#81:これは夢?【指輪の過去編・夏樹視点】
今回も指輪の見せる過去のお話で、夏樹視点になります。
29歳の誕生日まであと一週間。
二人の間に変化はあるのか???
「男の人は、結婚をしようと思っている程愛する女性が居ても、別の女性と関係を持つ事が出来るの?」
「はぁ? 夏樹、何言っているんだよ?」
彼は私の剣幕と言葉に驚いた顔のまま、惚けた様な言葉を返した。そのリアクションが私のイライラを助長させる。
「祐樹さんだってそうでしょ? 婚約者がいたって、付き合っている人がいたって、私なんかに無自覚に優しくして勘違いさせるんだから。ずるいよ。この二ヶ月間だって、何の音沙汰も無かったくせに、いきなりやって来てご飯食べさせろって……。私はあなた専用の料理人じゃない!」
そうよ! 今までどうして怒らなかったんだろう? ここは怒ってもいいところだよ。私は飯炊き女じゃない! もう振り回さないで!!
「はぁ~」と徐に溜息を吐いた彼は、上目づかいで睨む私を見下ろして、いつもより低い声で言った。
「専用の料理人なんて思って無いよ。それに、婚約者は断ったって前に言っただろ? それに付き合っている奴もいないし、夏樹が勝手に勘違いしているんだろ? それより、そんな奴と結婚するつもりかよ?」
「何言っているの? そんな奴って誰の事言っている訳? 結婚するって、誰が結婚するのよ? 祐樹さんこそ、勝手に勘違いしているんじゃないの? それに、二ヶ月も何の連絡もせずにいて、突然やって来てご飯食べさせろって、料理人じゃなかったら、私の事何だと思っているの?」
お互いに喧嘩腰の様に言い合って、睨み合った。ほんのわずかの間そのままの状態が続いたが、冷静になるのは彼の方が早かった。私は浅沼さんの事のショックから抜け出せないまま、ただ、目の前の人を睨む事で何とかバランスを保っている様なものだった。
「ちょっと待てよ。夏樹、落ち着いてもう一度はじめから訊きたいんだが、夏樹が泣いていた原因は、さっき訊いて来た事なのか?」
え? 私が泣いた原因? 頭の中を占めているのは、どうして浅沼さんは母を裏切ったのかと言う事。
でも、祐樹さんに言う事じゃない。
改めて訊かれて、考えている内に我に返った。
私、祐樹さんに何言った? 浅沼さんの事なんて祐樹さんに関係無いのに、イライラのまま勢いで酷い事言ってしまった。
私は我を忘れて彼にイライラをぶつけた事を、酷く後悔した。あんな事、言いたかった訳じゃない。祐樹さんを責めたい訳じゃない。私が彼にどう思われていようが、二人の関係がどうであろうが、もう関係ない事なのに。
「ごめんなさい。祐樹さんは関係無いのに、酷い事言って……」
「謝って欲しい訳じゃないんだよ。夏樹が泣いている理由を話して欲しいんだ。俺には話せない事なのか?」
あなたはどうしてそんなに優しいの? もういいんだよ。私が泣いていたって気にしなくていいのに。目の前で泣かれたら、優しいあなたは放って置けないか。
「ごめんなさい。祐樹さんには関係ない事だから……。悪いけど、帰ってくれるかな? 一人になりたいの」
こんな最後は望んでいなかったけど、このまま話していたら、またひどい事を言ってしまいそうで、今の自分が怖い。感情のコントロールができなくなっている自分が怖い。
彼は、辛そうな顔をして私を見つめていた。ごめんなさい。そんな顔で私を見ないで。そんな表情をさせているのが、自分だと思うと余計辛かった。
「じゃあ、最後に一つだけ教えてくれ。夏樹は結婚するから会社を辞めるのか?」
そう訊かれて、私は顔を上げた。真剣な表情の彼の顔が目に入った。あまりの真剣な眼差しにいい加減な返事はできないと思った。
「結婚の予定も相手もいません。会社を辞めるのは、そんな事じゃないの。でも、もう年齢的に結婚を考えなくちゃいけないから、実家へ帰ってお見合いをしようと思っているの」
私は祐樹さんに少しでも安心して欲しくて、私は大丈夫だからと言いたくて、お見合いの話をした。私の想いに気付いているのなら、もう諦める事を暗に伝えたくて。もう、私に気遣う事無いんだよ。いくら親友の奥さんの友達だと言っても……。
それでも、彼の顔をまともに見る事が出来ず、彼と眼が合わないように少しそらして、話した。今、彼と眼があってしまったら、また泣いてしまいそうな気がしたから。
その時、彼が私の方へ一歩進んだ。ただでさえ狭い洗面所で向かい合っているのに、彼は触れてしまいそうなほど近づいて来た。怯んだ私は、慌てて一歩後ろに下がった。でも、下がった途端、浴室のドアに背中がぶつかった。もうこれ以上下がれない。それなのに、彼はまたもう一歩私を追い詰める。
な、何? 思わず顔を上げて彼の顔を見上げると目が合った。その視線に囚われて、逸らす事が出来ない。彼はまるで私を閉じ込めるように、私の頭の両側から後ろにあるドアに手をつくと、「夏樹」と呼んだ。
何なのこのシチュエーションは? 私の心臓は、目の前の彼に聞こえてしまうんじゃないかと言うぐらい、ドキドキと飛び跳ねている。何が起こっているの? 私は急に恥かしくなって返事もできないまま俯いてしまった。
「夏樹、俺じゃあ駄目か?」
えっ? な、何が?
心の中で激しく訊き返しながら、咄嗟に顔を上げた。その途端目に入ったのは彼の真剣な眼差し。
「な、何が?」
恐る恐る訊き返してみると、彼は驚くような言葉を言った。
「結婚相手。俺じゃあ駄目かな?」
えっ……、一瞬頭が真っ白になった。これは、夢? 幻?
その時、彼はいつもみたいに揶揄っているんだよと、頭の中のもう一人の自分が囁いた。彼が私なんかにプロポーズするはず無いでしょ? と畳み掛けるように囁く。
そ、そうだよね。もうちょっとで引っかかるところだったよ。
「こんな時に、揶揄わないで!」
私は上目づかいで見上げると、彼を睨んだ。
「揶揄ってなんか無いよ」
「じゃあ、私の料理が食べられなくなるのが惜しくなったの?」
そう、最初から彼の目的は私の作る料理だったじゃないの。期待なんかしちゃダメだよ。後で泣くのは自分の方なんだから。
頭の中で囁き続けるもう一人の自分。睨み続ける私の言葉に、一瞬唖然とした彼。
「そんなんじゃ無い」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの? 今まで付き合っていた訳でもないし、よくご飯を食べに来ていた時だって、そんな雰囲気も無かったし、食べればさっさと帰って行ったし、それに、四月以降ほとんど連絡もなかったし、何よりも転職した話だって、随分経ってから、何かのついでの様にしか言わなかったじゃないの。普通、結婚を考えるような相手になら、大切な話はもっと早く話すんじゃないの? それこそ、三月にはよく食べに来てたくせに、そんな事一言も言わなかったじゃない! だから、いきなり結婚なんて言われても、信じられる訳無い!」
私は今まで自分の心の中でくすぶっていたモヤモヤを、一気に吐き出した。彼は、真っ直ぐ私を見つめたまま、私の言葉を全て受け止めた。そして、ゆっくりと私の後ろのドアに着いていた手を外すと、腕組みをして、目を閉じて俯いた。それは私が言った言葉を頭の中で咀嚼している様な感じだった。時間にすれば一分も無かっただろうけど、とても長い間そうしていたような感じがした。その間、私は俯いた彼を下から覗き込むように見上げていた。閉じた切れ長の目を、すっと通った鼻筋を、しっかりと結ばれた薄い唇を……。
「たしかに俺は、夏樹に転職の事、早くから分かっていたのに話さなかった。話す事で何かが変わってしまう様な気がしたんだ。今後の夏樹との関係をどうしていきたいのか、自分でもよく分からなかったし、夏樹の作る料理を気軽に食べに行ける関係を壊したくなかった。それに、転職後あんなに忙しくなるなんて、思っていなかったから。でもさ、夏樹の部屋でご飯を食べるようになってからでも、夏樹から連絡ってもらった事無かっただろ? それでもまだ食べに行く時間が取れる間は、けして拒まない夏樹に安心していたんだと思う。最低でも毎週一回は会っている間は、夏樹から連絡無い事もあまり気にならなかった。でも、四月以降、転職してからだけど、夏樹のところへ行く時間が一切取れなくなってしまって、行けない事を夏樹に連絡した方がいいかなと思ったりもしたけれど、元々約束していた訳じゃ無かったし、夏樹からも何の連絡も無いのに、夏樹にとって俺はその程度の存在なのかって思ったら、こちらから連絡するのが癪に障ったんだ。でも正直、あまりに仕事が忙しいのと、常に誰かが一緒だったから、連絡をとる余裕も無かったんだけどね」
彼は腕組みしたまま、閉じていた目を開くと少しだけ口の端を上げて笑った様な顔になった。そして、私の目を真っ直ぐに見て話した。私も視線を逸らす事が出来なかった。
私から連絡しなかったから、連絡くれなかったの? 私のせいなの? でも……。
「……でも、私のところへ来る時間は取れなくても、いつも一緒に食事する人との時間は取れるんだよね」
私は苦笑交じりで話す彼の言い訳を聞いて、グルグルと考え込んでしまった。でも、頭の中で「嘘ばっかり!」と叫ぶもう一人の自分を止る事が出来なかった。彼は、そんな私の言葉をクスッと笑って切り捨てる。
「ああ、取引先や会社のおじさんばかりだけどな」
えっ? 何? 仕事関係の人? そんな毎日?
騙されちゃダメだよ! 彼には沢山彼女がいたじゃない! 見かけたでしょ! いつも違う女性と一緒にいるところ! それに、付き合っても無い自分にいきなり結婚を申し込むと思う? バカにするなって怒ってもいいと思う!!
頭の中で叫び続けるもう一人の自分が、彼の言葉を信じたがっている自分を抑え込む。
「でも、祐樹さんは見る度にいろんな女性と一緒にいたじゃない? 付き合っても無い私に結婚を申し込むなんておかしい!」
私は自分が何を言っているのか、よくわかっていなかったと思う。ただただ、頭の中で響く言葉を繰り返して、彼を睨んでいた。そうする事でしか、今のこのあり得ない状態に立ち向かう術がなかったのかも知れない。
彼は大きく息を吐いてから、又私を閉じ込めるように私の後ろのドアに手をついた。密着度が上がる。彼は薄っすらと笑うと、私に言い聞かせるように話し出した。
「夏樹、おまえは俺がどんな男だと思っているんだ? いろんな女性をとっかえひっかえしている様な男だと思っているんだ?」
「そんな事無いけど……」
「夏樹が見たのは、たぶん元婚約者と大学からの女友達、ほら、夏樹が会社の奴と付き合っている時、映画館で出会った時に一緒にいた奴、アイツはただの友達だからな。他には従姉妹とかじゃないか? 女って化けるから、同じ女性でも違って見えたりするし……。それに、圭吾達の結婚式のあたりからは、夏樹以外の女性と一緒にいた事無いよ。あっ、元婚約者とは、祖父さんに騙されて食事に言った事あったけど……。あの時も夏樹に見られていたんだったな……」
そう言って苦笑いする彼を、複雑な思いで見つめた。そして、また俯くと一人逡巡した。
婚約者に女友達、それから従姉妹? 全部私の思いこみだって言うの? じゃあ、私は何? 祐樹さんにとって、私はただの友達? それ以下? それ以上?
「じゃあ……私は何? 祐樹さんにとってどんな存在なの?」
そう言って、また上目づかいで彼を見上げる。近い、とても近くに彼の体があった。すると、いきなり彼は右手の人差指で私の唇をシーと言う風に抑えた。
「もう、何も言うな。夏樹は俺の事好きだろ?」
そう言った途端、彼は私の頬を両手で包んで上を向かせると、黙れと言わんばかりに私の口を彼の唇で塞いだのだった。
何? 何が起こっているの? これは夢? 現実?
頭の中が真っ白になった。ああ、きっと夢だ。今日は辛い事があったから、夢だけは良い夢が見られたんだね。気がつくと彼の腕の中で、うっとりと彼の顔を見上げる。彼は私の好きなあの笑顔で微笑んだ。なんて良い夢なんだろう。このまま目覚めなければいいのに……。
夢オチなのか、現実なのか……
真実は次回にて……
2018.2.2推敲、改稿済み。