたら今回はすれ違っておしまいだ」
 亮は力いっぱい殴られたような気分になった。まだ諦められない!
「悪いけど……俺帰るから!」
 亮は荷物を持っていつもの喫茶店に走った。
 麻美はいないかもしれない。でもあそこでしか麻美には会えない。
 亮は麻美がいることを願いながらオフィスを飛び出した。

 仕事帰りに喫茶店に来ることがすっかり日課になっていた麻美は、今日も一番奥の席に座り、顔なじみのウエイトレスにメニューを指差して注文した。
 いつもどおりにバッグから本を取りだし、ノートに手をかけた。でも手は止まり、ノートを離してバックを閉じた。 ノートはもう要らない。
 麻美は本を読み始めたものの、内容なんて頭に入って来ない。この一週間、麻美の頭の中も亮のことで一杯だった。
 あの後、麻美は弁解のメールをしようとした。自分も亮のことが好きだと告げようと思った。でも文を打つ手は止まった。今、亮と付き合ってもきっとたくさん迷惑をかける。麻美はそれが怖かった。
 ボーッとしていた麻美はガタンッという大きな音に驚いて顔を上げた。目の前に息を切らせた亮がいた。
「もう会わないとか言ったけど、これでダメならもう本当に諦めるから……」
 麻美はこんなに想われていることが素直に嬉しかった。でも辛い。
「声のこと、吉永から聞いた」
 麻美に不思議と驚きは無かった。吉永に話した時点で遅かれ早かれ、亮に知られる気はしていた。
 麻美はノートを取り出した。
”黙っててごめん。私ね、声が無くなってからやれないこととか、諦めることがすごく増えた。
私も亮が好き。でもね、好きだから亮には迷惑かけたくないの”
 亮は読み終わると麻美を見つめた。
「迷惑とかそんなのどうだっていい。俺は麻美のこと好きな気持ちのまま一人でいる方がよっぽど辛いんだ」
 それは麻美も一週間で思い知らされたことだった。亮がいないことが何より悲しくて、耐えられない程辛かった。
 お互いの存在は自分たちが思っている以上に大切で必要になっていた。
 麻美は思った。まだ起こりもしない未来に不安を持ちすぎなのかもしれない、と。
「何かあったら二人でどうにかして行こう」
 亮の柔らかい笑顔に麻美は暖かい涙が流しながら笑顔で首を縦に下ろした。もう見れないと思っていた麻美の笑顔が嬉しくて、亮も笑顔は更に柔らかくなった。

 暗くなった帰り道、二人は手をつないで歩いた。麻美は反対の手に携帯を持って話をした。
”やっぱり思うよ。
声に出して『亮が好き!』って言えたらどんなにいいだろうって”
 亮はそれを見て笑った。
「俺には聞こえてるけど? 麻美の声。耳じゃなくて、心に直接」
 何の迷いも無くそう言う亮に、麻美は”サムイって!”と言葉を返す。 携帯の画面に薄く照らされた麻美の顔は照れくさそうに微笑んでいた。
”私の口って食事と呼吸のためにあるの。
それも必要だけど、大切なことは伝えてくれないのよね”
 読み終わって亮はニコリと微笑みながら麻美のほっぺたを両方に引っ張った。手を離すと麻美は『痛い』と言って口を尖らせた。それを見てまた亮は笑う。
「麻美は怒った時も笑った時も、顔全体で怒るし笑うだろ?」
 それを聞いた麻美は少し感心して、嬉しそうに口角を上げて笑った。
「それに……」
 亮は麻美を少し引き寄せて短いキスをした。唇を離して、麻美を包むように抱きしめた。
「口が無いとキス出来ないし。言葉じゃなくてもちゃんと伝えられるだろ?」
 麻美は亮の胸の中で涙腺を緩ませながら、大きく頷いた。
 その唇は『ありがとう』をかたどった。

 今の二人なら大丈夫。
 ちゃんと聞こえてるから。
 心に優しく響く、君の声が。



(Fin.)














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