#51:未来への覚悟【現在編・夏樹視点】
今回は現在編、夏樹視点です。
あ、何か鳴っている。
ゆるゆると覚醒してゆく中で、それがドアホンだと気付いた。
今何時?
時計の方を見上げると、短い針が十のあたりを指していた。
嘘! もう十時なの?
それが午前の十時である事はカーテンを隔てて射しこむ日差しの明るさで分かる。今日は日曜日だったよねと自分の中に確認を取り、飛び起きた。
またドアホンが鳴っている。
誰だろう?
パジャマ代わりのロングTシャツのままの姿でドアスコープを覗いた。
舞子!
慌ててドアを開けると心配顔の舞子が立っていた。
「夏樹、いたのね。よかった」
そう言うと舞子は安堵の表情を見せた。
「ごめん。寝坊しちゃった」
「何度も電話しても出ないから……、すごく心配したんだよ」
もう一度謝りながら、改めて朝の挨拶をし、舞子を部屋のソファーへ促して、自分は洗面所で着替えと洗顔をした。
「舞子、麦茶飲む?」
「ありがとう」
二人分の麦茶をグラスに入れると、それを持って舞子の隣に座り、舞子に一つを渡した。
「どうしたの? 朝から訪ねてくるなんて……、急用だった?」
「電話にも出ないから、倒れているんじゃないかって、心配で来たんじゃないの!」
舞子の剣幕に怯みながら、申し訳なさでいっぱいになった。
「ごめん」と頭を下げながら項垂れると、「トリップ?」と舞子が訊いてきた。私はコクンと頷くとさっ きまでトリップの事を思い出した。
今回のトリップ……。
頭の中を過去の記憶よりも鮮やかに蘇る出来事たち。本当の過去と比べるために、つらつらと思い出していると、不思議な違和感。
違う……、本当の過去とは違う。
舞子の結婚式の二次会の後、祐樹さんのマンションなんかに行って無い。
誕生日のディナーなんて誘われていない。
それから……、浅沼さんに、恋愛相談なんかしていなかったと思う。
でも、考えれば考えるほど、本当の過去がどうであったか、自信がなくなる。本当の過去を思い出そうとすればする程、トリップで見た過去にすり替わっている様に思う。
もしかして……、もしかして……。
私の過去の記憶が、指輪の過去に置き換えられているのでは?
「夏樹」と呼ばれて、我に帰る。
舞子の顔をみると、じっとこちらの様子を見ていた。
「夏樹、トリップで何かわかった?」
あ、指輪の事だよね。
そう言えば……。
祐樹さんが指輪を見て、どこかで見た事があるって言っていたけど、祐樹さんが生まれてから私の手元に指輪が来るまで、母が指輪を持っていたのだから、見ることはできない。
きっと思い違いだよね。
私は静かに首を振った。
それを見た舞子は少しがっくりとした表情をした。
「そっか……、それよりね、夏樹のお母さんの事、少しわかったのよ」
「え? お母さんの事?」
「ええ。圭吾さんのお父様が、夏樹のお母さんの事知っていそうだって、昨日のトリップの後言っていたでしょう? それで、昨日子供たちを迎えに行った時、お義父様に聞いてみたの。御堂夏子って言う人を知っていますか?って」
「ええ?! そんなに直球で聞いたの?」
「まあね。そうしたらね、夏樹のお母さんはお義父様の会社で働いていらっしゃったんですって。その上、お義父様と同期になるらしいの」
「嘘? 本当に? お母さんが、圭吾さんのお父様の会社で働いていたの? ……そうしたら、もしかして……、圭吾さんのお父様、父の事を知っているとか?」
「う~ん、夏樹もなかなか鋭いわね。なんとなく知っている様な気がするんだけど、これ以上聞くと理由も聞かれるでしょう? 夏樹の事まで言わないといけなくなりそうだから、聞けなかった。でも、圭吾さんのお父様は、夏樹のお父様じゃありませんからね」
「そんな事、わかっているわよ。でも……、気付かれるんじゃないかしら? お母さんそっくりの私を見て驚いていたぐらいだから。あの時、母の名前は佐藤玲子だって言ったから、他人の空似って思ってくれたかな?」
「何言っているの? それはトリップでの過去の話でしょう?」
「え? ……舞子の婚約のパーティの時、圭吾さんのお父様を紹介してくれたよね? ……あっ、もしかして、これってトリップでの記憶?」
「そうだよ。夏樹には圭吾さんのお父様を紹介した事無いのよ。……大丈夫? 随分混乱しているみたいだけど、あまりトリップしない方がいいんじゃないの?」
「なによ、舞子がどんどんトリップしなさいって言ったんじゃない! ……でもね、本当に過去の記憶が曖昧になってきているの。……何て言うか、過去の記憶がトリップで見た記憶に塗り替えられている様な気がして……」
「ええ!? 本当に大丈夫なの? もう、トリップするのを止めた方がいいのかもしれないね」
「でも……」
私は今回のトリップでの過去が大きく現実と変わってきたので、もしかしたら幸せになれるヒントがあるのじゃないかって、気がしている。もう一度、過去をやり直している様な気がして、今度こそもうこんな辛い恋は嫌だもの。いつか、トリップの過去が現実に追いついた時、何かが変わるような気がするのだ。そして、本当の父親が誰かも、教えてくれるような気がする。
「夏樹、お父さんの事が知りたくてトリップするのだったら、圭吾さんのお父様に聞いてみるわよ。それの方が早いかもしれないから」
舞子の提案はもっともだと思ったけれど、それでは私の事を内緒には出来ないだろう。
私はフルフルと首を左右に振った。
「私の存在が他の人にバレるのは困るの。圭吾さんのお父様に聞くのだったら、理由を言わない訳にはいかないでしょう。指輪が見せる過去に教えて貰う方が、父親が誰かわかった時に、相手次第で名乗り出るかどうか、考えられると思うの。やっぱり、このままトリップを続けてみる。大丈夫。少々過去の記憶がおかしくなっても、過去は過去だから……。今現在の方が大切だから」
心配そうな顔をしてこちらを見る舞子に、安心させるようにニッコリと笑った。
「そう……、わかった。夏樹がそのつもりなら、何も言わないけど……。トリップの時間が長くなっているみたいだから、気をつけてね」
「うん。次の日が予定の無いお休みの日だけにするね」
「出来たら目覚ましもかけてね。目覚めなくて心配掛けさせないでね」
舞子は少し怒ったような口調で言った。
「ごめんね。心配ばかりさせて……」
「友達だから、当たり前だよ。それより……夏樹、祐樹さんから連絡あったんでしょう?」
「あ……」
どうして舞子が知っているの?
「昨夜、祐樹さんが電話で泣きついてきたわよ。夏樹に振られたって……」
「振られた? 振られたのは、私の方で……。あっ、あれは夢だったかな? でも、やっぱり駄目なのよ。祐樹はお祖父様の決めた人と結婚すると約束して帰ってきた訳でしょう? だったら、もう覆せないよ。それに、私では祐樹や会社のために何もしてあげられないもの……」
そう、お祖父様と約束した。自分から身を引くと。祐樹も約束したのだ。お祖父様とお祖父様の決めた人と結婚すると。二人でお祖父様を裏切ると言う事は、会社での祐樹の立場を悪くしてしまうのじゃないだろうか。
「何言っているの!! この五年、祐樹さんは何のために頑張ってきたと思うの!! 誰にも文句言わせずに夏樹と結婚するためなのよ。本当にいいの? 祐樹さんが他の人と結婚してしまっても! それで祐樹さんが幸せになれると思うの? お母さんとの約束を気にしているのはわかるけど、親にしたら自分と同じ不幸の道を進もうとしている娘より、約束を破っても幸せになる方を選んでほしいと思うはずよ。それに、祐樹さんのご両親だって賛成してくださっているらしいじゃないの!」
あ……浅沼さん……。
舞子には浅沼さんとのスイーツの会の話も、その後のかかわりについても話していなかった。なんとなく、話しそびれたまま今日まで来てしまった。
そう言えば……、トリップの過去で圭吾さんの父親同様、浅沼さんも私の母の名前を聞いた。どうも、浅沼さんも私の母の事を知っている様だし、もしかしたら父の事も知っているのかもしれない。圭吾さんのお父様と浅沼さんは昔からの親友だと聞いた事があったから、知っていてもおかしくないのかもしれない。
でも、舞子にその事をどうして言えなかったのだろう?
ううん。言いたくなかったのだ。口にしてしまうと、浅沼さんとの大切な思い出まで変な風に取られそうで……。
『夏樹ちゃん、それは覚悟を決めなきゃいけないね。その想いを自分自身が受け止める覚悟がね』
突如、トリップの中で浅沼さんが言ってくれた言葉が蘇る。本当の過去では言われていないだろう言葉だけど……。覚悟か……。
「いいのかな? 祐樹との未来を願っても……」
「いいに決まっているじゃない! 相思相愛の二人なんだから、一緒になるのが当たり前でしょう!」
相思相愛?!
今でも祐樹は私の事を愛していてくれているのだろうか?
ううん。今は自分のこの気持ちが肝心。どんなに時間が過ぎても変わる事の無かったこの想い。
ねぇ、浅沼さん、この気持ちに素直になってもいいんだよね?
***
あれから一週間後土曜日に、舞子の取り計らいで祐樹と逢う事になった。明日が約束の土曜日と言う金曜日の夜、シャワーの後、パジャマ代わりの薄い綿ニット地のシンプルな半袖ワンピースを着て、ベッドに腰掛けた。手にはチェーンから外した指輪。前回のトリップを順番に思い出してみる。
健也君に付いていけなかった、あの時の苦い思いが蘇る。忘れようとしても、いつも私の心をとらえて離さなかった祐樹への想い。
……もう何年想い続けているのだろう?
その時々で二人の距離は、離れたり近づいたりしてきた。
この五年間が一番辛かった。
今度こそ、自分から別れを言ったのだから、忘れなくちゃ、諦めなくちゃと過ごした五年間。
三年前、健也君が海外赴任から戻った時、私がまだ独身のまま会社を辞めずにいた事に、とても驚いていたっけ。そう言う健也君も、とっくに結婚したと思っていたけれど、独身のままだった。
懐かしさもあり、何度か食事に行った。
諦めなくちゃいけない想いを抱かかえたまま、年ばかり取って行く寂しさに、健也君にもたれてしまいそうになった。
『夏樹、君の心には相変わらずあの男が居るんだな。心の中にもう誰もいないのなら、今度こそ君を連れて行きたかったけど……。あの男も君の事思っているんだったら、もういい加減身分違いなんて本人以外の条件に振り回されずに、ぶつかってみろよ。一人では無理な事でも、二人ならなんとかなるんじゃないのか?』
そんな言葉を残して、健也君はその半年後、また海外赴任した。日本に戻ってきている間にお見合いで決めた新妻を連れて。
それなのに私は、祐樹のいるアメリカまで行く勇気も無く、一人ネガティブ思考の中でもがいているばかりだった。
トリップの記憶から随分それてしまった。
もう一度、思い返す。トリップの記憶の中の私と祐樹の距離はどのくらいなのだろう?
私はそれを確かめるべく、手の中の指輪をそっと指に通す。そして、意識は白い霧の中に消えていった。
2018.1.30推敲、改稿済み。