#73:祐樹の来訪(前編)【現在編・夏樹視点】
玲子おばさんとの電話を切って、しばらくぼんやりと考えていると、手の中の携帯電話がいきなり震えだして、思わず落としそうになった。
会社でマナーモードにしてから解除していなかった事を思い出し、名前を確認すると慌てて電話に出た。
「夏樹」
相変わらず胸に響く低音の甘い声が私の名を呼んだ。五年のブランクは私を戸惑わせるばかりで、この声を聞くとどこかむず痒くなる。
「祐樹……」
名前の後に‘さん’と言いそうになって、思いとどまった。セーフ。
「今夜、遅くなるけど寄ってもいいか?」
「ええ、何時でも待っている。夕食は?」
「さっき、済ませたよ。今から又会社に戻らなきゃいけないんだ。できるだけ早く行くようにする」
「私の方はいいから、無理しないでね」
「ああ、じゃあ後で」
短いやり取りで電話を終えると、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
祐樹が来てくれる。
昨日も一緒にいたのに、五年間一度もその声もその姿も、耳に目にする事のなかった人だから、今のこの状況が夢のような気がする。
もしかして、これも指輪のトリップじゃないでしょうね。あまりに慣れない幸福感の中、心がすんなり受け止め切れなくて、これはトリップですよと言われた方が素直に理解できる。本当にこの幸せを、私は受け止めていいのですか? と信仰もないのに名も無い神に尋ねていた。
彼が来るまでに、今夜話す事を何度も脳内でシュミレーションし、動揺の無いようにしなくちゃ……。
彼はどんな反応を示すのだろう?
こんな事で結婚の約束を覆すような人では無いと信じているけれど、五年前にどうして言わなかったんだと怒られるかもしれない。
でも、祐樹だって自分の素性を隠し通していたのだから……、その事情も理解はできるけれど、もっと早く話して欲しかった。彼が御曹司だって事。でももし、最初から分かっていたら、恋なんかしなかった? きっと、近寄らなかった。だったら、これは運命?
出会うべくして出会ったと言う事だろうか?
そんなもしもの仮説なんて今更だよね。私たちは出会ってしまった。それだけの事。
頭の中で何度かシミュレーションを繰り返していると、午後十時半過ぎインターホンが鳴った。モニターで確認し、ドアを開けると少し疲れた顔で微笑んでいる彼。
「ただいま」
「お、お帰りなさい」
いきなりただいまなんて言うから、焦ってしまったじゃないの。中に招き入れてドアを閉めると、小さな玄関スペースに立ったまま、珍しそうに彼はキョロキョロと見回す。
「へぇ、前と間取りが違うね」
そう言われてやっと、彼がこの部屋へ来るのが初めてだった事に気付いた。昨日はマンションの前まで送ってもらっただけだった。
「うん。今度はワンルームなの。前よりもっと狭いけど、上がって」
「ああ、五年前に引っ越してから、ずっとここにいるの?」
「そう、だけど? 一人だとこのぐらいのスペースで丁度いいのよ」
「いや、そんな意味じゃ無くて、この部屋は夏樹のこの五年間をずっと見ていたのかと思ってさ……」
「何? 五年間ここにいるんだから当たり前でしょう?」
私達は話しながら部屋の片隅に置かれたソファーのところまで来て、彼に座るよう勧めた。そして私は、何か飲む?と聞きながら流し台のある方へ歩き出そうとした途端、いきなり彼が背後からわたしを抱きしめた。
「夏樹……五年も放っておいて、ごめんな」
突然の抱擁に焦っている私に、突然の謝罪をする彼。そんな、何度も同じ事ばかり謝らなくてもいいのに……。
「もうその話は済んだ事でしょう? お互い様だから……」
「五年前にさっさと入籍しとけばよかったよ。どうしてそれに気付かなかったかなぁ、俺も。そうしたらいつまでも祖父さんに振り回されずに済んだのに……。はぁ~」
な、何言っているの?
また、お祖父様に何かされたの?
私を抱きしめる彼の腕の力は弱まる事無く、私の頭に顎を載せて独り言のように呟くと、大きく溜息を吐いた。
「何かあったの? またお祖父様の作戦にハマったの?」
「あのジジイは仕事に絡ませて攻めてくるから、性質が悪いんだよ」
祐樹は本当に嫌そうに言葉を吐きだした。イライラしているのがよく分かる。
「ねっ、祐樹。ちょっと落ち着こうよ。せっかく来てくれたのに、お茶ぐらい出させて?」
こんなに遅くまで仕事をして疲れているのに、お祖父様にイライラさせられて、祐樹の体が心配だ。それに、今日は大事な話をしなくちゃいけないのに……。
ニッコリ笑って振り返り、彼を落ち着かせるように彼の目を見て問いかける。私を見た彼のイライラのオーラが少し静まり、頷いた彼の腕の力が緩んだのを感じ、私はお茶を入れるために流し台に近づいて行った。
気分が落ち着く効果のあるブレンドのハーブティを入れてあげよう。
用意をしてトレーに二人分のカップを載せてソファーに近づき、ソファーの前のローテーブルにカップを置いた。そして、彼の隣に座り、カップを持ち上げてそっと口をつけた。
「う~ん、おいしい」
外は熱帯夜だけど、エアコンで丁度いい温度になった室内で飲むホットのハーブティは、ゆっくりと体中に染み込むような癒し効果があった所為か、思わず言葉が漏れた。
「ああ、そうだな……」
隣で同じように飲んでいる彼も、呟く様に同意の言葉を漏らした。そっと彼の表情を窺うと、穏やかな顔になっていて、ホッとする。
「さっきはごめん。ちょっとイライラしていた。夏樹に黙っていてもロクな事が無かったから話すけど、気を悪くするなよ」
『夏樹に黙っていてもロクな事が無かった』……この言葉がどの事を言っているかは、すぐに分かった。五年前のあの日、彼が私に秘密にしていたいくつかの事が、一度にバレた。あの日が二人のターニングポイントだったのかもしれない。
五年前……いや、正確には六年弱ぐらい前か、二十九歳になったばかりの私達は、微妙な関係だった。付き合ってと言われた事も無く、好きだと言われた事も無いまま、二十九歳の誕生日にいきなり、「俺の事、好きか?」と訊かれ、頷くと抱きしめられてキスをされていた。だからと言って、その時彼からは、彼の気持ちは何も聞かされなかったのだから。
二人の関係はいったい何なのだろうと悩んでいた頃、その時はやってきた。
その日は浅沼さんとのスイーツの会で、珍しくランチのお誘いだった。そのお店のコース料理の最後に出されるデザートが美味しいからとの事だった。
ホテルの中のフレンチレストランでの食事を終え、化粧室へ寄った私が、待ち合わせたロビーへ向かうと、浅沼さんが誰かと話しているのが目に入った。話していた相手は男女で、こちらを向いている浅沼さんと向かい合っている二人は後ろ姿しか見えなかった。その時、近づく私に気付いた浅沼さんが私の名を呼び手招きした。
すると、それまで背を向けていた背の高い男性の方がクルリと私の方へ振り返った。今思い出しても、まるでスローモーションになったようだった。振り向いた彼と私の目があった途端、「夏樹」と言ったのと、私が「祐樹」と言ったのは同時だった。彼につられて一瞬遅れて隣の彼女も振り返った。それはとても美しい人だった。思わず立ち止った私と振り返って私の名を呼んだ彼を一瞥した浅沼さんは、思いもよらない爆弾を落とした。
「夏樹ちゃん、息子と知り合いだったの?」
その言葉に金縛りに会ったように固まっていると、祐樹も同じように爆弾を落とした。
「親父、どうして夏樹を知っているんだ?」
そして、その二人を不思議そうに見ている綺麗な女性が、すっと祐樹の腕に手を置いたのを目の端でとらえた。私はその時頭の中で警報が鳴っているのを聞いた気がする。
ココニイテハイケナイ。
頭の中で誰かがそう命令した。私はとっさに踵を返すと、ホテルから逃げ出していた。そして、目の前に待機していたタクシーに乗り込み自宅へと帰ったのだった。
その日まで、祐樹の事はサラリーマン家庭に育った普通のサラリーマンの杉本祐樹だと信じていた。浅沼コーポレーションの社長の息子だなんて……。その上、美しい恋人だっている、私の知らない祐樹の本当の姿を見てしまったんだと分かった。全ては夢だったんだと、何もかも諦めよう、忘れようとしている私のところに、祐樹は何度も足を運んでくれたけれど、今更会う気にはなれなかった。元々恋人同士でもないのに、何の約束をした訳でもないのに……。もう放って置いて欲しいと、無視し続けていた。だから、舞子が間に入って、彼の話を聞く事になったのは、その日から一ヶ月以上が過ぎてからだった。
あの時の女性はお祖父様が決めた婚約者の女性だった。婚約解消をなかなか納得してもらえず、話をするために食事に来ていたらしい。誕生日に私の気持ちを確かめたからやっと決心して、その元婚約者に他に結婚したい人がいるからと納得してもらえる断り理由を言ったのだと、後から聞かされたのだった。
*****
祐樹は今日あったイライラの原因を話しだした。
「今日会社に、土曜日に会食した大きなプロジェクトの取引先の会社の担当者が仮契約のために来たんだよ。もちろんその社長とその娘も一緒に。そうしたら、担当者のいる前で俺とその娘の婚約が成立した時に、本契約をすると言いやがったんだ。うちの会社の担当者やその上司も、二重におめでたい事だと舞い上がっているし、専務もいよいよご結婚ですねなんて言いやがるし……。苦労して営業している担当者の手前、違うとも言えなかった。その社長と娘だけだったら、結婚する気は無いって断るんだけど……。祖父さんは俺が断る隙を与えないんだよ。五年前の事で学習済みって事か……」
本当にお祖父様は抜かりの無い作戦で、祐樹を追い詰めているんだ。この結婚を断ったら、今回の取引はパーになってしまうのだろうか? なんだか、怖くて聞けないけれど。
「それって、政略結婚って言う訳だよね? 相手の女性はこの結婚を受け入れているの?」
「もともと、その女性がアメリカにいる時に俺を見染めたらしい。何度かパーティで、アメリカ留学中だったその娘が父親に連れられてきていた時に、俺を見たらしい」
見染めた?
ああ、きっと、そんな女性はたくさんいたに違いない。
その女性の想いと会社社長の父親の思惑が一緒になったから、今回の話になったのか。
「祐樹はどこへ行ってもモテモテだね」
嫌味では無く、素直にそう思ったから口に出していた。でも、嫌味だと取ったのか、祐樹はこちらを睨んだ。
「そんなの嬉しくとも何ともないよ。はっきり言って迷惑だ。気を悪くするなよ。俺は夏樹だけなんだから」
祐樹はそう言って私の肩を引き寄せると、そっと触れるだけのキスをした。
私はその時、部屋の温度が上昇するのを感じていた。
2018.1.31推敲、改稿済み。