第一話:『出会い』
海が、荒れている。
なびく髪を手でおさえながら、ミーシェは高台から海の様子を見ていた。こんな日は、近海を泳ぎ回っている『ラシト』が、浜に打ち上げられることがある。
『ラシト』は、白く滑らかな肌に、丸い頭、黒く愛らしい目をしている海の動物だ。力強いヒレで海の中を縦横無尽に駆け回る。そして人懐っこく、いつの間にか側について泳いでいることがある。
ミーシェは、このラシトが好きだった。青い海の中で一緒に泳いでいる時は、穏やかで優しく、幸せな気持ちになれた。何か嫌なことがあるといつも、ミーシェは海に潜った。
今日も一つ、嫌なことがあった。しかし海は荒れているので、泳ぎに自信のあるミーシェでもさすがに入ろうとは思わなかった。
ただ、入るつもりは無かったが、何となく海へ来てみた。そして、心配になった。ラシトはこの波にもまれて、浅瀬に流されてしまっていないか。つい二ヶ月前、丁度こんな日にラシトが浜へ打ち上げられた。ミーシェは何とか海へ帰そうとしたが、そのラシトの命は尽きてしまった。
その時の諦めのような悲しみを秘めた目。ミーシェは、もうそんな目を見たくないと思っていた。
ふと、ミーシェは風の音に紛れてラシトの甲高い声を聞いたような気がした。勿論海とこの距離で、しかも風が吹き荒れている中、そんな声は聞こえる筈が無い。
しかし、それは何か嫌な予感のようなものに思えた。ミーシェは目をこらして、海岸を隅々まで見渡した。
小さな入り江の岩場、ここからそう遠くない距離に、ラシトがいた。岩の上に、体を打ち上げられている。ミーシェは、走り出した。
これだけ海の荒れている日に、入り江へ近付くなど自殺行為だ。油断していたら、あっという間に波へさらわれてしまう。
けれどミーシェは、見過ごすことが出来なかった。
そしてミーシェには、一つ自信があった。誰もが魔力を持つこの世界で、ミーシェは水属性の魔法を使うことが出来た。高度な魔法は使えないが、少しの間ならば魔法を使い、水の勢いを止められた。
ミーシェは岩場へ降りると、その魔法を唱えた。
【尊き水の精霊よ、今少しその動きを止めよ】
すると波はしぶきを上げずに、穏やかに揺れ始めた。ミーシェは、ラシトに手を触れた。まだ小さい子供ではあるが、ミーシェよりも大きい。
ミーシェは、力を込めてラシトの体を押した。しかし、中々その体は動かない。濡れた岩場に何とか足を踏ん張って歯を食いしばり、尚も押す。
だが、やはり無理だった。ミーシェは、自分の非力さを痛感した。
「待っていてね、今誰かつれてくるから。」
先生方に事情を話して、何人か男の人に来てもらおう、と思った。ミーシェは、悲痛な視線を向けるラシトに言うと、岩場をのぼろうとした。
「何をしているのだ。」
上にいたのは、はっと息を呑むくらい美しい青年だった。曇り空でも輝く金色の髪に、同じ金色の瞳。まるで神様のつくった芸術品のようだと、ミーシェは思った。青年の周統率者け、空気が違っているようだった。
ごうっと大きな音を立てて吹いた風に、ミーシェは我に返った。
「あの…ラシトを海に帰す為に、人を呼ぼうと思って…」
するとその青年は、岩場へ降りた。ミーシェより頭一つ分背が高く、がっしりとしている。年は、少し上のように見えた。
「とりあえず二人で押してみて、それでも動かなければ、呼んで来よう。」
ミーシェはうなずいて、その青年と二人でラシトを押した。僅かだが、動く気配があった。
「押しづらいな。」
青年は靴を脱いだ。足元が濡れているので、力が入りにくいのだ。ミーシェも、同じように靴を脱いだ。
二人は、息を合わせてラシトの体を押した。少しずつ、ゆっくり、そしてやがてラシトの体はしぶきを上げて海に帰った。
「元気でね、お母さんに会えるといいね!」
ミーシェが叫ぶように言うと、ラシトは海から顔を出した。それが伝わったのかどうかはわからない。しかしラシトは、海へ潜ると、ヒレで水面を打ちつけた。細かい水滴が高く上がり、あっという間にラシトの姿は見えなくなった。
その時、先程かけた魔法が解けて、岩場に波が届くようになった。
「まずい…早く上がりましょう!」
ミーシェは靴を履き、上がろうとした。しかし、青年はそこで立ったまま、動かない。
「あの…行きましょう!」
ミーシェは、青年の腕を掴んで引っ張った。すると青年はようやく、岩を上り始めた。
「すみません、手伝ってくれて…本当にありがとうございました!」
ミーシェは、青年に礼を言って頭を下げた。そこで青年が靴を履いていないことに、ミーシェは気付いた。
「あ、靴…!」
ミーシェは岩場を覗き込んだが、既に波が靴をさらってしまっていた。
「もう流れちゃったみたいで…すみません、どこかで車を拾って…」
そう言いかけ、ミーシェは言葉に詰まった。青年は顔を手で覆って、泣いていた。
泣いている男の人を見たのは、初めてだった。ミーシェの生まれ育った農村では、『男は親の死に目にしか泣いてはいけない』と言われていた。そして農村以外でも、声を出して泣いている男の人は見たことがない。
その時、冷たい雫が頬に当たった。空を仰ぐと、先程より濃い色の雲が姿を現し始めていた。これからきっと激しい雨が降る。
ミーシェは躊躇したが、このままでは雨をかぶって、ますます体を冷やしてしまう。青年の手を掴んで引いて、寮へ向かった。
ミーシェは青年に体を拭く布を渡し、お湯を沸かし始めた。青年はぼうっとした表情で、濡れた髪を拭いている。もう泣いてはいなかったが、心はどこか遠くの場所にあるようだった。
粉末のマル茶を器に入れ、沸騰した湯を注いだ。ミーシェはそれを、青年に差し出した。
「あの…飲みませんか?」
青年はそれを受け取って、一口飲んだ。
「不思議な味がする…」
青年は、表情を変えずに言った。マル茶は、ミーシェの故郷に生えている香草を乾燥させて、細かく切り刻んだものだ。ミーシェの母がその香草を採る仕事をしていて、時々箱いっぱいに詰めて送られてくる。香ばしく、苦味とほのかな甘味が特徴だ。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、いい。」
そう言って、青年はまた一口飲んだ。そして小さく息を吐き出すと、言った。
「…何も聞かないのか?」
「え?」
泣いていたことを、だろうか。
「人って、誰にも話したくないことがありますよね。でも無理に聞いてしまうと、相手が嫌な思いをするかもしれないから…」
青年は、何も言わなかった。ただ黙って、茶をすすっていた。雨が激しく窓を打ちつけ、風のうなり声も聞こえた。
やがてそれを全て飲み干すと、青年は器をミーシェに渡して、立ち上がった。
「ではな。」
「あ…はい。」
青年は、裸足のまま部屋から出て行った。不思議な人だな、とミーシェは思った。
それにしても何故、あのような場所にいたのだろうか。こんな嵐の日には、生徒たちは外に出ることすらしない。島の商店街は閉まるし、それに買い物ならわざわざ外へ出なくても、この学園内で十分足りる。
その時、ミーシェの腹がぎゅるっと鳴った。そういえば昼食がまだだったと思い出し、ミーシェは台所へ行った。
ミーシェの通う魔法学園『イヴァンテ』は、各国から集められた魔法に才のある者が学ぶ場所だ。彼らは最終的に八名まで絞り込まれて、『カフカ』の勲章を授けられる。そして魔獣討伐の為に力を振るう。
『カフカ』は、皆の憧れの的だった。『正義・慈愛・清心』を目標に掲げ、人々の為に戦う。誰もが『カフカ』になりたいと願っているが、それは狭き門だった。
入学時には千名いた生徒が、学年の上がるごとに減っていく。ミーシェの学年では、もはや二十名しか残っていない。それが来年には八名となる。基本的な選考基準は、魔力が高く魔法の使える者であるかだ。
しかし、例外もある。それは、稀有な能力を保持している者。そしてミーシェは、その一人だった。
傷を癒やすことのできる治癒師は、世界に三名しかいない。ミーシェにはその能力が僅かながら見られたのだ。実際、擦り傷ならば一分程の気の集中で治すことができる。
けれど、ミーシェの能力はそれ以上伸びる気配が無かった。ミーシェには元々の、含有魔力が少なかった。その能力を伸ばす為には、魔力素を体へ取り込む必要があった。
ミーシェは、熱心な先生方の取り計らいもあって、一つ上の学年に進むことが出来た。
そして新学期は、明日から始まろうとしていた。魔法の使える者ばかりが集うクラスで、うまくやっていけるか、ミーシェは不安で仕方なかった。
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