10 幽霊騒動その壱
寵妃、玉葉に仕える侍女が一人、桜花は、今日も誠心誠意仕事に従事していた。
先日、仕事中に居眠りをしてしまうという失態を犯したが、主である玉葉妃は咎めもしなかった。
ならば身を以って仕えるしかあるまいと、窓の桟から欄干の一本一本まで丁寧に掃除する。
本来、侍女にあるまじき行為であるが、それでも桜花は下女の振る舞いをする。働き者が好きだと、玉葉妃が言ったからだ。
台所の茶器を整理しようと中に入ると、新人侍女がなにやら作っていた。名前を猫猫というが、滅多に自分から口を利かないので、どんな人間なのかよくわからない。
ただ、腕に虐待を受けた痕があり、身売りされたこと、そして現在、毒見専門で雇い入れられたことを聞くといたたまれなくなった。
痩せた身体を太らせようと食事を増やしたり、傷痕をさらすのは可哀そうだと掃除をさせなかったり。残り二人の侍女も同じ考えらしく、結果、猫猫の仕事がほとんどなかった。
それでいいと、桜花は思う。
侍女頭の紅娘はそれではあんまりだと、洗濯を猫猫の仕事に与えた。洗濯は籠を運ぶだけなので、腕の傷は目立たない。他にもこまごまとした用を頼んでいるらしい。
「なにを作っているの?」
鍋で草のようなものをゆでている。
「風邪薬です」
必要最低限の言葉を述べるのみだ。きっと、虐待の後遺症でひととの付き合いがうまくいかないのかもしれないとおもうと涙を誘う。
薬に造詣が深いというので、時折、こうやって作っている。片付けはきれいにしてくれるし、この間もらったあかぎれの薬は重宝しているので桜花は何もいうことはない。薬づくりは、たまに、紅娘からも頼まれてやっているようである。
銀の茶器を取り出すと乾いた布で丁寧に磨く。
猫猫が口を開くことはほとんどないが、旨い具合に相槌を打ってくれるので、話しがいがある。最近噂になっている怪奇話をした。
中空を舞う、白い女の噂だった。
○●○
猫猫は、作り終えた風邪薬と洗濯籠を持ち、医局に向かう。
一応、形だけでも医師の判断に委ねるためだ。
(ここ一か月位の出来事か?)
ありきたりな怪奇話に猫猫は首を傾げる。
まだ、こちらに来る前には聞いたことのない噂だった。噂という噂は小蘭が持ってきてくれていたので、ここ最近にできた話だとわかる。
後宮はぐるりと城壁に囲まれている。四方の門以外出入りができず、塀の向こうには深い堀が通っており、脱走も侵入も不可能である。
深い堀の下には後宮から抜け出そうとした妃が今も沈んでいるなど言われている。
(城門付近かあ)
近くに建物はなく、松林が広がっていたはずだ。
(夏の終わりからだったよな)
この時期はあるものの収穫期である。
よからぬことを頭に浮かべていると、狙いすましたかのように嫌な声が聞こえた。
「お仕事ご苦労様」
牡丹のように絢爛な笑みに、猫猫は無表情をはりつけたままだった。
「いいえ、それほどではございません」
医局は南にある中央門のそばにあり、後宮をつかさどる三部門もそこに居室を構えている。
壬氏はよくそこに現れる。
宦官ならば内侍省にいるべきだろうが、この男はどこの部屋にも所属せず、むしろすべてを監視するように眺めていた。
(宮官長たちよりも上の立場ねえ)
可能性としては現帝の後見人といったところであるが、二十歳そこそこの青年がそれとは考えづらい。その子息であったとしても、わざわざ宦官になる必要もない。
玉葉妃と親しいことから、そちら側の後見人とも考えられるが、むしろ……。
(皇帝の御手付きか?)
御通りの際、玉葉妃との仲を見る限り正道のようだが、人は見かけによらない。
いろいろ考えるのは面倒なのでとりあえず皇帝の愛人ということで片付けておこう。
「なんかものすごく失礼なこと考えてる顔に見えるんだけど」
「気のせいではないですか」
一礼して振り返り、医務室に入るとどじょうひげのやぶ医者がごりごりとすり鉢をすっていた。この医者の場合、薬を作るためでなく暇つぶしでやっているだけだと猫猫はわかっている。
でなければ、毎回自分の作る薬を半分渡す必要はないだろう。
最初はわけのわからない小娘と思っていたらしいが、猫猫の作る薬をみて段々態度が軟化してきた。
いまでは、茶菓子をだし、必要な材料を分けてもらえるようになったのだが、医局としてそれはあまりよくないことである。
守秘義務だとか、なんだとかあまりにないのである。
「薬を見てもらえませんか?」
「おお、嬢ちゃんかい。ちょいとまってな」
茶菓子と雑茶を用意する。甘い饅頭の類ではなく煎餅である。
辛党の猫猫にはうれしい。
最近、いろいろ餌付けされている気がしないでもないが。
やぶだが人は良い。性格はいいが、仕事はできない型である。
「私の分もお願いするよ」
甘いたおやかな声がする。
後ろを振り返らなくても、なにやら輝かんばかりの空気が回りに立ち込める気がする。
やぶ医者は驚きと高揚を浮かべた顔で、せっかく用意した煎餅と雑茶を、白茶と月餅に替えて持ってきた。
(煎餅が……)
輝かしい笑顔が横に座っている。
身分差を理由に同席を拒否したが、無理やり肩を押さえこまれた。
見た目の優しさと全く違う強引な行動に猫猫は辟易した。
「老師、すまないが、奥からこれを取ってきてくれないか?」
紙切れを渡す。
遠目からみても、かなりの数が書かれていた。しばらく時間が稼げよう。
やぶ医者は目を細めると、残念そうなまなざしで奥の間に入った。
(最初からそのつもりだったんだろうな)
「本題はなんでしょうか?」
察しのよい猫猫は、湯飲みを揺らしながら聞いた。
「幽霊騒ぎは知っているかい?」
「噂程度に」
「じゃあ、夢遊病ってのはわかるかい?」
猫猫の目の端に輝きが宿ったのを壬氏は見逃さなかった。
くくくっと、天女の笑みに意地の悪さが混じる。
大きな手のひらが猫猫の頬を撫でる。
「それはどうやったら治るんだい?」
甘い甘い果実酒のような声でたずねた。