#05: 破られた約束【現在編→指輪の過去編→現在編/夏樹視点】
今回は、始め現在で、途中指輪の見せる過去のお話になり、最後また現在に戻ります。
指輪の過去編は、夏樹21歳の時の事。
今日は久しぶりに定時に退社した。最後の晩餐のために気合入りまくりで、家路に急いだ。
自宅であるワンルームマンションへ帰って来て先ずした事は、服選び。どうしてこんなに気合が入っているんだと、自分で可笑しくなる。
最後の晩餐だから、良い思い出として彼の中に残ってほしい……なんて、バカみたい。
もうすぐ結婚してしまう男のために、気合いを入れてどうするのだ。それでも、いい女だったと思ってもらいたいって、思ってしまう自分が可笑しかった。
先日、舞子と誕生日ランチを食べた後、一緒にショッピングした時の事。
「夏樹はいつもモノトーンの服が多いけど、ピンクも絶対似合うと思う。こんな淡いピンクなら、良いんじゃない?」
舞子がそう言って薦めたのは、ベビーピンクのシンプルなツインニット。ピンクの服は初めてだった。 こんな甘いパステルカラーは、ぼんやりした顔を余計にぼんやりさせそうで、避けていた色だった。
「ほら、よく似合うよ。夏樹の優しい顔によく似合っているよ。」
ものは言いようで、ぼんやりした顔も優しい顔と言えば聞こえもいいよね。でも、舞子が言うように、試着して鏡を見た時、優しい女性が笑っていた。
私は舞子との会話を思い出し、今日は今までと違うイメージで最後の晩餐を演出しようと心に決めた。彼の記憶にいつまでも残るようにと。
自分がバカな事ばかり考えているなって言う自覚はあったが、どんどんエスカレートしていく気持ちを止める事が出来なかった。
服を決め、シャワーを浴びて、服を着替えると化粧をするため鏡に向かう。素顔は相変わらず幼い顔。五年前と変わっていないつもりでも、確実に年齢を重ねていて、肌のくすみは自分でもわかる。くすみを消す下地クリームを丁寧に塗り、ファンデーションを重ねる。二十代は自分の肌に対してあまりに無頓着だった。三十歳を過ぎたあたりから、基礎化粧に対してかける時間もお金も増えてきたように思う。これも、女ゆえの足掻きなのか。
シャワーを浴びる前に外した指輪を通したチェーンから指輪を抜き取り、指輪を改めてじっくりと見つめる。
すっかり忘れていた。この指輪の存在にも、この指輪の大切さも。
引っ越しの後、指輪の事を思い出して探したけれど見つからなくて、ずいぶん落ち込んだ。なのに、あれから時の流れと共にいつの間にか忘れてしまっていた。
二十歳の誕生日の母の告白内容も、いつの間にか頭の中の引き出しに仕舞い込んでしまっていた。
それでも残っているのは、お金持ちと結婚してはいけないと言われた事。その呪縛が、彼との未来を夢見る事を奪い去る。
でも、この指輪があったら、何か違ったのだろうか?
アンティークショップの店主が、この指輪は幸せに導くと言っていた。
あ、もしかしたら、この指輪をはめていたから、彼と再会できたのだろうか?
この指輪をはめていたら、彼との未来も夢じゃないのだろうか?
はっ、バカな。もう結婚が決まっているのに。そんな事を望んだら、相手の人に失礼だ。
でも、彼は相手の人を愛して結婚しようと思っているのだろうか?
もしそうなら、なぜ私なんか食事に誘うのだろう?
自分の都合の良いように考えている事に気づき、鏡の中の自分に向って苦笑する。
彼の結婚を祝わなければ。正論しか言えない真面目な私が、心の片隅で声を上げる。彼は自分だけ幸せになるのが辛いのかも知れない。私も幸せなのだと見せれば、彼も心置きなく結婚出来るだろうか?
いや、私の方が彼だけ結婚してしまうのが悔しいのだ。わたしだって、相手がいるのよとこの指輪を見せつけようか。
そう決心した私は、無意識に左の薬指に指輪をはめていた。そして、その瞬間、私の意識はまた過去へと飛んでいた。
***
気がつくと、母が目の前に横たわって、私は母の手を握っていた。やせ細った体。どうしてこんなになるまで、黙っていたのか。
実の娘なのに情けなくなる。何度も何度も「どこか悪いんじゃないの? 病院へ行った?」と繰り返したけれど、母の「ダイエットしているのよ」と笑う姿に誤魔化され続けた。母が病気かもと考える事さえ怖くて、母の言い訳を縋る様に信じていた。
いよいよ、気力も尽きてしまったのか、母の呼ぶベッドの傍に行くと、玲子小母さんと小父さんを呼ぶように言った。そして、私にもう一度あの指輪をして見せてくれと懇願した。
指輪を持って来て、指にはめて母の目の前に手をかざす。
「やっぱりあなたの指輪ね」
嬉しそうに言った母は、私の手を握った。
「夏樹からお父さんを奪ってしまってごめんね」
いつかのように涙を流しながら繰り返す母を見て、私は思わず母の手を握り返して言葉を掛けた。
「お母さんがいるから、大丈夫だよ」
その時、玄関のドアが勢い良く開くと「夏子」と呼びながら、玲子小母さん夫婦がやって来た。そして、「救急車を呼んだからね」と私に告げた。
母は玲子小母さんの手を握ると「あの事、よろしく頼むわね。」と言った。何の事だろうと思っていると、玲子小母さんも「分かった。任せておいて頂戴。」と返している。
そうしている内に救急車がやって来て、母と病院へ向かう。救急車の中で、母の意識がだんだんと途切れだした。うわ言のように繰り返す言葉は、かろうじて聞き取れる程小さなものだった。
「まさきさん、まさきさん、ごめんなさい。裏切ってごめんなさい。娘を奪ってごめんなさい」
父であろう人の名前を繰り返す母の手を、私は握ることしかできない。
「お母さん、お母さん」
私は縋り付いて何度も呼びかける。
置いて行かないで、一人ぼっちになっちゃうよ。お母さん、死なないで。
やがて、救急車は病院に着き、母は昏睡状態になっていた。私は母の手を握ったまま、病院に着いた事にも気付かず、母をずっと呼び続けていた。
昏睡状態になった母は、次の日の未明ひっそりと息を引き取った。
母は癌だった。病院にかかった頃にはもう他にも移転していて、手遅れの状態だったという。ずいぶん長い間我慢していたらしい。それでも、母は癌と分かってからも手術は拒否し、対処療法だけで積極的な治療は拒んだと言う。後から玲子小母さんに聞かされ、二人きりの家族なのにどうして言ってくれなかったのかと、心の中で母を責めた。玲子小母さんも黙っているのが辛かったみたいだけれど、母の毅然とした口止めに言いだせなかったそうだ。
私は玲子小母さんに手を掴まれるまで、母の手を離せずにいた。私の心も一緒に連れて行かれたように抜け殻のまま、いつの間にか数日が過ぎていた。
玲子小母さん夫婦が、通夜から葬儀、初七日と済ませてくれた。
私がこんな状態だったから、母のいないアパートへ帰るのが辛くて、母が亡くなったその日から、玲子小母さんの家でお世話になった。そして、四十九日が終わった後、玲子小母さんと小父さんからお母さんに頼まれたという話があった。
「夏樹ちゃん、お母さんからも頼まれていたし、前から私たちも考えていたんだけど、私たちの養子になって欲しいの。お母さんがいつも心配していた、あなたの存在がお父さんの方にばれる事も、姓が変わる事でわかりにくくなると思う。養子になったからって、あなたに老後の介護をさせようとかは考えてないからね。私たちも子供がいなかったから、あなたの事、本当の子供のように思って来たのよ。だから、どうかしら?」
母が亡くなる直前に玲子小母さんに託していたのは、この事だったんだ。
私は母が亡くなってからこの一か月以上の間、考え続けてきた事を告げる。
「小母さん、小父さん、私、都会で就職しようと思うの。母との約束を破る事になるんだけど、母が働いていたという都会で私も働きたい。お父さんを探そうとかは考えてないから。でも、小母さんと小父さんの養子にしてもらったら、姓が変わるから都会へ出るのには都合がいいかもしれないって思う。私は父も母も無くしてしまったと思っていたけど、小母さんと小父さんがいてくれるから、頑張ろうと思うの。こんな私ですけど、娘としてよろしくお願いします。お義父さん、お義母さん」
玲子小母さんが「こちらこそ、よろしくね」と言いながら私を抱きしめた。小父さんも嬉しそうに笑い、落ち着いた声で言った。
「夏樹ちゃん、都会へ行くのは反対しない。君は無茶な事をしないと信じているから、笑って送り出そうと思っている。だけど、辛いことやいやな事があったら、ここに小父さんたちがいる事忘れないでいて欲しい。いつでも、帰ってきていいんだよ。とにかく、君が幸せでいつも笑っていてくれるのが、夏子さんと小父さん達の願いなんだからね。」
小父さんの言葉は、私の心に響いた。お母さんとの約束を破る事を怒らず、私を信じて後押ししてくれる。
ありがとう。小父さん、小母さん。そして、お母さん。約束を破る事、許して下さい。ごめんなさい。
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はっと我に返ると、相変わらず鏡の前にいた。
そうだった。私はどうしても都会で就職したくて、御堂夏樹から佐藤夏樹になったのだった。都会へ行くなと言った母との約束を破って。
そうだった。あの時、小父さんに言われたんだ。私が幸せで笑っているのがみんなの願いだと。
私は、はぁーと息を吐いた。
今の私、幸せだろうか? 心から笑っているだろうか?
鏡の中の自分と目を合わせる。口の両端を釣り上げて笑顔を作ってみる。
やっぱり、幸せそうには見えない。
だから、良い機会かもしれない。自分の気持も、自分の人生も、一旦リセットしよう。
そのために指輪が戻って来て、彼と再会したのかも知れない。これは偶然ではなく、必然。そう、運命なのかも知れない。
2018.1.25推敲、改稿済み。