壱・紅の紅 二
少女が二人、庭を軽やかに駆けていた。
城の屋根に、それを見下ろす小さな影――紅。
「羽霞さま、羽霞姫さま、お待ち下さい」
聞けば聞くほど耳になじまぬ、違和感さえもよおす響き。
「かの子が遅いのよ」
「姫さま、そんなにお転婆では宗岐さまにも呆れられてしまいますわよ」
「まあ。私の夫になる方がそんなに心の狭い方のはずがないわ」
平和な会話。平凡な内容。自分とは関係のない世界がくり広げられている。
紅はなんの感情ももたない瞳で彼女らを見下ろすと、静かに目をとじた。
すぐに開くと姫を目で追う。
天真爛漫な姫。それを狙う暗殺者。それを阻む紅。
ふと抹賀の手だれという暗殺者を思い出す。箴茣はあまり話さなかったが、そのただ一人を警戒しているようだ。
一体何者だろうか。ここから遠い紅の住む寺まで話が伝わってこないのは仕方がないが、見当がつかない。どれだけ強いのか。名無しが紅の実力に見合うと用意した仕事ならば、名無しよりは強くないだろう。名無しに勝った事は稽古も真剣勝負も含め一度もない。名無しより強い人間など知らなかった。名無しより強くなければ、紅より強くあっても勝つ事はできる。
「あっ」
大きく風が吹いたかと思うと、紅の立つ屋根のあたりまで手拭いが飛んでくる。姫が見上げたのですかさず紅はその身を隠すように姫の死角になる反対側の屋根に跳ぶ。
手拭いが一枚、さっきまで紅のいた場所に舞いおりる。
「ああ、あれは母さまの形見の…」
「羽霞さま、後で忍の者でも遣いにやりましょう。」
「ええ、そうね」
姫と侍女はなにやら話して去って行った。
紅は母の形見だという姫の手拭いを拾いあげる。そこには文字が刺繍されていた。
『香美清』
「………!」
薄汚れたともいえる手拭いは少し黄ばみ、姫が持つには少しばかり違和感のあるものだ。
「まさか…」
紅は高い屋根から飛び下りた。
忍装束だった紅は、少し迷った後に侍女の着物に着替えて羽霞の元に行った。
作りものじみた笑みをはりつけ手拭いを見せる。
「これを拾ったのですが」
羽霞は手拭いを自分のものと認めるやいなや飛びつきひったくった。
「私のよ。どうしてここにあるの」
失礼だとは思わなかったが行儀がよいとも思えなかった。
「庭に落ちておりましたので、もしやと思いまして」
「そう。でもどうして私のだとわかったの」
羽霞は不思議そうに首をかしげる。
「香美清さまは親方様の以前の奥様の名前だったかと」
「あら、そうよ。私の母。皆は藤さまに似ているというので藤さまの子と勘違いするのだけれど……あら、そういえばあなた見ない顔ね。新しく来た子?」
後妻の子ではない。しかも羽霞は前妻香美清の娘だという。有り得ない言葉にわずかながら動じつつ、紅は控え目に言う。
「はい。今日からお世話になります、紅と申します。」
「そう、とにかくこれありがとう。後で侍女頭にでも言っておくわ」
少女の紅を侍女だと判断したのだろう、そう言うと羽霞はどこかへ行ってしまう。
羽霞の言葉と仕事は関係ないのだから、羽霞が離れたら静かに後を追った。
その日は初日で、様子見という事もあり紅は夜通し羽霞を見張る事にした。増員したと思われる見張りが他にも多くいたが関係ない。
月のない夜だった。
敵は、正面から来た。
音もなく門番が倒れた。侵入者の気配を感じとった紅がわずか気を引き締める。
侵入者はとんと地を蹴る。
少し高い屋根に跳びのる。
軽い足取り。
顔を見れば、思っていたよりも若い。
紅より上か同じくらいだ。
侵入者は顔をあげると紅を認める。
紅の忍装束と同じ色の漆黒の袴に、濃い灰色の外套をはおっている。彼が抹賀のやり手暗殺者なのは間違いないだろう。同業者なのはその動き、まとう空気、門番を倒した時の素早さなどからはわかった上――強い。
「見ない顔だな。つってもここは来るたび人が変わってるからしょうがないか〜」
緊張感のないとぼけたしゃべり方。見上げる瞳だけはしっかりと紅を見据える。
「抹賀の暗殺者…」
確認はしておいた方がいいだろう、念の為。
「ああ…対おれ用に雇われた?もしかして」
にやついた笑みでもって口にはしないが肯定する。
紅は羽霞の護衛であり眼前の暗殺者を倒すためだけに雇われたのではないが、否定もせずに一気に彼の元へ跳んで脇差を振りかぶる。
闇に漆黒の三つ編みが流れた。
脇差はどの武具よりも紅の手になじむものだ。これ以上長くても短くても、いけない。その他の武具が使えないわけではないがやはり脇差が一番よい。
一、二、三。
三回も切っ先を払っておいて一太刀も受けない相手は久しぶりだった。
相手は避けるばかりで刀も抜かず様子を窺うのみ。
紅は相手の強さはわかっていたので焦る事もなく着実に相手を消耗させようとする。
こちらが落ち着き――もっとも紅が慌てる事など一度もなかったが――早まりさえしなければ、勝つ方法などいくらでもある。
何もうつさない瞳で、紅は刺客と対峙する。
しかし…隙がない。
これほど隙がない人間は名無し以外に見た事がない。彼の強さはまだはかりきってはいないが、もし彼が名無しよりも強いのであれば紅は勝てない。そうなれば死しかない。
だが今はまだ相手は本気も出さずに戦っている。なめているのか温存しているのか知らないが、相手がこれ以上の力を出す前に早くに片付けなければならない。
紅の脇差が、刺客の首筋をかすった。血が糸のように筋になって散る。
かすっただけなのだ。紅は感情が表に出せたのなら眉をしかめた事だろう。
こいつ――強い。
紅は久しぶりにぞくりとした。
しかし今までに勝てるかどうか最後までわからなかった相手にも勝った事はある。大丈夫だ。
紅の何もうつさない瞳には、見えていても認識されていなかっただろう、眼前の暗殺者は首の一太刀を受けた後、笑っていた。
面白いものを見たように、実に楽しそうに。
ついに刀を抜いた時も、まだ。
彼の目に一瞬鋭く光が閃いたかと思うと、紅の首は彼の刀に両断されていた。
「!!」
一瞬の眩暈の後、紅は手こそ首にあてはしなかったが自分の頭がまだ首の上にある事をしっかりと確認した。
今のは――やばかった。すごい殺気だった。
冷や汗を、かいた。
刃は紅の首筋にぴたりとあてられているが、何故か暗殺者は動かそうとはしない。
「――名は」
それが紅に向けられた言葉だと思わなかったわけではないが、紅は少しの混乱と場にそぐわない言葉に何も返せなかった。
「な、ま、え、は!お前の名前だよ」
怒るでもなく、ちゃんと聞こえていたか疑うような目で彼は繰り返す。
「……紅」
間近で見る彼の瞳は、みなぎる力にあふれていた。力強い、目。よく見ると髪は少し茶色がかっていた。
「あんた、やるね。おれ自分の血ぃ見たの久しぶり。」
それでも紅の不利には変わりないだろうに、一体何を言うのか。
「おれは宵。」
名乗ると、宵は刀を紅の首筋から離す。あまりに滑らかな動作だったので、思わず紅も反撃もせずつっ立っていた。
宵は鞘に刀をおさめると、にっと笑って言った。
「今日あんたと戦えて楽しかった。」
素早く姿を消して、
「また戦ろうね、紅チャン」
そんな言葉を紅に残すと宵は気配もなくなり帰っていった。
「…………」
紅は首筋に手をやると、彼が去った方向に目をやった。
月のない闇夜に溶けた者を、目でとらえる事は出来なかった。 |