壱・紅(くれない)の紅(くれ) 一
『母さま…っかあさまあ…っ!』
自分の声が、遠くに聞こえる。小さなかよわい声。
まるでこの世の終わりみたいに、全身で叫ぶ。
母は気付かない。気付けないのだ。
彼女も我が身を守るので、状況を把握するので、自分を落ち着かせるので、精一杯で。
私は私で、あの細い手を探して、回る世界に慌てふためき、すがるべき母を求め暗い視界の中で目を回す。
紅は目を覚ました。
見た夢は幸せな夢ではなかったが、汗もかかず何の感慨もわかない。
もう昔の事、古過ぎる記憶。
ただ夢自体久しぶりに見たのでそれに珍しいと思う。
紅は寝床から抜け出し、戸を開ける。朝日に少し目を細め、縁側から庭におりるとすぐの井戸まで行き顔を洗う。
黒い髪の毛先まで濡れてしまいぬばたまの輝きが朝日の中、光る。
それを視界に入れていたら、縁側に立つ人物に気付く。
紅の保護者というか師匠というか、今の紅をつくった人物が現れる。
「御早う、紅。」
「御早う。」
「朝一で仕事持って来てやったぞ」
彼は自らを『名無し』と名乗る。本名をあかさないため他に呼びようがないし、名無しと呼んでいる。この寺の住職というのが表の顔だ。
「それはそれは、目が覚める話です事」
冷笑のような、どこかわざとらしい笑みをうかべ紅は手拭いで顔を拭く。
「そうか?」
「そうです。私は昨日帰って来たばかりだというのに。」
「しかも長期になりそうだ。よかったな。」
「何が。しかも私の抗議は無視ですか。」
「恣琴の護衛だそうだ」
紅はわずか、身を縮こませた。それを表面に出す事はないが、もし彼女が感情を表に出せたなら身を縮こませていた事だろう。
恣琴。
懐かしい名だ。
「知ってるだろうが、でかい城だ。」
名無しは紅の生まれた地を知らない。紅のうちに生まれた小さな動揺に気付く事はない。
「それは…今すぐですか」
紅は名無しの正体、過去も知らない。紅と名無しは互いに生計をたてるためにどこかの屋敷や城に仕事に出る。彼が紅に仕事を持ってくる。主に暗殺、護衛。
「ああ、まあ朝餉を食ってから行ってもいいぞ」
そう言うだけ言って、名無しは紅に背を向け縁側にあがり障子の向こうに隠れる。
彼は紅の能力に見合った仕事をいつも持ってくるから仕事を失敗した事はない。彼の言う事はいつも正しい。
はりつけたような笑みを消し、今回ばかりは彼が何も知らないかどうか疑いを持ってしまう。
恣琴は紅の生まれた故郷。
互いに過去を詮索する事がなかったために知らないはずなのだが、これだけ長年暮らしても名無しが何を考えているかはわからない。腹が読めない。
「偶然なはずだ…」
偶然じゃなかったら名無しを疑う。
縁側に腰かけ、紅は一房だけ長い髪を三つ編みにする。その他の髪は顎のあたりですっきりと切り揃えられている。
恣琴。少しだが遠出になる。早く朝餉を食べて旅仕度をしなければ。
紅はその瞳に何もうつさず自室に戻った。
名無しは失礼な事に紅を見送る事もなく眠っていたが、ふとその丸い頭を見て、彼が死んだら自分はどうなるのだろうと考えた。彼は若くない。
わからない。
すぐに考えを恣琴の城での仕事に変える。
恣琴の家臣として城に入り、藩主甲栄依近の娘――つまり姫を護衛する。
今回の仕事は『守る側』だ。
紅は『守る側』の仕事よりも『狩る側』の仕事の方が好ましいと考える。『狩る側』にいれば、相手を屠ればすぐに仕事は終わる。その地から解放される。長い間同じ場にいるのは好きではない。
今回の仕事は紅にとって好ましい事はないようだった。場所が場所であり、護衛であり、長期の仕事だ。
人通りもなくなる峠にさしかかる。編み笠に紺色の旅装束の紅は、しかし迷う事なく歩を進める。
仕事は仕事だ。故郷が仕事場でも紅には関係ない。むしろ地理がわかって有利かもしれない。あまりに小さい時の事なので記憶が定かではないが。
紅は、夜通し歩き続けて恣琴の領地に着いた。
恣琴城下に入って、指定されていた出店に向かう。
「話は聞いております。こちらへ。」
名無しが言っていた茶店にて『黒胡麻だんご』を頼むと店の奥に通された。
紅が編み笠をしたままだったので、出てきた中年の男は「背が、低いな…」とだけ呟いた。編み笠がなければ女だからだとすぐに気付いただろう。
紅が編み笠をとり感情のない目で彼を見ると、男は少し目を見張った。
「紅と申します。」
「……そう、か…。」
「私の腕に不安があるようでしたら…」
容姿や性別で実力を疑われるのには慣れている。仕方がない。紅は背も低くいかにもひ弱そうな少女なのだから。そんな時は実力を示す必要があるのだが、男は紅の異様な空気を察知してか手で遮る。
「いや、いい。『名無し』の仲介ならばこちらも安心だ。」
ここでも名無しは『名無し』で通っているようだ。彼の名前にはそれだけで信用されるほどの効き目があるのもいつもの事だ。
「しかし…いくつだ?」
なんとなく気になった、という声音で男は聞いてきた。
「十五です。」
「そうか…やつの子ではないだろうに…弟子か?」
「そういうものではないですが…子でもありません。」
男は紅の年を聞いた時も少し驚いたようだった。紅は小柄さからもっと年下に見られる事が多いから仕方がない。
「…そうか…まあ、『名無し』がよこすくらいだ、期待しているぞ」
男はそう言うと、着いて来いとも言わずに踵を返し店の裏口から出た。ついていった紅に、一度振り返ると彼は言った。
「言い忘れたが、わしは箴茣と言う。臨時に結成した姫付き護衛衆を取りまとめている。」
何も返さない紅にもかわまず、箴茣は再び歩き始めた。
城は、まるで知らない城のようだった。幼い頃、恣琴にいて見慣れていたはずなのに。初めてきた場所のように居心地の悪さに近いものを感じる。
紅は城内にたちこめる緊張した雰囲気、紅を訝しむ視線などを感じた。城内を歩く人間はほとんどいないのに、視線ばかり感じる。
城を守る者たちはやけに警戒している。
紅のような人間まで雇うくらいだから何かあったのかこれからあるのか予想していたのだが、予想以上にそこここに潜む忍が多い。
「緊張しているだろう」
紅は何も問うつもりはなかったが、箴茣が勝手に説明してくる。
「聞いているかもしれないが、姫の護衛が全員殺された。もちろん新しい護衛をつけたが、抹賀藩の暗殺者に一人かなり手強いのがいて、親方様はひどく警戒しているんだ。」
笑みも、返事も返さずただ箴茣についていくだけの紅に興味を持たせようとでもしたのか付け加えた。
「姫はもうすぐ輿入れが決まってるから尚更、な」
少しいたずらっぽく笑って言う箴茣は、紅がなんの変化もしないので少し気まずそうな顔をしてすぐに前を向いた。
紅は城内情勢がどうであろうと仕事に従事し完遂するのみ。たとえ姫が結婚しようが反抗期だろうがなんの関係もないのだ。
長い廊下を歩き続け、箴茣はある場所で足を止めると部屋に入った。
そこで左手の襖をほんの少し開くと紅に顎で中を見るよう促す。
襖の向こうには、紅と同じ年くらいの少女がいた。色鮮やかな着物を着、侍女らしき女となにやら話している。
かわいらしい顔。守られて育った事がその仕草からわかる。
箴茣が襖を閉めては数歩さがる。
「あれが姫だ」
そしてすぐに部屋を出る。
「あれがお前が守るべき姫だ。」
またも長い廊下を引き返し、歩く。
「年は…十五ですか?」
「ん?ああ、そうだが…」
訝しむ様子はなかったが、箴茣は紅が城に来て初めて質問をしたのでちらりと後ろを振り返った。
紅は疑いを持った。
おかしい。
恣琴の城の姫は十一年前に死んだはずだ。
藩主に子供は娘一人しかおらず、そのかわいがりぶりは城下でも有名な話だった。
死んだ一人娘の母もまた死んだはずで、その後迎えた後妻の子だとしても年齢的に少しおかしい。
ふと姫の名を聞いていなかったなと思い参考までに聞いてみる。
「姫さまの名は…?」
「羽霞さまだ」
耳を、疑い、目を見張る。
あの日以来死んだ紅の心臓がどくんとうねり、蘇った、気がした。 |