#71:5年ぶりの恋人(後編)【現在編・夏樹視点】
昨日に引き続き後編をどうぞ!
同じく現在編の夏樹視点です。
まだ、誕生日から10日程過ぎたところです。
お楽しみくださいね。
「ああ、まんまと祖父さんの企みにハマったよ」
祐樹さんの返事に私は驚いて彼の顔を見た。同時に彼も私の方を見る。そして、私の方へ向き直って手を握ると祐樹は口を開いた。
「夏樹、昨夜話さなかったのは、決して内緒にしようとか思っていた訳じゃないんだ。昨夜はそんな事よりも大事な事があったから……。でも、他の誰かから夏樹の耳に入って誤解される前に、夏樹にも聞いておいて欲しいと思う。俺の結婚したいのは夏樹だけだから、どんな事を聞いても、信じてついてきて欲しい。絶対に夏樹の事を守るし裏切らないから」
祐樹さんのいつに無い真剣さが、これから話す事の重大さを物語っているようで、私は震えた。そして、声も出せずに只、頷いた。
「昨日の昼、取引先の接待だったんだ。土曜日の昼間なんておかしいなとは思ったんだが、担当者も一緒だったし、相手の方も担当者がくる予定だったから、相手の都合のせいなのかなって思っていたんだよ。そうしたら、向こうの担当者の上司と言うのが、いつもなら部長クラスなのに、昨日に限って社長が来たんだ。それも秘書も同席させて……。それでも主に仕事の話をしていたから、疑いもしなかったんだが、途中で会長が顔を出して、それで、祖父さんの企みだって分かった。同席させていた秘書が社長の娘と言う事で、向こうの社長も初めて会ったのにもう結婚が決まったような言い方をするし、今回のプロジェクトの大事な取引先だし、担当者もいる前で、はっきり言う訳にもいかず、困ったよ」
お祖父様の決めた婚約者と会ったんだ。きっと、若くて綺麗な人。その上、社長令嬢だし……。祐樹さんを一目見たら、誰だってきっと好きになる。
私はさっきの祐樹さんの言葉を信じない訳じゃないけれど、どうしようもなく不安になっていくのは止められなかった。
「そうか……、親父らしいやり方だな。そうやって外堀を埋めて、祐樹が断れないようにしようとしているんだよ。でも、夏樹ちゃん、気にしたらダメだよ。そんな仕事にプライベートを持ち込むような会社とは取引する気は無いからね」
浅沼さんは不安そうな表情の私に向かって優しく言った。でも、私は自分の所為で仕事が上手くいかなくなるかと思うと、責任を感じてしまうのだった。
「ねぇ、いっそさっさと入籍しちゃえばいいんじゃないの? それならいくらお祖父様だって、他の人と結婚させられないでしょう?」
雛子さんはまた、重くなりがちな空気を吹き飛ばすような明るさで、突拍子もない事を言いだした。妻の言葉に緊張の緩んだのか、浅沼さんは呆れたような笑顔になった。
「君はいつも思わぬ提案をしてくれるねぇ。まだ夏樹ちゃんのご両親にご挨拶もしていないのに……。でも、急いだ方がいいのかもしれないな。親父は、祐樹の副社長昇格が本決まりになったら、披露パーティの時に婚約発表をするつもりだと思う」
副社長?
披露パーティ?
婚約発表?
誰の?
浅沼さんの言葉は別世界の話の様に頭の中を流れて行くだけで、私には理解が出来ない。いや、理解したくない。
「ああ、祖父さんがそんな事、話していた。今度の取締役会で副社長昇格が決まると。披露パーティは九月の中旬頃だと言っていた。もう会場も抑えてあるんじゃないかな?」
ええっ? そこまでもう決まっているの?
淡々と話す祐樹さんの横顔を見つめ、私は一人別世界で聞いている様な気になった。
忘れていた……いや、考えないようにしていただけだ。彼の後ろにある大きな世界。その中に入っていけるのだろうか?
「夏樹ちゃん、心配しなくていいからね。そんな事、させやしないからね」
私の不安な表情を見て、雛子さんは安心させるために優しく声をかけてくれた。婚約発表の事を言っているのだろうと私は小さく頷きながらも、どんどんと大きくなっていく不安に心を絡め取られて行くのを止める事ができなかった。
「夏樹ちゃん、君の知らない世界の事ばかりで、不安になるのは仕方ない事だと思う。でも、祐樹は今まで会社のトップに立つための努力をしてきた。そして、やっと周りからも認められるようになってきたんだよ。これはね、夏樹ちゃんのおかげでもあるんだよ。だから、夏樹ちゃんも覚悟を決めて、これからも祐樹の傍で祐樹を助けてやって欲しいんだよ。確かに、親父がいろいろと画策しているけれど、気にする事無いよ。こちらにもいろいろ作戦があるんだからね。大船に乗ったつもりで、任せなさい」
浅沼さんはあの頃と変わらぬ優しい眼差しで、あの頃の様に「覚悟をしろ」と言う。あの頃は自分の恋心を受け止める覚悟だったけれど、今は隣に座る恋しい人と共に歩む人生への覚悟。
「わ、私なんかでいいんですか?」
そう言った途端、さっきからずっと私の手を握っていた祐樹さんが、私の方を向いてまた強く握り閉めてきた。思わず私も祐樹さんの方を見ると、彼の瞳に囚われて身動きできなくなってしまった。
彼の瞳は、大丈夫と言うように優しく包みこんだ。何も言葉が出てこない私は、彼の目を見つめたまま、ただ頷くだけだった。
「夏樹ちゃん、こちらこそ祐樹みたいにヘタレなバカ息子でいいの? 本当なら五年前に結婚出来た筈なのにヘタレな息子の所為で五年も辛い思いをさせて……。ごめんなさいね。でもね、こんなバカ息子でも、夏樹ちゃんを選んだ事だけは、褒めてあげたいと思っているのよ。夏樹ちゃんの事を諦めずにいた事もね」
雛子さんったら……。
私の不安を吹き飛ばすようにニッコリと笑って話す雛子さんに、トリップで親しくしていた雛子さんを思い出した。
やっぱり、トリップの時の雛子さんと同じ……。そう思うと、私はなんだかとても嬉しくなってきた。
「母さん、さっきからバカ息子、バカ息子って、酷いじゃないか。それに、散々けなした後で夏樹を選んだ事を褒めて貰ったって、嬉しくないね。母さんの方こそ、嫁と姑の関係で夏樹を虐めたら、ただじゃおかないからな」
「何言っているの! 実の息子より、ずっと夏樹ちゃんの方が可愛いのに!」
私と浅沼さんは祐樹さんと雛子さんのやり取りを呆れたように見つめ、顔を見合わせて苦笑した。そして、浅沼さんは真面目な表情になり、二人にもうそのぐらいにと目で制すると、あらためて祐樹さんと私に向かい合った。
「祐樹、夏樹ちゃん、親父の事は私と祐樹に任せて貰ったらいいが、親父を出し抜くためには今のところ二人の関係が知れてしまうのはよくないと思うんだよ。分かってしまうとまた夏樹ちゃんに又何か言ってくると思うし……。その時はすぐに私か祐樹に連絡して欲しいんだが……。とにかく、二人の結婚を公にするまでは二人で一緒にいるときは極力人目につかないように、気をつけて欲しい。祐樹は多少顔が知られているから、特に気をつけるように……。それから、夏樹ちゃんのご両親に私達もできるだけ早くお会いしたいと思っているから、祐樹ともよく相談して話を進めて行って欲しい。夏樹ちゃんにはこちらの事情でいろいろお世話をかけるけど、よろしく頼むよ」
祐樹さんと私は神妙に頷いた。私達の恋はまるで芸能人の様に隠さなければならないのか……と、私は小さく息を吐いた。
しかし、それよりも、もっと大変な事があると、私はあらためて自分に言い聞かせた。
実家の両親に会ってもらう事。それは、本当の母親の事を話してからじゃないと出来ない。
玲子おばさん達はきっと、実の母親の事を隠して結婚するなんて許しはしないだろう。ただでさえ、母が心配して反対していたお金持ちとの、身分違いの結婚だ。この事を話した時の玲子おばさん達の反応も気になる。
私は、祐樹さんに隠れて小さく溜息を吐いた。
*****
「夏樹? 聞いているか?」
祐樹さんの呼びかけで我に返った私は、あわてて「はい」と返事した。
「聞いてなかっただろう? 実家の方の都合がついたら、すぐに挨拶に行くから……。出来るだけそちらの都合に日を合わせるようにするよ」
「うん……あの……、その前に祐樹さ……あ、祐樹に話したい事があるの」
「話したい事? 何?」
「電話ではちょっと……言えない。直接目の前で言いたいの」
「分かった……二、三日中に仕事の後、夏樹のところへ寄るようにするよ」
「うん。寄る時は、先に連絡入れてくれる?」
「OK。連絡は毎日入れるようにする。仕事の後だと、遅くなるかもしれないけど、いいかな?」
「何時でも待っているから……」
「分かった。遅くなっても必ず行くから……。なぁ、その話って、いい話? 悪い話?」
「どちらでもないの。私の家族の事。祐樹にだけは話しておきたいから……」
「そっか、安心したよ。じゃあ、その時に……」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
私は電話を切ると、又溜息を吐いた。
話さなければ……、前に進めない。
どんな風に話せばいい? 正直に? 父の事は隠して?
事情を話して、実の母の事はお父様には内緒にしてもらおうか。
私は、五年ぶりの恋人と、結婚へ向けて幸せの只中にいるはずなのに、言いようのない不安な予感が足元からどんどんと這い上がってきているようで、その息苦しさに思わず大きく息を吸って、吐き出していた。
2018.1.31推敲、改稿済み。