夢破れた男の話
「これで勝ったら決勝、これで勝ったら決勝……頑張れよ俺、まだいけるぜ」
俺は呪文のように呟き、震える手に力を込めて長い槍を握る。観客の歓声を耳から排除していななく馬を手綱を引き首を叩いて諌めると、鋒を潰した重たい槍を真っ直ぐに構えた。視線の先にいる相手は若く勢いのある立派な警務騎士だ。一方俺はうだつの上がらない片田舎の自警団員であり40代の立派なおっさんだった。
そんな俺が何故馬上槍試合に参加しているのかと言うと、ちゃんとした理由がある。栄光とか名誉とかそういう青臭いもんじゃなく、汚く言えば賞金が欲しいのだ。
そこそこでかい地方都市のダーセルで行なわれている祭りの呼び物の一つに『馬上槍試合』があり、金を必要としていた俺はその優勝賞金に目を付けた。50万ゼールと言えば庶民にとっては大金であり、この金が有りさえすれば悩み事が吹っ飛んでお釣りが出るくらいだったからだ。幸いダーセル市民でなくとも参加は可能であったので、これしかないと考えた俺は一も二もなく参加することにした。
馬上槍試合なんて一般市民が簡単にできるものではない。しかし俺は一般市民ではなく自警団員だ。さらに言えば7年前まで皇都の警務騎士団で腕利きの騎士としてその名を轟かせていた過去があり、馬上槍試合はお手の物というわけだった。
「あと2勝すれば……」
中央の審判が赤い旗を振り上げ、俺と相手を交互に見る。名前が読み上げられ歓声がでかくなったことから相手は人気のある騎士なのだろう。俺の名前は何処にでも転がっているようなショボい名前だし、トット町というど田舎の自警団員なので歓声すらわかない。それで結構、俺に声援など不要だ。
会場が静まりかえる中、俺は審判の旗に集中し……そして赤い布が縦に振り下ろされた。
俺の名前はマイク・ターナー。今年で43歳になるしがない田舎の自警団員だ。
身長はそこそこあるが、年と共についた背中の贅肉と最近ぽっこり出てきた腹がまごうことなき中年のおっさんであり、目尻の皺や笑うとなかなか元に戻らない豊麗線、剃るのも面倒なショボいあご髭がさらにおっさんということを強調している。当然未婚であり、酒も煙草も何でもござれとばかりの堕落した生活の所為なのか場末の女すら近寄ってこない有り様だ。
だが、この生活に不満はない。
皇都で騎士をしていた頃の潔癖なくらいに騎士騎士した生活から解放されて清々しているくらいだ。身なりに気をつけなくてもいいし言葉遣いだって自由だし、好きな時に煙草も吸える。靴に泥がついたくらいで怒られることもない本当にいい仕事だ。事件も何にもない平和な町を巡回して茶を飲んでじいさんとばあさんの世間話に相づちを打ってりゃいいなんて何て易い仕事だろうか。
いや、本当は不満はあるのだ。
騎士に戻りたくないのかと言われれば俺は迷うことなく戻りたいと言うだろう。だがしかし、栄光の時代は大怪我の所為で終わりを告げ、逃げるように生まれ故郷のトット町に戻って来た俺を周りの奴らは腫れ物を扱うかのように遠巻きに見ていた。自警団に入るまではトット町の安い貸し部屋に篭ったきりでろくに太陽の光すら浴びなかった俺は、見る間にだらしない身体のおっさんになったわけだ。まあそんな生活も隣の小綺麗な貸し部屋に住むお節介な女の所為で終わりを告げ、まんまと自警団に就職させられてしまったのだが。
たまにふらりと買い物に行き、煙草と酒とつまみを買い込んでは引き篭もるようにしてずるずるとゆるい生活を続けていた俺の部屋に、煙草臭いから窓を開けるなと突然怒鳴り込んできた女はトット中央商店街に洋裁店を構える30代のおばさんだった。飾り気のない服は自作の服らしいがそれがまたおばさんに拍車をかけており、丸い眼鏡がこれまたダサい。髪はひっつめて俺と同じような目尻の小皺と眉間にある深い縦皺が年齢を物語っている。ガンガンと玄関を叩いていた中肉中背の中年女は俺の姿を一瞥すると煙草を吸うなら窓を開けるなとのたまわれた。煙いから窓を開けるんだろうがと俺が言えば商品が煙草の臭いで駄目になるから弁償しろとまで言う始末だ。
「はいはいわかりましたよ、窓を閉めりゃあいいんだろ? その代わりお前のところも窓を閉めておけよ、平等だ」
「……何よ、その言い方は。見たところ働きもしないでダラダラとだらしないったらありゃしない。この町に住んでるんだったら町の為にくらい働いてみなさいよね。あんた騎士だったんでしょ? 自警団員が年の所為で結構辞めちゃってみんなが困ってるの、知らないわけじゃないわよね? あたしに文句が言いたきゃ働いてからにするんだね!!」
「何だとこのあまっ、てめぇはそんなに偉いのかよ?!」
「あんたより偉いわよ。私だって人生挫折だらけだけど立派に働いてるものね。あんたは何だい、騎士が無理だってだけで手足はぴんぴんしてるんだろ?」
「うるせぇっ!! 帰んな、二度と来るなよ」
という最悪な初対面の後、散々脅したはずのあの女は二日と開けずやってきた。口を開けば自警団自警団とうるさい女は名前をハンナ・スミスと言った。俺と同じく田舎臭い名前の中年女のハンナは『商店街の行かず後家』と言われて久しい32歳のちゃきちゃきなおばさんで、三年前に相方と一緒に洋裁店を出したばかりの商店街の新参者だった。一年前に同い年の行かず後家な相方が結婚してからは一人で切り盛りしているようで、借金を返すのに苦労しているらしい。相方はと言えばこの町から馬車で4日くらいかかる港町に引っ越してしまい実質一人で借金を被っているようだ。
俺には関係ないことだというのに買い物に出た俺に商店街のおばさん連中が木枯らしの吹き荒ぶ中、わざわざ引き留めてご丁寧に説明してくれた。あのハンナとか言う女も苦労してんだなと少しだけ同情したがそれだけだ。そして俺は久しぶりに外の空気に長く触れてしまった所為で風邪を引いてしまい、部屋の中でうんうん唸る羽目になってしまった。篭りっぱなしで免疫力が低下して貧弱になってしまっていた俺は熱の所為でガタガタと震える身体に毛布を巻きつけて汚い床に丸くなって耐えていた。
そこで俺の意識は途切れ、再び意識を取り戻した時には何故かあの女……ハンナがいた。
俺の手を握り、拙い治癒術をかけながら俺の名前を呼んでいたハンナは俺が目を覚ましたことに気がついた途端にボロボロと泣き出してしまう。ごめんね、見よう見まねの治癒術しか使えないんだよ、医術師様に伝令を飛ばしたからもう大丈夫だよと俺の手をさすりながら泣いているハンナに俺はばつが悪くなる。突き放しても突き放しても家を訪ねてきていたハンナは、俺の返事がないのに朝から晩まで灯りがついている部屋を不審に思い、玄関戸をぶち破って中に入ったらしい。
とにかくお節介なハンナのお陰で助かった俺は、借りを作るのが嫌で自警団員になることを引き受けた。あの自堕落な生活の所為で弱くなった身体を鍛え直して新しい生活基盤を作るのに丁度いい。それからハンナは役場の職員と自警団の奴らに引き合わせてくれて、俺は晴れてトット町の自警団の一員となったのだ。
あれから6年、俺の贅肉は相変わらずとれることはなく多少出ている腹も引っ込むことはなかったが、元気に自警団員としてやっている。
今も隣のアパルトマンの住人ハンナとも結構うまくやっていて、似たり寄ったりの年齢である商店街の住人ともそこそこ仲が良くなった。ハンナといえば相変わらずお節介で、外食か酒とつまみばかり食っている俺に料理を持ってきてくれる時もあれば、余った布で服を作ってくれる時もある。自分の服はダサいのに他人の服を作るとなるとなかなかに洒落たものに仕上げてくるので俺も結構気に入っている。もらうばかりではあれなので、俺も屋根の修理や店内の改装など力仕事を手伝い、ハンナがアパルトマンで作った商品の服を俺が店に運ぶこともざらである。要するに持ちつ持たれつの関係ってやつで、お互い独り身だったが恋愛関係に発展することはなかった。気がつけば40歳を過ぎ、食うに困らず毎日変わらない生活を送っていれば独りの方が気楽でその生活が至高のものに感じられるから不思議だ。
そんな時、ハンナの洋裁店に暗雲が立ち込めた。
俺はそれをハンナ自身からは聞いていなかったが、自警団の事務室にやってきてはお茶を飲んで帰る近所のご意見番のじいさんばあさんたちが教えてくれたのだ。借金の返済に店の売り上げが追いついていないらしく、このままでは店をたたまなくてはならない深刻な事態らしい。結婚して店を辞めた相方に子供が生まれ、仕送りが途絶えたというのだ。二人で始めた店であり借用書には二人の名前が書いてある為、相方に言ってちゃんと金を送ってもらえばいいのにハンナは変なところでお人好しで甘い部分がある。向こうの都合にお前が合わせる必要はないんだと言いたくなった俺は仕事もそこそこにハンナの洋裁店に向かった。
「あれま、制服で店に来るなんて珍しいじゃないか」
「そんなことはどうでもいい。ハンナ、この店危ないのか?」
「どこでそんなことを……この店は昔っから危ないよ。あんたも知ってるじゃないか」
「ちげーよ、借金はどれくらい残ってるんだ? じいさんたちから聞いたぜ……」
「なんだ、もうそんな噂が回ってるのかい」
ハンナは諦めたように話し出した。
借金は利息を合わせて残り76万ゼールもあり、このところ……というか2年くらい支払いが滞っていて最後通告を受けたと言うのだ。その最後通告を受けたのは3ヶ月前のことで、ひと月半後までに指定された金額を用意できなければ店を売り払わなくてはならない状況まで追い詰められていた。指定された金額は40万ゼールで、とてもじゃないが片田舎の洋裁店で用意できるものではない。この町の金貸しは1件しかないが、これ以上待てないのだと言われたそうだ。
「40万ゼールってあては……ないんだな。何で俺に相談しなかったんだよ」
「友人にお金の無心なんてできないよ。いいさ、店はたたむよ……潮時だったんだろうね」
「ハンナ、お前は本当にそれでいいのか? 諦めるなんてらしくないぞ」
「一人で商品を作ったって足りないんだよ。こうして裁縫道具とか布生地も売ってるけどさ、やっぱり売り上げは変わらないね」
ハンナはそう言って淋しそうに笑った。
よし、俺が何とかしてやる……などと言えるくらいに蓄えもなく、かと言ってこのまま指を咥えて見ているだけでは男が廃る。騎士を辞める際にもらった退職金を散財してしまったことが悔やまれるが今更嘆いても始まらない。
ハンナはいわば俺が立ち直るきっかけになった恩人であり良き友人だ。かっこつける代わりに俺は無言実行とやらでハンナに隠れて金策をすることにした。ハンナの洋裁店はハンナの夢なのだ。俺の夢は散り散りになってしまったがハンナの夢まで散り散りになる必要なんてどこにもない。受けた恩を返す時がやっと巡ってきたというわけだ。
しかし俺にもあてはない。王都は遠いし、第一昔の知り合いにおめおめと金策なんてできるわけがない。落ちぶれてしまった姿を見られたくないという俺の虚勢の所為で何にも進まず、気がつけばもう時間がなくなってしまっていた。
祭りの話を聞いたのはそんな時だった。ここいらの地方で一番大きな都市であるダーセルで馬上槍試合が開催されるという噂話を聞いた俺は町の新聞屋に駆け込むと真偽を確かめ、それから拳をグッと握り締める。
ダーセル市夏の火祭り
期間:火蜥蜴の月20日から23日まで
催し物:火踊り、歌謡大会、名物トルルン豚のパン粉揚げ早食い大会、馬上槍試合、他
馬上槍試合なら賞金が出るはずだ。腕に覚えのある連中や警務騎士なんかが参加するのだろうが、それなら俺にだってできる。昔取った杵柄で、腕前も錆び付いているかもしれないがまとまった金を手に入れる好機だ。その記事が掲載されている新聞を買った俺はその足で自分の部屋に帰ると物置から木箱を引きずり出す。この木箱は7年間一度も開けたことはないが中には騎士時代に使用していた剣や帯革、胸当てに編上靴などが詰め込んである。
ゴトッと音を立てて開いた箱の中からはかちかちになった革製品と黄ばんだ衣服、曇ってしまった剣が入っていた。それは7年という歳月を改めて俺に教えてくれる。試しに帯革を腰に着けようとしたが、二回りほどでかくなった俺の腹には短か過ぎた。
しかしそんなことでへこたれる俺ではない。祭りの実行委員に問い合わせると出場条件に制限はなく成人男性であれば誰でも参加でき、装備を持たない者には貸し出してくれるらしい。どんな貧乏人でも体ひとつあればいいというわけだ。しかも優勝賞金は50万ゼールと地方の試合の賞金にしてはかなりの額であり、俺は断然やる気になってきた。
馬上試合の槍は通常安全性を考慮して鋒だけが鉄でできており、持ち手以外はわざと折れやすい木を使っている。怪我をするのは仕方がないが、わざわざ本物の槍を使って死ぬような事態を避ける為なので7年間もご無沙汰していた俺でも扱えるというわけだ。槍以外は自前の装備が可能だったが俺にはそんなものはない。おまけに馬もない。まあなんとかなるだろう。
かくして俺は馬上槍試合に出場することを決め、3日間の休みを取ってダーセルへと向かった。
馬上槍試合は大盛況で街の広場に設置された会場はたくさんの人でごった返しており、出場者たちも腕に覚えがある物たちが数多く見られた。
借り物の防具一式を身に纏った俺は入念に筋肉を解すと槍を構えて頭の中で過去の試合を再現する。意外と重く感じられた槍に苦戦しつつも精神を統一して勝つことだけを考えた。
一回戦は素人相手で楽に勝てた。しかし二回戦、三回戦と勝ち上がる度に相手も強くなっていき、槍を構える腕に力が入らなくなっていく。古傷がある右腕は使えないので槍を左手で構えていることが功を奏してか、俺はなんとか準決勝まで勝ち上がった。しかし身体は重く腕は痛い。たった7年、されど7年の空白の時間は俺の自慢であった鍛え上げられた肉体を無情にも衰えさせ、自尊心を粉々に打ち砕く。弱音は吐くなよ俺、次はいよいよ優勝候補の警務騎士が相手だ。皇都から派遣されてきた若い警務騎士は当然俺のことを知らないようだった。
赤い旗が振り下ろされたのと同時に俺は馬の腹を拍車で蹴り上げる。
相手の槍が俺の右肩を狙っている。
若い騎士は右手に槍を持っているが、俺は左手に槍を構える。左利きではないが壊した右肩では槍の重さに耐えきれないのだ。向かい合うと同じ側に槍を構えることになるのでやりにくいが、そんなことを言っている場合ではない。
絶対の勝利を、賞金をこの手に。
しかし俺は次の瞬間背中から地面に叩きつけられた。あまりの衝撃に痛いとかそんなもんじゃなくて息ができない。馬のいななきがあたりに響き、ガツガツと蹄鉄で地面を蹴り暴れる振動のそれすらも俺の身体、特に左肩に激痛をもたらす。
「かはっ……がぁっ、うぇっ、ひぃっ……ぇっ」
息をしたいが肺が痙攣したように動かない。誰かが何かを叫んで俺の左肩に触れ、そして俺の意識はなくなった。
ようはあれだ。右肩を狙われているとばかり考えていた俺の裏をかいた相手は、腕をめいいっぱい伸ばして俺の左肩を突いたのだ。俺はそれに対応できずに渾身の突きをもろに食らって馬から落ち、突かれた左肩を脱臼していたということだった。意識のないままに治療が施されたのが幸いして、吐くこともなければ発狂するほどの痛みも味あわずに済んだのは有難い。意識有りの状態で脱臼を治すのは拷問に等しい所業だしな。
しかし最悪なのはここからだった。
俺が気絶している内に試合はすべて終わり、3位まで決まっていた。3位はもちろん俺ではない。準決勝で敗退した俺が戦うべき相手は俺が気絶していたことにより不戦勝として3位に君臨していたのだ。優勝賞金の50万ゼールには及ばないがそれでも10万ゼールはもらえたというのに。みすみす勝利を逃し、ただ呆然としていた俺に手渡されたのは入賞賞金の1万ゼールだけであった。
とぼとぼと帰路につき、次の日の昼過ぎにはトット町に帰り着く。
知り合いには何も言わずに出てきていたので出迎えはないと思っていたが、何故か俺の部屋の前でウロウロしていたハンナが血相を変えて駆け寄ってきた。
「マイクっ、その怪我は何だいっ!! 大丈夫なのかい? 酷い青あざじゃないか……」
「ようハンナ。男っぷりがあがっただろ? 見た目より酷くはないんだぜ、これ。治療術も効いてるから一週間くらいで元に戻る」
「そうなのかい……無茶しちゃってさ、新聞屋が「マイクがダーセルの馬上槍試合に出場する」って言いふらしてたの、本当だったんだね。あたしの店の為なんだろ?」
「すまねぇな……結局負けちまったんだよ。カッコ悪りぃな、俺」
「いいんだよ、あたしがもっとしっかりしてなきゃいけなかったんだ……だからあんたの所為じゃないよ。ありがとね、マイク」
「入賞しかできなくてな、これで飯でも食おうぜ」
「あんたのお金じゃないか、いいのかい?」
「これっぽっちじゃ足りねぇからパーっと使っちまうのもありなんじゃねぇか?」
馬上槍試合で怪我したぶん治療の為に余計な出費があり、賞金は半分になってしまったが2人でドンチャンやるくらいはできる。俺はためらうハンナを引きずるようにして町一番の料理屋の扉を開けた。
それから1ヶ月も経たないうちにハンナは洋裁店をたたみ、空き店舗の貼り紙が貼り出されてた。
ハンナは今、市場にある八百屋で店子として働いている。
俺も最悪の事態を回避しようとでき得る限り頑張った。もう恥も外聞も殴り捨てて昔の知り合いに金策に回り、家の中にある金目の物を全部売り払った。しかし世間ってのは冷たいもんであんなに親しかったはずの旧友たちにはにべもなく断わられ、俺の私物も大した金になるはずもなく、とうとう指定期限の日を過ぎてしまったのだ。
「力になれずにすまない……でも部屋を出る必要なんてないだろ?」
「ここの家賃も馬鹿にならないんだから仕方がないよ。それに力になってくれたじゃない……あんなにたくさんのお金、ありがとう。残りの借金を返し終えたらあんたが出してくれた分もちゃんと返すよ」
「俺のはいいんだよ。お前には俺の方が世話になったんだしよ……俺の方こそありがとな」
「やだよ、辛気臭い。トット町を出るわけじゃないんだし巡回がてら遊びに来なよ。住み込みだからもてなしてやれないけど、野菜は安くしてやるよ」
そうしてハンナはアパルトマンさえも引き払い、俺の部屋の玄関戸をノックする者はいなくなってしまった。
寒い冬が過ぎ花芽が芽吹く春が訪れようとするころ、相変わらず俺は煙草の脂で黄色く染まった壁紙の事務室で自警団の勤務日誌を書いていた。
「本日も異常なし……ん? ばあさんの猫がいなくなったんだっけか? 仕方ねーなぁ、貼り紙でも作っとくかな」
詰所の裏側に住んでいるマーサばあさんちのトラ猫が5日前からいなくなったと昼過ぎに駆け込んできたんだが、まあ春だしな……猫も恋に忙しいんだと思うぜ? とは流石に言えず、とりあえず猫の特徴を聞いてから巡回がてら探しに歩いた。当然見つかるはずもないので、捜索は明日に持ち越しだ。
30分後、適当に描いた割にはなかなかの出来の貼り紙を輪転機にかけながら、帰り道に貼っていくかと考える。もう勤務時間は過ぎているし、日が落ちる前には帰りたい。時計を確認した俺は帰宅準備を整えてから詰所の入口の鍵をかけ、まずは入口に貼り紙を貼るとぶらぶらと歩きながら目についた箇所に次々と貼り付けて行った。
「あれ? ついに開店したのか……」
トット町中央商店街まで足を延ばした俺は長らく空き店舗になっていたあの場所にかなりの人集りができているところに遭遇した。買い物籠を提げたおばさんや仕事帰りのくたびれた親父たちが並んでいるその店にはデカデカと開店の横断幕が掲げられ、香ばしい揚げ物の匂いが客足を誘っている。先月半ばから工事が続いていた店はどうやら総菜屋であったらしい。洋裁店の頃の面影はなく、もうハンナの店は思い出の中だけにしか存在しない。
俺もきっとこんな感じに忘れられてしまったのだろうか。
皇都の騎士団で華々しい戦果を収めてきた俺も無様に怪我をして田舎に引っ込めば、もう噂にすらのぼらないただの人だ。あの頃の俺を知る者も、片田舎で自警団員として細々と暮らしているおっさんなんかには興味すらわかないのは当たり前のことだ。
だが、俺はもうそんなことにこだわったりはしない。過去の栄光にすがって生きていくことに自らの意思で決別したのだ。例え何にも事件の起きない平和な町の自警団員であっても、俺がいることで守られているものも確かにあるのだ。警務騎士あがりの自警団員が居るってのはなかなかに箔がついていいらしい。
商店街の照明柱に魔導術の灯りが灯る。もうすぐ山の向こうに陽が沈んでしまう時間だ。
俺は残りの貼り紙を貼る為に商店街を歩きながら、貼らせてくれそうな店を回って仕事を片付けていった。
「おかえりマイク、今日は少し遅かったね」
「ただいま。これ買ってて遅くなっちまったんだよ」
俺はあの店の揚げ物が入った紙袋を差し出す。ブンブン鳥と野菜の丸揚げが安かったし、何より匂いにつられてつい買ってしまったのだ。
「あらまあ、あんたもあの店に行ったの? あたしもお惣菜を買ってきたのよ。丁度いいじゃない、今夜はお惣菜ご飯で我慢してね」
「そりゃあ構わないが……何だハンナ、久しぶりにまた始めたのか?」
ハンナの座っていたソファにはしばらく見なかった裁縫道具や型紙、柔らかそうな生地が置いてある。
洋裁店を閉めてから2ヶ月後、俺はハンナに求婚した。結婚を前提に付き合っていたわけじゃなかったが俺も片意地を張る必要がなくなり自分に素直になった結果、ハンナと歩むこれからの人生ってのが魅力的になっていったのだ。ハンナも満更でもないみたいで「仕方がないから結婚してあげるわ」なんて返事だった割には年甲斐もなく顔を真っ赤に染めていた。まあ、そんなハンナも可愛いじゃないかなんて思った俺も相当焼きが回っていると思う。とにかくお互い年齢が年齢なので早いとこ籍を入れようってことになり、お互いの実家への挨拶もそこそこに年末ギリギリに結婚したってわけだ。
春になったらお披露目をしようと決め、ハンナは色々と準備をしているようだったが…また洋裁を始めるまでになれたことは喜ばしい。洋裁店をたたんでから今まで、ハンナが手元に残しておいた裁縫道具に触れている姿を見たことがなかった俺はもう大丈夫になったんだろうと軽い気持ちで聞いてみた。
「うふふっ。これからさ、たくさん作ってあげたくてね。あんたとお揃いのとか着せてあげたら可愛いだろうなって思ったら、わだかまりなんか吹っ飛んじゃった!」
「そうかそうか、そりゃあよかったな。この年でお揃いってのはむず痒いけどよ、お前の作る服を喜ばない奴はいない……あん? 誰に着せるんだ、その服。お揃いって俺とお前じゃないのか?」
「誰って……誰ってさ、そのさ、こっ、この子だよ!! 夏の終わりか秋の始めに生まれるんだって先生が教えてくれたんだ……あたしたちの子供だよ」
ハンナは自分の腹を愛おしそうに撫でて俺の反応を待っている。
いつだ? いつの子だ?! 確かに俺もハンナも子供が欲しくて結婚してからすっげえ頑張った。贅肉のついた身体にお互いが苦笑しながらも、相性がよかった俺たちは若い新婚夫婦……とまではいかなくてもことあるごとにいちゃついては愛のある子作りに励んでいたわけだが。覚えがあり過ぎていつの時の子供だか見当がつかない。
「な、何ヶ月だ? そんなことより仕事は辞めるんだぞっ?! 安静にしておけ、な? 頼むから、無茶はすんなよ?」
「慌て過ぎだよ、マイク。この子はまだ2ヶ月半か3ヶ月くらいでこーんなに小さいんだってば。順調に育ってるから心配ないよ」
「心配はないって、自分の年齢を考えろよ!! ああわかった、俺がする、家事は全部俺がするからお前は何にもするなよ? 具合はどうだ? 吐き気とかはないのか?」
「最近吐き気がすると思ってたら悪阻だったんだよ。料理の匂いで気持ち悪くなるからお惣菜屋さんが開店してくれて助かったね」
ハンナは慌てふためく俺を楽しそうに見ている。
ああ、ちくしょう。何だって落ち着いていられるんだ? 女ってのは一生男にはわからねぇ生き物だって聞いていたが、一生どころか死んでもわからねぇよ。
そうして医術師の言う通りに秋の始めの満月の夜に俺たちの息子が生まれた時、俺は人目をはばかることなく号泣した。騎士時代にも見せたことがなかった涙をボロボロと流す俺に、出産で疲れているはずのハンナはやっぱり楽しそうに言ったのだ。
「あんたの後継ぎが無事に生まれたから、次は娘が欲しいね」
汗まみれでぐちゃぐちゃの顔で死にそうなくらいに苦しんでいたとは思えないハンナの笑みに、俺は負けを悟る。
息子だけで十分だ、お前が無事ならそれでいいと弱々しく答えた俺にハンナも泣いていた。ついでに産婆も医術師ももらい泣きしていたが、お腹の空いたらしい息子の元気な泣き声が響き渡るとみんなが一斉に息子に注目し、それから幸せな笑い声が漏れる。
ああ、ああ……これが幸せというものなんだろうか。一度は何もかも諦めた俺がこんなに幸せでいいのだろうか。
「ハンナ、ありがとうな……おい息子、と、父ちゃんもこれから頑張って働くから、お前も頑張って大きくなれよ」
俺が皺くちゃの息子の手を突くと息子が指をぎゅうっと握ってきて、まるで返事をしているように思えた。これからこの小さな命にたくさん教えてやりたいことがある。しかし息子が成人する頃、俺は既に60歳を超えてしまう。しかもその前に息子がやんちゃ盛りになる頃には50歳だ。いかん、これは大問題だ。腹の出た親父なんて、やっぱり嫌だよな……。俺がぽっこり腹を力を入れて凹ますと、それを見たハンナがつい吹き出して痛たたっと顔をしかめる。見てろよハンナ、俺は若い奴らにも負けねぇカッコいい親父になってみせるぜ。
一度は夢破れすべてを諦めた俺に新たな夢が出来た瞬間であった。