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私、かかりつけ薬剤師に立候補します! 作者:青砥 英世
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薬歴その5 「さようなら薬剤師」

薬歴その5 「さようなら薬剤師」

 あれから数週間後、私は辞表を久美子さんに提出した。それを渡された久美子さんは信じられないという顔をしていた。
「どうして?」
「私には無理です」
「無理って何が無理なの?管理薬剤師が無理ってこと?」
「いえ、薬剤師を続けることがです」
 私は自信をもって言い切る事ができた。もう私は薬剤師のふりをすることは嫌なのだ。
「私にはわからないわ。今までしっかりやってきたじゃない。どうして今になって無理なの?」
「しっかりだなんて……。私は毎日を何事もないように過ごしてきただけです」
「そんなことないわよ。この店がオープンしてからずっと支えてくれたじゃない」
「私は何もできないです。久美子さんみたいにはなれません」
「別に私みたいになる必要はないわ。真悠子には真悠子の良さがあるじゃない」
「私には何もありません」
 これ以上何も言える事はなかったし、言われる事もなかった。
 しばらく黙っていたら、久美子さんはしぶしぶ辞表を受け取った。
 話の流れで久美子さんのせいのようにしてしまったが、本当の理由はそうじゃない。語弊があった。久美子さんのような立派な医療者としての薬剤師ではないし、これからもなることはできません。という意味だったのだが、それを伝えることができなかった。しかし、どうせ辞めるのだから誤解を解くために、改めて言い換えようとも思わなかった。
 でも、久美子さんみたいになれないというのは本当だ。真澄さんが倒れた時、迅速に対応をし、さらには弱った彼を勇気付けていた。医療者なら当たり前なのかもしれない。しかし、私にはできなかった。あの時唯一頼まれた救急要請も、電話番号が119だったか、199だったか、もしかしたら117だったかもしれない、なんて思ってしまうほどパニック状態に陥っていて冷静なんて言葉からは一番遠いところにいた。
 薬剤師は医療者であって、命を救う職種であることを久美子さんに改めて見せつけられた。今まで命を救おうなんて思いもよらなかったし、これからもできるものではないことを同時に悟った。
 加えて、私が辞める理由はもう一つあった。それは杉山さんという私のかかりつけ患者さんが薬局に来なくなった事だ。

「真悠子、あなたのかかりつけ患者さんの杉山さんよ。頼むわね。あっ、この人また処方箋期限ギリギリだから言っておいてくれる?」
「わかりました」
 私は久美子さんに杉山さんの薬の入ったカゴを押し付けられるように渡された。カゴの中身は杉山さんの持ってきた処方箋と処方箋ネット受付のプリント、それと調剤された薬が入っている。
 クローバー薬局は全店で、webやスマホアプリからも処方箋の受付をしている。それは処方箋の写真をとってアプリから送ると、薬局ではそれを処方箋受付とみなし、あらかじめ調剤をしておき来局したらすぐにお渡しができるというシステムだ。調剤時間が短縮されるため、利用してくれる患者さんも多い。
 処方箋の使用期限は交付日を含めて四日。杉山さんは、今回もギリギリ四日目に持ってきている。いくらアプリで処方箋の受付をしていても四日を過ぎてしまったら無効になる。処方箋をもらったらすぐに薬局に行って薬をもらえば良いのだがきっと仕事が忙しいのだろう。平日は絶対に来ず土曜日でないとやってこない。

 杉山さんは私の弟と同い年の25歳でスマホゲームの開発をやっているらしい。かなり忙しい様子で精神的ストレスがひどいことも顔を見ればわかる。
 前回は眠れないということで、睡眠導入剤のマイスリーが処方されていたが、今回はレンドルミンに変更されていた。加えてアタラックスPというかゆみ止めが眠前に、ヒルドイドソフトが乾燥した部位に使用と追加されている。
 私はそれを持って投薬カウンターへ歩きながら「杉山さん」と呼んだ。
 待合のソファーに座った杉山さんは完全に下を向いていた。よく見るとイヤホンをしているので、そのせいで聞こえていないかもしれないと思い、私は杉山さんの座っているソファーまで近づいた。
 顔を覗き込むと目は閉じられていて、うとうとと眠っている。私は杉山さんの肩を優しくたたくと、驚いたように目を覚まして、慌ててイヤホンを外した。
「あっ、すいません。寝ちゃってました」
「お疲れみたいですね」
「昨日はなかなか寝付けなくて。寝たのが4時でした。だから眠くて。すみません」
 今が朝9時だから8時に起きて来た場合、4時間くらいしか寝ていない事になる。どおりで熟睡していたはずだ。杉山さんは慌てた様子で目をこするが、瞼は今にもまた閉じてしまいそうになり、今度は首を横に振ってなんとか寝ないようにしている。私の話も早めに済ませて帰ってゆっくり休んでもらったほうが良いかもしれない。
「今日、お薬変わりましたね」
「あっ、そうですか」
「マイスリーから、レンドルミンに変わっています」
「あっ、はい……。この前の薬と何が違うのですか?」
 受診の時にちゃんと聞いていなかったのだろうか。それとも、疲れていて医師に言われたことも忘れてしまっているのだろうか。話をしていても手応えを感じる事ができない。どちらにしても眠剤の違いについてきちんと説明するのが私の仕事だ。
「マイスリーもレンドルミンも寝つきを良くしてくれるのですが、レンドルミンの方が少しだけ作用時間が長いです。それと、レンドルミンはベンゾジアゼピン系に分類されますので、精神的にリラックスしてくれる効果もあります」
「あぁ、確か先生もそんな事言っていたような……」
 ふぁぁとあくびをしながら杉山さんは答えた。
「それと、皮膚症状に塗り薬とかゆみ止めの飲み薬がでていますね」
「ついつい掻いちゃって」
 杉山さんの顔を近くで見ると皮膚の乾燥が酷く搔き壊しも多い。しかし、あまり赤みがないように見え、かゆいから掻くのではなく、ストレスから無意識に搔き壊しているように見えてくる。
「乾燥にはこちらのヒルドイドソフトを塗ってください。それと、アタラックスPは痒みを抑える効果と眠くなる効果があるので、夜もゆっくり休めると思いますのでこちらも1カプセルを寝る前に飲んでください」
「わかりました」
 杉山さんは眼を半分だけ開けて、眠そうに頷く。
 私が言っている事は手元にある薬の説明書と同じ内容だ。それを読み上げるだけで良いなんて、薬剤師の仕事って一体なんなのだろうと思う。
 いけない、違うことを考えてしまっていた。
 少し時間をおくと、杉山さんの瞼が閉じそうになるので、私は久美子さんに言われた処方箋期限の事を伝える事にした。
「それと、処方箋には期限があるのはご存知ですか?」
「あっ、はい……」
 なんだ、知っていたのか。それに四日以内に持ってきているから改めて注意するのもかわいそうなので、それとなく今日が四日目だと伝える事にした。
「今日は四日目だったので、薬を取りに来てくれるか心配していました」
「すみません、ご心配をおかけして。次からは余裕を持ってきます。えっといくらですか?」
「000円になります」
 杉山さんはポケットに入っているくしゃくしゃの千円札を私に渡した。それを預かるとなんとか伸ばしてレジの奥へ入れ、おつりを杉山さんに返した。おつりを受け取って確認もせずにポケットに入れると、杉山さんはふらふらとした足取りで薬局を出て行った。

 二週間後、杉山さんはまた土曜日にやってきた。
 やはり、水曜日にクリニックに受診し、土曜日にやってくるパターンだ。処方箋期限は前回と同じ四日目というギリギリなのだが、この方法しか来局する方法がないのだろう。
 杉山さんが受診しているクリニックは東京のオフィスビルの住所である事から、きっと職場の近くで、ここ横浜の薬局に来ているというのは、家が薬局の近所なのだろう。
「真悠子、杉山さんまたギリギリね」
 久美子さんが前回と同じく期限について指摘してきた。
「たぶん、土曜日じゃないと来れないのだと思います。でも期限内なので」
「まぁ、そうね。期限がきれなければいいわ。ところで、彼、だいぶやつれてきてない?」
「私もそう思います」
 杉山さんのシワシワのネルシャツとボサボサの髪は調剤室内からでも確認できる。前回もあんな感じだったけど、さらにひどくなったようにも見えてくる。
「真悠子、あなたかかりつけ薬剤師だったわよね?」
「あっ、はい……」
 私は久美子さんの一言にドキリとする。確かに私は杉山さんのかかりつけ薬剤師だ。けれども、心底彼のために尽くそうと思ってかかりつけ薬剤師に立候補したわけではなかった。私のかかりつけ患者さんたちが少しずつ減ってきていたため、このままでは指名がゼロになる事を恐れ、きっと断らなそうな杉山さんにかかりつけ薬剤師制度について説明したところ、二つ返事で承諾してくれた。杉山さんとしては、あまりに疲れていて断る事が面倒だっただけかもしれない。そう思うのも、杉山さんから私のかかりつけPHSに電話がかかってきた事もないし、サポートを要請された事も一度もない。指名数を稼ぎたい私たちにとっては、いわゆる楽な患者だった。
「かかりつけ薬剤師だったら、しっかりサポートしてあげなさい」
 久美子さんはそう言うと、また私に杉山さんの調剤された薬が入ったカゴを押し付けてきた。
 しっかりサポートするとは一体何をすればよいのだろうか。そもそも薬剤師は処方薬を決める権限なんてない。それにセラピストでもカウンセラーでもない私が何か優しい言葉をかけたところで何かが変わる気もしない。私にできる事なんて何もない。できる事としたら早く帰って休んでもらう事くらいだ。
「杉山さん」
 投薬カウンターで杉山さんの名前を呼ぶも、またしてもイヤホンをつけたまま眠りこけている様子で、もしかしたら聞こえるかもしれないと思い、名前を呼んだ事もバカらしく思えてしまう。
 また私は杉山さんの元に近づき優しく肩をたたくと、また驚いた様子で目を覚ました。このやりとりは二週間前とまったく同じだ。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます。すみません、寝ちゃっていました」
 慌てて外したイヤホンからは大音量の音楽が聞こえてくる。この大音量で眠れるというのはよほど疲れているのだろう。
「今日のお薬なのですが……」
 私はカゴに視線を落とすと、内容を確認していなかった事に気付いた。しかし、薬を説明しながら確認していけば良い。だいたいこの方法でごまかせる。
 処方箋に記載されている薬は前回と同じだ。これなら問題ない。用法・用量、薬効を説明書きとほとんど同じ内容で薬効、用法・用量を読み上げていく。レンドルミン、アタラックスP、ヒルドイドソフト。これで終わりかと思ったら、最後に薬が一つ追加されていた。

・リスパダールOD錠0.5mg 一回一錠 発作時

 リスパダールの適応は「統合失調症」だ。
 統合失調症の他に、「小児期の自閉スペクトラム症に伴う易刺激性」にも適応があるが、18歳未満の場合のみで、杉山さんには関係ない。という事は、杉山さんに統合失調症が発症したという事になる。
 私の胸の中は内臓が動き胃が心臓の場所に、心臓は腸の場所に、腸は食道の場所に動いたかのような気分であった。
 少しでも気分を落ち着かせようと、杉山さんの投薬を早く終わりにしてしまおうとするが恐る恐るしか言葉がでない。
「お、お薬が一つ増えましたね」
「最近、幻聴が聞こえてきて。その時に飲む薬を出しておくから、試してみてほしいと先生が言っていました」
 やはり、統合失調症だ。
 統合失調症は様々な症状がでる精神疾患だ。妄想、幻覚などの陽性症状、感情鈍麻やカタレプシーなどの陰性症状がある。イヤホンで大音量の音楽を聴いていたのは、陽性症状の幻聴をかき消すためかもしれない。疲れている様子に見えたのも陰性症状であるカタレプシーのようなものかもしれない。
 私はどうする事もできない、そう分かっていてもあれは繰り返したくない。
「あの……。杉山さん、幻聴が聞こえてきたのはいつ頃ですか?」
「たぶん、今作っているアプリを開発し始めた頃だと思います。そこから忙しくなって、眠れなくなって、たまに声が聞こえるようになったんです」
 やっぱりそうだ。仕事の影響でストレスがあり、それが脳に影響している。
 私は一握りの勇気をさらに振り絞る。
こんな事言っても何も変わらないかもしれない。患者さんに深く関わる事もしたくない。毎日なんとなく同じような日々が続けばいいと願うのだけれども、あれを繰り返すのはもう嫌だ。
「杉山さん、逃げませんか?」
「逃げる?」
 言葉足らずだった。もしかしたら私と一緒に逃避行のようなものを想像させてしまったかもしれない。私は慌てて言葉を足す。
「その仕事、逃げられませんか?」
「仕事から逃げる……」
 杉山さんはうつむいて私の言葉を反芻するだけだった。何を考えているかはわからないけど、私は言葉を発した以上続けなければいけない。
「私個人の意見なのですが、杉山さんの皮膚症状も不眠症も仕事のストレスから来ていると思います」
「そう、だと思います」
 杉山さんもそれはわかっているという雰囲気で答える。
「だから、その仕事から逃げませんか?」
 私がそう言った後、それ以上杉山さんが言葉を発する事はなく会計だけをして帰って行った。
 私は言ってはいけない事を言ったのかもしれない。本人だって仕事のストレスでこうなっているのはわかっていたのだ。それなのに必死にそれと戦っていたのに、逃げろなんて無責任すぎる。しかし、私はどうしても逃げて欲しかった。病気に喰われる前に。

 二週間後の水曜日に杉山さんの処方箋がアプリを通じて送られてきた。
内容は前回処方されていたリスパダールが頓服発作時だけだったのが、一日二回朝夕食後に増えていた。という事は症状が悪化したのだろう。私はいたたまれない気持ちになりながら、それを調剤した。
 土曜日になり杉山さんが来局するかと思っていのだが、十七時を過ぎても来局しなかった。その旨を久美子さんに伝え相談する事にした。
「今日来なかったら、その処方箋は無効ね。真悠子どうする?電話でもしてみる?」
「そうですね、ちょっと電話してみます」
 私は杉山さんの電話番号をレセコンから呼び出し、電話をかけた。
 コールはなるのだが電話にはでない。しかも、留守番電話機能をオフにしているのか、それにもつながらない。ずっと、コール音だけが鳴り響いている。
 一分ほど粘ってみたが結局出なかったため、諦める事にした。
「電話にでません」
 と、久美子さんに報告すると
「じゃぁ、しょうがないわね」
 と言って、久美子さんは自分の仕事を再開した。
 しょうがない。
 その響きは私を少しだけ安心させた。しょうがないというのは自分に責任がないという事だ。前回言ってしまった「仕事から逃げませんか」という言葉が私の頭の中に繰り返し蘇る。
 私の言葉で本当に仕事から逃げてくれたのか。逃げた場合会社から非難されているかもしれない。もし、逃げなかったとしても仕事に苦しみ続けて幻聴が続いて押しつぶされているかもしれない。
 でも、わたしはどうしたらよかったのだろうか。何もしない、何も言わなければ、良かったのだろうか。そうすれば、こうやって苦しむ事はなかった。私は、行動してしまった事に後悔をしていた。
 そして、杉山さんは二度と来局する事はなかった。

 私には弟がいて、弟は地元北海道の施設に入っている。施設は北海道のだいたい中心にあり、農場の真ん中にある。遠くから見るとそれは施設ではなく農家に見えるような建物だ。たとえ脱走したとしても、周りに何もないから、誰にも危害を与えないだろうという発想の元建てられている。
 弟はそこに二十五歳で入所した。理由は統合失調症。
 弟は勉強ができた。地元では有名な高校に入学し、現役で東大に入った。勉強はできたものの、まさか東大に合格するとは思ってもいなかったため、合格がわかった時には私を含めて家族や友人、顔もよく知らないような知人も祝ってくれた。
 景気良く弟を送り出してすぐのゴールデンウィークに、弟は実家に帰ってきた。その時にはひどくやつれている様子だったと母が言っていた。どうも周りが頭良すぎてついていくのがやっとだと言っていたそうだ。また、今まで勉強ばかりしかしなかったために、勉強以外の事が出来なくて苦労もしていて、例えば、料理や掃除洗濯の仕方がわからなかったり、家庭教師のバイトを始めたものの生徒の成績が下がったり、大学で友達の作り方や女の子との話し方がわからない、などの話をしていたと母から聞いた。その時は、これくらいの事は一人暮らしを始めた男子にとっては良くある事だろうと思っていた。
 そして、その後弟は留年した。
 このころから弟は私にたまにくれていたメールもくれなくなり、私との連絡も途絶えていった。
 その一年後、母から電話がかかってきた。弟が入院した、と。その理由は薬の過剰内服だった。
 留年をしてから精神不安に陥り、安定剤を服用するようになった。それから薬は少しずつ増えていき、塾講師のアルバイトをクビになった時、家にあった薬を大量服用し救急車で運ばれたそうだ。というのも、私は社会人になってから弟にほとんど関わっていなかったし、関わる事をあえて避けていた。
 それは二つ理由があって、一つは劣等感からだった。弟は東大に合格するために、必死で勉強していた。もともと、頭は良い方ではないと思う。しかし、誰よりも努力をしていた。地元では有名な私立中学に入学した頃からさらに勉強を真剣に取り組み、最初は一日三時間の勉強時間が、四時間、五時間と増えていき、最終的には家にいる時はほとんど自分の部屋から出てこないほど勉強をしていた。
 どうしてそこまで東大というものにこだわるかはまったくわからなかった。一方私は中学では部活に打ち込み、高校生になったら友達と遊びながらも勉強をして、横浜女子大学の薬学部に入学した。
 横浜女子大学はいわゆるお嬢様大学で、お金があれば誰でも入れるような大学だ(うちは牧場を経営していてお金はあった)。そんな私は薬剤師の資格さえ取れれば良かったから、大学の偏差値なんてどうでも良かった。しかし、弟が東大に合格すると一気に比較されるようになった。
 東大生の弟とバカな女子大学生の姉。将来有望な弟と玉の輿狙いの姉。努力家の弟と楽をして生きている姉。よっぽど弟をよく言いたいのか比較対象の私は卑下された。差があった方が弟がより際立って見えるからだ。私はそれが嫌で地元にも帰らなかったし、東京に出てきた弟にもこちらからは連絡を取ることはほとんどなかった。
 もともとは決して仲が悪かったわけではない。小さい頃には一緒に遊んでいた。公園では一緒に砂山を作って遊んだり、一緒に少女漫画を描いた事もあった。それと、無理やり私の服を着せて姉妹としておままごとをさせた事もあった。仲が良かったはずなのに、弟が勉強に集中するようになってから私のほうは見向きもしなくなって、弟が中学生になる頃には部屋も分けられ、弟は食事以外の時間を勉強に費やしたため、口を聞くタイミングすらなくなってしまった。

 弟がおかしくなったというのは、バイトをクビになった理由を聞いてわかった。弟は塾で夏期講習の講師をしていたらしいのだが、突然怒り出し暴れ出したそうだ。生徒が自分の陰口を叩いていたと言っていたそうなのだが、生徒から話を聞くと一切そう言う事はなく、むしろ先生の事が好きな方で、突然大声を出された事にびっくりしていたとの事だった。
 母が弟の下宿先に行ってみると、壁には無数の落書きがしてあってひどく散らかっていたそうだ。医師の診断名は「統合失調症」だった。弟は内服加療をするも、十分な治療効果がでず、そのまま心を壊してしまったという流れだ。
 私はそれ以降、さらに弟から距離を置きそれに合わせて、両親とも連絡を取らないようにして、今では母から弟の近況のメールが送られてくるが、無視し続けている。
 私は弟に何もできなかった。というより、何もしなかったというほうが正しい。何かをする事で弟の状況が余計悪くなってしまうのではないかという気持ちと、何かをした事で私に面倒が増えるのではないかという恐れがあったからだ。今となっては、何もしなかった事でこれからも何も介入できないという状況に陥ってしまった。

 私は薬剤師という仕事についたけれども、何かをやろうとも思っていなかった。毎日やってくる処方箋通りに調剤して、説明書きを読み上げる。それで十分すぎるほどの給料をもらえたし、その給料で友達と遊んだり海外旅行をしたりできれば満足だった。
 しかし、この間の真澄さんが入院した事で、改めて自分の存在意義について考えさせられた。結論は自分が薬剤師という医療職には向いていないという事、これ以上続けてはいけないという事だった。
 薬剤師というのは久美子さんのように、相手のために熱く思いやれる人がなるべきだ。真澄さんだって、いつも面倒くさいと言っているけれど、やる事はやっている。それに、若い春香ちゃんだって失敗は多いけれど、一生懸命仕事をしている。
 薬剤師という仕事は本来そういう人たちがやるべきなのだ。私のような何もやろうとしない、何も考えていない人間がやってはいけないのだ。
 杉山さんを救う(なんていったら大げさすぎる)事もできなかったし、弟と同じ運命にさせてしまった事にも責任を感じている。もし、私がかかりつけ薬剤師でなければ杉山さんは統合失調症を発症する事もなかっただろうし、もっと素敵な人生を歩めたかもしれない。いや、必ず幸せだっただろう。私が杉山さんの人生を台無しにしたのだ。そう思うと辞表を書く事に何のためらいもなかった。

 辞表を提出してから、あっという間に1ヶ月過ぎ、最終出勤日はついに訪れた。
 久美子さんからは花束をいただき「何かあったらいつでも連絡して」とありがたい言葉をいただいたが、もう久美子さんに会う事もないだろう。そして真澄さんからは、クッキーの詰め合わせをもらった。花柄のパッケージがいかにも女子っぽくて笑ってしまった。普通の男子は買うのも憚られる事を平気でプレゼントできるメンタルの強さを尊敬する。
 花束とクッキーを手に入り口で最後のおじきをすると、涙がこみ上げてきた。それを見せるまいと思い、すぐに振り返り家路に急いだ。
 涙のわけは喜びや悲しみではなく、この八年間何もできなかった自分に対しての不甲斐なさからだった。本当に情けない。

 翌朝起きると自分のやるべき事がなにもない事に気付いた。
 昨日は花束を持たされていたため、そのまま家に帰宅しあるものを食べたが、それで冷蔵庫がカラになってしまったため、朝ごはんに食べるものがなくなってしまった。それでもお腹は空いていたため、せっかく時間もある事だし適当に近所のどこかで朝食をする事にし、簡単に身支度をした。
 仕事に行くわけではないと思うとメイクも適当で、眉毛と薄くファンデーションを塗るだけでやめた。時間を確認しようとテレビをつけると、カフェ特集をやっており、たまたま近所のカフェが取り上げられており、私はそこに行く事にした。行ってみるとテレビで取り上げられた割に空いていると思ったのだが、今日は平日の十時である事に気付き、空いているのは当たり前だと思った。
 席に案内されてメニューをみると、モーニングベーグルセットがあり、トーストされたベーグルにクリームチーズを挟んだものに、サラダやスクランブルエッグ、ヨーグルトに加えてコーヒー等のドリンクが付く雑誌でよく見かける素敵な朝食だったので、それを注文することにした。すると五分も待たずにすぐにそれはやってきた。
 最初にコーヒーを一口すすると、その香りとコクに私は驚いた。
「おいしい」
 普段独り言など発した事などないが、つい口から漏れてしまう。コーヒーカップを覗き込むと黒い液体がきらきらとしている。見た目は自分で入れるインスタントコーヒーと対して変わりないのだが、味は天と地の差だった。
 これが本当のコーヒーなのかと改めて思う。
 どこでコーヒーを入れているのか、店内を見渡すと、ガラス張りのキッチンで長身の男性がハンドドリップでコーヒーを入れているのが見えた。
 1杯1杯丁寧に入れている事が遠くからでもわかる。そして、その奥にはコーヒー豆を一粒一粒確認して、選別している人がいる。美味しさの理由はこのこだわりだったのかと私は気付かされた。
 内装も落ち着ける雰囲気で、基本的には白と黒のモノトーンで配色していて、BGMで流れてくるボサノバも心地いい。しかもスタッフを見渡すとみんな笑顔で働いている。私がいつの日か忘れてしまった笑顔がそこにはあって、こんな素敵なカフェで働けたらいつか私もあんな笑顔になれるのだろうかと思ってしまう。
 素敵な朝食を食べ終紙ナプキンで口をぬぐうと、そこにアルバイト募集の札が立っているのに気付き、すぐにそれをスマホのカメラで撮った。
「薬剤師をやめたら何をやるの?」
 退職時に嫌という程聞かれた質問にはやりたい事などない私には、答えがなく「少しゆっくりします」とだけ答えていた。それなのにこれほど早く答えが出てしまった事に驚いた。
 募集は正社員ではないし、薬剤師時代に比べたら給料は半分になるだろう。しかし、それでも私にとっては幸せな仕事になりそうな気がして、ここで働く事を心に決めた。
 帰り道のコンビニで履歴書を買い、写真屋さんで写真も撮ってもらい、その日のうちに履歴書を完成させお店に電話をすると、早速明日の開店前の八時半に面接となった。

 翌日、面接では今までの経歴やなぜこの店を選んだかなどいろいろ聞かれたが、適当に答えていたらあっさり合格し、来月から働くこととなった。
 私はその間にする事もなかったので、コーヒーの本を買い漁ったり、ハンドドリップのコーヒーセットを買い揃え、家でもコーヒーの研究に打ち込んだ。しかし、お店のような味はだせず、自分が入れるコーヒーの壁にすぐにぶち当たり、ヒントを得ようといろいろなコーヒーを飲み歩いた。
 毎日あらゆるカフェに行ってはコーヒーを飲んだ。飲み比べていくと、同じチェーン店でも店によってコーヒーの味が違う事にも気付いた。それは微妙という差ではなく、明らかに違う事がわかった。入れる人によってここまで違うものなのかと思う。
 そして、本日は二軒目で合計二十三件目にあたるこのお店は新しくできたお店だ。雑誌でみて選んだお店で、カウンターのみのたった6席、コーヒー1杯千円という強気な値段設定だったため、面白そうだと思い試しに行ってみる事にした。
「いらっしゃいませ」
 高くもなく低くもなく、ちょうど良い高さの男性の声で挨拶される。店員は一人しかいなくて、コーヒーを入れている最中の様子だ。
 店員はコーヒーを入れる事によっぽど集中しているのか、「空いている席にどうぞ」と、こちらを見る事もなく声だけで案内をする。私は二人の女性客を通り過ぎ、一番奥の席に腰をかけるとメニューを眺めた。
 メニューは雑誌の通り2つしかない。ホットコーヒーとアイスコーヒーだけで、本日の豆:グアテマラと書かれているだけのシンプルなものだった。
 コーヒーは暖かい方が間違いなく美味しいと思う私はすぐに注文が決まった。店員が先ほどのコーヒーを入れ終えたのか、私の目の前に氷の入った水とおしぼりを置いてくれる。
 私は顔を上げて、ホット一つと言うと同時に驚いた。杉山さんだ。
 杉山さんも私に気づいたらしく「あっ、ご無沙汰しています」と答えた。
 一年前時とは見違えるほど、明るい表情で顔にはかきむしった痕など一つもない。身なりは清潔に整えられていて、むしろ清潔感を感じる好青年がそこにはいた。とても数ヶ月前にはネルシャツでボサボサの髪で少し汗臭かったあの時の杉山さんとはまるで別人だった。
 コーヒーを入れる姿をつま先から頭の先まで見てしまう。黒のピカピカに磨かれた革靴に黒のパンツと前掛け、白のワイシャツには清潔感が漂い、コーヒーを入れる所作全てが美しい。
「どうぞ」
 私が見とれてしまっていた間にコーヒーが入り、目の前に出される。一口すすると芳醇な香りが鼻まで抜けてくる。今までのコーヒー屋さんでは体験できなかったこの香りと味わいは1杯千円の価値はあった。むしろ、それ以上払っても良いとさえ思った。
「上原さん、今日はお休みですか?」
「名前、覚えていてくれたのですか?」
「そりゃ、お世話になりましたから。じゃぁ、逆に僕の名前覚えていますか?」
「杉山孝次さん……」
「上原さんも覚えていてくれたじゃないですか。さすが私のかかりつけ薬剤師さん」
 杉山さんは笑顔で答える。どうしても同じ人とは思えない。
「でも、私薬剤師辞めたんです」
 杉山さんは「えっ」という表情を浮かべるも、すぐにやわらかな笑顔に変わる。
「僕も仕事辞めたんです。辞めてコーヒー屋さん始めました。って見ればわかるか」
「これって、自分のお店って事ですか?」
「そう、自分のお店です。前の仕事は大変だったけど給料は良かったから貯金もあったし、いままでやりたかったコーヒー屋さんを始める事にしたんです」
 彼の爽快な笑顔が高校時代に憧れていた学校イチのイケメンの姿に重なる。クラスの三人に一人は彼に憧れていた。私はというと、自分のような地味な女子には見向きもしないだろうと諦めていて、彼に対して何とも思わなかった、というか何とも思わないようにしていた。もし告白されたらなんて友達は話していたけれども、私にはありえなさすぎてその議論にも参加した事もなかった事をふと思い出す。それでも心の奥底ではやっぱり憧れていた彼を。
「そうそう、上原さんに会えたらお礼を言おうと思っていたのです」
「お礼?」
 私は驚いてしまう。彼に何もしていなかったし、何もしようと思っていなかったのに。私がお礼される義理なんてない。
「俺、上原さんに逃げろって言ってもらえた事、本当に感謝しています」
「えっ?」
 私は今の今まであの言葉を後悔していた。
 私が逃げろなんて言ってしまったせいで杉山さんの人生を壊してしまったのではないかと思っていた。それなのに感謝されるなんて、思ってもみなかった。
「俺にとっては人生を変える一言でした。だって、仕事から逃げるなんて選択肢思いつかないくらい追い込まれていたから。正直あのまま仕事していたら自殺していたと思います」
「はぁ……」
 私は今まで自分の考えていた事と杉山さんの今言っている事が頭のなかで、うまく合致しないためか、相槌が打てずとりあえず頷きながら話を聞いていた。
「あの時、納期が近づいていて心身ともにギリギリでした。就職したら辞められないとか思ってたし、納期に間に合わなかったら死ななければいけないみたいな勢いで仕事をしていたので。目を瞑ると上司の声が聞こえるんですよ。早くしろとか、なんでこんな事もすぐにできないんだとか。家に帰ってもそこに上司がぼんやりあらわれて叱責されていました」
「はぁ……」
 やはり私は何を言ったら良いのか検討もつかず、間抜けな相槌だけを打つ。
「本当にあの時の俺には逃げるなんて発想なかったんですよ。でも、毎日辛くて辛くて。電車に飛び込んだら会社にいかなくてすむかもしれないって思っていました。そんな時に上原さんが逃げるという選択肢をくれたんです」
「私が……」
「だから、お礼したくて。あっ、今日は無料で良いですよ」
 杉山さんはまた、きらりと光る笑顔を私に向けた。
「でも……」
「いいんです、いいんです。本当はもっと大きなお礼をしたいな」
「でも私、杉山さんには何もできなかった事、ずっと後悔していたのです。それで、薬剤師も辞めて……。あっ、でも辞めたのは杉山さんのせいではなくて、私自身の問題なのですけど……」
 つい、杉山さんが原因みたいに言ってしまいそうになったけど、なんとかすぐに訂正する事ができた。
「薬局を辞めたのではなくて、薬剤師を辞めたのですか?」
「そうです、私にはむいていなかったのだと思っています」
「では、今はリフレッシュ中ですか?」
「そうです。美味しい朝ごはんでも食べようかなと思って、近所のコーヒー屋さん行ったら、そこのコーヒーに感動しちゃって、コーヒー屋さんで働きたいなぁって思って、今カフェ巡りをしているところで、今日はこのお店に来てみようと思ったら杉山さんがいて……」
「えっ?じゃぁ、カフェで働きたいと思っているって事ですか?」
「まぁ、そうです……」
「じゃぁ、うちで働きませんか?ひょっとしてもう就職先決まっちゃってます?」
「一応、バイトだけど内定もらってて……」
「ちなみに、どこのお店ですか?」
「モカっていうところなんですけど……」
「知ってる。確かにあそこのコーヒーは他とレベルが違いますよね。でも、うちとどっちが美味しいですか?」
「こちらです」
「じゃあ、うちで働きましょう」
 よくわからない理屈だった。でも自分を必要としてくれる事は嬉しかった。
「あっ、はい……」
 私はその場の勢いでイエスと言ってしまった。

 嫌になったらやめれば良いと思って始めた杉山さんとのカフェも気が付いたら一年が経っていた。
 私は一年前に飲んだ抜群に美味しいコーヒーを自分で入れられるようになっていて、豆の仕入れや焙煎、全ての業務ができるようになった。
 そんなある日、久美子さんと真澄さんが二人で店にやってきた。
「こんにちは、ご無沙汰よね」
 久美子さんは相変わらずの活気ある姿と笑顔で私に挨拶をする。
「うちのパートさんから、上原さんがここで働いているって聞いてきてみました」
 クローバー薬局時代によくしてくれたパートの大山さんという人がいた。私のお母さんと同じ年齢で事務をやっていた人だ。先月もここにコーヒーを飲みに来てくれたのだ。
「あら、そちらの彼は、杉山さんじゃない?上原さんの患者さんだった……」
 さすがの久美子さんだ。一度みた患者の顔と名前は絶対に忘れない。きっと当時服用していた薬も聞けばきっと答えられるだろう。
「そうなんです、ふらっと入ったらオーナーがいて、それ以来ここで働かせてもらっています」
 今は杉山さんの事はオーナーと呼んでいる。
「オーナーの杉山です。その節は大変お世話になりました」
 オーナーが久美子さんと真澄さんに頭を下げた。
「今日は何にしますか?」
 私がたずねると、「じゃぁ、ホットを2つで」と、真澄さんが迷わず注文をした。
「それじゃぁ、私がお二人の分入れますね」
 私はこの2杯に今までの思いを込めていれる。その間、オーナーが久美子さんと真澄さんと話をしてくれている。こじんまりしたこのお店ではお客様との会話もコーヒーの大事な味付けの一つだ。いっぱいのコーヒーと穏やかな会話で少しでもリラックスしてほしいというオーナーの考えだ。
 私がコーヒーを入れている間はコーヒー豆に注ぐお湯の音やドリップから垂れてくるコーヒーの音、あらゆる音に耳を澄ましているため、三人の会話はまったく耳に入ってこない。けれども何やら楽しそうな雰囲気だけは伝わって来る。
 やっと2杯入れ終わった後、周りの声が聞こえてきた。
 最高のコーヒーの入ったコーヒーカップを久美子さんと真澄さんにだすと、二人が口にした瞬間に驚きの表情を見せた。
 私はこの瞬間が大好きだ。バリスタになって良かったと心底思う。
「本当に美味しいわね」
「美味しいですね」
 二人は見つめあって言った。久美子さんと真澄さんを見ているとパートさんが言った噂は本当かもしれないと思って確かめる事にした。
「久美子さん、もしかして真澄さんと付き合っているって本当ですか?」
「よく知っているわね」
 やっぱりそうだったのか。退社してから一度パートさんたちと飲みに行った事がある。その時にあの二人はいつか付き合うのではないかと噂をしていたのだ。それがまさか本当になるとは思わなかった。
「それに、あなたたちこそ、付き合っているのじゃないの?」
「実は先日入籍しまして……」
 オーナーは左手につけた指輪を見せて答えた。私も同じポースで答える。
「あら、幸せね」
 といって、久美子さんは真澄さんをちらっと見つめた。真澄さんはそれに気づいて急いで目をそらす。真澄さんはまだ決めきれていないのだろう。真澄さんの優柔不断なところが懐かしくて笑みがこぼれる。
 私とオーナーとはここで勤めて3ヶ月も経たずに付き合う事になった。
 オーナーの押しの強さに私が完全に負けた。といっても、決して嫌ではなく漫画のような展開に私は信じられないくらいであった。
 それにあまりに展開が早かったため、どうせ遊びだろうと思っていたけれど、想像以上に私の事を大切にしてくれた。理由を聞くと命を救ってくれたから、恩返ししたいのだと言った。やはり何度考え直しても、私がオーナーの命を救ったつもりなんてなかったけど、それでもそう言ってくれるのは嬉しかったし、私オーナーの気持ちに応えようと思っている。
 そして、付き合って半年が経った時に、弟に会いに行こうと言われた。
 まったく気が進まなかったので、なんどか断ったものの彼に押し負け、結局は施設に行く事となった。
 施設の面談室で弟は終始下を向いていたけれども、精神的には安定しているそうで、社会復帰も目指せるかもしれないと、母と施設の人から言われた。
 こんな弟の姿をみせて絶対に嫌われると思ったけれども、オーナーは理解してくれた。俺も似たようなものだったと言っていた。
 ちなみにオーナーはコーヒー屋を始めたころから薬はいらなくなったと言っていた。コーヒーと私が最高の薬なのだと。それとどうして弟のところに会いに行こうかと言ったのかきいたら、彼はこう答えた。
「真悠子さんが俺を見る時、悲しい眼をするんだ。その理由は弟さんにあると思う。俺たちは弟さんに何もできないかもしれないけど、せめて弟さんの事を理解したい。それと、俺はそんな悲しい眼をする真悠子さんを救いたい。俺を救ってくれたみたいに」

「いらっしゃいませ」
 オーナーの声が店内に響いた。いつの間にか思い出に浸ってしまって現実世界から離脱してしまっていたようだ。
「あら、春香。それと、片岡さん?」
 入り口には春香ちゃんと、私と同い年くらいの女性が立っていた。私はその女性の事は知らないけれど、他のみんなは知っているみたいだ。
「久美子さん、ご無沙汰しています。真澄ちゃんはちゃんとやっていますか?」
「なに?ちゃんとって」
「ちゃんとやっているわよ。私がしっかり育てているもの」
「ほんと良かった。真澄ちゃんに素敵な人が一緒にいてくれて」
「ところで、片岡さんは今日は春香とデート?」
「ちがっ」「そうです」
 同時に片岡さんが否定して、春香ちゃんが肯定した。
「春香も素敵な人と一緒にいれて良かったわね」
「はいっ。幸せです」
「ちょっと、春香ちゃん誤解されるような事言わないでよ。今日は勉強会に行ってきただけなんだから」
「でも、しょっちゅう会ってるって聞くけど、二人は付き合っているんじゃないの?」
 真澄さんが片岡さんをいじってくる。
「だから、付き合ってません。私は普通に男性が好きなんです」
 と、片岡さんが大声で叫んだ後、またお客様が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 私とオーナーが入り口に目をやると、反射的にみんな入り口に顔を向けた。
「あっ、板橋先輩」
 片岡さんがそのままの大声で言った後、
「斎藤君じゃない、ひさしぶりね」
 と、久美子さんが言った。どうやら、久美子さんにとっては両方とも知り合いみたいだ。二人はカウンターの残り2席に座ると、満員御礼となった。
「ねぇ、真悠子さん。この中で薬剤師じゃないのって俺だけ?」
「私とオーナーだけです。私、薬剤師やめてバリスタですから」
 私たちは二人でこっそりと笑って、カウンター越しにみんなの楽しそうなおしゃべりを眺めていると、私は薬剤師を辞めて本当に幸せだったのだと思った。

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