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車をぶつけて逃げました 作者:光太朗

次の日

  翌朝、つぶれたように傷ついている車を見て、少しためらったが、結局いつもどおり、私は車で登校した。校舎からは少し遠いが、その代わり混雑しない、いつもの駐車場に停める。
 昨日、ずっと私の胸を叩いていた心臓は、今日はもうだいぶおとなしくなっていた。それでも、罪悪感のような、後ろめたさのような……ひどく心臓に悪いスリルのようなものが、体内を巡っていた。
 心臓が、胸のずっと上の方にあって、ちょっとした衝撃で口から出てくるのではないか、というような感覚だった。
 怖い、のかもしれなかった。
 それでも私は、普通であることにしがみつき、必要以上に当たり前に講義を受けた。友人との会話にもそつなく応じる。昨日のことを誰かに話そう、という気にはなれなかった。昨日、現場にいた友人とも、その話は一切しなかった。
 日常が動いたのは、昼休みだ。
 携帯電話が鳴った。びくり、とした。
「ちょっと、電話みたい。出てくるね」
「……大丈夫?」
 様子がおかしかったのだろうか。昨日一緒だった友人とは別の子が、心配そうに声をかけてくる。返事をする余裕はない。
 食堂から出て、人気のないところで、電話をとった。父からだ。
「おまえ、昨日の車……ぶつけたの、電信柱じゃないのか。警察から、家に電話があった」
 警察──
 ふっと、一気に、熱が引いた。ずいぶん遅れて、冷や汗が垂れた。
 どう返事をしたかは覚えていない。たぶん、たいしたことはいえなかったのだと思う。
 とにかくすぐ帰ってこい──そんなようなことをいわれたのか、ともかく私は友人のところへ戻り、午後の授業は休む旨を告げると、車へ急いだ。走るようにして、駐車場にたどり着く。
 フロントガラスに張ってある大きな紙を見て、泣きそうになった。
 すぐに下記に電話を──という内容と、電話番号。市の警察署の名前が書かれている。
 電話をすると、すぐに来い、といわれた。
 真っ白な頭で、車に乗った。
 ハンドルを握っていると、涙がどんどん溢れてきた。
 当たり前のように、平和に流れてくるカーステレオの音にいらだち、音という音はすべて切って、窓も全部開け放ち、しゃくり上げながら運転した。
全身が熱を発しているみたいに、カァーっと熱くなっていた。涙は、悲しいとか辛いとか、そういうことではなくて、ただ体内の水分が沸騰して、どんどん溢れてきているようだった。
 ──なんて馬鹿なことをしたんだろう。
 何度も何度も、自分を責めた。
 なんで逃げてしまったんだろう。
 なんで逃げてしまったんだろう。
 なんで逃げてしまったんだろう。

 警察署に到着して、車のなかで、私は懸命に涙を拭った。
 泣いていてはいけないと思った。
 私は、加害者であって、被害者ではない。私は決して、かわいそうではない。
 私が泣くのは卑怯だ。
 車をぶつけられた人が、私が泣いているのを見たらどう思う?
 憤るに決まっている。
 ふざけるな、と思うに決まっている。
 泣きやめ、泣きやめ──呪文のようにつぶやいて、ハンドタオルで乱暴に顔を拭い、車から出た。入り口で、無表情な警察官の一人に、こちらも無表情に事情を話し、案内されるままに奥の部屋へ進んだ。
「……失礼します」
 一声かけて、部屋に入った。この期に及んで、模範的であろうとしている自分に少し呆れたが、私は本来、こういう人間なのだと思い出した。思い出して、自嘲した。
 この状況で、そんなことは何の自慢にもならない。
「ああ……はい、座って」
 促され、無機質な、細長い白い机の前の、パイプ椅子のようなものに腰をおろした。部屋自体は狭くはないのだろうが、こうやって話をするためか、長机で空間が仕切られている。ロッカーや壁など、至るところに張り紙がしてある、雑多な印象の部屋だった。
 億劫そうに首を回しながら、一人の警察官が私の前に座った。
「あなたね、自分が何をしたかわかる?」
 息が止まりそうになった。はい、としっかり声にしたつもりが、小さな囁きになっていた。
「状況をね、説明してもらえるかな。どこに車が置いてあって、どういうふうにぶつけたの」
 事務的な、淡々としたいい方。どちらかというと、面倒そうだ。
 紙とペンを渡されたので、私はできるだけ詳細に思い出しながら、駐車場の図を書いた。
 私がぶつけてしまったあの車は、出入り口を半分塞ぐように駐車されていた。その反対側には自転車が並び、ひどく出にくい状況になっていたことを、そのとおり、書いた。
 自分を弁護したい気持ちもあったのだろう。私が悪いけど、向こうのマナーも悪いでしょ──そんなことはいわなかったが、そう思われたかったのだ。
 どこまでも狡い。最初は逃げて、今度は自分を被害者にするつもりか。
「じゃあ、自転車の方にぶつけたらまだよかったのにねえ。相手の車の停める位置もよくないけどね、とはいっても、駐車禁止の場所に停めてあったとか、そういうのじゃないからねえ」
 正論を、ごく当たり前に告げられる。そのままのテンションで、彼は続けた。
「そのね、がりがりやってるところを、車の持ち主の友人が見ててね、君の車のナンバーをメモしてたんだよ」
 頭のなかがぐるぐるした。
 で、君は逃げちゃったんだよね──
 そんなようなことをいわれたときに、自分のことを卑怯者だと感じる部分とは、別の部分がむくむくとふくらんできた。
 そうして、私という形にまで成長したもう一人の自分が、私の説得を始めた。
 ねえ、私、そんなに卑怯?
 だって、思い出して。
 私は、ぶつけるつもりなんてなかった。
 その場に持ち主がいなくて、混乱して、そこから離れてしまった。
 逃げようなんて思っていなかった。
 ──背中を押されるようにして、私は口を開けた。
「だって、逃げたって、逃げ切れると思うほど、バカじゃないです。いつも人がいっぱいいる場所です。誰かが見てることなんて、わかってました。逃げるとか逃げないではなくて、とにかく気が動転して、その場から離れてしまったんです」
 自分ではない自分が、急に顔を上げて、そんなことを口走っていた。
 不思議なことに、その声を聞いていると、自分がどんどん丸め込まれていくようだった。
 自分は確かに悪いが、根本部分では悪くないような気さえしてきた。
 もう一人の自分は、震える声で──妙に可哀想な声で、続けた。
「どうしようどうしようって、家に帰ってしまってから気が気じゃなくて、一睡もできませんでした。なんで帰ってきちゃったんだろうって。でも、今更大学に戻っても、どんな車だったか覚えてないし、持ち主もわからないし……」
 私のなかで、私がゆっくりと塗り替えられていった。
 自分を庇護する虚言が、真実に変わっていくのをはっきりと感じた。
 そうだ、昨日は一睡もできなかったんだ。
 どうやって謝ろうかと、ずっと考えてたんだ。
「こうやって、向こうから見つけてくれて、よかったです……これで、ちゃんと謝って、弁償できます……許されるとは思ってないけど、よかった……」
 警察官のため息が、妙に耳についた。
 そのため息は、どういう意味だろう。
「それでもね、眠れない日なんて一日二日で、そんな日はすぐに過ぎて、だんだん忘れていったんだろ。こうやって、警察に呼ばれでもしなきゃ、そんなことあったっけ、ってね」
 ズキンとした。
 そのとおりなのだろう。
「本当はね、大学の構内で起こったことに、警察は出てこないんだよ。公共の道路とかじゃないからね。ただ、今回は相手がこっちに連絡してきちゃったから、例外だね」
 その後、書類に名前を書かされ、事務的な手続きをした。
 外に持ち主がいるから、ちゃんと話し合ってね、といわれ、外に出た。

 男の子だった。
 顔を見て、一気に涙が溢れて、私は子どもみたいに泣き出した。
 私が悪いとか、悪くないとか、そんな理屈はどこかに吹っ飛んでしまった。
 泣いちゃだめ、となけなしの理性が命令するが、しゃくりあげるのがどうしてもおさまらず、切れ切れの声で謝罪の言葉を何度も吐いた。
 相手の表情は見なかった。
 ただ、どうにか携帯番号と名前の交換をしたような気がする。保険会社に電話をしたのだろうか。そのあたりのことは、まったく覚えていない。
 とにかく私はずっと泣いていた。
 弁解をする余裕も、被害者ぶる余裕も、あるはずがなかった。悔いる涙と、謝罪の言葉を、ずっと垂れ流した。

 家に帰ると、父は一言、大変だったな、といった。
 もともと感情的な母は、ひどく取り乱して泣いていた。
「どうして、そんなこと」
「娘が犯罪者になるなんて」
「いつの間に、そんな子になっちゃったの」
「お母さんは、悲しい、悲しい、悲しい──」
 すでに自分と一つになったもう一人の自分が、警察署でしたような話を繰り返した。
 自分を庇護しているのだと悟られないように、注意深く心理描写を省いた。
 自分の狡猾さには、もう気づかなくなっていた。


読み返しても憂鬱に…。
あと二回ほど続きます。
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