ヒツジの目
「ヒツジの中のヒツジ。それを見ているのは……」
◇
上には黒い宙が広がり、下には灰色の砂地が続く静かな月の上。
クレーターの縁に腰掛けながら、ヒツジカイはツノ笛を吹いていました。
「ホームシックかい?」
と、その隣に腰掛けていた黒ウサギは、目の前に浮かぶ青い星を見ながらヒツジカイに尋ねました。
「随分と遠くに来たと思ってね。彼らに、この笛の音は届いているだろうか」
と、ヒツジカイも青い星を見ながら答えました。
「彼らはヒツジだ。相変わらず群れて呑気に草を食べていることだろうさ」
そう言う黒ウサギにヒツジカイは、「そうかもね」と言って少し寂しそうな笑みを浮かべました。
◇
延々と緑が広がる高原に、そのヒツジたちは暮らしていました。
ある日、ヒツジたちは高原を一望できるほどの高い崖の上で、のんびり草を食べていました。
すると、一頭のヒツジの鼻先に一粒の雫が落ちてきて、ヒツジは何かと思い空を見上げました。
空は青く、そこにはもこもことしたヒツジのような白い雲が広がっています。
それを見てヒツジは、空にも自分の仲間がいるのだと思い、
「あそこにいるのもヒツジで……、今、ここにいる僕もヒツジで……。ん? そうか、今ここにいるのは僕なんだ」
と、なんとなく思いました。
そんなことを思いながらしばらく空を見上げていると、ぽつりぽつりと雨が降ってきました。
仲間と一緒に雨宿りできる場所に行こうと、ヒツジは周囲を見回しました。
しかし、そばには誰もいません。
いつの間にか自分だけになっていたことに気がついたヒツジは、崖の反対側にある大きな木の下に雨宿りをしている仲間たちを見つけ、急いでそこへ駆けていきました。
ところが、木の下へやって来たヒツジを見るなり、仲間たちは怯えるように木の後ろへと隠れてしまいます。
いくらヒツジが近づこうとしても、仲間たちは木を挟んで逃げるばかりで群れに入れてはくれませんでした。
◆
いつしか雨は止み、雲の切れ間から陽が射してきた頃、仲間はずれにされたヒツジは、しょんぼりと水たまりを覗きました。
すると、そこには二本足で立っているヒトの姿がありました。
水たまりに映るヒトは、ヒツジが右に動けば右に、左に動けば左にと同じ動きをします。
それを見てヒツジは、自分がヒトの姿になってしまったことに気がつき、途方に暮れてその場にしゃがみ込みました。
そして、ヒトになってしまった自分の体をしげしげと見回していると、隣にいつの間にか自分を見上げる黒いウサギがいることに気がつきました。
「やあ、ヒツジカイ君。僕は黒ウサギ。よろしく」
と、黒ウサギはヒツジにお辞儀をしながら言いました。
「ヒツジカイ?」
と、ヒツジが聞き返すと黒ウサギは、
「そう。君はヒツジカイ。ヒツジをカウ者さ」
と答えました。
仲間から受け入れられず困っていたヒツジカイは、
「君は、どうやったら僕が元に戻れるのか知ってる?」
と尋ねました。
黒ウサギは空を自分の長い耳で指しながら、
「君は空に浮かぶヒツジ雲のことを考え、そして自分に気がついたからヒツジカイになった。だから、もしヒツジに戻りたいのなら、考えることをやめて自分を無視すればいい」
と答えました。
ヒツジカイは、
「ありがとう。でも、なんだか難しくてよくわからないや」
と首をかしげました。
すぐには戻れそうにないと思ったヒツジカイは、ぼんやりとヒツジたちを見ていました。
すると、その中に黒いヒツジが一頭いることに気がつきます。
黒ヒツジは、なぜか慌てた様子で周囲をキョロキョロと窺っていましたが、ピタリと動きを止めると急に走り始めました。
それにつられて、ほかのヒツジたちも黒ヒツジの後を追って走り出します。
それを見ていたヒツジカイは、慌ててヒツジたちを追いかけました。
ヒツジたちの向かう先には崖があったのです。
しかし、四本足のヒツジたちに二本足のヒツジカイが追いつけるはずもなく、距離は広がるばかり。
そんなヒツジカイを見かねて、横についてきていた黒ウサギはヒツジカイをひょいと抱えると、ぴょーんぴょーんぴょーんと飛び跳ねました。
あっという間にヒツジカイと黒ウサギはヒツジたちに追いつき、その行く手を阻むようにヒツジカイは前に立ちはだかりました。
いきなり目の前に現れたヒツジカイと黒ウサギに、ヒツジたちは驚き慌てて止まりました。
しかし、黒ヒツジだけは止まることなくヒツジカイへと向かって走り続けます。
その必死な勢いに押されて、ヒツジカイは向かってきた黒ヒツジを思わずよけてしまいました。
黒ヒツジはそのまま崖下へと落ちて地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなってしまいました。 崖の上から言葉もなくその様子を見ていたヒツジカイは、慌てて崖下へ行こうと周囲を見回しました。
しかし、垂直に落ちる崖は左右に延々と続いていて、簡単には下りられそうにありません。
何もできずオロオロとするヒツジカイに黒ウサギは、「さっさと行け」と言って、なんとヒツジカイを崖下へと蹴り飛ばしました。
「えっ?」
と短い声を上げて、ヒツジカイは崖から落ちていきました。
それを追って黒ウサギは崖をぴょんぴょーんと飛び降り、ヒツジカイを地面近くでキャッチするとストンと軽く着地しました。
そして何事もなかったかのように、ヒツジカイを黒ヒツジの前へと下ろしました。
ヒツジカイは、顔を引きつらせて信じられないという視線を黒ウサギに向けました。
しかし黒ウサギはそんな視線を気にもせず、
「君が今見るべきはこっちなのか?」
と、地面に横たわる黒ヒツジを見ながらヒツジカイに尋ねました。
その言葉にヒツジカイは、口から出かかっっていた文句を飲み込むと、黙って黒ヒツジへ視線を向けました。
黒ヒツジの体はしぼんだ風船のようで、ピクリとも動きません。
ヒツジカイはそばにしゃがみ込むと、その黒い体に手を置きました。
黒ヒツジの体は少し温かく、しかしみるみるうちに冷たくなっていきました。
どうしたらいいかわからないヒツジカイは黒ウサギを見ましたが、黒ウサギは目を閉じて首を左右に振るだけでした。
黒ヒツジは、もう死んでいたのです。
魂の抜けた黒ヒツジの体を見下ろしながら、ヒツジカイは自分が逃げたせいでこうなったのだと強く唇を噛み締めました。
同時に、なぜ黒ヒツジはあんなに必死だったのかと疑問に思いました。
「どうして……」
そうつぶやいたヒツジカイに黒ウサギは、
「君が、本当にその理由を知りたいのなら、そのヒツジを食べればいい」
と言いました。
仲間を食べるということにヒツジカイは戸惑い、しかし黒ウサギは、
「自分のせいだと思うのなら、なおさら食べたほうがいい。そのほうが彼女も、ただ空の雲になるよりも救われるだろう」
と付け加えました。
ヒツジカイは、しばらく黙ったまま考えていました。
そして、
「そうだね。今度は、真っ直ぐに受け止めないとね」
と涙を堪え、声を震わせながら言いました。
◆
ヒツジカイは、最初に黒ヒツジの手足をムシャムシャと食べ始めました。
するとヒツジカイの体の中に、ひりひりと焼け付くような気持ちが流れ込んできました。
(……私は、なんであの子から目を離したの? なんで、ちゃんとあの子を見ていなかったの? 私の大切なあの子はどこ? どこにいるの? 早く出てきて。姿を見せて……)
それは、黒ヒツジの焦りと後悔でした。
それを知ったヒツジカイの体は、少し黒くなりました。
次にヒツジカイは、黒ヒツジの胴をモグモグと食べました。
すると、今度は頭がぐるぐるして胸が締めつけられるような声が聞こえてきました。
(……私は、いつでもあなたのことを想っているわ。あなたが自分らしく、自分の道を自分の足で歩いて行けるように。私がいなくなっても大丈夫なように。忘れないで。あなたの中には、いつでも私がいるということを。忘れないで。忘れないで……)
それは、愛という名の永遠に対する希望でした。
そして、ヒツジカイの体はさらに黒く染まりました。
次にヒツジカイは、黒ヒツジの頭をガリゴリと食べました。
すると、今度は波紋のように静かに揺れる想いが胸に伝わってきました。
(……私は、あの子のために何がしてやれたのだろう。何か残してあげられたのだろうか。少しでもあの子が道に迷わないように、迷っても道が見つけられるように、私の生きてきた道が、あの子にとって意味のあるものであればよかったのだけれど……)
それは、去り行く者の残した者に対する心配と未練でした。
遂にヒツジカイは真っ黒に染まり、その手には黒ヒツジの角だけが一対残りました。
黒ヒツジの記憶に触れて、ヒツジカイは気付きました。
崖に向かって黒ヒツジが走り出したとき、群れにいなかったヒツジは誰だったのか。
そして、そのヒツジはその後どうしたのかを。
ヒツジカイは黒ヒツジの角を強く抱きしめ、
「ごめんね、母さん。もう忘れない。ずっと僕と一緒だよ」
と、涙を流しながら言いました。
それを見ていた黒ウサギが黒ヒツジの角を撫でながら、
「そうだ。忘れるな。そして考え続けろ。その意味を」
と言うと、角の一つが変化して黒い光沢のあるツノ笛になりました。
「寂しくなったら、この笛を吹くといい」
と黒ウサギは言い、ヒツジカイはツノ笛の表面に映る黒い自分を見ながら「うん」と頷きました。
ヒツジカイの返事に黒ウサギも頷くと、
「じゃあ、行くか」
と、目の前にそびえる崖を見上げて言いました。
「そうだね」
と涙を拭いてヒツジカイも立ち上がり、ツノ笛を腰に下げると、もう一つの角を腕に抱え、そのまま黒ウサギの背中におぶさりました。
「何をしている?」
と、黒ウサギは自分の背中に寄り掛かるヒツジカイに怪訝そうに尋ねました。
それにヒツジカイは疲れた様子で、
「落ちることはできても、僕にはどう考えても登れそうにないからね。帰りもよろしく」
と、自分より小さな黒ウサギの体に体重を預けながら答えました。
黒ウサギは眉間に皺を寄せて黙っていましたが、ため息をつくと、
「しっかり掴まっていろ」
と言って、ぴょんぴょんと崖を登り始めました。
崖の半ばまで来ると、それまで黙っていたヒツジカイがぽつりと言いました。
「僕がヒツジカイになっていなかったら、母さんは死ななかったのかな?」
黒ウサギは崖をひょいひょいと登りながら、
「終わりは誰にでもやってくる。それに終わった事実は変わらない」
と淡々と言いました。
そんなことを言っている内に黒ウサギは崖を登り切り、ヒツジカイはその背から下りると崖下のほうへ振り返り、何かを考えるように「でも……」と言葉を漏らしました。
そんなヒツジカイに黒ウサギは、遠くにある大きな木の下でのんびりしているヒツジたちを見ながら言いました。
「君がヒツジカイになっていなければ、母親はもう少し生きられたかもしれない。それでも、いずれは死ぬ。ヒツジカイになった君は、仲間を助け母親の気持ちを知り、その意味を理解した。もし君がヒツジだったなら、母親が死んだときに何ができたと思う?」
その問い掛けにヒツジカイは何も答えず、黙ってツノ笛を見つめると、持っていたもう一つの黒い角を崖の先端に立てました。
そして、その前で跪きツノ笛を胸にしばらく目を閉じました。
◆
ヒツジカイがヒツジたちのもとへ戻ると、ツノ笛を腰にぶら下げたヒツジカイのことを、ヒツジたちは仲間だと思ったのか受け入れてくれました。
そんなヒツジたちを黒ウサギは離れたところから眺め、ヒツジカイも近くで触れていながら距離を感じていました。
ヒツジカイはヒツジたちから離れ、崖まで見渡せる高原の中央にある大きな岩の上で、ツノ笛を手にヒツジたちを見ていました。
しばらく見ていると、ヒツジカイは何かが足りないことに気がつきました。
ヒツジカイは目を凝らし、ヒツジたちを一頭一頭よく観察しました。
そして、その中に父親がいないことに気がつきました。
岩の上に立ち上がって見てみても、左右から見回してみても、群れに入って一頭ずつ見ても、どこにも父親の姿はありません。
ふらふらと黒ウサギのいる岩へ戻ってきたヒツジカイは、母親のことを思い出して全身から血の気が引いていくような感覚に襲われました。
青ざめた顔のヒツジカイに、隣にいた黒ウサギは「どうかしたのか?」と尋ねました。
ヒツジカイはヒツジたちに目をやったまま、
「父さんが……いないんだ」
と絞り出すように言いました。
その答えに黒ウサギは疑問符を頭に浮かべ、
「君の父親なら、とっくの昔に空の雲になったじゃないか」
と、呆れた様子で言いました。
「え?」
と驚くヒツジカイに黒ウサギは、
「覚えていないのか? まあ、そのとき君はただのヒツジだったからね」
と続けて言いました。
父親がいなくなったことを覚えていない自分に、ヒツジカイは頭を抱えました。
そして、目の前で相変わらず呑気に草を食べているヒツジたちを見て、かつての自分はああだったのだと呆然として空を見上げました。
そこには夕日に染まるオレンジ色のヒツジ雲が、延々と空の彼方まで続いていました。
この中に父親の姿もあるのだろうかと思いながら、ヒツジカイは自分がヒツジだったときに鼻先へと落ちてきた、一粒の雫のことを思い出しました。
そして、両親を失いヒツジでもなくなったヒツジカイは、明るい夕日とは対照的に、その目を光のない心の底へと向けていました。
そこには『自分というヒツジが一頭』ぽつんといるだけでした。
そのことに気付いたヒツジカイは、
「ああ、そうか。だから僕は……」
と、ため息をつくようにつぶやきました。
そして大きく息を吸うと、空に向かって思いっきりツノ笛を吹きました。
その音色はどこまでも遠く、どこまでも高く響き渡り、隣にいた黒ウサギは空に浮かぶ白い月を眺めながら、それを黙って聞いていました。
◇
「じゃあ、そろそろ行こうか」
黒ウサギの声に、ヒツジカイはハッと我に返りました。
目の前には、変わらず青い星が黒い海の中にぽつんと浮いています。
「……ああ、そうだね」
と言って、ヒツジカイはクレーターの縁に立ち、青い星を背にしました。
目の前には闇を湛えた巨大な穴が広がり、足下は垂直に落ちる崖でした。
音も光も無い闇の底を見下ろしながら、ヒツジカイは静かに息を吐き、
「行こう。終わりの旅の続きへ」
と言うと、黒ウサギとともに満天の星空の下、消えるように闇の中へと落ちていきました。
了