月夜の瞳
〝野菊のようだ〟
と、喩えられた一人の美しい女性が、昔いたそうだ。
花を思い浮かべようとしても、校庭のしおれたパンジーぐらいしか思い浮かばない私からすれば、正直〝野菊〟の美しさとやらは、皆目見当がつかない。
しかし、そんな私にでも、想像できる事が二つばかりある。
一つは、彼女が清爽という言葉がお似合いの、とびっきりの美人さんだったであろうこと。
そして、そんな彼女のことを〝野菊〟と喩えた人は、彼女に淡い恋を抱いていたであろう、ということ。
この二つだ・・・・・
これが以前の私であれば、そんなことを考えもしなかっただろう。
大学生になり、あの人に出会わなければ。私にとっての〝野菊〟に出会わなければ・・・・・
今から何年前になるか定かではないあの日。私は胸に秘めつづけてきた思いを、ついに彼女に告げた。
あれから、気の遠くなるような年月が過ぎさったが、不思議な事に今でもあの日の事を鮮明に覚えている。
中秋の名月を彼女と共に見上げた事。月明りに照らされた彼女の横顔に、思わず見とれてしまったことを・・・・・
これから私が語る物語は、中秋の名月が美しいその晩に私と彼女との間に起きたそんな出来事だ。
⁂
『一緒に月を見ないかい?サークルが終わった後で・・・』
そんなメールを送り、私は彼女をここに誘い出した。
大学からの帰り道にあり、ちょっとした小高い丘の上に位置する、この展望台へ。
普段は人でにぎわっている展望台だが、今日はどういうわけか人気がまるでない。
ここから見える夜景の素晴らしさは遠近問わず有名で、いつもなら人でにぎわっているはずなのだが・・・
特に今夜は中秋の名月と呼ばれる日。逃すにはあまりにも惜しすぎる日だと思えるけれど。
まぁ、人の事情はどうであれ、これはチャンスだぞ。
自分に言い聞かせるようにそうつぶやきつつ、月明りを頼りに腕時計を見る。
丘の上のせいか、頼りになる明かりは月のみだ。
思っていた通り、まだ少しだけ約束の時間には早いようだ。
⁂
やはり、緊張しているのだろう。何かをせずにはいられない。
ひとまず、腕にぶら下げている袋から、月見団子を取り出す事にした。
彼女と一緒に食べようと思い、来る途中に買ったものだ。
それをそっと、備え付けられているテーブルの上に置く。
実は、買った時は六つ入っていた。今は五つしか入っていないけれど。
もちろん、食べたわけではない。
「――くん……」
その時、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。どこからか聞こえてくる、虫の音に紛れるように。
どうやら、彼女が来たようだ。
⁂
私たちはテーブルの近くにある椅子に、並んで腰かけた。
ちょうど月を見上げるのに、適した位置にある。
彼女も私と同じことを考えていたのだろう。テーブルの上には、彼女の持ってきた月見団子を合わせ、合わせて十個の月見団子が置かれている。どういうわけか、彼女も私と同じように月見団子が一つ少ないのだ。
そして私たちは何のとりとめもない話を続けた。
今日あった事や、月明りが思いのほか明るい事、そして、消えた月見団子の行方などについて。
その月見団子の話を彼女にすると、もしかして食べちゃったの、と笑われてしまった。
それをいうなら、彼女の持ってきた月見団子の行方も気になるところなのだが・・・
実をいうと、あの月見団子は丘を登る途中にあった石碑らしきものに供えてしまったのだ。
苔に覆われ、文字などもう見えなくなったその石碑らしきものに。
もちろん何を祀っているものなのかは知らない。
ひょっとすると、この辺りの地域の歴史に詳しかった祖父なら、何か知っていたかもしれないが。
結局のところ、どういう形でもいいから、祈りたかっただけなのかもしれない。
彼女に、自分の気持ちを告げる勇気をもらえるように。あるいは、勇気を出すチャンスをもらえるように。
そして私たちは自然と話を止めると、月を見上げた。夜空に浮かぶ中秋の名月は、その名に少しも恥じない美しさだった。
「そういえば、月見団子やっぱり食べちゃったの?」
彼女がこちらを振り向くのを感じた。
「いや、食べたわけじゃないよ」
月を見上げたままそう答えた。何となく、彼女の方を向くのが気恥ずかしかったのだ。
今、彼女の顔を見てしまうと、自分の決意が鈍ってしまいそうな気がして。
「ほら、来る途中に、石碑がなかった?」
「うん。あった、あった」
「そこに供えてきたんだ。何をお願いしたのかは秘密だけどね」
そういえば、彼女の月見団子はどうしたのだろう。彼女のも私のと同じ、六つ入りだったはずなのだが。
「実はね、私も供えてきたの。月見団子」
彼女の一言に、思わず視線を彼女の方に移してしまった。
「何をお願いしたのかは、私も秘密」
そう言うと、彼女は視線を再び夜空に戻した。
月夜に照らされた彼女の横顔は、まるで天女様のようだった。
優しくも、だがどこか儚げなその横顔を見つめつつ、私は決意を固めた。
見つめている、というよりは、見とれてしまった、といった方が正しいのかもしれないが。
逸る気持ちを抑えるように、文学部の友人が言っていたあの言葉を頭の中で繰り返す。
今晩みたいに、月が美しい日にぴったりなあの言葉を。
彼女に気付かれないように深呼吸をし、私は彼女の名前を呼んだ。
緊張のせいか、声が少し裏返ってしまったようだ。
落ち着け、落ち着け。
自分にそう、必死に言い聞かせる。
そして、ついに彼女がこちらを振り向いた。私が大好きな、あの笑顔を浮かべながら。
私は彼女の瞳をじっと見つめた。私が彼女に何を伝えたいのか、分かってくれればいいのだが。
私は彼女の瞳に吸い込まれていく錯覚を覚えつつ、勇気を振り絞って言った。
〝月が綺麗ですね〟と。
夏目漱石が I love you を月が綺麗ですね、と訳したという逸話を知り、この作品を書いてみました。
恋愛ものを書くのは初めてなので、ご意見・ご感想で指摘していただけたらな、と思います。
恥ずかしながら、豆腐メンタルなので、その際はやんわり指摘していただけたら嬉しいです。
ちなみに、冒頭の一文は、伊藤左千夫の「野菊の墓」をイメージ・引用しています。