#80:冷えて行く心【指輪の過去編・夏樹視点】
今回も指輪の見せる過去のお話で夏樹視点です。
28歳の七夕前日。
夏樹と祐樹の誕生日まであと一週間。
二人の関係が変わりだす。
「ねぇ指輪、あの人は本当に私のお父さんなの? 母が愛した人なの?」
私は母からもらった指輪を右手の薬指にはめると、指輪を撫でながら呟いた。こうして撫でると指輪から指輪の精が飛び出して、願いを叶えてくれるといいのに。せめて真実を教えて欲しい。
もう今更、何の真実を知りたいと言うのか。真実はここに揃っていると言うのに。
『夏子のクッキー』この言葉を聞いた時、疑惑が確信に変わった。夏子なんて名前、よくあるさっと笑い飛ばせない。夏子は母の名前。そしてその母が死ぬ間際に呼んだのは浅沼さんと同じ『まさき』と言う名前。そして、母オリジナルのクッキーレシピ。それから、母から聞かされた父との悲恋は、浅沼さんが遠い昔に諦めた恋と重なる。そして、二人の名前から一文字ずつもらった私の名前、夏樹。
浅沼さんには、私と同じ誕生日の子供がいて……。結婚しているのだから、子供がいるのは当たり前で……。でも、結婚前に妊娠している? だから、責任取るために結婚したの? ううん、雛子さんはそんなこと言っていなかった。
何度考えても、答えが見つからない。結局、浅沼さんは二股していたの? と、ここへ戻ってしまう。
そう思うと、もう何を信じればいいのか分からなくなる。 今日、あんなに私の恋に親身になってくれた浅沼さんが、愛する人がいるのに、いくら婚約者と言ってもそんな関係になるなんて……。裏切られた様な気持ちが胸を締め付ける。
いつの間にか頬を涙が伝っていた。母を思うと辛くなる。でも、こんな真実を知らずに亡くなったのはある意味幸せだったのかもしれない。
一週間後の誕生日、どうしよう……。息子を紹介したい? 異母兄妹だと言うのに?
もう行けない。もう会えない。辛い、辛い、辛い……。
理想の父親だった浅沼さんが、本当の父親だった?
けれど喜べない。私の存在は彼らの幸せを壊してしまうから。
私は夕食を食べるのも忘れ、ソファーに座ったままぼんやりと窓の向こうに広がる星の見えない夜空を見つめていた。明日は七夕なのに、天気予報は無情にも雨の予報を伝えていた。こんな梅雨の時期に晴れた夜空を望む方が間違っている。
もう、仕事を辞めて実家に帰ろうかな。
そうすれば浅沼さんにも雛子さんにも会わない言い訳ができる。
実家へ帰ってお見合いでもしますって言おうかな。
丁度いいよ。祐樹さんの事を諦めるのにも、実家へ帰ればもう会う事も無いだろうから。
私は、静かに流れる涙をぬぐう事も忘れ、ただただ明らかになった真実の前で怯えるばかりだった。
その時、ふいに電話が鳴った。また、浅沼さんじゃあ……と疑いながら携帯電話の表示を見ると、杉本祐樹の名前。少しホッとしながらも、躊躇した。
もう今更彼に何を告げると言うのか。……そんな気力さえ失くしてしまった。
だけど、彼は私の着信を見て、かけてきてくれたのだろう。やはり、一言謝っておかないといけないかも。
何度目かのコールの後、留守電に切り替わる直前に電話を繋げた。
「夏樹?」
祐樹さんのその低く響く声を聞いただけで胸が震えた。心弱くなっている今、縋りつきたい衝動に駆られる。
「はい、祐樹さん?」
普通に話そうと思うのに、随分泣いていた所為か何処か鼻声だ。
「うん? 風邪でも引いたのか?」
「ううん、感動ものの映画を見ていて、泣いたからかな?」
とっさの言い訳は定番の理由。
「そうか、電話貰ったみたいだけど、何か用事があったのか?」
「あっ、もういいの。解決したから……、ありがとう。電話掛けさせてごめんね」
何が解決したと言うのか…と自分に突っ込みながら、これ以上は聞かないでと祈る。
「そうか……。なぁ夏樹、今からそっちへ行ってもいいか? 急だけど、お茶漬けでもいいから食べさせてくれないかな?」
ああ、こんな時にも食事をさせろって言うのね。……って、祐樹さんにはこちらの事情なんて分からないんだから……。
「ごめんなさい。もう時間も遅いから……」
そう言って時計を見ると、彼がいつもやって来る時間帯だった。
「遅いって、いつも行く時間と変わらないけど……。実はもう夏樹のマンションの前まで来ているんだよ。仕事でこの近くまで来ていたから。それに……お土産もあるんだ」
「お土産?」
食いつくのはそこかい? と自分に突っ込んでいると、電話の向こうでもクックと笑う声が聞こえた。
「夏樹はやっぱり物で釣られるタイプだな」
「ち、違うわよ。珍しい事を言うから……」
お土産なんて持ってきた事無いくせに、どうしてこんな時に限って……。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
え? 誰?
「俺だよ。もう着いたから、開けて?」
どうして、こう図々しいのかしら? そう、図々しいから、平気で気ままに私の手料理を食べに来るんだ。
「もう……断ったのに!」
怒りながらも、心の中では仕方無いなって思っている自分がいる。
玄関のカギを開けてドアを開けると、スーツ姿の笑顔の彼が立っていた。眼鏡はもう胸ポケットにしまわれていた。土曜日だと言うのに、本当に仕事だったんだと彼の姿を見て思った。
「本当に泣いていたんだな、目が赤い」
入って来るなりそう言う彼は、有名パティスリーの袋を私に渡した。「ありがとう」と言って受け取ると、踵を返してLDK へ入り、ダイニングテーブルへその袋を置いた。彼は真っ直ぐ窓際まで行くと窓から夜空を見ている。
「ねぇ、リゾットがあるんだけど、食べる?」
「おっ、いいねぇ。是非食べたいよ」
彼が振り返って嬉しそうにそう返事する。彼の返事を聞いて、もう一度リゾットの鍋を火にかけて暖め始めると、食欲が少し戻ってきた。やっぱり私も食べよう。そう思い直し、二人分を器によそってテーブルに並べる。一人だと食べる気がしなかったけど、二人なら食べられそうな気がする。
「なんだ、夏樹もまだ食べてなかったのか?」
テーブルの上を見て、祐樹さんが訊いた。
「うん、食欲が無かったの」
「一人だと食べたく無くても、二人なら食べたくなるだろ?」
祐樹さんも私と同じ事を思ったみたいだ。
「まあね」と答えて、自嘲気味に笑った。彼のお土産はレアチーズケーキで、食後に食べようと冷蔵庫へ入れた。二人で向かい合って食べ始めると、彼は嬉しそうに笑って話し出した。
「俺も一人だと食べる気がしなくて、夏樹のところへ来るんだよ。それに、手作りの家庭料理を食べていると、外食が味気無くてね」
そんな風に思って食べに来ていたんだ。……でも、最近ずっと私のところへ来なかったのは、他に一緒に食べる人ができたのかもしれない。
以前の私なら、そんな風に考えてショックを受けて落ち込んでいただろうけど、今はなんだか何も感じられない。それどころか、どんどん心が冷え込んでいく感じがする。目の前で美味しそうに食べている彼が、とても遠く感じる。
「そうなんだ。あの、私に気を使う事ないよ? 私は一人でも食べられるから……」
別にいいのに。私の事なんてこのまま放って置いても……。
祐樹さんは優しいから、私の着信記録を見て、私の事を思い出したから来てくれたのだろう。
「なんだよ、それ? 俺が一人で食べる気がしなくて来たっていっただろ?」
私の言葉をどんなふうに受け取ったのか、彼は急に不機嫌顔になった。
「だから、別に私のところじゃ無くても、いつも一緒に食べる人のところへ行っていいんだよ?」
祐樹さんは何を勘違いしたのか知らないけど、彼としては私の気持ちを知っていて、私に気を使った事を知られたくないんだろう。私なんかに優しくしたなんて思われたくないのかも知れない。
そっけなく見せて、本当は優しい人だって分かっているから……。
「せっかく予定が空いたのに、いつも一緒に食べる奴の顔なんか見たくないだろ」
彼はそう言ってプイッと視線を外した。
え? もしかして、いつも一緒に食べる人と喧嘩でもした? ……って、やっぱり一緒に食べる人がいるんだね。それって彼女なのかな? もう私には関係ないけど……。
でも、優しい彼は、いつまでも私の事気にするのなら、こちらから解放してあげなきゃいけないね。
「でも、もう私のところで一緒に食べられるのは、今日が最後だと思う。私、会社を辞めて、田舎へ帰ろうって思っているの。だから……」
たった今決心した事を私はできるだけ笑顔で、前から決めていたように言った。上手く笑えているかな?
そう、これでいい。本当に帰ろう。浅沼さん夫婦からも、祐樹さんからも離れるにはこれが一番いい方法だから。もうこんな年なんだから、帰ってお見合いでもして結婚したら、玲子おばさん達も安心させてあげられるだろう。今までどうして考え付かなかったのかな。
「え? どういう事だよ? 会社辞める? 田舎へ帰る? そんな事何も言って無かっただろ?」
彼は相変わらず不機嫌そうな顔に困惑を浮かべて、怒ったように問い詰めてきた。
ええっ? 何? なんで怒っている訳? 自分だって転職した事、私に何も言わなかったくせに。
「どういう事って、そういう事だけど? 祐樹さんだって転職した事、私には何も言わなかったでしょ? 私だけ責められるのはおかしいと思うけど……」
売り言葉にかい言葉なのか、自分の事を棚に上げて人を責める事に腹が立ったのか、私の中に突然怒りが湧きあがってきた。
「そ、それはそうだが……」
彼はそう言いかけて、口を噤んでしまった。そして彼は何を考えているのか、私からそらした目が泳いでいる。そんな彼を見てしまったら、湧き起こった怒りもスルスルと萎んでしまった。
転職すると事前に話してくれなかった事を、責めている訳じゃないの。そんな大事な事も私に話す必要の無い、二人の関係が淋しいだけ。あなたを好きになった事は、後悔していない。あなたと出会って約二年半、いろいろあったけど、特にこの一年は楽しかった。出会えてよかった。良い思い出をありがとう。
心の中で彼にそう言いながら、もうこれが最後かもしれないから、笑顔でお礼を言って別れなくちゃいけないよと、自分を諌めた。想いを告げなければけじめがつかないよと浅沼さんは言ったけれど、もうこの思いを告げる気持ちは無くなってしまった。今私がこの想いを伝えたら、きっと彼を苦しめる。優しい人だから、きっと……。
「祐樹さん、今までありがとう。楽しかったよ、いろんな所へ食べにつれってもらったし、それに、私なんかの作る料理を美味しそうに食べてくれて、嬉しかった。本当にありがとう」
私は一生懸命笑って感謝の言葉を言った。
「何言っている……」
私の言葉に、彼は逸らしていた目線を私に向けた。その途端、驚いたように彼の目が大きく見開かれた。
「夏樹、何かあったのか?」
怪訝な顔をした彼は、私の表情から何かを読み取ろうとするように見つめた。
「えっ?」
私、うまく笑えなかったのだろうか?
「夏樹、涙が……」
ええっ? 涙? 思わず頬に手をやると、指先がぬれて冷たい。
私、泣いている?
急に恥ずかしくなって、「ごめん」と言って立ちあがると、お風呂の脱衣所兼洗面所へ飛び込んで鏡を見る。そこには、涙を流し笑い損ねて歪んだ顔をした私が映っていた。
ああ、感情のコントロールができない。
笑ってさよなら言いたいのに……。彼の心の負担にはなりたくない。良い思い出で、終わりたいのに……。
「夏樹、大丈夫か?」
洗面所のドアを叩きながら彼が声をかける。その音と声にハッと我に返り、彼に返事をした。
「大丈夫。ちょっとひどい顔しているから……。祐樹さん食べ終わったら、そのままにしておいてくれていいよ。私の事は気にせず帰ってくれていいから……。あっ、チーズケーキ、食べるんだったら、冷蔵庫から出して勝手に食べてくれていいからね。悪いけど、しばらくここから出られそうにないから……」
言い終わらぬうちに、ドアが開いて祐樹さんが中へ入ってきた。
「夏樹? 何があったんだ? 映画見て泣いたって、嘘だろ?」
どうして私を追い詰めるの? もう、そっとしておいて欲しいのに。
私の事を心配してくれているの?
そんな優しさいらないのに……。
私は泣き顔を見られたく無くて、俯いたまま何も言えなかった。
男の人はずるい。優しさは時に、とても残酷だ。浅沼さんにしたって、恋人を失くして自殺しようとしている雛子さんを慰めている内に、体のぬくもりで慰めようとしてしまったのかもしれない。今私の前にいる彼だって、いつも一緒に食事する人がいるくせに、私に不用意な優しさを示して、勘違いさせる。
ずるい、ずるい、ずるい!!
信頼していたのに……。死ぬまであなたの愛を母は信じていたのに……。
「男の人はずるい」
私は俯いたまま、いつの間にか心の中の言葉を呟いていた。
「え?」と訊き返す彼を見上げて睨むと、彼がまるで女性の敵でもあるように心の中のもやもやをぶつけていた。
「男の人は、結婚をしようと思っている程愛する女性が居ても、別の女性と関係を持つ事が出来るの?!」
2018.2.2推敲、改稿済み。