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#48:恋心の昇華【指輪の過去編・夏樹視点】

今回も指輪の見せる過去のお話です。夏樹視点。

夏樹27歳の6月第3土曜日。

浅沼さんとのスイーツの会です。

 舞子達の結婚式の翌週の土曜日、私は前回のスイーツの会の時のように、浅沼さんのシルバーのセダンの助手席に乗っていた。先週までのさばっていた高気圧が、今週は梅雨前線に負けてしまったのか、月曜日からシトシト雨の日が続いている。今日も雨は降ってはいないが、今にも降りそうなどんよりした曇り空だった。

 こんなに雨の日が続くと、ただでさえ落ち込みがちな気分が、ますます沈んで行き、仕事に集中するために余計なエネルギーを必要とした。その所為か、甘いものがすごく食べたかったから、浅沼さんのお誘いは、私を暗い水の底から引き揚げて貰った様で、助けられた思いがした。

 やっと新鮮な空気を肺一杯に吸い込める。そんな風な気分が、どんよりした空も気にならなくさせていた。


「今日はどんなスイーツですか?」

 私はワクワクして、運転している浅沼さんに聞いた。


「今日はね、和菓子なんだ」

 浅沼さんは一瞬こちらを見るとニコッと笑った。


 おお、和菓子! 意外な展開。この季節にどんな和菓子なのだろう?

 期待に胸が震えている間にも、車はどんどん郊外の自然の多い地域に向かって進んでいる。


 車で約三十分走らせて到着したのは、大きな木々に囲まれた日本家屋だった。

 今回のお店は、浅沼さんがたまにゴルフなどの帰りに接待で利用する料亭の隣に併設されている和風お茶処とでも言うのだろうか? とても落ち着いた佇まいの建物で、畳の部屋でお抹茶と和菓子を頂けるお店だった。

 中に入ってみると、八畳間が三つ並び、それぞれふすまで独立するようになっていて、その向こうには広縁があった。それぞれの部屋を隔てる襖は開け放され、広縁と和室を隔てる障子戸も開け放されていて、広々とした開放感があった。お店の裏には川が流れていて、川に面している掃き出しのガラス戸はアルミサッシではなく、趣のある木の枠のガラス戸でこれもまた開け放され、涼しい川風が緩やかに吹き込んでいた。


 私たちが和室に入った時、二組ほどの先客がいたが、充分な広さがあったので、気にせずに川の見える位置に座ってくつろいだ。しばらくすると、和服姿の女性がお菓子とお抹茶を載せた盆を持ってしずしずと入って来た。私たちの傍まで来ると、畳にお盆を置き、正座して私たちに向かって一礼し、和菓子を載せた銘々皿と抹茶の入った抹茶茶碗をそれぞれの前に置いた。私たちも正座してその様子を見つめていたが、その女性が立ちあがる前にもう一度、丁寧に手をついて一礼したので、私たちも「ありがとうございます」と言いながら軽く頭を下げた。

 私は、まるでお茶席のような丁寧な対応に緊張し、眼の前に置かれたお菓子とお抹茶をどのように頂いたらいいのか、躊躇してしまった。隣を見ると、くつろいだ様子の浅沼さんが和菓子の載ったお皿を手に取っていた。


「今日は、水饅頭だね。ここのは美味しいらしいよ」

 浅沼さんは穏やかな笑顔をこちらに向けて、嬉しそうに言った。

 私も急いで和菓子のお皿を手に取ると、瑞々しくつるりとした水饅頭を見つめた。こしあんを透明な葛の皮で覆った水饅頭。何年振りだろう? と考えても、この前何時食べたか思い出せない程だ。

 添えられた竹製のフォークで水饅頭を小さく切り取り口の中へ入れると、透明な葛の皮の冷たいつるりとした感触と、甘さ控えめのこしあんの舌触りと味が何とも言えない上品さがあった。後口も爽やかにするりと喉越しも良く、水饅頭ってこんなに美味しかったっけ? としみじみ思ったのは、お皿の上がきれいになった後。

 隣で抹茶茶碗を持ち上げたのが見えたので、和菓子のお皿を畳の上に置きながら、浅沼さんの様子を見ていたら、慣れた綺麗な所作でお抹茶を飲んでいる。

 私も高校生の頃少しだけ習った茶道を思い出しながら、右手で抹茶茶碗を取り、左手の上に乗せ、小さくおしいだく。そして、右手で二回正面を左側にずらし、お茶碗に口をつけてそろりと抹茶を口に含んだ。

 ゴクリと飲み込むと、先ほどの水饅頭で少し甘くなっていた口腔が、抹茶の苦味で綺麗に洗い流された。三回に分けて飲み干すと、口をつけた所を親指と人差し指で拭き取り、先ほどと逆方向へお茶碗をずらして畳の上に置いた。


「おとなしいね。今日はどうしたのかな?」

 いつもならお喋りしながら食べたり飲んだりしているのに、そう言われて初めて、自分がずっと黙ったままだった事に気づいた。


「なんだか緊張して……、喋るどころじゃなかったです。でも、美味しかった。たまにこういうのも良いですね」

 ホッと緊張が解けて浅沼さんの方を見てニッコリと笑った。浅沼さんも穏やかな表情で「良かった」と笑った。


「伯父様も緊張されているんですか? いつもより口数が少ないですけど……」


「ははは、緊張している訳じゃないのだけどね、こんなに静かな空間にいると声を出すのもはばかれる気がしないかい?」


「そうですね。でも、この静けさがお抹茶とお菓子の美味しさを引き立てている様な気がします」


「夏樹ちゃん、旨い事言うね。……じゃあ、そろそろ外へ出て川の方へでも散策に行かないかい? お喋りもしたいからね」

 私は頷くと先を歩く浅沼さんについて行った。川縁を歩きながら、ここ数日の雨で濁った川の水を見つめた。

 今の私の心のような川の色……浅沼さんのお陰で浄化しつつあると思った心も、今日の変な緊張の所為か、楽しみにしていたスイーツの会の癒し効果は、いつもより少なかった。

 その上、昨夜電話でこの半年間の事を聞いてくださいと言った手前、話さなければとは思うものの、いろいろアドバイス頂いたのに、数か月で終わらせてしまった交際の事や、忘れたいと言いながら忘れきることのできない恋心の事に自分の不甲斐無さを感じ、何から話せばいいのか言葉が見つからなかった。

 心の中を濁々と濁った水が渦巻いている。

 ああ、話の糸口がなかなか見つからない。

 隣を歩く浅沼さんは、穏やかな表情のまま周りの景色を見ながらゆっくりと歩いている。きっと私から話しだすのを待っているのだろう。でも、けして催促はしないその優しさが、今は辛い。


 どんよりとしていた雲が少しずつ切れ出して、雲の隙間からわずかに太陽の光が射しだした。ふいに浅沼さんが足を止め、私の方を見た。


「今日は本当に静かだなぁ。ここの雰囲気の所為かな? それとも、何か悩んでいるのかな?」

 そう言って、私の顔を覗き込む浅沼さんの優しい眼差しに、覚悟を決めて話す事にした。何の覚悟かはわからないけど……。


「すいません。心配かけてしまって」

 私は前回浅沼さんに逢った時から今までの事を、順を追って話しだした。片思いの彼の結婚話、会社の同期の彼の海外転勤とプロポーズ、片思いの彼を忘れきれない事。そして、友人の結婚式の二次会でお酒を飲みすぎて寝込んでしまった私を、片思いの彼が仕方なく自分のマンションへ泊めてくれた事。それはとても紳士的だった事。彼のさりげない優しさを感じた事。そして、婚約者の人に申し訳ないと思った事、などを話した。

 最後のキスの事は言えなかったけれど……。

 何も言わずに、ただ優しく相槌を打ちながら聞いてくれた浅沼さんは、しばし沈黙の後、優しく口を開いた。


「夏樹ちゃん、それは覚悟を決めなきゃいけないね。その想いを自分自身が受け止める覚悟がね」


「覚悟、ですか?」


「そう、覚悟。今まで忘れようと、その想いから逃げようとしてばかりいただろう? だから、余計にその想いに囚われてしまうんだよ」


「でも……、彼はもうすぐ結婚するんです。何時までもこんな想いを持ち続けていても……」


「だから、忘れるために他の人とも付き合ってみたんだろう? それでも、忘れきれなかった。違うかい?」


「そうです。でも、辛いんです」


「そうだね。辛いよね。そう言いながら、君はその想いを手放せずにいるだろう? それならいっそ、その想いを素直に受け止めて、ほんの小さな触れ合いも喜びに変えて、相手の幸せを願えるよう昇華させていく方が、その恋を思い出に変える近道だと思うんだけどな……」

 浅沼さんは眩しそうに目を細めて、雲間から漏れる太陽の光に反射している水面を見ていた。

 浅沼さんの心が今見ているのは、遠い昔の自分自身だろうか?

 浅沼さんの言葉にはとても実感がこもっていた。


「浅沼さんはそんなふうに、恋心を昇華させた事があるんですか?」

 思わず訊いてしまった。それでも、私の方に顔を向けるとフッと笑って「そうだね」とだけ答えた。

 浅沼さんは過去に辛い恋をした事があるのだろう。それは、話の中によく出てくるお菓子作りの上手な女性との恋だろうか?

 それでも、今の奥様とはとても幸せそうだ。

 私もこの恋を昇華できたなら、浅沼さんのように本当の運命の人と出会えるのだろうか?


「頑張ってみます。この想いを昇華できるように……」


 そろそろ帰ろうと言う事になり駐車場まで戻ってくると、料亭の方の玄関からお客様と思われる数人の男女と着物を着た女将と思われる人が出て来た。その女将は、お客様の車を見送った後、私たちに気付き声をかけて来た。


「浅沼様、いつもありがとうございます」

 そう言って、綺麗な姿勢でお辞儀をした。


「ああ、女将、今日は和菓子の方を頂いたよ。初めてだったけれど、とても趣があって良かったよ。お抹茶もお菓子もとても美味しかった。毎月お菓子が変わるらしいね、またお邪魔させていただくよ」


「それはご贔屓にありがとうございます。 あ、そちらはお嬢様ですか? 良く似ていらっしゃいますね」

 浅沼さんの横で小さく頭を下げた私に気付き、女将がニコニコしている。

 似ている? 私と浅沼さんが? 不思議な気がした。

 こんな素敵なお父様がいたらなとは思っていたけれど、いつの間にか浅沼さんの雰囲気がうつったのだろうか? 似ているはずなんか無いのに。


「あ、いや、姪なんですよ」


「ああ、姪御さんでしたか? だから似ていらっしゃるのですね? 口元なんか、良く似ていらっしゃるわ」

 似ている? 口元が?

 そのとき不意に記憶が蘇った。


『夏樹は私によく似ているけれど、口元はお父様譲りね』

 母が私を見て嬉しそうに言った言葉。まさか、ね……。そんな事はあるはずが無い。


「そうですか。ははは……」

 誤魔化すように笑った浅沼さんは、ゆっくりと首を回し、私の顔を見る。私も浅沼さんの顔を見上げ、悪戯が見つかりそうになった子供同士のように、苦笑いした。


2018.1.30推敲、改稿済み。

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