#86:祐樹の過去(1)初恋編【指輪の過去編・祐樹視点】
お待たせしました。
引き続き指輪の見せる過去での祐樹視点です。
本編の続きが気になると思いますが……
少しだけ祐樹の過去のお話をさせてください。
今回は少し長いですが、よろしくお付き合いくださいね。
お袋がお昼の用意のために階下の台所へ行ってしまった後、俺は夏樹が横になっているベッドに腰掛けた。
「夏樹……」
小さく呟きながら、夏樹の頬にかかった髪をどけてやる。
そんなにショックだったのか……。まあ、自分がずっと恋愛相談してきた人たちが、俺の両親となれば、ショックも倍増だろうな。
親父と二人でスイーツを食べに言っていたって? いくら親ほどの年齢の親父でも、男なんだからもっと警戒心を持ってもいいんじゃないのか?
それに、お袋だって、若い女性と二人で親父が出かけるのを何とも思わなかったのだろうか?
世間だって、浅沼コーポレーションの社長が若い女性と二人でいたら、変に想像する奴だっているだろうに……。
まったく、親父も親父だよ。いくら甘いもの食べたさに夏樹を誘ったのだとしても、ちょっとは考えればいいのに……。
俺はそれがやきもちだとは気付かずにいた。ただただ、思いもしなかった父親と彼女の関係に嫌悪感を覚えた。
そう言えば俺達って結局お互いの事、まだよく知らないよな。お互いの実家の事も過去も現在の仕事も、詳しく話した事は無かった。二人が一緒にいるのは食事の間だけだったし、下手に自分の事を知られたく無くて、夏樹の事も訊かなかった。こんなので結婚なんて言っているんだから、俺もどうかしてしまったのかな。
あの時、夏樹が会社を辞めて実家へ帰るから、手料理は今日で最後だって言った時に、今まで俺の気持ちがこぼれない様に止めていた箍の一つが吹き飛んだ。そして、夏樹は最後のつもりで今までの感謝を口にした。だけど、あの時夏樹が言ったあの言葉は、どういう意味だったんだろう?
『男の人は、結婚をしようと思っている程愛する女性が居ても、別の女性と関係を持つ事が出来るの?』
あの言葉を聞いた時は、夏樹に結婚しようと思っている人がいるのだと思った。そして、その相手の男が別の女性と関係を持ったのだと……。あの時に、全ての箍が外れたのだと思う。
でも、夏樹は自分には結婚相手も結婚の予定もないと言っていた。じゃあ、あの言葉は誰の事を言っていたのだろうか?
なんだか夏樹には謎が多い気がしてきた。俺といる時の夏樹は、ほんの一面で、俺の知らない夏樹がまだまだたくさんあるのだろうか?
けれど、お袋は、夏樹は俺の事をずっと想い続けていたと言ったよな? 他の男との付き合いは、あの会社の奴と別れてから無いよな? 夏樹は俺の事を思っていてくれると、どこか安心していた所があって、他の男の影なんて思いもしなかった。そう、親父との付き合いだって気付かなかったぐらいだ。
俺は、夏樹の白い手を握った。倒れたばかりの時は冷たかったけれど、今は温かくなってきている。
夏樹の意識が戻ったら、俺達、一から始めないといけないな。付き合う事もせず結婚なんて、やっぱりどこかで歪みが出るに違いない。お互いの今までの事、隠さずに全て話せるといいな……。
そんな事を考えながら、俺は自分の子供の頃からの事を思い返していた。
俺が大きな会社の創業一族の跡取りだと言う事を、現実に意識させられたのは小学5年生の時だった。
何時もなら幼馴染の圭吾と一緒に学校から帰って来るのに、その日に限って圭吾は何か用事があったのか、帰りは俺一人だった。帰り道、静かな住宅街の道で近付いた車が俺の横で止まり、家を尋ねてきた。「浅沼さんのお宅はどちらですか?」と。俺は自分の家だと言うと案内して欲しいと言うので、開けられた後部座席のドアから乗り込むと、いきなり口を押さえられ、手を後ろ手に縛られた。あ、これは誘拐だと思った時、恐怖よりもワクワク感の方が強かった。その頃の俺は大人顔負けの生意気なガキで、その上スパイ物や刑事物のドラマや映画に夢中で、いきなりな出来事も何かドラマの主人公にでもなった気になった。目隠しされても、車のカーブの揺れや信号での停車などで、頭の中に思い描いた地図上を車の進むようにトレースして行った。
俺が小学生の頃、まだGPS付きの携帯なんて無い時代だったが、いつもの時間に帰る俺が帰って来なければ、お袋達が捜し始めているかもしれない。心配しているだろうなと思うと、少し不安になった。
そして、目隠しされて、口もふさがれ、手も足も縛られて、どうやって逃げ出そうか、必死で考えている時、それは起こった。ドーンという大きな衝撃と共に、体が投げ出された。縛られて寝転がっていたため、シートベルトはしておらず、体はそのまま宙に浮き狭い車内で思い切り頭や体をぶつけ、俺は意識を失っていた。
次に目を覚ました時には、お約束通り病院のベッドの上だった。心配顔の母親の顔が目に入り、その隣に、圭吾の顔も見えた。圭吾の泣いて真っ赤にした目を見た時、やっと助かった事を実感し、不覚にも俺はぽろぽろと涙を流し泣いてしまった。生意気なガキも所詮子供で、本当は怖かったのだ。
結局のところ、誘拐は未遂に終わった。大きな交差点でスピードを上げて信号無視した車に車体の横にぶつかられ、交差点の真ん中でスピンして周りの車に次々ぶつかり、あわや大惨事という事故だったらしい。ただ、交差点と言う事で周りの車もスピードが出ていなかったおかげか、死人は出ず、シートベルトをしていなかった俺が一番の重症患者だったらしい。と言っても子供なので体が柔らかく、腕の骨折と擦り傷や打撲だけで済んだのは不幸中の幸いだった。
それにしても、今回の誘拐騒ぎは、俺のバックにあるものの巨大さを意識させた。そして、俺の人生はその巨大なバックに翻弄される運命である事を認識させる最初の出来事だった。
誘拐されかけたと言う事は、両親よりも祖父さんの心配心を煽ったのか、それから小学校を卒業するまで、圭吾と共に車で送り迎えをされる羽目になった。でも、祖父さんの心配はそれぐらいでは収まらず、またいつ誘拐されるか分からないからと、俺は圭吾と共に中学、高校とイギリスの学校へ行くよう祖父さんに決められてしまった。
付き合わされる圭吾もたまらないだろうなと思っていたが、圭吾はのんびりと「祐樹と一緒なら、どこでも楽しいよ」と言って笑うだけだった。俺はそんな圭吾に救われていたし、圭吾がいてくれて本当に良かったと今でも感謝している。
そして、俺達は小学校を卒業すると、まだイギリスには営業所程度の小さな事務所しかなかった浅沼コーポレーションの、イギリス支社立ち上げのために赴任する両親と一緒にイギリスへ渡ったのだった。
イギリスへ渡った俺達は、英会話と読み書きの勉強をし、九月の入学に備えた。入学したのはその当時少しずつ増えつつあった共学のパブリックスクール。私立なので授業料が馬鹿にならない程高い所為か、お金持ちと言われる家庭の子供たちがほとんどだった。
時々祖父さんがイギリスへやって来ると、俺を連れ出し、博物館や美術館、そして高級なレストランへ連れて行く。祖父さん曰く、良いものを見て、上級なものに触れ、高級な食事を食べて、それらを見極める目や手や舌を鍛えろと……。それから、女性には気をつけろと必ず忠告するのだった。
「おまえは浅沼財閥の跡取りだから、それを知って近づく女もいるだろう。でも、おまえは私が決めた女性と結婚するのだから、子供には気をつけなければいけないよ。女と遊ぶなとは言わない。だけど、女性を簡単に信じてはいけないし、心を許してはいけない。おまえの親父の二の舞だけはしてくれるなよ」
あの頃の俺は、祖父さんの言う事の本当の意味がイマイチ分かっていなかった。その事の本当の意味が分かったのは、自分自身の体験からだった。
俺と圭吾は順調にイギリスの学校に慣れて行った。日本人特有のシャイな部分はあったが、英会話に慣れた頃には、友達も増えて行った。そして十六歳になる頃には、英語を母国語の様に操り、それなりの青春を謳歌していた。
その年の夏、親父とお袋は日本へ帰って行った。最初イギリスへ来る時、家政婦として一緒に来た四十代の吉田さんがそのまま残ってくれる事になり、俺達の生活は両親がいなくても同じように過ぎて行った。
クリスマスが近づく十二月の始め、この学年から学生会主催のクリスマスパーティに参加できる事となり、男子も女子もパートナー探しのためか騒がしくなってきていた。それまでの俺は、慣れない異国や英語での勉強に苦労しながらも、思い切り体を動かせるスポーツに夢中になっていた。変に気まじめだった俺は、多少女性に興味があっても、パーティでパートナーに誘うような女友達も無く、それは圭吾も同じ事で、二人して周りの浮かれた雰囲気に気後れしていた。今思えば、あの頃の純情さを笑ってしまうが、あの頃はあの頃で真剣に悩んでいた出来事だった。学校へ行けば皆の話題はパーティの事で、誰それがあの娘を誘ったとか、申し込んだとか言う話で持ちきりだった。そんな時、俺に思いがけない事が起こった。
彼女の名は、リア・キャボット。学年は一つ上の十七歳。この学校でも三本の指に入ると言われている美人で、学年は違うけれど顔と名前ぐらいは知っていた。どこかの会社の社長令嬢らしいが、この学校にはそんな奴がゴロゴロいるから、別に珍しくもなかった。
そんな彼女が、なぜだか俺に声をかけてきた。それはクリスマスまであと一週間と言う頃だった。
「ユウキ、クリスマスパーティのパートナー、まだ決まっていなかったら、私を誘ってくれないかしら?」
俺は、まったく思ってもみなかった事だったので、誰かほかの奴と間違えているんじゃないかと思った。アジアからの留学生は他にもいたし、何より、地元イギリスの学生の中には貴族の子弟で本物の王子様のように見える奴等もいるから、俺なんか、そんな有名な美人に覚えられている事すら、信じられなかった。しかし、彼女は真剣な眼差しで、決して揶揄っているようには見えなかった。
俺はパーティだけのつもりでOKしたが、彼女は以前からシャイで黒い髪、黒い瞳で真っ直ぐな眼差しの俺がサムライみたいで気になっていたのだと、付き合って欲しいと言って来たのには驚いた。俺がサムライ? 外国人から見たら、日本人は皆サムライに見えるんじゃないのか? と思ってしまったぐらいだった。そんな彼女が、圭吾を気にする俺に、圭吾の事を気になっている女の子がいるから紹介してもいいかと尋ねてきたので、圭吾に言うとパーティだけならと返事した。
俺とリアの事は、瞬く間に学校中に知れ渡る事となった。リアの元カレや上級生の男子達に嫌みや悪口を言われたりしたが、すぐに別れるだろうと言うのが皆の予想だった。
俺にとっては女性との付き合い自体が初めての事で、断ると言う事さえも思いつかず、只々リアのペースに巻き込まれて行った様な感じだったが、美人で有名なリアに交際を申し込まれたと言う事は、俺の男のプライドを満足させ、俺は初めての恋愛に心も体も溺れる様にのめり込んで行ったのだった。
皆の期待を裏切る様に、俺とリアの関係は続いて行った。あれから十ヶ月程が経ち、又新しい学年へと進級したある日、リアが悲しそうに言った。「卒業したら、父の取引先の息子と婚約しないといけないの」と……。
俺はまだ学生で、それまでリアと付き合っていても結婚とか婚約なんて考えた事が無かった。でも、その頃リアが全てだった俺は、リアの言葉に衝撃を受けた。リアの婚約は何とか阻止しなければと思うのに、十七歳の俺は途方に暮れるばかりだった。
しかし、俺だって、日本では大きな会社の御曹司だから、俺が先に結婚を申し込んで、リアと一緒に頼めば、何とかなるんじゃないかと思ったんだ。だから、その頃、社長だった祖父さんがイギリスへ来た時、真剣に頼み込んだ。
「今すぐじゃないけど、いつか結婚したいと思う人がいるんだ」
「あんなに忠告したのに、祐樹は私の言葉は聞いていなかったのかね?」
祖父さんは睨むような眼差しで、俺を真っ直ぐ見つめてきた。ここで怯んではいけないと祖父さんを見つめ返して言った。
「リアはそんな女性じゃ無い。彼女は社長令嬢だから、玉の輿を狙っている様な女じゃないよ」
祖父さんはフッと笑うと、「一度彼女を連れてきなさい」とだけ言った。そして、祖父さんがイギリスにいる間に彼女を連れて会いに行った。祖父さんは彼女の気持ちや彼女の父親の会社の事を聞くと、まるで子供を見るような眼差しで僕達を見て言った。
「私から君のお父さんに話をしてみよう。自分たちで勝手に突っ走ってはいけないよ」
俺はその時、祖父さんが認めてくれたんだと、思った。後から考えたら、認めるとも認めないとも祖父さんは言わなかった。祖父さんは彼女が卒業するまでに必ず彼女の父親に話をする事を約束して、日本へ帰って行った。
その後の俺はリアとの未来を考えて有頂天になっていた。世の中の事も、祖父さんの会社の事も何も分かっていなかった俺は、只々、この先リアとずっと一緒に居られるんだと思い込んでいた。圭吾はそんな俺を呆れたように見ていたが、何も言わなかった。後から聞いた事だが、最初のクリスマスパーティの時に、圭吾のパートナーになった女の子にお酒を飲まされ、かなり酷く迫られた様で、その事がトラウマになり、それ以後、圭吾は女性に近づこうともしなかった。
その年、リアの友達の家でハロウィンパーティをするからと誘われ、二人で行く事になった。皆それぞれ仮装をして、かなりの人数が集まっていたが、大きな家だったので、みんな思い思いの場所で寛いでいた。最初はリアと一緒にいたが、そのうちリアが女友達に引っ張って行かれ、俺もスポーツをやっていた時の友達を見かけて話している内に、リアを見失ってしまった。リアを探しながら家の中を捜し回っていると、カップル達がいろんなところでイチャイチャしている。舌打ちしながら、なおもリアを探していると、二階のバルコニーにいるリアを見つけた。でも、リアは一人ではなかった。近づいて行くと、彼らの声が聞こえて、思わず物陰に隠れた。
「なあ、リア。何時まであんなお坊ちゃんに、お付き合いしているつもりなんだ?」
「仕方ないのよ。あんまり子供っぽくて、ちょっとウンザリしているんだけど、お父様との約束だから……。あれでも、日本じゃ大金持ちのお坊っちゃんらしいのよ。日本人って精神年齢が低いのかしらね?」
「おまえにしちゃ、ずいぶん長く我慢しているよな? 」
「まあね。お父様の会社と彼の祖父の会社が上手く取引できるようになったら、お役御免よ。そうしたらね、毎月のクレジットの上限を増やしてもらえるの。今まで時々足りなくなって我慢していたんだから……」
「でも、本当に婚約なんて事になったらどうするんだよ?」
「その時は、彼に浮気疑惑をでっちあげて、別れるわよ」
「おまえも悪女だな?」
二人はクスクス笑うと、抱き合ってキスをしていた。
俺はその後どうやって家に帰って来たか覚えていなかった。気がつけば部屋に閉じこもり、何も考えられないまま、ベッドに座りこんでいた。
あれは夢だったのか?
あれはリアに似た別人だよと、頭の中で声がする。
信じられない思いで一杯だけど、あれは確かにリアだった。
今頃になって、祖父さんの忠告が頭の中で繰り返される。
『女性を簡単に信じてはいけないし、心を許してはいけない』
ああ、こう言う事を言っていたのか……。
祖父さんの忠告の意味が、今になって初めて理解できた。
俺はこの時、もう二度と女性は信じないし、心も許したりしないと自分自身に誓った。
あの後、俺はリアと別れ、祖父さんに電話をした。祖父さんは笑って「やっと目覚めたか」と言った。祖父さんは最初から全て見通していたんだ。彼女のように最初からだますつもりの女性なら、少々俺が傷つくだけで、かえってよい経験になるからと、祖父さんは放って置いたそうだ。その後、祖父さんがイギリスでのパーティに出た時、リアの父親から「ウチの娘を傷ものにして」と脅されたそうだが、一笑して相手にしなかったそうだ。
しかし、俺にとってこの経験は、再び俺のバックの大きさを思い知らされた出来事だった。自分でも思いも寄らない所で、自分が利用され翻弄されて行く事に、激しい憤りを感じ、遣る瀬無い思いを抱いたまま、卒業までの日々を心閉ざして過ごしたのだった。
2018.2.4推敲、改稿済み。