#43:忘れた証拠【指輪の過去編・夏樹視点】
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
更新が遅れてすいません。
今回は指輪の見せる過去のお話で、夏樹視点。
27歳の夏樹と健也と祐樹。
(プロポーズ?)
健也君の言葉は、あまりにも思いがけず、私の思考を止め絶句させた。
「ごめん。急過ぎたよな。海外転勤の話は部内で前々からあったけど、誰にそれが回ってくるかは分からなかった。ただ、候補には挙がっていたんだよ。それもあって、夏樹に交際を申し込んだんだ。でも、こんなに早く決まるとは思っていなくて、俺も動揺している。やっと、夏樹と付き合えるようになって、これからと思っていた時にこんな事になって。俺は夏樹と離れたくないんだ」
強く挑むような眼差しに、私は怯んでしまった。逸らす事は許さないと言わんばかりの視線を受け止めるのが精一杯。
「あ、あの……急な事で驚いてしまって、少し考えさせてくれる?」
こんな事すぐに返事できる事じゃない。
人生の大きな岐路なのだ、これは。どこか他人事のように感じながら、何からどう考えればいいのか途方に暮れた。
「そうだよな、こんな事急には決められないよな。ごめんな、驚かせて」
「ううん。今まで、そんな事を考えた事が無かったから」
何となくお互いに気まずくて、最後のコーヒーを飲み干すと健也君は「行こうか」と立ち上がった。レストランを出て、エレベーターの前まで歩いて来た時、健也君は足を止めると私を見た。
「まだ時間が早いから、上のスカイラウンジへ行かないか?」
何時もの爽やかな笑顔なのに、眼だけは拒絶を許さない真剣な眼差し。思わず頷いていた。
最上階のスカイラウンジからの展望は、この都会の夜景を奇麗に切り取っていた。連なるビル群にともる灯りを上空から見下ろし、その美しさに魅入られる。
「わー、奇麗」
思わず感嘆の声をあげ、さっきまで頭の中でグルグル回っていたいろいろな出来事が、一度に吹き飛んだ。しばらく突っ立ったまま宝石を散りばめたような夜の風景を見つめていた。そして、健也君に促され、窓際に外に向かって座るように設けられたカウンターに、並んで座った。
ボーイが来ると、健也君は自分の水割りと、お酒に弱い私のためにアルコール度低めのカクテルを頼んでくれた。二人ともお酒を飲みながら窓の外へ目を向けたまま、たわいもない会話を続けていた。
「私、こんなところへ来るのは初めてなの。もういい年なのに、お酒を飲むところって居酒屋ぐらいしか知らない。なんだか私って、経験値低いよね」
「夏樹、こんなきれいな夜景を前に、何やさぐれているの?」
「だって、こんなにきれいな夜景を見ながらお酒を飲めるようなお店を、今まで知らなかったなんて……。この街にもう五年も住んでいるのに、もったいなかったなって思って」
健也君は眉を上げて私を見ると、いきなり笑いだした。
「夏樹って…、夏樹って本当に面白いな」
隣で笑ってそんな事を言う彼に、頬を膨らませて見せた。健也君は人差し指で私の頬をつつくと、可笑しそうにまた言葉を繋いだ。
「大丈夫だよ。これからドンドン連れて行ってやるから。今までの分取り返せよ」
「え? イギリスへ行くのに?」
眉を上げ、眼を見開いて私を見る彼と眼が合った時、私は地雷を踏んだ事に気付いた。
(ば、ばか! 私。避けていた話題を自分から呼び戻すなんて……。誰か、時間を戻して!!!)
しばらく黙ったまま二人とも窓の外を見ていた。すると、隣の彼がもぞもぞと動いたかと思ったら、ポケットから小さな箱を取り出した。ビロードの布張りのそれ。誰もが容易に想像できるであろうそれ。私はその箱を食い入るように見つめた。
(もしかして……指輪?)
思わず胸元のチェーンに通した指輪を、服の上から握った。
「夏樹……」
彼の声はいつもより低く響いた。私はビクリと反応し、ゆっくりと健也君の顔を見上げた。
「さっきは、慌ててしまってうまく言えなかったけど、夏樹、結婚してくれないか?」
やはり、プロポーズ。本物のプロポーズ!!
まだ付き合って二ヶ月ちょっと。こんなに急な転勤話が無かったら、彼はこんなに早くプロポーズはしなかっただろう。
でも、彼は以前から私の事を想っていてくれて、いずれ転勤話があるだろうから交際を申し込んだのだと言っていた。だから彼の中ではある程度、未来予想図ができていたのかも知れない。
だけど、私はどうなの?
やっと、健也君と一緒にいる事に慣れてきたところ。
それでいきなり結婚を決めてしまっていいの?
それより、健也君の事、好きなの?
嫌いではない。いい人だと思う。
でも、それだけでは結婚を決められない!
祐樹さんの事はどうなの?
祐樹さんより健也君の事好きになった?
祐樹さんの事、忘れる事ができた?
自分の心の奥に向かって質問を繰り返したが、答えは返ってこなかった。
隣にいる彼に付いて行けば、幸せになれるであろう事は人事なら思える。
でも……私は? 私の場合は?
こんな気持ちのまま結婚してしまっても良いの?
一緒にいれば、いつか愛情が湧く?
こんな風に迷う事自体、ダメなのかな?
健也君は熱い眼差しを私に向けたまま、小さな箱の蓋を開けると私の手を取って掌にそれを載せた。箱の中は、思っていた通りの指輪。赤いルビーの指輪。ルビーは私の誕生石。
「誕生石だね……」
指輪を見つめたままポツリと言うと、「夏樹の左手の薬指にはめてもいいかな?」と隣からためらいがちに彼が言った。
私は思わず彼の顔を見た。
(まだ、返事もしてないのに!!)
「ちょっと待って! まだ、何も考えられないのに……」
私は指輪の入った箱の蓋を閉じると、箱をカウンターの上に置いて健也君の方へ押した。
「夏樹は……アイツの事、まだ忘れられない?」
(え? アイツ?)
「今日、会った奴だろ? 夏樹の片思いの相手って」
(何? 何が言いたいの?)
「違う……違うよ。関係ないよ。あんな人!」
私は思わず否定していた。
違う、違う、カンケイナイ……アンナヤツ!!
「あんな夏樹、初めて見たよ」
「え?」
「映画館で逢った人……上条の婚約者の友達だっけ? その人と夏樹が話していた時の夏樹。相手への思いを一生懸命抑えて、強がっている姿。それに、去って行くアイツをとても切なそうに見ていた」
そう話す健也君は、私から目を逸らした。
そんなにわかりやすい表情をしていたのだろうか?
健也君にまでわかってしまうなんて。彼も気付いただろうか?
「それでも、アイツじゃ無いって言うの?」
健也君は少し怒った顔をして、私を問い詰める。
「……もう、忘れたから、関係無いの!」
「本当に? 本当に忘れられた?」
「ど、どうして? そんな事を聞くの?」
「夏樹が、素直じゃないから。目の前の壁を乗り越えないと、俺との結婚も考える事出来ないだろう?」
「だから……もう、あの人の事は関係ないよ。もう忘れたから。今日は急に話しかけられたから、あんなつっけんどんな対応をしただけだよ」
「じゃあ、証拠を見せて。もう忘れたって言う証拠を……」
健也君は徐に立ち上がって指輪の箱をポケットに入れると私の手首を掴み、会計を済ませてスタスタと歩いて行く。私を引っ張ったまま、エレベーターまで来るとちょうど開いていた箱に乗り込んだ。怒ったような冷たい顔の健也君は初めてで、何も声をかける事が出来なかった。そして知らない階で降りると、行き先も告げないまま私を引っ張って行く。そこは客室の階らしく、ルームナンバーの付いた同じようなドアが並んでいた。
(ま、まさか……、部屋へ連れ込まれるの?)
健也君は一つのドアの前まで来ると、ポケットからカードキーを出してドアを開けた。そして、私を押し込むと自分も入って後ろ手にドアを閉めた。
「ど、どうしてこんなところへ?」
震える声で訪ねてみたけれど、健也君は黙ったまま私を見下ろしていた。
「夏樹、アイツの事忘れたって言うんだったら、証拠をみせてくれ」
そう言った途端、抱きしめられ健也君の唇が押しつけるように私のそれに重ねられていた。
(キ、キスされている! どうしてこれが、忘れた証拠になるの?)
私は我に返ると、健也君の腕の中でもがき始めた。でも、男性の力にはかなわずビクともしない。
(いやーー!!)
なんで? 何時も友達のように接してくれた健也君が、どうして?
どうして、いきなりこんな事に?
どうして?
付き合っているのなら、恋人同士なら、当たり前の行為だけれど、付き合っているとは分かっていたのに、友達同士のような雰囲気の中で健也君の存在に慣れていった私は、恋人同士のような行為は、二人の間に存在する事さえ考えていなかった。
いつの間にか頬を涙が伝っていた。
それに気づいた健也君が私の体を離し、指で涙をぬぐった。
「ごめん」
私は眼に涙を溜めたまま健也君を睨んだ。健也君の謝罪の言葉は私の耳には届かなかった。私はそのままドアを開け、廊下へ飛び出しエレベーターまで走った。降りてきた箱に飛び乗ると、一階へ降りてホテルの出入り口から走り出た。
私はその時、ロビーですれ違った人が私の名を呼びながら追いかけてきた事に気づかなかった。
2018.1.29推敲、改稿済み。