弐・箕津の寺 三
それから名無しの対応は特に厳しくなったり刺々しいものになったりはしなかったが、紅の態度が軟化する事もなかった。紅に食事をするのは一苦労で、なんとか水だけでも飲ませようと寝てる間に飲ませたら吹き出し目を覚ました紅に「やめてください」と言われた。
しかし、名無しが自分に害を与える人物ではないとわかったのか、紅は次第に食事だけはするようになった。
態度は常にそっけなく、感情などないのではと思うほど。
しばらくすると歩けるようにもなり、食が細いためと病み上がりの体力のなさを除けばほとんど傷は完治したと言ってよいほどだった。
しかし紅は、名無しに一度「紅」と言うのみで――これが名乗ったのだと気付くのに名無しは二時間もかかった――自らの事を語ろうとしない。
何故山中に血まみれで倒れ、まだ十にも満たぬのにそこまで警戒心をあらわにするのか。一切の感情を奪ったものはなんなのか。
興味もないし詮索するつもりはなかったが、名無しは小さな子供には似合わないとだけ思っていた。
紅は一日中紅のためにあてがった部屋に閉じこもり、座っている毎日を続けていた。
名無しは彼女が生きていない事を見てとった。このままではいけないなどと常識のある人間が思うような事を思ったわけではないが――どうにか彼女を生かしたいと思った。
しかし名無しのような人間は、人を育てるよりその芽をつむのが得意で――これからしようという事の真逆の事しかやってこなかった。出来なかったからだろう。
そう、どうしたらいいかなどわからなかった。
だが食い扶持を減らすだけの者などここにはいらない。なんとか生きた人間にさせ――働くようにさせたい。
名無しは木刀を二本手に取ると、紅の元へと向かった。
珍しく外に出ていた紅の足下に、木刀を投げつける。
思わず避けた紅は、その視線を名無しによこす。
「持て」
しばらくは黙りこんでいた紅だが名無しが更に何も言わないので機械的に木刀を持ち上げる。
「む、長過ぎるか……」
その重さに、紅は小さな手から取りこぼしそうになる。長いため持ったまますぐに地につけてしまう。
「脇差程度のなにかがありゃあいいんだが…」
毛のない頭をかきながらあたりを見回す。
「木の棒でもいいか。」
しばらくすると名無しは細身の薪を持ってきた。ささくれた木の皮など気にせず紅に投げ落とす。
「やっぱりそっちだ。」
紅はやはり機械的に持ち上げると――やはり変化はわずかすぎるほどだったから、おそらく――問うのもめんどくさそうに名無しを見た。
「今からお前を殺しにかかる。生きろ。」
説明などせずそれだけ言うと、名無しは紅に飛びかかった。
その日から、暗殺者養育が始まったといっても過言ではない。
「ある日山で拾ったんだがな、四つでもう三途の川に片足つっこんでやがった。だから――鍛えてやった。生きるために。」
かつての日々を思い出し、しかしその全てを語るなどせず極端にかいつまんで目前の少年に告げる。
名無しに生きるために必要な何かを提示する事など出来なかった。しかし原始的な本能を呼びさまし――生きる力をその身に宿らせたかった。その方法を名無しは《戦う事》でしか見出だせなかった。
だから紅を殺す気でかかり、紅を死にもの狂いで戦わせ生きた人間にさせる心づもりだったのだ。
人一人育てたというのに、暗殺者に育てて罪悪感はない。
ただ、老けたせいかこれでよかったのかと思う時もある。
しかしやはり名無しは名無しであり、紅の事を本当の親以上に愛情をそそいでいるわけではなかった。ただ自分が拾ってしまった以上、生きた人間にするのは当然だと考えて。育てはしたが親であるという自覚はない。むしろ優秀な部下か弟子を育てあげた気分だ。
紅の感情のなさをどうにかする気もないしそれでいいんではないかと思う。紅はきっと、絶望を知った。絶望を前に全ての感情は無意味だとも。もう二度とそれを知りたくないのならそれと相反する感情を取り去るのだ。紅は合理的に世を対処している。
それでよいではないか。
ずっと黙りこむ名無しにしばらくは自分も考えこんでいたために黙っていられた宵だが、ついに沈黙に堪えかね口を出す。
「ところで…紅は仕事は普段このあたりでやるんですか」
「あまりこのあたりではやらん。」
「それっておれも手伝ってもいいですかね」
「紅が望まんだろう。」
否定と取り、一理あると頷く。
「じゃあどうすっかなあ…」
呟く宵は紅についてくる時に何も考えていなかった。
基本的に気分屋の宵はその時々の気分で全てを決めてしまう性質を持つ。とはいえその時々の気持ちに全て偽りはなく、紅という少女に魅せられついて行くと決めた気持ちにゆらぎはない。
「お主、紅が気に入ったと言ったな」
宵は頷く。
「それならば紅が変わらないと無理だな」
何が、とは言わなかった。
「変わらせてみせますよ」
自信満々の笑みにはやけに力強いものを感じる。
名無しは紅に変化ほど似合わないものはないと考えた。しかし今では、この男を知ってしまった今では――それも悪くないと考えるようになった。
「難攻不落だぞ」
にやり、と笑い挑戦者の顔の宵に名無しまでつられて笑んでしまう。
「一杯やるか?」
「いいですね」
昼間から宴が始まる。
宵闇に、紅の元に千鳥足で向かった男は言うまでもなく宵。闇に紛れる男。
部屋の襖に手をかけただけで、部屋の奥から緊張感が伝わる。先ほどまで寝ていた彼女が起きたのだろう。関心すべき感知能力だ。
「紅チャン起きてるー?」
勢いよく襖を開けると、やはりこの部屋の主は目だけでこちらを見ては隙もなく座っている。
「あ、やっぱ起きてたね」
飲酒により頬を染めた宵を公言通りに相手にしない紅はしばらくすると立ち上がる。
宵を通り過ぎていこうとする彼女に宵は、赤ら顔もにやけた笑みもどこかに消し去り、鋭い瞳をたぎらせる。
「紅」
短く名を呼ぶと、その両の手をつかみ壁に押しつける。手首を微塵も動かす事が出来ない紅は口を引き締める。
それでも無視しようというのか。
「わかってんの?お前じゃおれにかなわないんだよ。」
「………脅しのつもり?」
挑戦を受ける者の瞳。
まだだ。
まだあの、紅い閃光には届かない。
「事実を言ってん……のほっ!?」
お留守になっていた足下。紅の膝が宵の急所を打つ。
「甘いんだよ」
そう言って去ってゆく紅。唸り身悶えながら宵は思い出していた。
「あれ…なんか紅に言おうと思ってた事あったのに…なんだっけ…」
早めに言っておいた方がよいと、思っていたはずの事が。
思い出せずに回復を待つのみだった。
暗闇に。潜むように。二人の男がいた。主従のような二人だった。
「本当に…本当に真なのだろうな」
「確かでございます。一度御覧になるべきかと……。私も御方をこの目で見て確信した次第でございまする故」
「そうか……そんなに似ていたか」
部下とおぼしき男は黙りこくって主を仰ぐ。
「……香美清御前に…」
男は笑った。
暗雲は、恣琴の空からたちこめていた。
弐・箕津の寺 完 |