#46:お仕置きの理由【指輪の過去編・夏樹視点】
今回も指輪の見せる過去のお話で、夏樹視点。
夏樹、祐樹、27歳の6月第2日曜。
舞子と圭吾の結婚式の次の日。
「コーヒーを淹れたんだけど、飲むだろ?」
ドアのところで振り返った祐樹さんが訊いた。
「コーヒー、ですか?」
苦手なコーヒーと言われて、少し躊躇した。
「あ、夏樹、コーヒー苦手だったな? 家には紅茶はないしな……どうする?」
覚えていてくれたんだ。
以前、舞子と高藤さんのサポーターと称して作戦会議をしていた時、コーヒーが苦手だと話したっけ。
でも、せっかく祐樹さんが用意してくれたのだから、飲んでみよう。
「大丈夫です。コーヒーを頂きます。……ところで、今何時ですか?」
会話をしているうちに、だんだんと頭が目覚め、今のこの状況を冷静に判断できるようになってきた。今日は日曜日だけれど、いつまでもお邪魔している訳にはいかない。
結婚間近な男性の部屋に居座る事は許されない。
「今? 午前八時半頃かな?」
え? もうそんな時間! のんびりしていると、すぐに九時を過ぎてしまう。
もしかして、いきなり婚約者の人とか女友達とかご家族の方とか、やって来るかもしれない。
「わ、私、帰ります。本当にご迷惑をかけてすいませんでした。」
「え?帰るのはいいけど、そんな格好で?」
そう言われて自分の姿を見下ろす。
ギャー!! 皺くちゃのフォーマルドレスだった。
「大丈夫です。タクシーで帰りますから」
「大通りまで出ないとタクシー捕まらないけど? 何なら、俺が送っていこうか?」
「いえ、もうこれ以上ご迷惑をかけられませんから」
「どうせ出かけるんだから、遠慮しなくていいよ。ついでだから。それに、その方が俺も安心だし……」
また頭の中でグルグルと考える。甘えていいのだろうか? ついでだと言うのだし。もうここまで来たら、同じことかな?
「すいません。それじゃあ、お願いします」
「OK! 何時もそれくらい素直だと良いけどな。それじゃあ、コーヒーを飲むぐらいの時間良いだろ?」
寝室を出て廊下を通りLDKの広い空間に足を踏み入れて、その広さに驚いた。
「祐樹さん、あなた何者?」
思わず呟くように言うと、前を歩いていた彼が振り向いた。
「この部屋、海外赴任している伯父から格安で借りているんだ」
そうなのかと、心のどこかでホッとしている自分がいた。
この人は自分と同じ普通のサラリーマンである事が、私を安心させる。
部屋中に広がるコーヒーの香りに、どこか緊張していた体が緩んでいくのがわかった。コーヒーの香りは嫌いじゃない。あの苦味のある味が苦手だった。そんな私の味覚を思いやっての事か、祐樹さんは何も言わないのにコーヒーをカフェオレにして出してくれた。
「ミルクがあったから、カフェオレにしてみたんだ」
この人のこんなささやかな思いやりが、一つ一つ心にしみる。女性に冷たくしていた事とか、いろんな女性とデートしている姿とか、あまりいい感じのしない部分も知っているけれど、同じ人と思えない優しい部分も知っているから、やっぱり惹かれてしまうのだろう。
そんな想いとは裏腹に、いっそ冷たくあしらわれた方がいいのかも知れないと思ってしまう。もう、永久に誰かのものになってしまう人を、いつまでも思い続けたって未来はない。
対面式キッチンのカウンターテーブルに並んで座った。彼はブラックコーヒーを飲みながら新聞を見ていた。私は熱いカフェオレの入ったカップを両手で持ち、ちらちらと横目で彼を見ながら、ゆっくりと飲む。
カフェオレだとコーヒーの苦みがミルクでマイルドになり飲みやすい。張り詰めていたものを緩めるように、ゆっくりと息を吐き出した時、彼の眼がカップを持つ私の手を見つめているのに気付いた。
「夏樹、その指輪。誰かにもらったもの?」
え? 指輪? 思わず自分の指を見下ろして、右手の薬指にはめた指輪を見る。
まさか……、祐樹さんはこの指輪の事、知らないよね。私たちが生まれる前から母の元にあった指輪だから、どこかで見かける事も無いはず。でもその前に、祐樹さんには全然関係ない事だった。
「え? ええ、母に貰ったの」
「ふ~ん、そうか……」
彼はそう言いながらも気になるのか「見せて」と私の右手を握ると自分の方へ引き寄せた。
「どこかで見たような気がするんだよな」
「どこにでもあるようなデザインだから、そう思うんじゃないのかな?」
「う~ん。そんなに女性の指輪のデザインなんて気にして見た事無かったんだけど……」
しばらく考え込んでいた祐樹さんが、ふと何かを思い出したように私の方を見た。
「そう言えば、さっき、どうして急に帰るって言いだしたの? 何か用事でもあるの?」
あ! すっかり忘れていた。そうだ、婚約者の人や家族の人が訪ねてきたら、誤解されてしまう。
私は思い出した途端に立ちあがった。
「そ、そうでした。今何時ですか?」
怪訝そうな顔をした彼が壁の時計を指差した。時間は午前九時前。
あちゃーのんびりしていては、誰か来てしまうかもしれない。
「どうしたんだよ、焦って。そんなに急ぎの用事があるの?」
立ちあがった私を見上げて、眉をしかめて訊いてくる。
「あ、だって……、だれか訪ねてきたら、誤解されるかもしれないから……」
「え ?誰かって? ここへ?」
彼は意味が分からないと言った顔をして、訊き返す。
「そう、婚約者の人とか来たら、絶対誤解しますよ!」
ぷっと急に噴き出したと思ったら、彼は徐に笑いだした。
「何焦っているかと思えば……、夏樹らしいな。俺がここに住んでいる事は家族以外知らない。それに、今までこの部屋へ女性を入れた事は無いんだ」
え? それって、どういう事?
私は、呆気にとられて、また椅子に座った。
「夏樹が初めてこの部屋へ入った女性だよ。光栄に思えよ」
笑いながら言う彼を見ていると、また、天邪鬼な私が眼を覚ます。彼を想う気持ちとは別のところで、彼の俺様な態度に腹が立つらしい。
「別に私が望んでここへ来たわけじゃないので、光栄なんて思えません」
「人の恩を忘れて、まだ憎まれ口をたたくか、この口は!」
彼はニヤリと笑ってそう言うと、いきなり私の両頬を摘まむと左右に引っ張った。
「い、痛い……」
手はすぐに離されたけれど、痛みだけが残って、摘まれた頬を撫でながら、どうしてこんな子供じみた事するかな? って目で、祐樹さんを睨んだ。
「何するんですか! 本当の事言っただけなのに! 女性なら誰でも喜んでついてくると思ったら、大間違いですよ!」
「ふ~ん、まだ言うか、この口は! お仕置きが必要だね」
彼はそう言いながら、いきなり私の顎に手をかけると自分の方へ向けさせた。
おしおき? なんですか、それは?
今度は何をされるかと身構え、顎を持ち上げている手を振り払おうとした瞬間、柔らかいものが唇に触れた。それは、苦いコーヒーフレーバー。
な、なに?
目の前には彼の顔があって……。
次に瞬間、思いっきり彼の胸を押していた。
「なぜ?」
その言葉と共に涙がこぼれ出た。
祐樹さんにとってはなんでも無い事かも知れない。よくある事かも知れない。キスなんて、女たらしの彼には、挨拶代わりかもしれない。
でも、なぜ?
昨夜、お酒に酔って、この想いを告げてしまったのだろうか?
それで、お情けでキスしてくれたのだろうか?
どんなに好きでも、お情けのキスなんて要らない。
私の涙に怯んだのか、彼は気まずい表情をして顔を背けた。
私は何も言わず、鞄を持つと彼の部屋を飛び出し、大通りでタクシーを拾って帰った。
近づきすぎては駄目だ。
心が壊れてしまう。
叶わぬ想いは、彼の優しさに触れる度に大きくなる一方で……。
これは、近づきすぎた罪へのお仕置き。
これ以上近づくと痛い目にあうよと言う、彼の言葉の代わり。
2018.1.30推敲、改稿済み。