#95:祐樹の過去(10)現実からの解放【指輪の過去編・祐樹視点】
長らくお待たせしました。
指輪の見せる過去の祐樹視点です。
祐樹と夏樹が27歳の5月頃のお話です。
「お祖父さん、もう、西蓮寺には結婚式の日取りを伝えたのですか?」
俺はしばらくの逡巡の後、祖父さんの様子を窺いながら訊いた。
「これから伝えるつもりだが、……どうかしたのか?」
「伝えるのを待って欲しいのです」
「何を今更。……それに、日取りを決めたのはこちらだが、だいたいの時期の相談は向こうとしているから、分かっていると思うが……」
「それでも、待ってください」
俺の真剣な眼差しに、祖父さんは少し怯んだようだった。
「もう、充分待ってやっただろう? まだ何かあるのか?」
「もう少しだけ時間をください」
俺は頭を下げた。
このまま流されたくない。今、踏み留まらなければ、手遅れになってしまう。
「祐樹、いいかげんにしろ。何を子供みたいな事を……」
「もう少し考えたいのです。そうじゃないと、これ以上前に進めません。このままでは浅沼を継ぐ事も出来ない」
俺があまりに思いつめた顔をしていたのか、祖父さんは驚いた顔をしてこちらを凝視している。
「何を考えたいのか知らないが、もう決まってしまった事を変える事は出来ないぞ。だが、二週間だけ待ってやる。二週間経ったら、西蓮寺にも伝えて準備に入る。わかったな?」
二週間……。
二週間考えても、きっと答えは一緒……。でも、今すぐそれを言う勇気が無かった。
翌週土曜日、俺は美那子さんをディナーに誘った。
今まで何度会っても、会話らしい会話もしていなかった彼女から、今日こそは本音を聞きたい。
美那子さんの家へ迎えに行くと、珍しく母親が出てきた。
「まあ、祐樹さん、随分とご無沙汰でしたね。仕事がお忙しくて、よろしいわね」
ニッコリ笑った美那子さんの母親の言葉は、嫌みたっぷりだった。
それもそうだ、仕事を理由に一年も顔を出してなかったのだから……。
用意が出来て出てきた美那子さんは、上品なワンピースを着た、完璧なお嬢様だ。相変わらず人形のように美しいが、その表情には何の感情も浮かんではいなかった。
今日、彼女を誘ったのは、自分の気持ちと彼女の気持ちを確かめるためだ。やはり本人の気持ちが大事なのだから……。
こんな事を考えている自分が可笑しくなる。少し前まで、結婚に感情なんて関係ないと言い捨てていた俺が、多分に圭吾の影響を受けている。でも、それに気付けて良かったと、心の中で圭吾に感謝を述べた。
今日は浅沼家御用達の料亭で、懐石料理を食べる事にしている。通された和室で美那子さんと向かい合う。お互い言葉も無いまま、出された料理を食べながら、彼女の食べる様子をそっと見ていた。上品なその所作、綺麗な箸使い、完璧なまでのマナーにさすがだなと思う。でも、俺の視線と彼女の視線は合う事が無い。彼女から言葉を発する事も無ければ、何か尋ねても「はい」か「いいえ」もしくは、小さく頷くか首を振るだけの反応。彼女は楽しい事ってあるのだろうか?
「美那子さん、君は本当に僕と結婚しようと思っているのかい?」
俺は、少し意地悪かなと思ったけれど、余計な言い回しをせず、ストレートに訊いてみた。彼女は思った通り、小さく頷きながら「はい」と言った。
「君は、僕の事、好きなのかい?」
追い詰めるようにストレートな質問をぶつけて行く。途端に顔を上げてこちらへ目を向けた彼女。その表情は驚いたように目を見開いている。それは、彼女が初めて俺を見た瞬間だった。
しばし見つめ合った後、俺はクスリと笑った。
「愚問だったな。この二年間に四回しか会っていないのに、俺の顔もまともに見た事無かっただろう?」
俺はもう気を使う事を辞め、砕けた話し方になっていた。彼女は怯えたような表情になり、言葉も発せず、ただ首を振るだけだった。
「君はこのまま好きでもない男と結婚していいのか?」
「………」
「君は自分の人生を諦めているの?」
この言葉は俺が言われた言葉だ。目の前の彼女はあの頃の俺と同じで、指示された道を暗示でもかけられたように、ただ言われたままに歩くことしか考えていないのだ。
彼女は再び顔を上げ、俺を見た。そしてすぐに俯くと小さな声で言った。
「私には、これしか無いから……」
その答えに愕然とした。彼女は望む事も諦める事も超越して、自分に起こってくる全ての事を、只受け入れているだけなんだ。それが、彼女にとって生きて行くと言う事なのか。
でも、そんな彼女の生き方に、巻き込まれるのはご免だと思った。だからと言って、今の彼女に結婚する気は無いと言った所で、どうなる物でもない。
結局俺は、彼女に自分の気持ちを告げないまま、彼女を送り届けた。
******
美那子さんと会った一週間後、今度の日曜日で約束の二週間になると言う週末、久々に圭吾に誘われ、飲みに出かけた。行きつけのバーのカウンターで、とりあえず圭吾の残り少ない独身の夜に乾杯をした。
「それにしても、ずっと僕達を騙していたんだね?」
圭吾は横目で睨むように言った。
「騙すも何も、俺も夏樹も友情ゆえの事だったんだよ」
圭吾が言っているのは、俺と夏樹が付き合っているフリをしていた事だ。どうも、結婚間近になって、嘘をつき続けている事に耐えられなくなったのか、夏樹が舞子さんに話してしまったらしい。俺も夏樹もそれぞれに別れたとは話していても、結局フリをしていた事は言わずじまいだった訳だ。
「それを言われると、何も言えないけど……。どうせ、祐樹が言い出した事なんだろ? そこまで夏樹さんを巻き込む必要あったのか? 夏樹さんはその間、律儀に誰とも付き合っていなかったんだろ?」
「確かに俺が言い出した事だけどさ。その間誰とも付き合っていなかったのは、俺も一緒だよ」
「何言っているんだよ。おまえの場合は、恋愛する気もなかったし、結婚相手が決まっていただろ?」
痛い所を突かれちゃたまらないので、この話はここらで終わりにしておかないとな。
「ともかく、おまえ達が無事に結婚までたどり着いてくれて、ヤレヤレだよ」
「本当にお世話になりました」
圭吾は笑いながら頭を下げた。
「ところでさ、圭吾はもう、上条電機へ入っていろいろ勉強し始めているんだろ? 今まで研究ばかりしていたのに、社長なんて荷が重くないのか?」
俺がそう訊くと、圭吾はフッと笑った。
最近、俺はこれからの人生について考えている所為か、圭吾が舞子さんとの結婚に付随する諸事情を、どんなふうに考えているのか、気になった。
「今更だよ、祐樹。そんな事、舞子からのお見合いの申し込みを受けた時に、心は決まっていたんだ。確かに戸惑う事も多いし、自信も無いよ。でも、舞子が傍にいてくれるから、頑張れるんだ」
それは惚気か? と揶揄うのも憚られる様な圭吾の真剣な眼差しが、妙に眩しかった。
「でも、舞子さんの存在だけで頑張れる程、社長業は甘くないぞ」
俺は真剣に答えてくれている圭吾に、水を注すような突っ込みを入れた。
それでもアイツは怯まなかった。そんな事はもうとっくに乗り越えた強さを、静かに微笑む横顔に感じた。
「ああ、そうだな。全くの未知の世界に挑戦している訳だから、甘くない事は身を持って分かっているよ。それでも、逃げ出さずに挑戦し続けられるのは、やっぱり舞子のお陰だと思う。もしもこれが逆で、社長の椅子が目当てで、舞子と結婚するのなら、早々に挫けていたかもしれないし、仕事が上手くいかなければ、舞子ともダメになっていただろうな。大切な人のためなら、きっとどんな事があっても、頑張れるんだと思うよ」
圭吾はそう言うと、俺の方を見てニッコリと笑った。
それは、俺が会社のために愛の無い結婚をするって言っていたのを責めているのか? と、卑屈な俺が心の中で言い返す。でも、圭吾はそんな嫌みなど一切感じさせない穏やかで満ち足りた笑顔を向けていた。
大切な人……。
そう思える人がいるのなら、違うのだろうか?
でも、今現在俺の結婚相手である美那子さんには、そんな気持ちも起こらなければ、一生そんな気持ちになりそうにない予感さえするのだ。
それでも、浅沼グループのために美那子さんと結婚すべきなのだろうか?
愛せそうもない人と結婚して、圭吾のように頑張り続けられるのだろうか?
俺は、圭吾が俺の手の届かないステージへ、駆け上がって行ってしまった様な気がした。
舞子さんとの出会いが、圭吾の人生をこんなにも変えて、圭吾自身もより大きく成長させたように、そんな運命の出会いって奴が俺にも用意されているのだろうか? その運命の人が美那子さんだとは、とても思えない。
その時、一瞬、胸に焼きついた夏樹の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
なぜ、こんな時に夏樹の事なんか思い出すんだよ。それも、あの時の泣き顔なんて……。
彼女には恋人がいて、俺との出会いは運命でも何でもない。
そう言い聞かせても、心に焼きついた泣き顔が、俺の胸を苦しくさせるばかりだった。
俺はそんな気持ちを押し隠すように、「舞子さんに出会えてよかったな」と笑顔で返した。
「ところで、祐樹の方はどうなっているんだ?」
「俺の方?」
「ああ、西蓮寺財閥のお嬢様だっけ? もうずいぶん経つけど、まだ結婚しないのか? 祐樹の方が先にお見合いしたんだから、先に結婚すると思っていたよ」
幸せな圭吾に、今一番頭を痛めている現実を突かれて、また惨めな自分を思い出した。
「別に、そのままだよ。また決まったら言うから」
幸せの絶頂にいる圭吾に、今の惨めな俺を知られたくなかった。圭吾の幸せに水を差したくなかった。
この惨めな思いに鍵をかけて、俺は笑って返事をした。
圭吾と別れて、自宅へ帰って来てから、圭吾に何も言えなかった自分が嫌になった。圭吾は何でも相談してくれたのに、俺は本心を隠して偽ってばかりだ。
このままでは時間は容赦なく過ぎていく。そして、やがてタイムアップだ。
今動かなければ、祖父さんの敷いたレールから外れる事が出来なくなる。
明日は祖父さんに言おうと、密かに決心した。
翌日、祖父さんの秘書に電話して、祖父さんに面会を申し出た。会長とは言え、まだまだ会社にその影響力を持つ祖父さんは、土曜日でもいろいろなスケジュールが入っていたりする。
指定された時間に、祖父さんが定宿としている浅沼傘下のホテルのスイートルームに、祖父さんを訪ねた。
「足立さん、無理を言ってすいませんでした。お祖父さんと二人で話がしたいのですが、いいですか?」
祖父さんの秘書の足立さんは、まだ三十代前半の独身男性だ。祖父さんと二人きりで話したい事を申し出ると、足立さんはコーヒーだけ用意すると部屋から出て行った。
「祐樹、珍しいじゃないか? おまえの方からここへ訪ねてくるなんて」
祖父さんは、もう七十代後半に入って来ていると言うのに、まだまだ精力に溢れ六十代前半ぐらいにしか見えない。昔にしたら背が高く、無駄なぜい肉も無く、背を真っ直ぐに立つ姿は、今でも体を鍛えている事がわかる。
俺は祖父さんの年に、こんなに若々しく保つ自信は無いな……。
そんな事を考えている自分が可笑しくなって、フッと自嘲気味に笑う。
「二週間経ったが、今の自分の立場を納得できたか?」
祖父さんはいきなり本題に入った。祖父さんは俺が何に戸惑っているのか、分かっているのかも知れない。
「はい、納得できたからこそ、美那子さんとの結婚は白紙に戻して欲しいのです」
祖父さんは驚いた顔をした後、怒気を含んだ眼差しで俺を睨んだ。
「何も分かっていない。今西蓮寺との繋がりを切ってしまってもいいのか? あそことの取引の大きさは、おまえも分かっているだろう?」
「会社同士の取引と俺の結婚は別です。今時婚姻に頼らなければいけない繋がりなんて、時代遅れです」
「おまえ……、雅樹に何か言われたのか?」
「え? 親父? 親父にはもう長い事あっていませんよ。もちろん話もしていません」
「じゃあ、どうして……。……まさか……女か? 他に女ができたんだろう? それでそんな事言い出したんだな? おまえも雅樹と同じか?」
祖父さんの目は釣りあがり、こちらを睨んでいる。
祖父さん、そんなに興奮すると、血圧が上がりますよ。
「俺は親父と同じじゃありません。今、付き合っている人もいませんし、結婚を約束した人もいません。何なら、調べてもらってもかまいませんよ」
相手が興奮すると、妙にこちらは冷めるもので、祖父さんの様子を見ながら、俺は冷静に言葉を返した。
「おまえ、それで世の中通ると思っているのか?」
祖父さんは俺を睨みつけたまま、低い声で威嚇するように言った。
「通らないと言うのなら、浅沼から勘当してもらってもいいです。浅沼程の大企業なら俺より優秀な人はいくらでもいるでしょう? 何も俺が継ぐ必要は無いのですから……」
これは本心だ。今まで浅沼を継ぐのだと言われ続けてきたから、そのつもりでいたけれど、今俺は別の仕事をしている訳だし、その仕事にはやり甲斐も感じているし、自分のプライベートまで仕事のために嫌な事を押しつけられるぐらいなら、このまま杉本祐樹で生きて行ってもいい。
「何を言っているんだ! 今頃になって、こんな裏切りをされるなんて。……雅樹の奴」
祖父さんは、最初大きな声で怒ったように叫んだが、その後はブツブツと呟くようにフェイドアウトして行った。俺を睨んでいた目に、困惑の色が見えたと思ったら、プイッと顔をそむけられた。
「もういい。おまえの言いたい事はわかった。もう行け!」
祖父さんは、これ以上何も言うなと言う不機嫌なオーラを出して拒絶していた。
俺は、結婚しなくていいんだよな? 仕事も辞めなくていいんだよな?
とても確認できなくて、小さく溜息を吐くと立ち上がって、振り返る事無く部屋を出た。
俺は肩の荷が下りた安堵で、やっと大きく息を吐いた。
今まで俺を悩ませ続けていた事から解放された喜びで、俺は考え付かなかった。
祖父さんがそんなに簡単に諦めるはずが無いと言う事に……。
それから約半年の間、祖父さんからのアプローチは何も無かった。だから俺はすっかり油断していたんだ。
2018.2.9推敲、改稿済み。