忠臣蔵外伝 前編・中村仲蔵の巻
江戸時代ってのは、なかなか、チャンバラ時代劇のようなものではありません。
記録を調べた人によると、江戸の町で260年間に起きた殺人事件の数は、現代の東京で1年間に起こる数よりも少なかった、などと申します。
だからでしょうか、人死にのある事件が起こればそれはほとんどが戯曲に書かれ、芝居となって長らく話題となりましたようで。たとえば曽根崎心中、東海道四谷怪談、心霊矢切の渡し、なんてのが今の世にも残っています。
なかでも有名なのが仮名手本忠臣蔵……赤穂浪士の仇討ちであります。
しかし江戸時代には幕府を批判するような内容の創作は許されてませんでしたから、事件の背景を数百年前の南北朝時代に移しまして、浅野工匠頭を塩谷判官、吉良上野介を高師直、大石蔵之介は大星由良之介、と、こういう具合に役をぜんぶ入れ替えて演じられたものでした。
そんな忠臣蔵の舞台を演じた一人に、中村仲蔵という役者がおりました。
これは仲蔵が長い修行をして、人足から大部屋、相中、名題下を経て、苦労の末にようやく名題の役者となった、その最初の舞台の話であります。
「バカバカしくって、人様にお話できねえ!」
ところが、住吉町(現在の人形町)の長屋の一室で、仲蔵は不機嫌な様子。
「どうしたんだい、おまえさん?」
「どうしたもこうしたもあるか! 俺は名題になって屋号がつき、堺屋仲蔵となったんだぞ。今度がその最初の舞台だ、どんな役がつくかと思ってたら…!
「見ろこれを、お吉!」
若おかみの吉が書付を受け取って読み上げますと、
「忠臣蔵五段目、斧定九郎。」
この時代、五段目の余市兵衛や定九郎なんてのは名題の役者の役じゃありませんでした。せいぜい名題下の人がやる役で。
昔の忠臣蔵は朝早く、今でいう午前七時ごろに序段が始まりまして、四段目の判官切腹までが午前中。これが終わると客席では昼飯の時間となり、飲んだり食ったりしながら五段目の幕が開く。これを俗に「弁当幕」と申しました。
五段目の筋は誰でも知ってまして、まず余市兵衛が出てきて、次が定九郎。
このころの定九郎は山賊のいでたちです。顔は赤く彩って髭っ面。頭巾をかぶって、八木縞の着物。腰に山刀をぶち込んで、着物をはしょってひも付きのもも引を見せて、素足に五枚わらじ。雨の降る街道筋に現れて、
「おおい、とっつぁん。連れに、なろ~ぉう~」
「赤穂の宿からつけてきたわ。金の高なら四・五十両。二・三日こっちへ、あ、貸し~て~ぇ、くれぇ~」
……定九郎は余市兵衛を殺して金を奪うものの、猪に追われます。この猪を撃とうとした早野勘平の鉄砲が、
ズッ、ドーン!
この弾に当たって定九郎は死んでしまう。
……あんまりかっこいい役ではありません。
早野勘平は名題の役者が演じますが、これが出るまで観客はしゃべりながら昼飯を食っていて、定九郎の演技なんざぁ見ちゃいません。
「俺は名題になったんだ。それを、定九郎たったひと役なんて……俺はつくづく嫌んなっちゃったよ。
「……中村座はもう辞めよう。ドサ周りの一座にでも入りゃいい役もつくだろう。さもなきゃ上方へ行って、一から修行のしなおしか」
吉は黙って聞いていましたが、ここでため息ひとつ。
「どうでしょうかねえ、おまえさん。あたしゃ思うんですけど」
「ん?」
「親方の中村伝九郎さんに認められて名題になったお前さんに、定九郎たったひと役。これは……何か魂胆があるんじゃあないの?」
「魂胆だと?」
「今までに無いような定九郎を編み出してもらおうと、わざわざひと役だけ、持ってきたんじゃあありませんかねえ、親方は」
「今までに無いような定九郎……?」
「役者ってのは、見物衆あってのもんだろ。短気なことを言わず、なんとかすごい定九郎を工夫して、ご見物にも幕内にも、……あたしにも、見せちゃあくれませんか、おまいさん?」
「…………」
昔の度々逸にも申します、「夢でもいいから持ちたいものは 金の生る木といい女房」。普通の女房なら「あんた、そんなつまらない仕事はとっととやめて、もっと金になることしなさいよ、この唐変木!」とでも言うところを、仲蔵の女房はえらかった。
とはいっても仲蔵、考えてもいい工夫はつかず、悩んだ末に、日ごろ信仰する柳島の妙見様へ、七日の間、願掛けをしました。
ところが満願の日になってもまだ工夫がつきません。
お参りの帰りに肩を落としてとぼとぼと家路をたどっていますと、ざーっ、と雨が降ってきました。
「あーあ……こりゃ、神様にも仏様にも見放されたか」
仲蔵、道を走っていきまして、かたわらにあった蕎麦屋に駆け込みます。
雨宿りだけってのも野暮ですから、中で暇そうにしていたおやじに
「お蕎麦ぁひとつくださいな」
と声をかけ、座敷に腰掛ました。
このころの蕎麦屋というものは、TVの時代劇にあるような、「腰掛にテーブルにカウンター」なんていう近代的なものじゃない。土間に縁側のある座敷。この座敷にべたりと座って、一人用の膳で蕎麦を食う、というものです。
仲蔵がおやじに声をかけると、
「ひどい降りでございますなぁ」
と、おやじは蕎麦を煮始めました。
やがて蕎麦ができますと、膳に乗せて持ってきて
「へい、どうぞごゆっくり」
「すみませんねえ、雨宿りに飛び込んだようなもんで」
「ははは。」
などと言いながら膳の蕎麦をすすりますが、別に腹が減って入ったわけじゃない。
心配事の方が先にたってしまい、仲蔵は食が進みません。
考え込んでいると、小障子ががらっ! と開きまして、
「ゆるせよ!」
月代を伸ばした貧乏侍が一人、飛び込んできて、
「ああ、ひどい降りだっ。」
土間へ、渋蛇の目のボロ傘を、たたきつけるように放り出した。そして月代を逆にしごく、そのしぶきがパラパラッと飛んで仲蔵の横顔にもふりかかりました。
見上げてみると、こいつが、貧しいいでたちながら色の白いりりしい男。歳のころは30前後、黒羽二重に茶献上の帯、黒のつや消し鞘の大小、雪駄を二つに合わせて帯にはさみ、尻を軽くしっぱしょっている。
仲蔵、嫌がるどころか驚いて呆然。するとこの侍が袂に手をかけてきゅぅっ、と絞った。
水がぼとぼとと、蕎麦屋の土間に落ちて、乾いた土間に絞り模様ができます。
「これ、酒を持て。冷やでよいぞ、五・六本、固めて持って来い」
そう言って縁台に腰をかけた侍に仲蔵、
「殿様、たいそうお濡れになりましたなぁ」
「おお? 濡れたねえ。傘があったんで濡れてしまったよ」
「へ? お傘がございましたのに?」
「いやあ、傘を借りに寄ったうちで…木っ端旗本と侮りゃあがって破れた傘ぁ
貸しやがった。おかげで、差さねえほうがマシなくらい濡れてしまったよ」
これを聞いて仲蔵、
「おおう、そうでございますか。お傘、拝見してもよろしうございますか?」
「そこにあるから見たけりゃ見ろ。」
仲蔵は土間へおり、そのボロ傘を手に取ります。傘はいかにも穴だらけ。
「なるほど、渋蛇の目……粋な傘ではありますが、こりゃひどい」
仲蔵、顔を上げて侍をちらと見ると、
「失礼でございますが、お召し物は黒羽二重で?」
「ん? これか。黒羽二重ってのは名ばかりでな。今日は、旗本の寄り合いがあって。この雲気(気候)に袷を着ちゃあ行かれねえから、てめえで裏地ぁ剥がしたんだ。見てくれ。男の仕事はだらしがねえ。ほうぼうに糸がぶる下がってる。」
仲蔵、着物のはしを掴んでしげしげと見ますと、
「いや、結構なお召し物で」
「あまり結構でもねえだろ」
と、侍は苦笑い。
「失礼でございますが、そのお月代は、どのくらいの寸法にお伸ばしになりました?」
「なに……これか?」
侍、自分の頭に手をやりますと、軽く水しぶきがとびました。
「これはおめえ……髪床(床屋)に行く銭が無えから、ひとりでに伸びた。別段に誂えて伸ばしたわけじゃあねえ」
「ふーむ」
仲蔵、考え込みながら侍を見ています。
「お前は人のなりをじろじろ見てるが……ははぁ、わかった。お前、役者だな」
「へ? これはこれは…」
「図星か? ははは! よく言やあ業匠、悪く言や河原乞食」
侍は座り方を変えて、
「お前っちは他人の姿を真似て見物に見せるが。痩せても枯れても三村新次郎、拙者のこの形を、舞台で見せるようなことがあるってえと……苦情だぞ。ん?」
苦笑いして冗談を言いながら刀をたたく。仲蔵は首をすくめてみせた。
侍は、おやじが持ってきた酒をどんぶり鉢へ入れてきゅぅ~っと煽り、
「どれ、小ぶりになったな。」
外で雨がやんだのを見ると、
「代はこれへ置く。」
と小銭を床にたたくように置いて、ボロ傘を手にすたすた行ってしまった。
仲蔵はぼーっと見ていましたが、とつぜん
「ありがたい!」
と叫ぶと、妙見様にとって返してお礼参り。
ためしにおみくじを引いてみますと……この当時は「天地人」のおみくじで、「人人の人」という、大変に縁起のよいおみくじが手に入った。
翌日、仲蔵は、中村座の関係者一同を集めて酒を振舞いました。
「さて皆様。今日は碌なものもございませんが、くつろいで召し上がっていただきたく。つきましては、今度の定九郎でございます。みなさまに内緒のお願いがありまして……。」
と頭を深々。
さて、この時代の役者は名題になりますと、衣装・かつら・小道具がぜんぶ自分もち。逆にいえば、好きなことができます。役者の自由度が高かったわけですな。
そこでまず月代の生えてるかつらを自分でこしらえた。月代のところに熊の毛皮を貼りまして、しごいたときに水しぶきがお客席に飛んでいく、というような工夫をした。
次に黒羽二重の衣類。茶献上は地味だからこれは白い帯に変える。つや消しの大小も派手な朱鞘に変更。渋蛇の目も色っぽ過ぎるだろうと黒い蛇の目の傘に変えてみます。
これだけの支度をし、いよいよ初日となると、楽屋の鏡台前で、顔を真っ白に塗り始めた。
これを見ていたほかの役者は
「なんだいありゃ? 堺屋の役は定九郎だろ」
「定九郎っちゃ、赤っ面だよな。それを白く……」
「ははぁ……何かやるつもりだな。面白え。見てやろうじゃねえか。」
お白粉はすっかり、胸から腕から塗ってしまった。
仲蔵は衣装を着て鬘をかぶって朱鞘の大小を小脇に抱え、湯殿へ降り立つと、手桶で水をざはざばと浴びた。傍らには四斗樽の中に水を張って、破れた黒の蛇の目傘が突っ込んである。これを手に、いよいよ五段目の幕が開く。
舞台に与市兵衛が先に出て、本舞台にかかっちたなというところで、仲蔵の定九郎が、この水だらけの傘を半開きにして、ダダダダッと飛び出した。
ご案内の弁当幕、見物衆は飲んだり食ったりしてて舞台なんざ見ちゃいません。
そこへ花道から何か黒いものが、水しぶきを撒きちらしながら走って通り過ぎたのが視界をかすめた。
なんだっ? と思って見上げると、
髭ヅラの山賊が出てくるはずですが、出てきたのは浪人者で、文字通り水のしたたるいい男。もう、ぼたぼた、ぼたぼた、水が垂れてます。
定九郎は与市兵衛を下手にいなすと、水しぶきを飛ばしながら傘を一杯に開き、アミダにかぶってヤア、カラリッ!! と見得を切った。
これがあんまりに見事なもんで、見物衆は驚いて、飲むのも食うのも、褒めるのも忘れて茫然自失、舞台をじーっと見つめてた。
シーーーーン。
仲蔵は
「(しまった、こりゃあ……やりそこなったか!?)」
仲蔵演じる定九郎は、傘を畳んで横へ叩きつけるように捨てる。
「(ここで「境屋!」「日本一!」って声がかかる予定だったんだが…)」
やがて芝居が進み、刀を抜いて余市兵衛と太刀まわり。
「(こうなったら江戸の舞台の踏みおさめ、思いっきりやってやらあ!!)」
奪った財布を口にくわえると、与市兵衛をズブリ! 舞台の真ん中までつーつーつー、と押していき、足をあげてトーン、と蹴り倒す。
そしてぐぐっと足を割り、端折ってある着物の裾で、しだいしだいに刀を拭いながら、ず、ず、ずいっ、と顔をあげていき、客席を見た。
見物衆は驚きのあまり、拍手も忘れて「ウーーーン!」とうなった。
一人や二人じゃない、全員がうなった。
だから客席から舞台ヘ響く、低いざわざわざわざわっ……
お客の表情までは仲蔵にはよく見えません。
「(ははぁ、これもウケねえ……いよいよ駄目だな)」
財布の紐を首へかけまして、中へ手を入れて金の勘定。
「五十、両~~~!」
「死骸はそのまま谷底へ~」「跳ねこみ蹴こみ泥まむれ、跳ねはわが身にかかるとも、知らず立ったる向こうより、一散に来る、あ、手負い猪ィ~!」
ヒュゥゥゥゥーーーゥ!
テレツク、テレツク、テレツク、テレツク!
鳴り物と共に猪が飛び出し、定九郎は垣根に飛び込む。
垣根に隠れて、周防紅を入れた卵の殻を手にとりまして。
それを口に含んで、後ろ向きに出てきます。
すると勘兵衛の鉄砲。
ドーーーーーン!
ここで振り向いて正面を向いた。
濡れた鬘とまっ白に塗った顔、そして黒い着物に白い帯、朱鞘の大小。
そこへ周防紅の血のりが口から溢れてドッと流れだしましたから、その凄惨なことといったら、モウ。
「(どうだ、ちきしょう!!!!)」
しかしまた、見物集は「ウーーーム!」と唸る。
これが舞台に響いて、ざわざわざわざわざわ……
「(唸ってばっかり……てめえらは病人か!!)」
仲蔵は舞台に大の字にひっくり返りつつ、心の中で悪態。
ここで勘平が登場。倒れた定九郎の財布を手に取る。これを持って逃げようとすると、首にかかった紐で定九郎の死骸が起き上がる。
勘平は山刀で紐をぷっつり切ると、定九郎の死骸は逆とんぼを打ちまして、ここで幕がすーーーっ、と閉まっていった。
見物衆は拍手も弁当も忘れて、いつまでも見入ってしまいました。
さて、夕方に長屋で。
「すっかりやりそこなっちまったい」
「おまえさん……あたしゃ、もうしわけないこと言ったかねえ?」
「いや。やるだけのことはやったから、気は晴ればれした。ありがとよ」
仲蔵は決意の表情。
「こうなったら、上方で金毘羅さあにでも詣でて、3年のあいだ、修行のしなおしだ。江戸へ帰ってくるまで……家を頼むよ、すまねえ」
「あたしは大丈夫だよ。近所の人に長唄の稽古でもつけてれば、なんとか食ってはいけるから」
そして吉はお膳を用意する。
お銚子が一本。尾頭付きが一尾だ。
「門出だよ。さあ、食ってっておくれ」
「吉…っ!」
仲蔵、がばと吉を抱きしめた、
そしていよいよ出発。
仲蔵は手ぬぐいをかぶり、脚半に甲がけ。ぞうり履きでわずかな荷物を肩にかけ。
「いってくるぜ!」
「あんた、達者でね!」
と、後ろも見ずに走って出ました。
住吉町から街道筋へ出るには、日本橋の魚河岸を通ります。
店じまいを始めた夕方の魚河岸の片隅を、旅姿の仲蔵が通りかかると、魚屋の親方が得意客と話している。
「へー、とっつぁん、忠臣蔵を観てきたの?」
「いや~、よかったぜぇ~」
仲蔵、ふと立ち止まって耳を傾けました。
「斧定九郎ってのは五万三千石の家老の倅だろ。なんで山賊なんかやってんのか不思議だったんだけどよ、仲蔵が謎解きをしてくれた。ありゃ浪人だったんだ。しかも水のしたたるいい男!」
「そんなによかったかい!」
「ああ。あんないい初舞台を見た俺ゃ、七十五日、寿命が延びた。……よかったぜぇ~!」
仲蔵、思わず目頭が熱くなり、
「(ああ…よかったと言ってくれた人がいる……広い世間ににたった一人だけでも、俺の芸を、よかったと……!!)」
目に手をやりながらそこを離れます。しかし、ふと。
「(そうだ……急ぐ旅じゃねえ、このことを吉に話してから行こう。いい置き土産だ。)」
くるりときびすを返しました。
さて、長屋へ戻ると。
吉が戸口でおろおろしていました。
「あっ、おまえさん! 大変だよ!」
「どうした、慌てて?」
「親方さんのお使いで伝助さんが……なんだか中村座が大騒ぎだってさ。」
「伝九郎親方が…?」
「とにかくすぐ来てくれって」
「お小言かぁ。くそっ! じゃあちょっくら謝りに行ってくらあ」
ここは親方、中村伝九郎の家。
煙草盆の奥で伝九郎が眉を寄せて腕を組み考え事してると。
「仲蔵です」
「おう、来たかい」
仲蔵が神妙な様子でやってきて、伝九郎親方の前に、小さくなって座りました。
「てめえ…今度という今度は、とんでもねえことやりゃあがったな」
「……面目しだいもありません。申し訳のねえことを」
「ところで、なんだいその格好は?」
「へい……えーと……金毘羅さあにお参りに」
「虎ノ門へそんな姿で行くこたねえだろ」
「いや、讃岐の」
「四国かよ!!」
伝九郎はびっくり。
「おめえ、まだ初日が開いたばかりだぞ!? 舞台、どうすんだよ?」
「いえ、その初日をやりそこなっちまって……」
「やりこそなったぁ? バカ言うねい!」
伝九郎、片ひざをドンッ、と立ててビッ、と腕まくりしました。
「てめえが編み出した定九郎はなぁ、これからの芝居のお手本になるんだ。いや、後世にもてめえの名前が残らあ!」
伝九郎は、呆然とする仲蔵の肩をつかみ
「明日っから中村座はお客をさばくのが大変だ。こんどの忠臣蔵はいっか何日続くかわからねえ大当たり……ぜんぶてめえの手柄だぜ、おい!」
「は……? じゃ……じゃあ、やりそこなったんじゃねえんで?」
「冗談じゃねえ、とんでもねえことやりゃあがって。さすが俺が見込んだ男だけあるぜ!」
仲蔵、ようやく状況がわかってきて、感極まってしまいました。
「いずれきちんと一席もうけるが……こいつは当座のご褒美だ」
と親方は、古い煙草入れを差し出します。
「これは、親方が先代のお師匠様からいただいたっていう大事な……」
「ああ、お前に譲る。俺の形見とでも思ってとっといてくれ」
仲蔵、煙草入れをおしいただくと、気がついたようにがばっと土下座。
「親方っ!! ……ありがとうございます、親方! じゃあこれで!」
「おうおうおう、待ちねえ。いまウナギでも誂えるから、内祝いに一杯……」
「いえ、そうしちゃいれません! このことを真っ先に知らせなきゃいけない人が!」
仲蔵、だだだ、だだだ、だだだだっと慌てて長屋へ駆け戻ります。
そして吉の手をとって、涙ながらに
「かかあ大明神様様ってなこのことだ。お前のおかげ……ありがとう、ありがとう!」
「なんだいおまいさん。やりそこなったから上方へ行くって言ってたくせに」
「そうじゃねえんだ、大成功だったんだよ! 親方から褒美まで出たぜ!」
「いったいどうなってるんだか……あたしゃ、まるで煙に巻かれちまうよ」
「煙に…? あっ、なるほど……もらった褒美が煙草入れだから」
<前編・終わり / 後編・紀国屋淀五郎の巻につづく>
原作噺:林家彦六「中村仲蔵」