嘘をつくのはつらいこと
気がつけば、私は白い部屋に立っていた。
卵の殻の中に入ったみたいな、ほんのり明るい楕円形の部屋だ。その白い壁の円周、一面に張り巡らされている絵は、あの、モネの『睡蓮』。
息を、飲む。
——ここはパリのオランジュリー美術館、「睡蓮の間」だ。
風立つ池。揺れる柳の向こうに、水紋のように連なる葉。散りばめられた花の、ほのかな輝き。
モネの絵筆によって命を吹き込まれた、楕円形の生態系。
目の端まで収まりきれない風景に、胸が震える。
大学時代に訪れて、また来たい、と心から願った。
これはきっとあのときの夢だ。
その証拠に私は、その貧乏旅行で履き潰した靴を履いている。当時お気に入りだった、ビジューをちりばめた黒いフラットシューズ。
ふと、人の気配を感じて右隣を見た。
『彼』がいる。
大学生である私の隣に、職場の同僚だった彼が。
ありえないのに、不思議と違和感はない。
2年もの間、ふたりでさまざまな美術館を訪ねていたから。
彼もまた、「睡蓮の間」の静謐な迫力に溺れていた。
瞳をきらめかせ、息をつくのも忘れて。
しばらくして、私の視線に気付いた彼は、ゆっくり微笑みかけてくる。
いつもの、笑みだ。
ワイエス、若冲、エジプトの青いカバ。運慶、モンドリアン、ガレの花器。
惜しみなく降り注ぐ美の恩恵を、共に分かち合おうとする、深い笑み。
彼の後ろには、モネの睡蓮がたっぷりと広がって。
——ああ、何という至福。
……
白い天井が、涙で歪む。
同じ白でも、やけに無機質な白の。
「……つっ」
起き上がろうとする瀬奈の右足に、鈍い痛みが走った。
(そうだ、今日、手術して)
ギプスで固められた足は、離被架と呼ばれる、壊れた鳥籠みたいなガードの下にある。静かな個室の窓からは、梅雨が明けたばかりの抜けるような夏空が見えた。相対するベッドの右側は淡いグリーンのカーテンで囲われ、その向こうに人の身動ぐ気配がする。瀬奈は慌てて病衣の袖で涙を拭った。
結城瀬奈は書店員で、『かさくら書店』という本屋の美術書コーナーで働いている。
3日前、重い画集を持ったまま職場の階段から落下。救急車で病院に搬送され、骨折の診断をうけた。そのまま入院となり、大部屋の空きがないということで、この個室に入っている。
瀬奈の実家は遠く、家族に頼ることはできない。代わりに洗濯などの雑事を引き受けてくれたのが、同僚の律子だ。同期の親友でもある彼女は、手術日の今日、わざわざ有休を取って付き添ってくれた。
絶飲食で朝9時前に手術室に入り数時間。骨折部を金具で固定する手術を受けた。病室に戻って検温や患部のチェックを受け、点滴を抜いて水分を取ったところまでは覚えている。手術前に投与された安定剤のせいか、またすぐ眠ってしまったらしい。
カーテンの向こうから、きゅっ、とリノリウムの床を擦る音がした。
「律、子?」
喉が掠れて、うまく声が出ない。それでも相手には聞こえたらしく、すぐ返答があった。
「瀬奈さん、起きた?」
律子とは似ても似つかぬ、低い男の声。
「わかる? 俺、厳ですけど」
わからないはずがない。
4ヶ月前まで同じ美術書コーナーで働いていた男。
さっき見ていた、夢にまで出て来た男だ。
(いつの間に律子と入れ替わった?)
突然のことで返事が出来ない。そんな瀬奈を察してか、厳はカーテン越しのまま丁寧に説明する。
「律子さんね、朝からずっと瀬奈さんに付きっきりだったでしょう。『俺が代わるから』って、たった今、昼ご飯食べに行ってもらったとこ」
テーブルの上の目覚まし時計を見るとすでに正午を回っていた。本来なら律子を気遣ってくれて感謝するところだが、とてもそんな余裕はない。
「どう? 痛む? 瀬奈さん」
薄布の向こうから気遣わしい声がする。確かに麻酔が切れてきて少しは痛むが、この際、痛みなどどうでもいい。
(律子! なんでこの男とふたりっきりにするかなあ!)
彼を避けていることは、律子もよくわかっているはずなのに。
手術を受けたばかりで頭は朦朧、顔はすっぴん。松葉杖で動くのがやっとの瀬奈には、逃げることすらできない。冴えない頭を猛然と振り、リモコンでベッドのリクライニングを起こした。さっと髪を整えながら覚悟を決めると、努めて硬い声を作る。
「お疲れ様です、『専務』。お仕事はよろしいんですか」
ふう、と、カーテンが揺れるほど大きなため息が聞こえた。
「これでも外回りの帰りだよ。瀬奈さん、朝から何も食べてないんでしょ。お腹、空いてるよね?」
口より先に返事をしそうな胃袋を手のひらでぐっと押さえる。
「『専務』、お忙しいところお見舞いいただいて恐れ入ります。ですが、この怪我の責任を感じてらっしゃるなら、お気遣いは無用です。『専務』は、たまたまそばにいらっしゃっただけで」
「あのさあ!」
大きな声と共に、つかつかとベッドに歩みよる足音がする。瀬奈は思わず青い病衣の襟元を掻き合わせた。
カーテンが引かれる、と思って身構えれば、律儀にも男は端からするりと回り込んで来る。
黒目がちの眼、大きな口と、情熱的にも見える顔の造作だが、少し曲がった細い鼻筋が、幾分繊細な印象を添えていた。ノーネクタイではあるが細見のスーツ姿はやけにこなれていて、いかにも若きエグゼクティブ然としている。
(こないだまで、私と同じエプロンつけて売場に立ってたくせに)
悔し紛れに胸の内で悪態をつけば、男は聞こえたように苦笑いを返した。
「とりあえずね、瀬奈さん。『専務』『専務』連呼するの、やめない?」
『かさくら書店』専務取締役、渡辺厳。
彼はつい4ヶ月前まで、瀬奈の後輩書店員として働いていた。
新人として『かさくら書店』美術書売場に配属されてきたのは2年前。名門S大の経済学部出身で、一流企業に就職したにもかかわらず、そのキャリアを蹴って「かさくら書店」に転職してきたのだという。新卒入社の瀬奈より、3つ歳上だった。
エリートコースを棒に振った新人、と従業員の間ではたちまち話題となったが、当の厳は、
『3度の飯より本が好きで』
と屈託なく挨拶した。
そんな読書家なら美術書コーナーでは物足りないだろう、と思えば、分厚い画集が立ち並ぶ本棚をうっとりと眺め、
『ここに住みたい』
などと呟く。
どことなく夢見がちな男だが、勤務態度は真面目でひたむきだった。年下の瀬奈を上司として慕い、素直に教えを乞う。
『ふたりでやれば、すぐですよ。今日中にやっちゃいませんか』
残業も自ら進んで引き受ける。瀬奈が休日美術展を回って仕事に生かすのだと言えば、やけに感心して、小ガモよろしくついてくるようになった。
芸術作品の見方ひとつ取っても彼らしい。気に入った作品の前に立ち止まると、子供のように顔を輝かせて色彩や造形に思い切り溺れた。一方で瀬奈が問えば、作者の生い立ちや背景の文化・歴史を踏まえた意見を理路整然と述べる。読書好きと公言するだけのことはあって、彼は学芸員のように博識だった。美術展を堪能したあとは、遅いランチを食べながらひとしきり喋る。店構えは古いが魚料理が美味い定食屋、くせになる担々麺の店、石窯のマルゲリータがとびきりのピッツェリア。ふたりは旺盛な食欲を満たしながら、高揚した気持ちをぶつけ合った。その日の収穫を本の発注やコーナーのディスプレイにどう生かすか。アイデアは泉の如く溢れ、話は尽きなかった。
熱意が伝わり、ふたりの手がけたディスプレイやポップはじわじわと売り上げに結びついてくる。手応えがあれば仕事にもさらに熱が入った。年齢とキャリアが逆転しているふたりの間に、いつしか敬語は少なくなり、距離はどんどん縮まっていった。
『瀬奈さん』
『厳くん』
呼び合う名前だけが、当初の先輩後輩の名残だった。
……
「今日は先方の都合で、朝からの会議だったんだけど」
厳の声で我に返る。
先方、というのは、顧客か取引先だろう。厳は専務になってから渉外の仕事が多いようで、スーツで出かける姿をよく見かけた。
「どうせ外に出たんだから、おいしいもん買って来て昼ごはんにしよ、と思って」
厳が思わせぶりに取り出したのは、丸く平たい発泡スチロールの容器だ。テーブルに置かれると、縁日の屋台みたいな匂いがする。ゆうべから何も食べていない瀬奈の胃袋はじんわり熱くなった。注意深く蓋を開け中身を覗いた厳が、安堵の息を漏らす。
「よかった、崩れてない」
現れたのはソースとマヨネーズが描く芸術。鳥の羽のように細やかなマーブル模様だ。
テーブルの上と彼の顔とを交互に見ると、当たり、と言わんばかりの笑みが返ってきた。
「そ、『巴』のお好み焼き。ほんとは昼のテイクアウトやってないんだけど、泣きついて作ってもらっちゃった。『巴焼き』と『チーズスペシャル』だよ。ほら、ミックスジュースも」
クリーム色の液体が入ったペットボトルを2本取り出し、にっこりする。
『巴』は厳が会社員時代から行きつけのお好み焼き屋で、美術展の帰りによくふたりで寄ったものだった。口八丁手八丁の女将と、口数は少ないがコテ捌きが鮮やかな若女将が切り盛りしている。若女将の夫が八百屋を営んでおり、新鮮なキャベツがどっさり入ったお好み焼きは安くて美味い。フルーツをふんだんに使った、懐かしい甘さのミックスジュースも絶品だ。
「まだあったかいはずだよ」
無邪気な笑顔と濃厚なソースの香り。思わず頬が緩みそうになり、瀬奈はぐっと奥歯を噛みしめた。
「鰹節、かけまーす」
歌うようなかけ声のあと、はらはらと鰹節が舞い躍る。
プラスチック製のナイフが入れば、中から鮮やかなキャベツの若草色と、何種類ものチーズの白や黄色がとろんとろんと顔を出す。『チーズスペシャル』だ。見れば紙袋の底にはもうひとつ容器が入っていて、そちらが『巴焼き』だろう。『巴』で食べるときはいつも、店の看板である『巴焼き』ともうひとつをそのときの気分で頼み、半分ずつ分け合うのが常だった。
『ふたりで来ると、2種類食べられてお得だよね』
口いっぱいに頬張って笑った、ままごとみたいな食事風景。鉄板に触れてしまった指先みたいに、ちり、と胸が痛む。
「でーきた、っと」
いつのまにかお好み焼きはひと口サイズに切られていた。当然一緒に食べるのだろうと期待していると、厳はベッド脇の椅子に腰掛け、容器をテーブルから自分の膝に乗せ替える。
「ああ、いい匂い」
ソースの香りをうっとりと嗅ぎながら、厳はプラスチックのフォークを突き立てる。
容器はひとつ、フォークは1本きり。瀬奈の分が出てくる様子はない。
「それでは失礼して、不肖私めが」
厳は執事のようにかしこまった礼をすると、静々とお好み焼きのひと切れを持ち上げる。
(えっ、えっ、まさか、ひとりで食べちゃう?)
焦って目を剥くと、満面の笑みと共に、瀬奈の口元にフォークが近づいた。
「はい、瀬奈さんからどうぞ、召し上がれ」
「へっ? はあっ?」
思わず上半身を仰け反らせる。
「いやいやいや、食べるなら自分で! 骨折してるのは足で、ほらこのとおり、上半身は全くもって支障なく!」
高速で手をグーパーしてみせる瀬奈を、厳はさらりと躱した。
「テーブル狭くて、取り皿置く場所ないんだもん。若女将、忙しくて忘れたのかなあ、フォーク、ひとつしかなくて。あっ、ソースが垂れる!」
「ちょっ、わっ」
反射的に開けてしまった口に、お好み焼きが押し込まれる。ふんわりとした生地の中に、キャベツのしゃきしゃき、チーズのとろり。きりりとしたソースの味をマヨネーズのコクと酸味が引き締めて。
(ああ、この味。久しぶりだなあ)
ついうっとり噛みしめてしまう。
「美味しい? だよねー」
厳は笑いながらも、次のひと口を突き刺している。
「じゃあ俺も、いただきまーすっ」
何の頓着もせず同じフォークを口に入れた。
「んー、うまっ!」
歓喜の声と共に彼の顎が上がる。すっぽりと咥えられたフォークは彼の口から出ると、放物線を描きまたお好み焼きへ。次のひと切れを取ると、ふたたび瀬奈の口の前で止まった。
「はい、おまたせ」
(なに、これ。『専務が平社員を餌付けするの図』?)
なぜか浮世絵で絵が浮かび、頭の中で拍子木が鳴る。
(ちょっと待って、おくんなせえ)
写楽の浮世絵、江戸兵衛よろしく、見得を切るように目を剥いて手のひらを立てるが、フォークはさらに口へと近づく。
「いいから、ほら、せっかくのとろとろチーズが固まっちゃうよ?」
「うっ」
誘惑に負け、つい口を開けてしまう。一旦入ってくれば、魅惑の味や食感が舌や喉をくすぐって、いとも簡単に瀬奈を駆逐する。口元がほころぶのを止められない。
(おいしいって、罪だ)
瀬奈の表情に満足して、厳は次のお好み焼きを自分の口へと運ぶ。もぐもぐ頬張りながらも手は休めず、瀬奈の分を取るのを忘れない。瀬奈、厳、瀬奈、厳。テニスのラリーみたいに、フォークがふたりの口を行き来する。
「やっぱ瀬奈さんと食べるとうまさが違うね!」
屈託のない彼の笑顔に、間接キスだとか何だとか、騒ぐほうがおかしいように思えてくる。やけ酒よろしくミックスジュースを呷ると、これまた酸味と甘みのバランスが絶妙で、口や頬が喜びにきゅうっと締まった。
(ああ、がぶ飲みなんてもったいなかった!)
とたんにちびちび、けちりながら飲む。『チーズスペシャル』はあっという間になくなり、厳は次の『巴焼き』を切り始めた。青ネギ、牛すじ、イカ、小海老、たっぷりの具が見え隠れして、瀬奈を誘う。思わず身を乗り出すと、にんまりした厳と目が合った。
「はいはい、ただ今。病院食って薄味だから、濃い味のもの欲しくなるでしょ。お袋も、体調悪いときでも、たこ焼きとか焼きそばパンとかは結構食べるんだ。こないだの入院のときは好物のカレーうどん食べさせようと思って、店に頼み込んだらさあ」
「お母さんが入院したのは、嘘じゃなかったんだ」
瀬奈の口からこぼれ落ちた本音に、せっせとお好み焼きを運んでいた厳の手が止まった。
「嘘、じゃないよ。俺、そんなに嘘つきに見えるかな」
厳は切なげに笑って、また瀬奈の前に新しいひと切れを差し出す。返答に困った瀬奈は黙ったままぱくりと口に入れた。何度となくふたりで食べた『巴焼き』。今日の味は少し物悲しい。ふたりはしばらく黙々と食べていたが、そのほとんどを平らげるころ厳がようやく口を開いた。
「専務に就任してからずっと、瀬奈さんだけにはほんとのところを打ち明けなきゃって思ってた。電話やメールじゃだめだ、直に話そう、って意地になって追いかけてたのが徒になった。怪我、させるなんて。本当に、申し訳なく思ってる」
瀬奈のギプスに巻かれた足に目を遣ると、自分の痛みのように顔を歪めた。
『しばらく仕事を休ませてください』
厳が殊勝に頭を下げたのは、今年の3月初めのことだった。
『母親が手術することになって』
その時初めて、彼が姉と3人暮らしの母子家庭だったこと、母親が入退院を繰り返していることを知った。姉はこのたび妊娠が発覚して結婚することになり、今までのように母親の看病が出来ないのだという。事情が事情なので励ましながら彼を送り出した。
その1週間後、事態は急展開する。
厳が突然『かさくら書店』の専務取締役に就任したのだ。
『厳くん、社長の親戚だったんだってね。そういえば社長の姓も渡辺だったわ』
『道理で。エリート街道からはずれて書店員になるなんて、おかしいと思ったんだよ』
『2年もトボけてたなんて、大した役者だよな』
『結城は当然知ってたんだろ? もしかして玉の輿候補だったりして』
矢継ぎ早に浴びせられる同僚からの声に、瀬奈はひと言も返すことができなかった。
玉の輿どころか、厳本人からはメールも電話もない。美術書コーナーをやめることすら上層部から知らされただけで、挨拶のひとつもなかったのだ。
画集の山に埋もれて幸せそうにしていた厳。美術書コーナーをもっと知らしめたいと、努力を惜しまなかった厳。
美術展巡りの帰り、初めて連れてこられた『巴』で卓を囲みながら嬉しそうに笑って。
『ずっと瀬奈さんを連れてきたいと思ってたんだ。念願が叶ったな』
——みんな、嘘?
絶望は、彼への想いの裏返しだ。いなくなって初めて、同僚以上の感情を抱いていたことに気付いた。
(今さら、どうしようもないじゃん)
自分の愚かさに憤りすら覚えた。黙って去っていった、ということは、所詮彼にとって瀬奈はその程度の存在でしかなかったのだ。職場の先輩としても、女と、しても。
彼が瀬奈を切り捨てたのなら、こちらも来る前の自分に戻ればいい。瀬奈は心を閉ざしたまま、がむしゃらに仕事をこなしていった。
それからふた月が経ったころ、厳は時折古巣に現れるようになった。ようやく彼のいない日常に慣れつつあった瀬奈は、振り回されるのは御免、とばかりに徹底的に彼を避けた。先輩後輩だった関係は平社員と役員に変わったのだ。話す事など何もない。しかし厳は諦めず瀬奈の元に通う。ふたりの攻防は続いた。
3日前、美術書コーナーに厳が現れたとき、瀬奈はたまたま重い画集を持っていて逃げそびれた。
『瀬奈さん、待って』
『仕事中ですので』
急いで階段を下り始めたところで、足を踏み外した。狭い階段を転げ落ちながらも、書店員の性で画集から手を離さないのがいけなかった。背中や腰もしたたかに打ちつけたが、右足首の痛みは尋常ではない。面白いように腫れてくる様子が、ただの打撲ではないことを雄弁に語った。
あまりの痛みに動くことも出来ず涙を滲ませていると、たちまち降りてきた厳に抱き上げられた。彼は大声で周囲に何かを指示し、気付いたときには彼と救急車の中だった。救急車に乗っている間、彼は瀬奈の手を握りながら何度も『ごめん』を繰り返し、自分を罵っていた。入院の手続きもすべて彼がした。
『満床で個室しか空いてないっていうから、いいよね? 差額の費用は俺が払う』
そう言われて、有無を言わさず個室に入れられたのである。
「知ってるかもしれないけど、『かさくら書店』の社長は、俺の叔父なんだ。お袋とふたりっきりの兄妹でね」
厳は食べ終えたお好み焼きの容器を片付けながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「お袋は絵を描くのが好きで、学生のころ油絵教室に通ってた。そこで講師のバイトをしてたのが俺の父親。お互いあっという間に夢中になって、結婚を決めたんだって。当時お袋はまだ18で、親父は美大を卒業したばかり。当然家族は猛反対で」
ふたりは家族の反対を押し切り、勘当同然で結婚したのだという。厳の父は画家志望だったが、すぐに厳の姉が生まれ、売れない絵ばかりを描いてもいられなくなった。絵画教室のバイトの他、広告や小冊子の挿絵やイラスト、時には水商売や肉体労働もして食いつないでいたという。厳が生まれたころ、父親の描いたイラストがたまたま大手広告社の目に留まりCMに起用された。当時の流行に即した大胆なデフォルメや色使いが受け、多くの依頼が舞い込んだ。店頭のポスターや電車の中刷りに彼のイラストが躍る。生活は少しずつ潤い、厳の父は本来自分の描きたかった絵にも着手し始めた。厳も生まれて、ふたりの結婚生活は順風満帆に思われた。
一世を風靡した厳の父のイラストは、安い描き手に模倣されて氾濫し、次第に飽きられた。さらに厳の母が膠原病を患い入退院を繰り返すようになり、生活は徐々に逼迫してゆく。家族のために金になる仕事を優先させていた厳の父は、そのころには自分らしい絵を描きたい欲求を抑えられなくなっていた。新しい画風を模索しながら、思うようにならないと妻に当たったあげく、ふいと家を出て行く。生活費は底をつき、さらに病状を悪化させた厳の母は、子供を抱え泣く泣く実家にすがるしかなかった。厳が小学生のころ、ついにふたりは離婚、父親はそのまま行方不明となり、厳は以来父親と会ったことはないという。
「お袋は、俺たちの前では親父の悪口を一切言わないんだ。俺は子供だったし、父がどんな人間だったのか、本当のところはよく知らない。死んだ祖父や叔父は、父のことをひどく悪く言ったけど、俺にはいい思い出もあって」
厳はアルバムを開くように自分の手のひらを広げた。
「父の部屋にひとりでこっそり入って、棚の画集を片っ端から引っ張り出してみたことがあるんだ。赤い背表紙の、今はもう絶版になってる、H社の『世界名画全集』。ゴッホ、ピカソ、クリムト、ゴーギャン、カンディンスキー……勝手に部屋のカーテン開けて、陽の当たるところにずらーっと開いて並べてさ。うっとり見入ってたところを親父に見つかった。うわ、怒られる、って思ったら、親父は目を細めてね。一緒に絵を見ながら、『きれいだろ、素晴らしいだろ』って」
うららかな陽射しが差し込み、絵の具の匂いが立ちこめる画家の部屋。イーゼルの間を縫って、子供の厳が色とりどりの画集を広げている。ゴッホの黄色、ピカソの青、ゴーギャンの赤。ふくよかな裸婦、退廃的な自画像、コンポジション。子供が目を輝かせて指を差す、父が応える。溢れる光の中、それはどれほど豊かな風景であったことか。
「お袋はさ、結婚に反対してた叔父貴や祖父から援助してもらうことになったわけで。渡辺の家ではいつも小さくなってた。姉貴は、病気がちのお袋や俺の面倒をみるだけで精一杯。俺の立ち位置は、自ずと決まってくるだろ。家を手伝い、身体も鍛えて、成績は常に上位をキープ。母子家庭だからって後ろ指差されないように、いつか母や姉を養って叔父貴や『かさくら書店』の役にも立てるように」
一緒に働いていたころの朗らかな彼とは想像もつかない話だ。やるせなく目を伏せると、厳は取りなすように首を振った。
「ごめん、そんなに悲惨な話じゃないんだよ。末っ子だから母や姉からはたっぷり甘やかされてたし、叔父には子供がいなくて、俺たち姉弟を今でも実子みたいにかわいがってくれてる。何より本を読むのが好きだったんで、本屋の経営も悪くないと思ってた。一旦外で就職したのは、井の中の蛙になりたくなかったから。叔父貴には『見識や人脈を広げたい』って直訴したんだ。『かさくら書店』に戻るときは、『いちから這い上がってこい』って言われて、立場を明かさないまま書店員になった。たまたまポストが空いてて瀬奈さんの下につくことになったのは、ほんと、奇跡みたいな幸運だったな」
厳は無邪気に笑う。
「瀬奈さんは根気よく教えてくれて、叱るときは悪かったところをちゃんとわかるように説明する。逆に俺が弱い立場に立たされたときは、上司としてとことん守ってくれた。俺のほうが身体もでかくて年上なのにさ。きっといい家庭に育ったんだろうな、って思った。瀬奈さんのそばだから、俺も安心して仕事に没頭できた」
いい家庭、という言葉に胸が詰まる。瀬奈の両親はふたり揃っていて健康そのものだ。神妙な顔をすると、厳はいたずらっぽく口の端を上げた。
「基本男に頼ろうとしないで、脚立もがんがん担ぐし、力仕事も進んでするし? 休みも美術展巡りばっかしてるから、恋人がキレた、って聞いたよ」
誰がそんなことを、と言いかけたが、察しはついた。律子だろう。つきあっていた男は美術書コーナーの常連だった。隣の児童書売場で働く律子はその恋の顛末をよく知っていたのだ。
『時間さえあれば、行った先々の美術館へ足を運びますね』
瀬奈の元恋人は海外出張の多い商社マンだった。
エキゾチックな意匠の美術館、日本未公開のコレクション。彼の話に瀬奈はたちまち夢中になった。思えばきっかけが不純だったのかも知れない。
芸術好きな彼との付き合いは、当初きわめて順調だったが、彼が昇進して長期出張が増えると時間を合わせるのが難しくなってきた。瀬奈は瀬奈で職場に慣れ、仕事が面白くなってきた時期だ。次第にふたりはデートもままならなくなった。そんな中、休日まで仕事絡みの美術館巡りを続ける瀬奈を、当然男は良く思わない。
「ええ、ええ。彼の気持ちも考えないで、やっと取れた夏休みにパリの美術館巡りを提案しちゃった仕事馬鹿ですよ。『俺は仕事のついでかよ。やってられないね』って捨て台詞吐かれてフラれましたけど、何か?」
わざと大袈裟にぼやいてみせる瀬奈を、厳は笑わなかった。
「馬鹿なのは、その男だ」
苦い顔で首を振る。
「もう一度行きたかったんでしょう。オランジュリー……モネの『睡蓮の間』に」
「え」
さっきまで見ていた夢を、覗かれたのかと思った。
「瀬奈さん、前に話してくれたよね。『学生時代にあの睡蓮の前に立った。感動した。絵を見て泣いたのは生まれて初めてだった』って。『仕事で長い休みなんか取れない、スペインもオーストリアもオランダも旅したい。でももし行けるなら、やっぱりもう一度パリのオランジュリー』だと」
あまりにも王道のモネ、睡蓮の間。
スマートな商社マンの恋人には、その絵を見て泣いた、なんて恥ずかしくてとても言えなかった。
良く覚えていないから、厳に打ち明けたのも、たぶん酒の勢いか何かだろう。それでも。
(私、厳くんには、話してたんだ)
——自分の原点、大切にしていたその絵との出会いを。
「俺がその男だったら、どんなことをしても行ったのに。俺はまだ見たことないけど、瀬奈さんとだったら、きっと何時間でもずっと眺めていられる。その絵の色に身体中が染まるまで」
ひたひたと甦る、白日夢。
睡蓮の夢から遡って、日めくりを繰るように彼と見た芸術の数々が浮かび上がる。
ふたりで、いったいどれだけの美術展を見に行っただろう。
ひとたび絵の前に立つと、お互いどっぷりと芸術の世界に浸る。それでも厳は案外瀬奈の様子も見ているらしく、振り返ればよく彼と目が合った。
目が合って。絵に視線を戻して、また目を合わせて、頷いて。
静かな館内に揺蕩う、眼差しの会話。つかず離れずの距離はいつも心地よかった。
厳は博学ではあるが常に慎ましく、芸術への畏敬の念に溢れていた。見終わったあと意見を求めても、決して否定的なことは口にしない。彼の話はその作品の魅力をさらに深め、気持ちを高めてくれる。
認めるのは悔しいが、瀬奈だってわかっていた。
厳との美術館巡りが楽しかったのは、単に同僚だったからではない。元恋人の男より、厳の度量の大きさや思いやりが勝っていたのだ。さっきまでの会話でも、深刻な話に瀬奈が顔を曇らせれば、無理にでも茶化して笑いに変える。決して幸せとは言えない身の上なのに、彼は伸びやかな心根の良さを失わない。
そんな彼と働く2年間は、本当に豊かで満ち足りた日々だった。
「俺、昔から絵を見るの好きだったけど、親父が画家だった手前、やっぱ家族には言いにくくて。ひとりで美術館行っても、何となく後ろめたかった。仕事なら、と思って瀬奈さんについて行ったんだ。絵の見方ってさ、性格が出るよね。瀬奈さんは絵の真っ向から飛び込んでいって、隅の隅まで素直に楽しむ。一緒だと、作品の美しさも迫力も、思い切り分かち合えた。びっくりしたよ。ひとりで見るより何倍にも増幅して胸に迫ってくるんだ。夢中になった。休日が待ち遠しかった」
厳はうっとりと目を閉じる。
「とことん仕事して、浴びるほど芸術に触れて、おいしいもん食べながらたくさん話をして。こんなに充実した時間が過ごせるとは思わなかった」
彼の言葉、その余韻が伝えていた。
——あんな素晴らしいときは、もう二度とないのだと。
目の奥が、つんと痛む。必死で唇を引き絞ったが、涙も言葉も決壊するときはあっという間だった。
「だったらどうして、黙って消えたの?」
ずっとため込んでいた感情が、一度に吹きこぼれる。
「私だって、厳くんとはそれなりの信頼関係を築いてきたと思ってた。なのに挨拶もなしに突然いなくなって。しばらくして熱りが冷めたら、今度は何もなかったように売場に来て、私を追いかけ回す。そりゃこっちはただの平社員だし、あなたにとっちゃ、たくさんある持ち駒のひとつかもしれないけど! 結局どうしたいのよ? 私はどうすればいいの!」
非難を浴び、厳は苦しそうに目を伏せた。雪崩のように後悔が押し寄せる。
(ああ、もうおしまいだ)
恨み言なんて、一生言うつもりはなかった。せめてふたりの思い出だけはきれいなままにしておきたい。癇癪持ちの見苦しい女に成り下がるのはごめんだった。
だから避けた。
目を合わせれば、彼の胸倉を掴んで言い募ってしまいそうだったから。
瀬奈はとっさに足の上の離被架を外すと、ベッド脇の松葉杖に手をかける。
無理だとわかっていても逃げたかった。
目を背けたい、この現実から。
未練がましい、どろどろとした自分から。
厳の動きは素早かった。松葉杖をいとも簡単に奪い取り、床に倒して足で蹴り飛ばす。杖はそのまま部屋の端まで滑って行った。
「ひどい!」
瀬奈はナースコールを取ろうと手を伸ばしたが、厳の手に押さえ込まれた。
「ごめん、騒ぐと人が来るし、傷が開く。瀬奈さん、お願いだ。話をさせて」
手を押さえられたまま抱き込むようにされる。白いシャツの下、彼の胸はひどく熱く、固い。
頑丈な、男の身体だ。
急に怖くなって、逃れようと藻掻いた。
「瀬奈さん」
厳は手を緩めず、ただ瀬奈の名を呼ぶ。
「瀬奈さん、聞いてよ」
闇雲に首を振る瀬奈の耳元で、ついに厳が吠えた。
「『かさくら書店』に、吸収合併の話が出てるんだ!」
思いも寄らぬ話に、瀬奈の動きが止まった。
「……どこと!」
「王林ブックス」
王林ブックスと言えば、首都圏では有名な大手書店チェーンだ。音楽や映像媒体も扱い、ネット宅配サービスにも力を入れている。『かさくら書店』のある私鉄沿線にはまだ店舗は無いが、そのうち進出して脅威になるのでは、と仲間内でも話題になっていた。まさか吸収合併とは。
力を抜いた瀬奈に逃亡の意志がないと悟り、厳はそっと手を離した。
「今年の2月ごろだ。王林側から打診があった。ここ数年、『かさくら書店』の収益はじりじり落ちてる。王林の傘下に入ることも視野に入れざるを得なかった」
生々しい話だった。瀬奈は自分の持ち場だけで精一杯。書店全体の経営状態まで頭が回っていなかった。
「そのころちょうどお袋の足の付け根の骨がだめになって、人工関節入れる手術が決まってた。それだけならよかったんだけど、手術したあと肺炎こじらせちゃって。一時はICUに入る騒ぎでね。そっちでばたばたしてるうちに、ごねてると思われたのかな、王林側もいろいろ調べたらしくて、『おたくに勤務実態の乏しい役員がいますね』なんて言ってきて」
厳は悔しそうに顔を歪めた。
「お袋のことだよ。叔父貴はお袋を『かさくら書店』の役員にしてたんだ。お袋の面倒を見る名目が立つし、役員報酬がつけば俺たちの養育も楽になる。もちろんお袋だって何もせずに養ってもらってた訳じゃないよ? 入院のベッドの上でも出来る仕事はやってた。経理関係の書類の作成とか、問い合わせメールの対応、それから『くらこさんの書店日記』、あれも実はお袋が」
『くらこさんの書店日記』は『かさくら書店』のホームページに掲載している連載コラムだ。週1回程度の更新があり、時節の花やことわざ、俳句などを織り交ぜた美しい文章が好評だった。『くらこさん』の正体はずっと謎とされており、書店員にも知らされていない。
「厳くんのお母さん、だったんだ」
「うん。だけど王林側は入院先を嗅ぎつけてきて、病室にまで押しかけてきた。他にもまあ、痛くない腹まで探られてね。お袋は『迷惑はかけられない』って役員を降りて、後任に俺が推薦された。王林の手前、前から決まってたみたいに専務取締役についてみせたわけ。皆もびっくりしただろうけど、1番驚いたのは俺自身だった。いつかは、とは思ってたけど、こんな形で突然その日が来るとはね」
書店員たちが無責任な噂話に花を咲かせていたころ、厳自身は紛糾する経営事情の矢面に立たされていたのだ。
「登記の書き換えや挨拶回りで暇なんかなかったけど、王林ブックスの店舗も行ける場所はこっそり偵察に行ってみた。文庫本やコミックス、雑誌の品揃えは豊富で、サービスも悪くない。でも美術書のコーナーはほとんどなくて、あってもムック程度の本だけ。児童書のコーナーは子供用の椅子こそ置いてあるけど、荒れ放題だった」
(それって)
ぞっとした。もし吸収合併ということなら、きっと瀬奈や律子はお払い箱だ。厳はわかってる、というように頷いてみせた。
「『かさくら書店』は祖父のころからずっと『町の本屋』で。叔父の代で大型店舗にはなったけど、それでも基本は変わらない。一緒に働いてみてつくづく、うちの書店員は店にとって何よりの財産なんだと思ったよ。持ち駒なんかじゃない。本が好きで、その良さを伝えたい一心で寝食も忘れて打ち込むような人は、お金を積んだって見つかるもんじゃない。瀬奈さんしかり、悠人さんや律子さんしかり」
律子とその恋人である悠人も、担当の児童書コーナーに並ならぬ情熱を傾けていた。全ての新刊を読んで内容を熟知するのはもちろん、小さな子や赤ちゃんも参加できる靴を脱いでの『魔法のじゅうたん読み聞かせ会」、安全で楽しいディスプレイなど、地道な努力の積み重ねで、客との繋がりを着実に強くしていた。
「熱心な書店員を育てる土壌を作ったのは、祖父であり、叔父貴だと思ってる。俺もそれを引き継ぎたい。今、紙の本を売る本屋をとりまく環境は厳しい。理想だけじゃ食っていけないかもしれない。でも元来、本ってのはそういうもんだろ。米や肉と違って、無くても生きていけるけど、食べるより人を満たすこともある」
厳は目の奥を強く輝かせた。
「叔父貴には『王林には頼らない。やれるだけやってみる』って啖呵切っちゃった。とは言うものの、俺には大したノウハウもなくて」
胸ポケットから電話を引っ張り出して画面を見せる。
「これ、本の定期購読をお願いするお店や施設のリスト。店舗の一角や待合室なんかに本棚を置かせてもらって、うちの店員が定期的にお伺いをたてるわけ。先方のニーズに合いそうな本や雑誌を持ってって、相手が気に入ったら購入していただくシステム。冨山の薬売りみたいにさ」
ずらりと並んだリストには、瀬奈も知っている名前が多い。
お好み焼き『巴』、つばめ幼稚園、バーナードカフェ、美容室スプリング、喫茶June、ケンネル・ボブ。現在瀬奈が入院している杏仁記念病院や、美術館巡りの際にふたりで行ったラーメン屋、レストランの名前もあった。
「震災後がんばってる東北の書店と、ポップや書評の交換をするシステムも起動させた。やりとりをすることで書店員同士の刺激にもなるし、お客さんが東北に目を向けたり、広い目で読書を楽しんでくれるといい。退院したてだけど、母が少しでも力になりたいってパソコンに向かって頑張ってる」
厳は微笑んで胸を張った。
「だから見てて、瀬奈さん。もし負け戦になっても、俺はきっと瀬奈さんたちのことは守るから」
「……」
妙なひっかかりを覚えて、胸がざらつく。一見力強い言葉のようでいて、厳という人間を知っている瀬奈には違和感が拭えない。
「やっぱり、嘘つき」
険のある瀬奈の声に、厳の大きな目がさらに見開かれた。
「『見てて』って、何? 『守る』って? らしくないよ、厳くん。店の危機だったら、一緒に戦おうって言うとこでしょうが。書店員は『かさくら書店』の財産だって言ったのは誰? 私たちは、ただ守られる気なんかさらさらないよ。ひとりでいいカッコしたってダメなんだからね!」
瀬奈が語気も荒く言い捨てると、厳はぐっと唇を噛む。
「さっすが、瀬奈さん」
観念したように長い息を吐いた。
「俺ね、叔父貴に啖呵切った手前、いろんな人に会って話をきいた。町の本屋を応援してる『書店ブックマーク』のメンバーとか、編集者、読書サイトを運営してる人気ブロガーのイサさんとか。口を開けば皆、身につまされる話ばっかでさ。『有名書店が何十年の歴史に幕』、『駅ビルから撤退』、『沿線から次々本屋が消える』。情けない話だけど、俺は役員になって初めて気がついたんだ。世間一般から見たら、『かさくら書店』はいつ沈むかわからない泥舟なんだ、って。出荷時間や品数じゃ逆立ちしたってネット書店に太刀打ちできない。出版物の販売額そのものが10年連続で下落してる時代だ、来年には王林に頭を下げるどころか、店が潰れてる可能性だってある。そりゃ潰したくないさ、戦いたい。だけど俺が今やってることだって、無駄に損失を増やしてるだけかもしれないんだ。無責任に『一緒に戦おう』なんて、どうして言える?」
反論しようとする言葉を封じるように、厳は手をそっと瀬奈の口の上に被せた。あたたかくて大きなその手は、瀬奈の顔下半分を覆ってしまう。
「できるなら、あのままずっとそばで、瀬奈さんを見ていたかった」
目を合わせたまま、厳の顔が静かに近づいてくる。覆った手の上から、瀬奈に口づけるように唇を寄せた。
「いきいき働いて、笑ってる瀬奈さんを、ずっと、ずっと。俺はそんな瀬奈さんに希望をもらったから」
何度も、何度も、繰り返す。
啄む音はしても、その唇の感触はしないキスを。
「黙って瀬奈さんの下を離れたのは、専務になるけじめのつもりだった。夢の時間は終わりなんだと。だけどどうしたって瀬奈さんを忘れられない。知らず知らずのうちに、気持ちは瀬奈さんを追いかける。どうしようもなく苦しくて、何も手につかなくなって。最後に本当のことを伝えようとした。揚げ句に、こんな怪我までさせて」
彼の顔がくしゃりと歪み、その拍子に手が瀬奈の顔から離れた。
「無我夢中で病院まで運んで。申し訳ないって気持ちの反面、罰当たりにも俺は、後ろ暗い喜びも感じてた。これで瀬奈さんは動けない、俺から逃げられない。この病院は母が入院してたからよく知ってる。師長さんに頼み込んで個室にしてもらった。これが瀬奈さんとふたりきりで会える最後のチャンスだと思ったから……って、引くよね、ごめん。これじゃ立派なストーカーだ」
厳は申し訳なさそうに頭を下げる。
(この、男は)
瀬奈はしみじみと彼を眺めた。
頭が良いくせに、肝心なことは何もわかっていない、哀れな男を。
「厳くんのついてた嘘は、それで全部?」
はたと顔を上げる厳の鼻先に、瀬奈は1本1本指を折る。
「いち、社長の甥だった。に、かさくら書店の危機を隠してた。さん、勝手にひとりで戦おうとしてた。よん、病室の大部屋は空いてた。あとは?」
追い詰められた厳は、観念したように大きく肩を落とした。
「わかんないよ、そんなの。瀬奈さんのことになると、もう、頭ぐしゃぐしゃで」
子供じみた言い方は、とても『かさくら書店』を立て直そうと気負っていた専務取締役とは思えない。思わず笑みがこぼれた。
「ねえ、厳くん。嘘をつくのはつらいよね。私ももう、嘘はやめる」
瀬奈は大きく息を吸う。
「厳くんがいなくなって、淋しかった。突然スーツが似合う垢抜けた人になっちゃって、それが本来の厳くんなのかと思ったら、何だか無性に悔しかった。それが『かさくら書店』のためならしかたない。そう思ったけど、私との2年間がなかったことにされるのは、やっぱり嫌」
「瀬奈、さん」
「今の時代、安定した確かな職場なんてどこにもないよ。それなら私、あの美術書コーナーにしがみついていたい。『かさくら書店』に育ててもらって、今さら他の仕事なんか考えられないもん。ねえ、私たち、いいコンビだったじゃない。またふたりでごはん食べながら話したら、いいアイディアが浮かぶかも知れないよ。どうせやるなら、一緒にやろ? とことんまでやり尽くして厳くんと沈むなら、私は、本望だから」
挑むように目を合わせると、厳の瞳が揺れて、わずかに潤んだように見えた。すぐさま上を向いた彼は、瞼を手のひらで覆う。小さな舌打ちのような音が聞こえた。
「厳くん?」
返事はない。
しばらくして大きく息を吐いた厳は、手を下げようやく瀬奈に向き直る。
清々しい、笑顔だった。
「そうだね。瀬奈さんとだったら、うまくいきそうな気がする」
彼の指が瀬奈に向かって伸びてきて、ふいに瞳が甘さを帯びた。融けたキャラメルみたいな眼差しに絡め取られて、くらくらする。目を逸らすことができないまま、やがて大きな手が、再び瀬奈の口を塞いだ。
「今度は嘘じゃなくて」
厳はそう囁くと、ゆっくり瞼を閉じた。
長い睫毛、少し曲がった鼻筋、傾いだ顔が近づいてくる。
息がかかる距離で、覆っていた手がすっと退いた。
——。
互いの唇がようやく触れ合ったとき、重なる息が共鳴して震えた。想いを呼び起こすように何度か短く啄んだあと、味わうようにゆっくりと唇を食まれる。喜びか、恋情か、欲望か。底知れない質量を持った熱が瀬奈の身体を飲み込む。ベッドに座っているのに腰が抜けそうで、思わず彼のジャケットの胸の辺りを掴んだ。
「瀬奈……瀬奈、さん」
口づけの合間に呼ばれる名前。厳の手が感じ入ったように瀬奈の髪や背を這う。
「何だか、怖いよ。本当に、瀬奈さんなんだよね。嘘じゃ、ないよね」
縋りつくような厳の声に、つい軽口を叩いてしまう。
「先に嘘ついて距離を置いたのは、厳くんのほうだよ?」
「そう、だけど」
彼のついたため息が、瀬奈の首筋をくすぐる。
「わかってないな。瀬奈さんは俺を殺せるんだ。ほんとだよ」
真剣に言い募る厳が愛しい。
「馬鹿」
罵る言葉すら不抜けて、当たらぬ矢のように力をなくして落ちてゆく。
そのとき見計らったように、厳の胸ポケットが震えた。
「ごめん」
渋々身体を離した厳は、電話を取り出し、ボタンを押した。どうやら設定していたアラームだったらしい。
「時間だ。帰らなきゃ」
彼の顎の線が引き締まり、仕事の顔に切り替わった。とたんに淋しさが押し寄せる。勝手なものだ。ついこないだまで彼を避けていたくせに、思いが通じた途端、一秒でもそばにいたい。瀬奈の表情で察したのか、厳は顔を覗き込みながら額をこつんと合わせた。
「今日、病院の消灯時間までに仕事終わったら、また、来るから」
約束の印のように軽く口づける。じゃあ、と一歩後退ったとき、厳のジャケットから何かが落ち、足下で軽い音がした。覗き込もうとする瀬奈に背を向け、厳が何かを拾い上げる。素早く後ろ手に隠したのを、瀬奈は見逃さなかった。
「何?」
厳は大したことがないというように首を振るが、誤魔化される瀬奈ではない。
「ねえ、何なの?」
「……ごめん」
渋々見せたそれは、見覚えのあるプラスティックのフォークだった。
「『巴』の……!」
よくもいけしゃあしゃあと『若女将が忘れた』などと言えたものだ。肩をすくめて逃げようとする厳に、瀬奈は叫んだ。
「もう、この……嘘つき!」
Fin.