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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

闇の狭間に巣食う者

作者:関谷光太郎
二作目のホラーです。よろしくお願いいたします。
 
 それは月夜に浮かぶ小舟だった。
 ゆらり、ゆらり。
 たゆたゆ波の赴くままに、小舟はゆっくりと流されていく。やがて美しく整備された水路へと至り、その先に巨大な古城がそびえ立っていた。
 月を背景に浮かびあがる三つの塔。すべての尖塔で龍のエンブレムがはためいている。かつてはドリームキャッスルと呼ばれた城だ。
 城には噂があった。
『建物の地下深く、囚われた人々を拷問する部屋が存在する』
 噂の真相を確かめようと、果敢にも地階を下りていくという幼い頃の記憶が残っていた。制止する両親の声を振り払って薄暗い階段を足早に下りていく自分の、どこにそんな勇気があったのか。怖がりの今の自分には到底信じられない行動を、幼い少女はやってのけたのだ。 
 あれは、幼稚園の年長になった夏の初め。
 突然、遊園地に行こうと両親が言ったのが始まりだった。
 たったったったっ。
 螺旋階段を降りていく少女。白いワンピースの裾をゆらして、ひたすら階下を目差す。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 しかし、小さな靴音を響かせてたどり着いた場所に、拷問部屋はなかった。ただ、大きな空間に整然と積まれたパネルや木箱、装飾品の類が目の前に広がっているのみで、幼い少女にもそこが唯の倉庫であることは明白だった。
 彼女の落胆は大きかった。
 本当は少女にも分かっていた現実である。この城がアトラクション施設のひとつであり、城にまつわる噂も集客のためのキャッチコピーなのだということを。それでも、一縷の望みをかけてここへ来たのには理由があった。
『拷問されている者を救い出せば、どんな願いでも叶う』
 これは、いずみの通う幼稚園で子供たちの間にだけ流布された噂である。いつ、誰が流したのか分からないが、幼い子供たちの間でまことしやかに語られるもうひとつの噂話だった。
 いずみは、その噂に賭けたのだ。
「ちょっといずみ! どこへ行くの!」
 母親の手を離したとき、そばにいた父親も同時にいずみの身を案じる表情をした。それは長らく見られなかった表情であり、向けられなかった愛情でもあった。
 この日。数え切れないほど訪れた裏野ドリームランドで、両親は別れを決めていた。関係の修復が不可能となったふたりが、今日だけは娘のために良き母と父を演じ切って最後の思い出を残そうというのである。
 冗談じゃない。と、いずみは思った。
 こんな大事なことを、ひとつも説明してくれないなんて、子供をバカにし過ぎている。いくら幼くとも、両親の微妙な空気は感じていたし、ふたりの仲が深刻になりつつあるのは知っていたのだ。
 ただ、うまく伝える言葉をもたなかった。何とかしなければと焦るほど、言葉が喉に引っかかり出ない。今から思えば、それが幼いということなのだろう。言葉に対する経験が圧倒的に少なかったのだ。
 だから、すべては行動でしか表せない。
 両親を仲直りさせたい!
 切なる思いが、城の地下にあるという拷問部屋へと走らせたのだった。
 そして――ひたむきな思いが成就しなかった瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
 無くしてはならない大事なものを、みすみす失ってしまう自分の無力さ。どんなに気持ちが強くても変えられない運命の無慈悲を知った。
「みんな壊れちゃう……ママもパパも、わたしを捨ててどかへ行っちゃうんだ!」
 やり場のない感情を制御できず、幼い少女は泣きじゃくりその場にうずくまってしまった。
 ゴト……ゴト……。
 その音は、倉庫の奥から聞こえてきた。
「だ、だれ?」
 いずみは積み上げられた木箱の向こうにある闇を覗き込んだ。視線の先で埃が舞い散っている。何者かが動いているのだ。
 いずみは目をこらした。
 見てはならないという心の声が響く。しかし、確認したいという欲求に少女は負けた。
「だ、だれかいるの?」
 答えはない。
「だれ、だれなの?」
 闇が立ち上がる。
 人型の闇には目も鼻も口もなかった。ただ漆黒のふたつの影が、海の底の海草のように揺れている。
「ひっ!」
 影はゆっくりと、こちらへ来た。
「嫌、来ないで!」
 目の前を闇が覆った。
 
          ◇◇◇

「ようこそ、裏野ドリームランドへ!」
 明るく甲高い声は、船着き場に立った少年からのものだった。
 いずみはわれに返った。
 揺れる小舟の上。幼い日の思い出に浸っていた自分に気がついたのだ。
「……わたし」
「お嬢様、そこはアクアツアーの経路でございます。謎の生物が棲んでいるという恐ろしい場所。くれぐれもご用心なさいますように!」
 少年の言葉を待っていたかのように、緑の水面が持ち上がった。小舟を下から突き上げる何ものかの存在がある。
「ちょっと、なにこれ!」
 泡立つ波間に見え隠れするのは紫色の生物だ。ぬめっとした体が空気に触れるたび、肉の腐った強烈な臭いがするので、いずみは鼻と口を押さえて舟の揺れに耐えねばならなかった。
「お嬢様、奴が来ます! 身構えて!」
 水柱を上げて、怪物が姿を現した。全身をバネと化して、水面を弾き宙を舞う。
 全長十メートルはある巨大魚。紫色の鱗に被われ、火ぶくれのように腫れ上がった頭部の真ん中で、ひとつしかない赤い目玉がこちらを睨みつけていた。
 一歩も動けないいずみ。まるで巨大魚の視線に魅入られたかのように体が強張り、水飛沫が頭上から降り注ぐまま彼女の全身はびしょ濡れになったのだ。
 そして、巨大魚が落下する。
 着水と同時に水面が爆発した。天を突く水柱。荒れ狂う波。いずみの乗った小舟は木の葉の如く波間を舞った。
 転覆する舟。川へと放り出されたいずみは必死になって泳いだが、渦巻く水流に抗う術をなくし、底へと引き込まれてゆく。
 溺死の恐怖は尋常ではなかった。体内から酸素が奪われていく苦しみは地獄であり、酸素を求めて脳へと集中する血液に眼底を圧迫される痛みは、目玉が飛び出しそうなほどの苦痛だった。
 ――もう、駄目!
 死を覚悟したその時。
 いずみの足裏を突き上げるものの力を感じた。その力強さは、水底に沈まんとしていたいずみの体を、あっという間に水面へと押し上げたのだ。
 川底から生還したいずみ。
 空気を求めて喘ぐその鼻先に、スッと差しのべられたのは、白く美しい手だった。
「さあ、この手につかまって」
 船着き場にいた少年だ。
 その華奢な容姿とは裏腹に、有無を言わせない頼もしさを感じた。
「さ、早く!」
 すがるように少年の手を取ったいずみ。
 力強く引っ張りあげられた船着き場の上で、彼女は激しく咳き込んだ。見かねた少年が背中をさする。
「信じられないでしょうが、あなたを水中から助けたのは、さっきの巨大魚なのですよ」
「え、嘘。あの怪物は私を殺そうとした」
「ごめんなさい。ちょっとやり過ぎました」
 少年が川に視線を向ける。
 その水面にぷかっと顔を出したのは、ひとつ目の巨大魚だった。赤い目玉をくるくる回し、ぴゅっと水柱を吹き上げた。
「怖がらないで」怯えるいずみに少年は言った。「あいつ見かけは恐ろしいのですが、本当は気のいいやつなんです。さっき舟を転覆させたのも、あなたをからかうだけのつもりが、調子に乗りすぎてしまって」
 巨大魚が大きな口を開けて、水面にぶくぶく泡をたて始めた。
「それじゃ駄目だよ。謝っているようには見えない」
「謝る? あれって謝っているの?」
「ええ。ふざけて見えますが、奴にとっては精一杯の謝罪だと……」
 ぶくぶくぶくぶく。
「おい。この方に心から詫びなきゃ駄目だよ!」
 ぶくぶくぶくぶく。
「本気になって謝れ!」
「いいの。もういいから」
「でも、死にそうになったのですよ。アトラクションとはいえ危険な目に遭わせた責任は」
「だから、もう大丈夫よ。こうして無事に生きているんだし」いずみは立ち上がって巨大魚と対峙した。「あなたの気持ちは分かったわ。もう、なんとも思っていないから安心して!」
「優しいのですね」
 いずみの背中越しに少年が呟いた。
 巨大魚が再び水柱を吹き上げる。今度はかなりの勢いだった。頭上から大量の水が降り注ぎ、いずみと少年はびしょ濡れになってしまった。
「おい、なんてことを!」
 くすっ。と、いずみが笑う。
「やっと笑いましたね」少年の黒い瞳が優しく輝いた。「紹介が遅れました。わたしの名は、アビ。裏野ドリームランドの案内人でございます」
 アビは、右手を心臓に当て、左手を大仰に振ってあいさつをした。上下黒のタキシード姿。その言葉使いや仕草は板についていた。容姿はどう見ても小学校の高学年くらいなのだが。
「わたしは……」
「稲垣いずみ様」
「え、なんで?」
「いずみ様のご家族は、当園の常連でございました。ご来園の際には、わたしがみなさんをご案内し見守らせていただいたのですよ」
「そんなはずないわ。ここへ来ていたのは二十年も前のことよ。あなたはどう見ても小学生でしょう」
「信じられないのは当然ですね。でも、ここでの時間は現実に縛られません。世界のすべての成り立ちが、心象によって創られているからです」
「……心象」
 いずみは、アクアツアーの船着き場からドリームキャッスルを見上げた。
 裏野ドリームランドは、何年も前に廃園になっている。なるほど、少年の言う通り目の前にある光景は現実ではない。では、自分は何故ここにいるのか。
「答えは簡単です」アビがいずみの心を読んだ。「いずみ様がご両親との想い出に浸るためです」
 そうだ。確かに幼い頃、この遊園地は家族お出かけの定番だった。休みの日となれば、常にここに来ていたような記憶もある。今から思えば、遊びに行く場所を考えるのが面倒だったのかもしれなが、裏野ドリームランドは両親との想い出の詰まった場所だった。

「いずみ」
 背後で呼ぶ声がした。
「いずみ」
 今度は別の声。それは聞き覚えのある男女のものだった。
 振り返ったその先に、懐かしい顔があった。
「パパ、ママ!」
「まあ、なんてこと!」母親がいずみに駆け寄った。「なんでこんなにびしょ濡れなの? もう、アビ! あなたがついていながら」
 アビは申し訳なさそうに頭をかいた。
 そのアビのそばで父親が笑った。
「許してやれよ。ちょっとした悪戯心は、アビがいずみになついている証拠だよ」
「嫌だなぁ、パパ。ぼくじゃないよ。アクアツアーの怪物がやったんだよ」
 父親とアビがじゃれあっている。それは、まるで親子のようだ。 
 ――なに。アビは案内人のはずじゃ。
「あのね」母親の表情が険しい。「わたしは認めたわけじゃないのよ。そんな他所の女に産ませたガキ!」
「君は手厳しいね」
「ねぇ、いずみ。パパは酷いよね。ママと結婚するずっと前に他の女に子供を作らせていたのよ」
「おい、君。子供たちに聞かせる話じゃないだろ。それに、アビの母親とは結婚もしていない。彼女が黙って産んでいたんだよ。ぼくだってずっと知らなかったんだ」
「どうだか。嘘つきは信用ならないわ」
「ちょっと待って!」いずみは混乱した。「なんの話をしているのかさっぱり分からない。アビはこの遊園地の案内人で、姉弟じゃないよ。それにアビはわたしよりも幼くて……」
「言ったでしょう」アビが笑顔を見せた。「ここはあなたの心象の世界なんです。今こうしてご両親が仲違いされている理由も、幼い頃に抱いたイメージがそのまま表れているだけです」
「じゃ、なに。幼い自分は、両親の仲の悪るさを、パパに隠し子がいたせいだと思っていたってこと?」
「ご明察!」
 アビの賛辞に両親が拍手を送る。
「さすがぼくの娘だ!」
「なにいってるの。わたしの娘だからよ!」
 拍手が延々と続く。
 パチパチという音が大音量となって響いた。
「耳が痛い。やめて!」
 だが、拍手は止まない。
 アビが何事か叫んだようだが、さっぱり聞こえない。そのうちに、三人の顔が歪み始めた。
 気分が……悪い。
 立っていられなくなった体を支えるために伸ばした右手に、硬いものが触れた。冷たい輝きを放つ板状のもの。そこに、ワンピースの少女の姿が。
「こ、これは」
「ようこそ。ミラーハウスへ!」
 アビの陽気な声。
 四方八方に広がる鏡の世界。無数の少女が重なるように映りこんでいた。
 いずみは愕然とした。少女の姿は紛れもなく自分だ。しかも、あの地下牢を探した時と同じワンピース姿だった。
 混乱が全身の動きを止めた。
 動けない。動くことができない!
 無限に広がる少女の姿。その表情はみな不安げだった。
 鏡の世界が揺れた。地響きと共に天井から降りてきたのは、アビといずみの両親だ。彼らは操り人形よろしく、ゆっくりと着地し、その不気味な笑顔を彼女に向けた。
「いずみ様。このミラーハウスは人生の分岐点でございます。ここに重なって映るその姿は、過去、現在、未来のあなた自身。さあ、ここにひとつの選択肢をご用意いたしました」
 いずみの足下に大きなナタが現れた。
 動かすことのできない体で、いずみはナタの存在を確認する。
「こんなもので、なにを……」
「憎い相手を殺すのです」
「悪い冗談はやめて。さっきの巨大魚のように、またやり過ぎるってやつでしょう?」
「あれは導入部。あなたにこの世界を楽しんでもらうための余興のようなものです。メインイベントはここから」
アビは自分の頭を指さした。
「あなたの両親を別れさせた張本人の頭です。そのナタで、この頂点を狙うのです」
「嫌よ。なにを馬鹿なことを」
「わたしを殺せば、ご両親の仲が戻ると言ってもですか?」
 拷問されている者を救い出せば、どんな願いでも叶う。という噂と同じだ。あの日、いずみは両親のために勇気をふりしぼって地下へと向かった。壊れそうな家族を取り戻そうと。
 動けなかった体が軽くなる。いずみは手を伸ばし、足下のナタを手に取った。
「さあ、思い切りいきましょう。ご両親を奪った憎い相手はここにいます」
 ナタの重みを腕に感じて、いずみは狙いを定める。
 目の前にいるこの少年の存在が、自分の家族を壊した。
 勢いをつけてナタを振りあげる。

『ねえ。そいつを殺っても意味なくね?』
「えっ?」
その声は――直接いずみの頭に響いてきた。

         ◇◇◇

「誰?」
『あのさ、あんたの両親はとっくの昔に亡くなっているよね。こいつ殺しても戻ってこねーし、離婚した理由も隠し子じゃねえじゃん』
 いずみの動きが止まった。
『アビの奴も言ってたけど、隠し子がいたって記憶は子供だったあんたの思い込みじゃん。それ、両親の不仲の理由を納得するために勝手に作ったストーリーだよね。そのストーリーにお付き合いして楽しんでいるのがアビだよ。奴は人の心を弄んで腹を満たしているんだから、相手の芝居に乗っけられてんじゃねーつーの。ちなみに、両親が亡くなったのは交通事故だかんね。しっかりしろよ』
「なんで、そこまで。あなたは……」
 いずみは声の主を探した。鏡の中で無数に重なる少女たちも周囲を探す仕草を繰り返した。
『とにかく、ここから出ないと、あんたの夢、全部喰われちまうよ』
「わたしの夢を、誰が食べるっていうの?」
『……夢魔』
 ――むま?
『人の夢に入り込んで、悪夢に苦しむ人間の恐怖を喰らう者のこと』
「それって」
『アビのことだよ。馬鹿なの、あんたは!』

「躊躇することはありません。ひと思いにやっていいんです!」
 アビが叫ぶ。
 どうやら、アビたちに『声』は聞こえていないらしい。
 アビの後ろで、いずみの両親が娘を励ました。
「パパのために、殺ってしまえ!」
「そうよ。ママのためにこそやってちょうだい!」
 三人の姿に、いずみの心が揺れる。

『だから、心を揺らしてんじゃねえよ!』
「でも、パパとママが……」
『おい頼むよ。この鏡の世界には結界が張ってあって、あたしだけの力じゃ入れないんだ』
「あたしって、あなた女の子なの?」
『そこ食いつくとこじゃねえから! とにかく、この世界のコアはあんたの夢だから協力が必要なんだよ』
「ど、どうすれば?」
『アビたちへの感情移入をやめてくれ」
「え、なにそれ」
『大声で、騙されねーぞバーカって、叫んでやれ!』
「でも」
『でもじゃねえ!』
「だって」
『スカしてんじゃねーぞ。天然女!』
 いずみの頬が膨らんだ。彼女が一番嫌う言葉が『天然』なのだ。

「もう! 騙されねーぞバーカ!」

 アビの表情が固まった。その瞬間、いずみの両親の姿が消滅し、周囲の鏡に亀裂が走った。
「なにをなさいます、いずみ様!」
 鏡の破片が飛び散った。四方八方で鏡の世界が崩壊を始める。映りこんだ何重もの少女たちは、崩れていく世界に恐怖の表情で逃げ惑った。
 降り注ぐ鏡の破片の中でいずみは立ち往生する。彼女と対峙するアビの表情が変化していた。それまでの優しい少年から、醜い皺を刻んだ怒りの顔へと変わったのだ。
「俺は、おまえの夢に力を貸してやろうとしたのに。その親切を仇で返すというのか?」
 いずみは言葉を失った。アビの黒い瞳に血の赤が混じり込み、あどけない唇の間から白い牙が生え始める。これが『声』の言った『夢魔』の正体なのか。

『その通りだよ』
 きらきら光る破片の中から現れた手が、いずみの腕を掴んだ。分厚い茶色の皮の手袋をはめた手だ。それが『声』のものだと分かるのに時間はかからなかった。

「おまえは誰だ!」
 鬼の形相でアビが叫ぶ。
 声の主が姿を現したのだ。
 いずみの横で、その女は立っていた。
「待たせたね。助けに来たよ」

          ◇◇◇

 女は手袋とブーツを身に着け、頭には革の飛行帽にゴーグルを装着していた。
 まるで大昔の飛行機乗りのような格好だったが、ジャケットの胸に張り付いた地味な絵柄のワッペンが目を引いた。動物の獏の絵柄である。
「まさか、おまえは……」
「そうだよアビ。あたしの名は卑弥呼。夢魔の夢喰いを阻止する者」
「夢夜叉か!」
 鏡の世界は完全に崩壊、消滅していた。広がる闇は満点の星輝く空へと変わっている。
 その空の下、轟音を響かせ猛スピードで走り抜ける車体が飛び込んで来た。
「ジェットコースター?」
 いずみが声を漏らした途端、アビの体が宙を舞った。
 大きく開けたアビの口から蜘蛛の糸が吐き出され、あっという間にいずみの体が持っていかれる。
 いずみは悲鳴を残し、その身をジェットコースターの座席に押さえつけられたのだ。
「ちっ!」
 卑弥呼が飛んだ。常人ではない脚力で地を蹴り、走り抜けるジェットコースターに取り付いた。
 右へ左へと風を切り、真っ逆さまに落ちていく車体。少しでもバランスを崩せば空中に放り出されるという状況で、卑弥呼はいずみのいる座席まで素早く移動した。
「邪魔をするな、夢夜叉!」
 気を失ったいずみを庇うように、アビが立ちふさがる。
「俺はこの女を夢で満足させてやろうとしただけだ。人は嫌な現実があればどこかへ逃避したくなるもの。夢の世界でそれが叶うなら、簡単でいいじゃないか」
「ふざけんじゃねえわ。逃避した夢の世界で精気を奪われ廃人にされたんじゃたまんないよ!」
「それが、俺の食い扶ちなのさ」
 ぎぎぎぎぎぎ!
 コースターの車輪が音をたてて外れる。猛スピードで脱線した車体が夜空を飛んだ。
「裏野ドリームランドの一番人気。ジャイロ・スクランダー! いくつもの事故があったとの噂は、人によりその語り口が違う。ある者は座席から落ちたといい、ある者は急速な落下に耐えられず心臓麻痺を起こすなど、人の数だけ事故の状況が違っている」アビは邪悪な笑みを浮かべた。「今回の事故は、脱線という状況で絶望感を演出いたします!」
 落下する車体。座席で気を失ういずみに、たどり着いた卑弥呼が叫ぶ。
「おい、これはあんたの夢だぞ! 責任を持て!」
 その声に反応して、いずみのまぶたが開いた。
 卑弥呼は彼女の体を抱き上げて、飛ぶ。
 ジェットコースタの車体が次々と地面に激突する。炎上するコースターを背にして、卑弥呼はゆっくりと地に立った。
「わたし……」いずみが泣いている。「やっぱり両親が別れたのは、わたしに責任があるんだわ」
「いい歳こいて、まだ言うかな」卑弥呼がいずみを立たせながら言った。「いいか。あたしがここへ来たのは、あんたの両親に頼まれたからだ」
「え、まさか、そんなこと」
「次元の狭間で生きてるあたしたち夢夜叉には、色んなところから声が聞こえるんだよ。あんたの両親は事故で亡くなっているから、ありゃ特別に尊い声だったような」
 あの日。勇気を出して地下へ向かった先で見つけたふたつの影。
 いずみを覆った影は、そのままなにもせずに消えていったあとに、床に本を残していったのだ。そして本を手にた彼女は両親の元へと戻り、その帰り道、家族の乗った車が対向車をはみだした車のために大事故に遭遇する。両親は即死。いずみは奇跡的に軽症ですんだのだ。
 あの影は一体なんだったのか。
 そして、残された本。
 突然、川面が弾け、質量を伴った巨体が川から飛び出した。
 十メートルの巨大魚が大きな口を開けて襲い掛かってくる。それは水面ではなく、陸上もなんのそのと、陸を上がってくるのだ。いずみの感じた優しさなど微塵も感じられない怪物に変わっていた。
 卑弥呼が剣を抜く。
「いいか、いずみ! どんなことがあっても親は子供が可愛いんだよ。あたしはその気持ちに打たれてここに来た。それ以上の理由がいりますかってことだよ」
 巨大魚が跳ねた。狙うは夢夜叉、卑弥呼。
 いずみの目に、巨大魚がアビの姿とタブって見えた。
「こいつが阿鼻(アビ)の正体だ!」
 卑弥呼の剣が一閃した。
 顔面から半分に切り裂かれていく巨大魚。
 いずみの耳に響いた絶叫は、阿鼻(アビ)と同じ声だった。

「いずみ。さあ、目を覚ませ!」
 卑弥呼がいずみの背中を押した。
 満天の星がひときわ強く輝いた。

          ◇◇◇

 目を覚ましたベッドの上で、いずみは硬い表紙の本を抱きしめていた。陽光の差す窓で、レースのカーテンが揺れる。
 ベッドの側で浅い寝息をたてるのは、多恵子おばさんだ。おばさんは母親のお姉さんで、事故で両親を亡くした幼いいずみを引き取り、わが子同然に育ててくれた。
 そうだ。
 いずみは思い出した。
 自分は出勤の途中、飛び出して来た乗用車に轢かれたのだ。ここは搬送先の病院。頭と両手、両足に包帯。かなりの重傷だったことは確かだ。
 静かに眠る多恵子おばさんの横顔を見つめる。さすがに姉妹だけあって、その横顔はいずみの母親に似ていた。おばさんの目尻に涙の跡を見つけて、相当に心配させたのだと知る。
 嫌な夢の原因は、自分が巻き込まれた事故によって両親のことを思い出したせいなのだろう。生死の境で見た悪夢。
 いずみは、胸に抱いた本をのぞいた。
 表紙には闇と闇の間に立つ主人公の姿が。
 厚手の手袋とブーツ。革の飛行帽にゴーグル。ジャケットの胸に獏のマーク。
「卑弥呼」
 ページをめくると、夢世界で夢魔と戦う卑弥呼の活躍が描かれた絵本だった。そこには、夢世界を旅する夢夜叉という一族がいて、日々、夢魔の魔の手から人々を守っているという。
 読み終わったいずみは、再び絵本を胸に抱いた。
 あの日、地下の倉庫で見た二つの影は、両親だったのだのかもしれない。その後のいずみを案じて現れたドッペルゲンガー。
 おばさんが目を開けた。
「いずみちゃん、目が覚めたのね!」
 ふたつの影が残した絵本は、いずみの成長と共にいつも側にあった。この日のことを予測して、夢夜叉、卑弥呼の絵本を託したというのか。
「わたし、愛されてるんだね」
「馬鹿だねあんた。当たり前なこと言うんじゃないよ!」
 おばさんはおいおいと泣いた。
 いずみもつられて泣いた。
 病室に優しい光が溢れていた。


                 おわり














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