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私、かかりつけ薬剤師に立候補します! 作者:青砥 英世
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薬歴その4 「薬剤師って薬の事をなんでも知ってるの?」

薬歴その4 「薬剤師って薬の事をなんでも知ってるの?」

「ガイドラインではその薬が推奨されています」
 私は、真菌血症ガイドラインのオンライン版を問い合わせをしてきた神田医師へのメールに添付しながら電話で答える。しゃべりながら「医師からの問い合わせ」という名前のエクセルファイルに、問い合わせの要点や患者名、病棟名を打ち込んでいく。
「わかりました」
 そう言って神田医師は電話を切った。
 直後、私はその病棟担当薬剤師である片岡奈々へ電話をかけた
「外科の神田先生から真菌血症について問い合わせがあって、一応ガイドライン通りに伝えた。片岡的に妥当?」
「患者さんって、もしかしてキムラさん?」
「そう」
「ってことは、ブイフェンド使うかもしれない……。あっ、あの人ハルシオン飲んでいるから他剤に変えてもらわないと」
「よろしく」
「板橋先輩、ありがとうございました」
 奈々が言い終わるのを待たずに私は電話を切った。
 昔は問い合わせを受けた後に病棟担当に電話することなんて無かった。私で完結していて、それでいいと思っていた。私は欲しい情報を得るための機械。そう思っていたし、それでいいと思っていた。でも今は違う。医師に適正に情報提供をするともに、病棟担当へも医師から問い合わせが来た旨を伝える。そうすることで、私には見えない患者の状態や社会的な背景を確認してもらうことが出来る。大事なことは情報ではない。それをどのように患者に応用するかだ。そして、応用は現場にいない私にはできない。それを実行してもらうのが、龍のような病棟担当薬剤師である。
 片岡奈々は薬の知識はまだまだだけれども、とにかくフットワークが軽い。レスポンスにすぐ応えるため病棟でも医師や看護師に信頼されているらしい。病院で働いているとスピード勝負の部分がある。すぐに薬の変更を提案しないと、受け入れてもらえなかったり後手後手に回ってしまう事も少なくない。逆に先回りしておけば、医師からも信頼される。それができる数少ない薬剤師が片岡だ。
 そして、このDIという仕事は情報を冷静に吟味し、淡々と業務を遂行しなければならない。その中で私情は邪魔になった。なるべく余計な事は考えず、機械のように仕事をしたほうが、圧倒的に効率が良い。いつしか私は感情を押しつぶして仕事をするようにしていた。

 私は病院に勤めているが孤独で患者と接しない。
 私のように感情表現が苦手で根暗な人間にはお似合いだと思う。私の仕事はDI業務と言って、医薬品情報の提供を行う仕事だ。DIとはDrug informationの略で医薬品情報と訳される。薬の効果や副作用、薬価や薬の味などの情報を管理し、必要時に情報提供を行う。一日の大半を医薬品添付文書やカビくさい書籍に囲まれたDI室という個室にこもり作業を行う。
 病棟薬剤師と違い、患者さんと接する事などほとんどないし、医師から問い合わせがあっても、電話で済ませる事も多く顔を合わせて仕事をする事などほとんどない。顔をあわせるとしたらメーカーの営業、つまりMRが薬の営業にくるときくらいだ。MRは基本的に愛想がいいけど、それも薬を売るためだから本当のコミュニケーションなんてあるわけがない。そんな孤独を感じながらも自分に適任だと思いながら日々業務を行っている。私の仕事なんて薬剤師でなくてもできるだろうに、ましてや人工知能を持った機械にとりかわってしまえばいいのにとも思っていた。彼と会うまでは。
 デスクのPCをシャットダウンすると背景画像にしている薬剤課の集合写真もブラックアウトする。集合写真は十年前に撮ったもので、久美子さんと私と斎藤君が右隅に並んで立っている。久美子さんからDI業務を引き継ぎ、その後斎藤君が入職してきて一緒にDI業務を始めたばかりの頃だった。私が生まれてはじめて心を許した、いわゆる親友とも言いたいくらいの二人だ。しかし、この三人は別々の道を歩いている。久美子さんは向いの門前薬局であるクローバー薬局の薬局長を務め、斎藤君は一年前突然退職し桜木町のドラッグストアで働いている。そして私はこのみなとみらい病院に残った。この写真が私を病院に繋ぎ止めている。そして、これがないと自分が薬剤課の一員で薬剤師である事を忘れてしまいそうになる。そして、周りにも忘れられないように始業と終業の挨拶だけは欠かしてはいけない。今日の当直者に挨拶をするためDI室から調剤室へ向かった。

 就業終了時間である17時からは勤務が夜勤や当直に変わる。それは医師、看護師、その他スタッフも同じだ。この時間までに日勤看護師は夜勤看護師へ申し送りをし、医師は日勤帯のうちに処方を入力する。私たち薬剤師はその処方された薬を調剤するのだが、医師がギリギリまで処方しないため、調剤は17時以降の当直者がする事となる。病院によってはシフトをずらして17時以降に二人で調剤・監査をする事もあるがうちの病院では当直者のみの業務となっている。シフトをずらす事は常に提案しているのだがなかなか上が通さないらしい。そのため17時から18時までの一時間は魔の時間帯でかなり忙しい。薬剤師はバタバタ走りながら調剤をし、切っても切ってもすぐにかかってくる電話を受けたりしているのだが今日は電話の音はせずそのような雰囲気はなさそうだ。救急外来へ行っているのかと思って奥を覗いてみると、片岡奈々が肩肘をつき暇そうに座っていた。
「あれ?今日の当直片岡なの?」
 片岡は視線を一度私に向けたあと遠くを見た。遠い目というやつだ。視線の先には輸液が入った段ボールが積まれているだけだ。
「今日珍しく暇なんですよ。今世紀最大の暇です」
 片岡はPHSのネックストラップをつまみ、ぶらぶらとさせながら言った。
「あっ、そういえばブイフェンドの件ありがとうございました。教えてもらったおかげで併用禁忌のハルシオンは無事ルネスタに変更してもらいました」
「そう、良かったわね」
「それと、用法・用量もちょっとだけ調節させてもらいました。これで絶対よくなるはずです!」
「頼もしいわね」
「でも、外科の先生ってどうしてこんなに薬の使い方が下手なんですかね?特に神田先生は酷いです」
「神田先生の手はオペするためだけにあるの。メスは持ててもマウスは持てない作りになっているのよ。それに、オペしてほしいって県外からも患者さん来ているのよ」
「まぁ、確かにオペはすごい上手って聞きますけど……。でも、薬の事をもっと勉強してほしいんですよね。この前なんて、セロクラールとセロクエル間違えたし、ルネスタとロゼレムがどっちがどっちか未だに判別つかないし」
「片岡、あなたがしっかり教育してあげなさい。これも薬剤師の大切な仕事よ」
「はぁ〜い」
 片岡は力のない返事をして、またPHSを目の前でぶらぶらさせている。


「そうだ!」
 片岡は急に思い出したように声を上げた。
「板橋先輩、男の人と歩いていたでしょ?桜木町で」
「いや、あれは別に……」
 斎藤君と歩いているところを見られたらしい。先週二人で食事をした帰り道だろう。偶然見られているとは。しかも片岡に。今後外出する際にはマスクと帽子をしたほうが良いかもしれない。
「片岡、顔にやけすぎだから。彼とは何もないわよ」
 にやにやしながら聞いてくる片岡に動揺を悟られないよう努めて冷静に振舞う。
「えー?彼氏じゃないんですか?」
「か、れ、し!?はぁ?」
 私はこの手の話が正直苦手だ。人の恋話を聞く事は嫌ではないのだが、自分の事となると話は別だ。自分のいやらしい部分や情けない部分を知られそうで、なんとも恥ずかしい。
「だって普通に話してたし、カップルみたいでしたよ?」
 私が男性と普通に話をしていると、それは異常なのか?もう少し人とコミュニケーションをとらなければいけないという事を反省すると同時にカップルみたいと言われる事に少しの嬉しさはあった。しかし、実際付き合っているわけではない事は事実なので話さなければいけない。
「斎藤君はね、以前この病院で働いてたの。前は、DI業務も2人でやってた時があってね。それは、私が体調を崩すときがあるから、薬局長が気をきかせて、1人フォローを入れてくれたの。ほら、昔、私が生理の時死にそうになってたって話したことあったでしょ?今は薬飲んでるから、その時に比べてかなり楽になったのだけど、それでも、半日は寝込む事もあるくらい。当時はタバコも吸ってたし。タバコ吸ってルナベル飲むってありえないじゃない?」
「血栓のリスクが上がるって事ですか?」
「そう。私、海外旅行も好きだから、それで飛行機乗ったりしたら、血栓できちゃうじゃない。絶対禁煙できないと思ったんだけど、頑張ってタバコをやめて、薬を飲むようにしたら、今までなんで薬飲まなかったのかってくらい、楽になったわ」
「……」
 片岡を見ると、その話はどうでもいいという顔でこっちを向いている。
「あっ、その話じゃなかったわね」
「そうです。私が聞きたいのは、板橋さんとその斎藤さんの間に何があったかです」
「何もないわよ」
「ほんとに、何にもしなかったんですか?」
「あるわけないじゃない!」
 まったく、食事とそういう行為が直結するという発想はいかにも漫画やドラマに影響された若い子の考えだ、と思う反面、あのとき何も期待していなかったわけではない自分を思い出す。
「ふーん」
 こちらの隠していた気持ちを悟られたわけではないだろうが、板橋は何やら納得いかない様子だ。しかし、仕事に一途だと思っていた片岡から恋話を振られる事なんて初めてだ。彼女にも何かあったのだろうか。
「それで、その斎藤さんはどんな方なのですか?当直暇なんで教えてくださいよー」
 相変わらず片岡はにやにやしている。
「当直暇じゃなくても聞いてきたでしょ?」
「はい」
 満面の笑みを浮かべる片岡。とってもわかりやすい。
「しょうがないわね。私も誤解されたくないから、話してあげるわよ」
 私は片岡の横に椅子を持ってきて正面にある輸液の段ボールをみつめながら、一から話を始めることにした。
「彼はとてもできる子だった。筑波大附属駒場からの千葉大薬学部で、頭の回転はすごく良くて、それにコミュニケーション能力も高くて、外部の対応もそつなくこなし言うことなかったわ」
「へぇー凄いですね」
 まったくの生返事だ。
「片岡が聴きたいのは、仕事より恋の話でしょ?」
「そうです」
 きっぱりと言い放つと、キラキラした眼をこちらに向ける。
「あのね、話っていうのは順番があるの」
 序盤から飽きてきている片岡をよそに私は話を続けた。彼の経歴もこの話を話す上で非常に重要なのだ。
「最初はあまりに出来過ぎるから一度いじわるしてみたことがあったの」
「えー?いじわるですか?靴に画鋲を入れたりとかですか?」
「そんな小学生みたいな事なんてしないわよ。社会人になって靴に画鋲とか幼稚すぎるわ。社会人になったらもっと黒いことをいくらでもできるじゃない、例えば……」
「先輩、そのもっと黒い事は一旦置いておきましょう。先輩のオーラが黒光りしてきました」
「あら、この話もなかなか楽しいわよ?」
「私が聞きたいのは、斎藤さんとの恋の話です」
 私はため息をついて話を続ける。黒い話もなかなか楽しいのに。
「彼に何も教えずに新しい仕事を任せてみたの。DIニュースの作成。片岡も知ってると思うけどDIニュースって、新薬の情報や、ブルーレターやイエローレター、その他、処方で気をつけて欲しい事とかを院内に流す大切なもの。もちろん斎藤君に教えなかったから出来なかったのだけど、その仕事を一生懸命やろうとしていたし、わからないところも私に上手い事聞きだして最終的にやり遂げたわ。完成したものを見たら私が作ったものより出来が良いんじゃないかってくらいで」
「へぇー、すごいですね」
 片岡は相変わらずの返答だ。本題に入らないと寝てしまいそうな勢いである。
「でも、斎藤さんは今薬剤課にいないって事は辞めちゃったんですよね?」
「そう、辞めちゃった」
「どうしてですか?もしかして、先輩がいじめ過ぎて辞めちゃったとか?」
「そんなわけないじゃない」
 私は片岡を睨んだが片岡はそれも気にする様子はない。無邪気は無敵だ。
「いじわるしたのは、その時だけ。その時に気づいたのよ。私は彼に敵わないって。それ以降は、彼の事を普通のスタッフより大事にしたわ。だって、優秀な部下を離したくないじゃない」
「じゃあ、どうして辞めちゃったんですか?」
「それはね、ちょっとした事件があったからなの。『ガンナオルマブ』っていう抗ガン剤って知っている?」
「それって確か5年前くらい、私が入社した頃に採用した薬ですよね」
「そう、奈々の時は本採用だけど、その前に患者限定で採用した事があってね。当時、ガンナオルマブはすでに欧米で発売して、膵癌に使う抗がん剤の中でもずば抜けた効果があるってことで、すごく話題になっていたわ。でも、どうしても日本ではドラッグラグがあってすぐには使えなかったの。ついに日本で承認が降りて使えるようになった。それと同じタイミングで、齋藤君のお母さんが膵癌という事がわかったの。齋藤君はその抗がん剤の効果は知っていたから、どうしてもお母さんに使いたかったのでしょうね。主治医にも、上の先生にも、何度も掛け合って採用をお願いしたわ。片岡、やくしんって知ってる?」
「薬で湿疹が出来る事ですか?」
「そっちじゃないわ。薬事審議委員会。薬の採用を決定する委員会よ。出席するのは院長をはじめ、各部の部長。部長同士って仲良くないし、メーカーとの関係もあったり、様々な利害関係があるから会議は結構カオスで、1つの薬を採用するのはすごく大変なの。それに薬の採用では、きちんとエビデンスを提出しなきゃいけなくて、特にうちの病院は抗がん剤については保守的で厳しくてね。効果を示す論文は必要だし、基本的には国内のものでなくてはいけないというルールがうちにはあるの。もちろん、国内のデータがまだ出ていない時はアジア圏や黄色人種のデータで代用できるけど、なかなかそんな論文ないのよ。そういう場合、論文は海外のデータで審議されるけど、なかなか採用までいかない」
「それってどうしてですか?」
「それはうちの病院の方針ね。もともとうちの系列は緩和ケアから始まった病院だから、理事長だって、院長だって抗がん剤は大嫌い。だから、昔から抗がん剤で治療する事には積極的ではなくて、苦しい思いをしながら数ヶ月余命を延ばす程度の効果の抗がん剤なんて絶対採用されないし、採用したところでその薬を使う医師なんていないの。よっぽど患者の希望があるか、明確なエビデンスが無い限り抗がん剤は使われない」
「確かにこの間私が受け持った岡さんも抗がん剤は1剤で終了しました。ガンナオルマブや他剤に変える選択肢もあったのに、それを選ばなかった事をずっと不思議に思っていたんです」
「うちにはそういう医者が集まるのよ。もちろんそれを希望する患者もね」
「そっかぁ……。それで、斎藤さんはそれからどうしたんですか?」
「齋藤君は『ガンナオルマブ』を採用したいためにすべて自分で揃えたわ。もちろん普段は採用する医者の仕事なんだけどね。仲の良い内科医を説得して、採用申請書を書いてもらったり、その内科の部長にも話を通してもらっていた。結局、薬剤師がどんなに頑張っても最終的には医者じゃないとできない事も多くて大変そうだったわ。それに、その時は日本で申請が通ったばかりだったから国内のデータは無かった。だから、海外論文を2本そろえて薬審の準備をしてたの。でも、薬審の一週間前に新しい論文が出たわ。それは、アジア人には効果が薄くて副作用が出る可能性が高いというものだった。ある遺伝子がそれに関与していると示唆はされたけど、それを検査してから投与するまでの仕組みなんて当時はできてなかった。今でこそ、その遺伝子を調べる方法はあるけどね。齋藤君はもちろんその論文を読んで知っていたと思う。でも、薬審にはその論文は提出しなかった。うちの病院に抗がん剤は好きじゃないけどやたら詳しい医師がいるじゃない?」
「ヤクザ医師ですか?」
「まぁ、遠藤先生の事をそういう言い方をする人もいるわね」
 遠藤先生は当院第一外科の部長で右頬に大きな傷がある。それがヤクザと言われる所以だ。別に右頬の傷はもちろんヤクザにつけられたわけではなく、子どもの頃自転車で転んでできた傷らしいが、だれもそれを信じようとしない。 
「ところで片岡、遠藤先生って実は猫好きって知ってた?」
「マジですか?」
「えぇ、家に十匹いるらしいわよ。なんだか名前も可愛くて、ルナ、ジジ、たま、影千代、ノンタン、さかもと、ニャース、バロン、マイケル、スフィンクス」
「先輩、なんでそんなどうでもいい事まで覚えているんですか?」
「私、記憶力だけはいいのよ。それに医者と話をするにはプライベートな事も覚えておくと得する事も多いのよ」

「遠藤先生、ヤクザかと思っていましたけど、今日から見る目が変わりました」
「しゃべり方が怖いから、強面にみえるけど、じっくりみると案外かわいい顔しているのよ。それに悪い先生じゃないもの」 
 機嫌が悪いとドスの効いた低音ボイスを出すけれども、決して悪い医師だとは私は思っていない。むしろ、誰よりも勉強家だと思うし患者の幸せを心底から願って治療する医師だ。その遠藤医師があえて斎藤君に指摘したには理由があった。
「8年前、私と斎藤君は一緒に薬審に出席していた。遠藤先生は斎藤君にこう言ったわ」

「おい、斎藤。ガンナオルマブは日本でエビデンスがない。アジア人には効果が薄く、副作用のリスクが高い可能性が示唆されている。お前、それなのに申請を出すとはいい度胸だな。それにどうしてその論文が申請書についていないんだ?お前だってそれぐらい読んでここに来ているんだろう?」
「はい、読みました」
「じゃぁ、どうして論文が薬審に出てねぇんだよ」
「今回のケースはその論文には当てはまらないと考え提出しませんでした。その理由は……」

「理由は……?」
「実はこの時私生理痛がひどくて一旦中座してたのよ。だから理由は知らないの」
「はぁ、それでどうなったのですか?」
「採用か不採用かの議論が白熱して、結局多数決。最終的には一票差で採用。ただし条件付き」
「条件?」
「グレード2以上の副作用が出た時点で即中止」
「それって、もし効果が出ていたとしてもですか?」
「もちろん」
「でも、グレード2なら減量で投与する事だって」
「それは許されなかった」
「厳しすぎませんか?」
「確かに厳しい条件よ。その条件を出したのが、最後の賛成票を投じたヤクザ医師こと遠藤先生」
「……」
「本当は通らないはずの申請だったのよ。でも、なんとか条件付きで採用になった。その時、斎藤君が土下座したという噂もでたくらい」
「そこまでして通したい理由は何だったんですか?」
「お母さんに使いたかったのよ」
「それは必死になるのもわかります」
「採用後、すぐに入院してもらってお母さんに使ったわ。どうなったと思う?」
「効いて、欲しいです……」
「そうよね。私もそう願いながら斎藤君にばれないようこっそりカルテを見に行ったわ。薬は確かに効いていた」
「本当ですか?」
「でも、同時に副作用も出てしまった。そのため抗がん剤は一クールで中止。三ヶ月後には亡くなったわ」
 真正面にある輸液の段ボールを見つめていた片岡の視線が下に落ちた。
「それ以来ガンナオルマブは採用中止。その一年後に効果と副作用を確認する検査方法も確立されて、効く人、効かない人、副作用が出る人、はっきりわかるようになったけど、うちに採用されたのはもっと後。この事を知っている医師は誰も採用しようとしなかったから」
「齋藤さんはどうしたのですか?」
「齋藤君はお母様が亡くなってから、何も言わずに退社しちゃった。男らしいというか、説明不足というか……。その時は責任を取ったつもりなのかなぁって思っていたわ。でもね、この前食事した時にわかったんだけど、そういうつもりじゃなかったみたいなの」
 ちょっとしゃべりすぎたかなと思って腕時計を見ると、すでに19時を過ぎていた。
「あっ、いけない!こんな事をしている場合じゃなかった!もういかなきゃ」
「どこ行くんですか?」
「今日も斎藤君と食事の約束をしているの」
「先輩やっぱり付き合ってるんじゃないんですか?」
 片岡の顔が神妙な面持ちから再びにやにや顔へ戻る。まったく切り替えの早い子だ。
「付き合ってはない!それに、今日は私の先輩もいっしょなの。それと、ヤクザも!じゃあ話の続きはまた明日。当直頑張ってね!」
 適当に片岡をやり過ごして、私は仕事用バッグを掴むと片岡に手を振り調剤室を後にし、急いで久美子さんと斎藤君とヤクザの待つみなとみらいのレストランへ向かった。

 翌日、私は当直明けの片岡に声をかけた。
「片岡おはよう。当直暇そうだったみたいね」
 昨日の夕方と同じ場所で同じ体制で右手で頬杖しながら椅子に座っている。
もしかしたら、あの時からこの格好で固まっているのではないかとも思ってしまう。
「太陰暦最大の何もなしです」
 あなたは太陰暦の何を知っているのかと尋ねようと思ったが、途端にどうでも良くなった。
「じゃぁ、今日飲みに行こうか。昨日の続きを聞きたいでしょ?」
「聞きたいです!!」
 片岡は勢い良く立ち上がってそう言った。そこまでして昨日の話の続きが聞きたいのかと思うのだが、私は片岡のこういう純粋なところが好きだ。
「じゃぁ、今日は最後まで話すから、仕事終わったらメールする。鳥しげ予約しておいて」
「ラジャです!!」
 片岡は敬礼をしたあと立った勢いで自分で倒した椅子を自分で戻していた。それを横目に私はDI室へ向かった。

 その夜、私たちは野毛にある居酒屋鳥しげに集合した。
 鳥しげは私の好きな居酒屋のひとつで、一人でふらっと行く事もある。日々DI業務に従事していて感じる孤独感を居酒屋の喧騒が癒してくれる。
 サラリーマンが仕事の愚痴をこぼしているのを右耳で聞き、左耳ではOLが今の彼と結婚するかしないかという話を盗み聞きする。それをつまみに日本酒をちびちび呑むのが好きだ。そういう他人にとってはどうでもいい話をずっと聞いていると、自分の考えている事もどうでもいいと思えてきて嫌な事を忘れる事ができる。
 でも、今日は一人で飲むのではなく「そういう他人にとってはどうでもいい話」を話す側にいる。

 私たちは居酒屋鳥しげで座敷の席に案内されると、上着をハンガーにかけて向かい合って座った。
「そういえば、昨日ヤクザがあなたの事を褒めていたわよ。うちの若いのが薬の事を聞くとすぐに答えてくれて助かってるって」
「本当ですか?」
「良かったわね。あなたもだいぶ認められているって事よ」
「嬉しいです!でも、どうして昨日はヤクザもいたのですか?組の集会ですか?」
「そうよ、斎藤君が組を抜けるから、けじめをつけるための食事会だったの」
「げっ!マジですか?」
「冗談よ。でも半分本当。斎藤君が日本を離れるからお世話になった人には挨拶しておきたいってことで呼び出された三人なの」
「日本を離れるのですか?ってことは、板橋先輩さみしくなっちゃいますね」
「正直、さみしいわね。それで、どこまで話したっけ?」
 とりあえず頼んだビールと突き出しがテーブルに置かれ、おしぼりで手を拭きながら私は片岡に訊ねた。
「斎藤さんが病院を辞めたところまでです」
「そう、彼はお母さんが亡くなった後、すぐに病院を辞めてドラッグストアに勤めだしたの。桜木町駅前のマツモトヤマキヨタロウ。でも、なんでマツモトヤマキヨタロウで働いたんだと思う?」
「仕事に疲れちゃったとか、ですか?」
「私も最初そうだと思ったの。病院の仕事って責任が多いじゃない?それにお母さんの件で責任を感じてたのかなって思っていたのだけど。でも、そうじゃなかった。ドラッグストアに務めたのはお金を稼ぎたいからだったみたい。それと、大学で非常勤講師もしながら、いろいろやっていたみたいなの。私も昨日彼に教えてもらった。病院辞めてから、なんか彼には近寄りづらくなっちゃってさ。でも、ドラッグストアはのぞいてたから、いるのは確認してたんだけど、最近あまり見かけなくなって。この前、当直明けの日には、思い切って入ってみたら、ちょうど彼がいて、今度飲みにいきませんか?って誘われた。それが片岡に見られた夜の日」

 みなとみらいの夜景が見渡せるホテルのレストランで、私と斎藤君は向かい合ってカジュアルフレンチのコースをいただいていた。普通のアラサー男子には少し格式が高く違和感が出てしまうが、斎藤君のように落ち着いたスマートな男子だとむしろ相応しく見える。
 斎藤君から食事に誘われた事を不思議に思いながらも、当たり障りのない世間話や昔話で食事をすすめ、メインを食べ終わり口元を拭いずっと気になっていたあの時の事を訊ねた。
「どうしてあの時抗がん剤が効くと思ったの?あの時の事(生理中で死にそうで中座していたから)覚えていなくて」
「ガンナオルマブは欧米人に抜群の効果があるものの、アジア人には効果が薄いというのは知っていました。でも母は、混血なんです。もともと母は日系のアメリカ人です。俺のおばあちゃんがアメリカ人でおじいちゃんが日本人で」
 ガンナオルマブは欧米で著明な効果を上げた。膵癌の特効薬と謳われたその薬はアジア人ではエビデンスが薄かった。つまり、効果に人種差があるという事を意味していた。
「アメリカ人の血に賭けたのね」
「そうです。薬の効果は分かっていたので、効果がでる可能性があるのなら薬を使いたかった。確かに抗がん剤の効果はでました。でも、副作用も出ました。母は混血だったので、効果がでる遺伝子と副作用がでる遺伝子の両方を持っていた、という事になります。もしかしたら、アメリカ人の血が強くて、効果がでる遺伝子しか持ってなくて、副作用がでなければいいなぁと淡い希望をもっていましたけど、そう上手くはいかないものですね。薬審では採用の条件として、副作用が出た時点で即中止と言われていたので治療はそこまで。母の命を延ばす事もできませんでした。母にはもう少しだけ長く生きていて欲しかったのに」
「もう少しだけ?」
 私はその言葉が引っかかった。延命のための治療を斎藤君が望んだという事なのだろうか。
「以前、大学院時代に投稿した論文が雑誌に掲載される所だったので、それだけでも見てもらいたかったのです」
 論文が生かす理由なら納得はいく。しかし、斎藤君が論文を書いていたなんて初耳だ。
「正式に決まったら、板橋さんにも話そうと思っていたのです。最終的に掲載はされたのですけど、それは母が亡くなった後でした」
「間に合わなかったのね」
「はい。でも、結果的に良かったと思っています」
「どうして?論文を見てもらうために抗がん剤を使ったのでしょう?」
「実はその論文、抗がん剤の副作用に関する論文です。ある抗がん剤の副作用と遺伝子について。遺伝子はほぼ突き止めて、副作用が発現する人か効果が高い人か、遺伝子検査でわかるという内容の論文でした。でも、その論文が掲載される直前に母が癌だとわかりました。自分の今までの研究は認めて欲しかったのですけど、それよりも母の命が僕にとっては大切でした。それに、結局論文のほうは、自分の名前は削除してもらいました」
「どうしてそんな事?それとこれとは別じゃない。お母様だって論文が掲載されたら喜んだと思うけど」
「僕もそう思う事もありました。でも、それ以上に自分のしてしまった事が許せなくて。僕の論文は抗がん剤が効く人を特定してから抗がん剤を開始しようという内容です。しかし、自分のやった事は「効けばいいな、のギャンブル」です。これは明らかに矛盾しています」
「でも、あなたの3年間は……」
「大丈夫です。後輩が引き継いでいます」
「違うの、あなたの心血をそそいだ3年間は戻ってこないのよ?」
「たった3年です。研究成果以外にも学んだ事はたくさんあります。だからそれでいいです」
 私は言葉が詰まった。3年間研究するという事は容易な事ではない。朝は7時に研究室にいて実験を開始し、昼にはランチョンで論文抄読会。夜は11時を過ぎてからやっと帰り支度。休みは日曜日の午前中くらいで、毎日研究室に行かなければならない。
 彼の所属していた研究室は実績は高いものの、ブラック企業以上の生活を強いられるため社会的に問題にもなったところだ。その3年間と実績を無かった事にすると思えるなんて私には考えられない事だった。
「病院辞めたのもその責任から?」
「責任は感じていますし、反省もしています。でも、一番責任を感じているのは母に対してです。母は自分を信じて抗がん剤治療を受けてくれた。その結果、副作用がでてしまい、辛い思いをさせてしまった……」
「でも、効果も出ていたのでしょう?」
「確かに癌は少しだけ縮小していたのですが、それより副作用がつらそうでした。薬審では副作用がグレード2以上で即終了の約束でしたが、その約束がなくても治療を終了して妥当だったと思います。薬をやめても副作用はグレード4にまでなってしまいましたから」
「そう……」
「でも、病院を辞めた一番の理由はお金を稼ぐためです。病院って給料安いじゃないですか。少しでも高いドラッグストアに勤めればお金が溜まるかなって思って」
「どうしてお金を稼ぐ必要があるの?」
 私は話を進めるために質問を重ねる。斎藤君に次に会える約束がない。そして、会えなくなるような予感がする。だから、すべて聞いておかなければいけない。その質問の答えが私が聞きたくないものだとわかっていても。
「アメリカへ行くためです。最初は母の育ったアメリカで働きたいと思って、お金を貯めていました。奨学金も借りていたから、日本を出る前に先に返しておきたくて。その間、いろいろ探していたらアメリカのベンチャー起業で、癌ワクチンの研究をしてる所があるんです。そこに応募したら受かっちゃって、そこに行く事にしました。最初は雑用ばかりみたいですけど、その中で結果を出す自信はあります。それに、癌を治すより予防できればそれに勝るものはないじゃないですか」
 彼は未来への展望に目を輝かせて微笑を浮かべているが、私には笑える要素が一つもなかった。
 癌を予防するというのは夢の話だ。何十年も前から天才的頭脳を持つ科学者達がその夢に挑戦し続けているが達成したものはいない。絶対不可能という次元だ。しかし、彼は結果を出す自信があると言った。私には見守るしか方法はない。私が何を言っても彼は自分のやりたい事を変えないだろう。
「そう……。それでいつから行くの?」
「今月末です。実は今回食事に誘ったのも板橋さんにはお礼を言いたくて。
本当にお世話になりました」
 斎藤君はテーブルにつきそうなほど頭を下げた。頭を下げられた私はどうしていいのかわからなかった。

「それで、先輩。その後はどうしたんですか?ほら、ホテル街からでてきたじゃないですか?」
「あれ?情けない話だけどさ、私から誘ったの。こっちのほうが近道だからって」
「先輩積極的~」
「でも、歩いているときに『私の事尊敬してた』とか、言われて、その後ずっと感謝の言葉。そんな事されたらそのまま駅まで来ちゃうわよ」
「何もなかったんですね……」
「なーんにもね。私だってこのまま良い先輩でいなきゃって思うじゃない。ちょっと期待したりそれとなく誘ってた事も恥ずかしくなっちゃたわよ。そういうあなたはどうなのよ!」
「何もありません!!」
 ここまできっぱり言う子はこの世にいるのだろうか。清々しいほど何もなさそうだ。
「私と一緒ね」
「そういえば、昨日の食事の時に一緒にいた人って誰ですか?イケメンですか?」
 まったくこの子はサカりなのだろうか。
「違うわよ。私の師匠の久美子さん。残念ながら女性よ。でも、男前。あなたも会った事ないかしら?向かいの薬局で働いているから」
「え!?もしかして、クローバー薬局の?」
 片岡の目にハートマークが灯る。どうも何かありそうだ。
「あら、その様子だと知っているようね」
「だって、真澄ちゃんが好きな人だもん」
「誰よ、真澄ちゃんって」
「私の大学の同期でクローバー薬局で働いています。一応男子なんですけど、ちょっとなよっとしていて、微妙におねぇっていうか」
「じゃぁ、久美子さんの好きなタイプじゃないわね」
「でも、たまに男らしいところみせるんですよ?」
「へぇ……。ちょっと気になるわね」
「今度一緒にクローバー薬局行ってみませんか?」
「そうね、ちょっと冷やかしに行こうかしら」
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