桜守りの龍と春待ちの少女
この国には、桜守りの龍がいる。
龍は途方もなく長い間、廃墟となったかつての都の片隅でその桜を守っていた。
一体どうしてその龍が、ただひとり桜を守り続けているのかは誰も知らない。
ある詩人いわく、龍が守る桜の下には、在りし日に彼が契った美しき姫が眠っているのだという。
その桜が咲いている間だけ、龍は姫の幻と戯れることができるのだとその詩人は儚く詠った。
けれど春蘭は思うのだ。
そんなのは龍がかわいそうだと。
*
桜龍は、困っていた。
そこはかつてこの国の中心であった場所。華やかな皇族たちが優雅に暮らし、誰もがきらびやかな夢を見た宮城跡。
その城址の片隅に、もう誰も覚えていないほど遥か昔から、一本の大木が立っていた。
それが桜龍の宿る桜の木だ。まるで龍が天へ向けて頭をもたげ、長い体をねじったような姿のその古木は、過日宮城を囲んでいた塀の隅にぽつねんと佇んでいる。
その枝ぶりは実に見事――と言うより既に伸び放題で、枝の重さに耐えかねた幹が不自然に曲がり、今は崩れかかった塀にもたれてようやくそこに立っていた。
が、そんな年老いた大木の前に、先程から一人の少女が立っている。
歳は十一、二歳くらいだろうか。小柄で愛らしい顔立ちをしているのに、今はその形のいい眉を吊り上げ、まるで親の仇でも見るような目でキッと桜を睨んでいた。
両手を腰に当て、忿怒の表情を浮かべてこちらを睨む様は、まさに〝仁王立ち〟という言葉がぴったりだ。
少女がまとう上等な赤の長襖は、彼女がそれなりに裕福な家の生まれであることを物語っている。金糸の刺繍に白い衿が眩しい少女のいでたちは桜龍の脳裏に、かつてこの宮城を賑やかしていた蝶たちを思い出させた。
けれども少女の不穏極まりない形相は、とてもあの蝶たちに似ているとは言えない。
桜龍は何故自分が――というか、自分の宿るこの大木が――少女に睨まれなければならないのか、皆目見当がつかなかった。
そのくせ少女は眦を決したまま、
「やい、桜守り! いるんでしょう!? いるなら姿を現しなさい!」
などと、先程から鋭い声で喚き立てている。
桜龍は自身の長い体を桜の木に巻きつけながら、さてどうしたものかと思案した。今の自分の姿は、恐らく少女には見えていないのだ。桜龍が宿る桜はもうずいぶんな年寄りだから、桜龍の姿を人の目に見えるようにするだけでもかなりの負担がかかってしまう。
そもそも既に人の住まわぬ廃墟となって久しいこの場所に、どうしてこんな少女がいるのだろうと、桜龍は白い角の生えた首を傾げた。
あたりに少女の縁者と思しい者の姿は見当たらないし、かと言ってこのあたりには、少女くらいの歳の子が一人で歩いてこれるほどの距離に邑や巷はない。
だとすればこの少女は一体どこから現れたのだろうか。あるいは桜龍が気づかなかっただけで、百年前の大火で焼けたこの古都に人が戻り始めたのか――などとゆっくり思索することを、この少女は許してくれない。
「こらぁっ、桜守り! ねえ、聞こえてるんでしょう!? いつまでも隠れてないで出てきなさい! さもないと燃やしちゃうわよ!」
「それは困る」
と、桜龍は叉のように分かれた太い枝の間から、ついにむくりと頭をもたげた。
その瞬間、少女が驚いたようにあとずさる。見開かれた黒い瞳に映っているのはまぎれもなく、全身を淡い淡い桜色の鱗で覆われた桜龍の姿だ。
「娘よ。これで満足か?」
「……!」
「何をそんなに驚く。私がそなたの呼ぶ〝桜守り〟だ」
久しぶりに人前に姿を現したので、桜龍はそれだけでどっと疲れを感じた。
けれども何とかしかつめらしい声を出し、少女を脅しつけようとする。
まさか本当に少女が火をつけるつもりだとは思わなかったが、万に一つのことがあっては困るので、そんな真似は許さないぞ、というのを態度で示した。
桜龍はただ、残りわずかな余生を静かに過ごしたいのだ。だからこのやたらと騒がしい少女が、あまりに巨大な自分の姿に怯えて逃げ出してくれればと――
「――きれい……」
「え?」
「あなた、とてもきれい。あなたがこの木を守る桜守りなのね」
「……」
桜龍の期待は早々に打ち砕かれた。少女は子供特有の大きな瞳をきらきらと輝かせながら、食い入るように桜龍を見つめている。
そんな風に改めて凝視されると、何だか桜龍もむず痒かった。
――しかも、自分を〝きれいだ〟なんて。
人からそんな言葉をかけられたのは、一体何十年ぶりだろう。
「……娘よ。そなたは――」
「――やめて」
「え?」
「その〝そなた〟って呼び方、やめて。何だかすごく堅苦しいし、わたしには春蘭って名前があるわ」
「シュンラン……?」
「そう。わたしの名前は花春蘭。春に花の蘭と書いて春蘭よ」
「そうか、春蘭。美しい名だ」
「ありがとう。わたしもこの名前だけは気に入ってるの」
後ろで手を組みながら、少女――春蘭ははにかむように笑った。
ずいぶん気の強い子供だと思ったら、そういうところは素直らしい。それに〝春〟という名前の響きに、桜龍は少し心惹かれた。
「では、春蘭よ。君は何をしにここへ来たんだ?」
「もちろん、あなたに会うためよ」
「……私に? 何故?」
「わたし、李黒という人の遺した詩を知ってから、ずっとあなたに会いたかったの。〝姫待ちの龍〟さん」
「姫待ち?」
「そうよ、知らない? 李黒はあなたのことをこう詠ったの。〝春華瞬ぐ間に散じるも、遠幻忘るること能わず、幾星霜の過ぎるとも、花に焦がるる姫待ちの龍〟」
「ああ……」
と、桜龍が気のない声を出せば、春蘭はきょとんとこちらを見上げてきた。
このくらいの歳の子にしては、学があると褒めてやるべきだろうか。しかし桜龍はあいにくそんな気分にはなれず、再び枝の叉にひげの生えた顎を預けながら言う。
「そう言えば、一時期人界ではそんな詩が流行ったそうだな。もうずいぶん昔のことだから忘れていたが」
「この詩はあなたのことでしょう?」
「いいや。その李黒とかいう男のことだろう」
「何ですって?」
「何故なら私は姫など待ってはいない。李黒というのはひどく好色な男だったというからな。どうせ過去にふられた女子への想いを私に託して詠んだとか、そんなところだろう」
「そんな! 嘘よ!」
「嘘じゃない。というかそんなつまらない嘘をつく理由が、私にはない」
春蘭は愕然としていた。その驚きぶりが、今にも魂が抜けてへたり込んでしまいそうな具合だったので、さすがの桜龍もちょっと憐れになる。
「いや、まあ、でも、遠い昔にはそんなこともあった……かもしれない」
「いいえ。いいわ、慰めてくれなくて。わたしには詩学の教養が足りなかった……それだけのことよ」
よろり、とわずかにふらつきながら、春蘭は自らの額を覆ってうなだれた。
その様がますます憐れっぽい。桜龍はつい気の毒になって、もう一度枝の叉から頭をもたげる。
「しかし、それで何故私に会いたかったんだ? 詩の中に出てくる姫の話でも聞きたかったのか?」
「違うわ。ただ、あなたがかわいそうだと思ったから」
「何?」
「もう会えもしない姫を思って、ずっと春を待つあなたがかわいそうだと思ったから。だから、わたしが姫の代わりに会いに行こうと思ったのよ。そうしたら、何かあなたの力になれるかも……なんて、馬鹿なことを考えていた自分を煩悩の数だけ殴りたいわ」
「おいおい」
いくら何でもそれはやりすぎだ、と思いながら、しかしこの少女なら本当にやりかねないという危うさを桜龍は感じた。
だが、理由を聞けば何とも子供らしく愛らしいではないか。晩年を酒色に溺れて過ごしただらしない男の徒詩を額面どおりに受け取って、この老いぼれの孤独を癒しに来てくれたとは。
思えば桜龍は、こうして人と言葉を交わすのさえ数十年ぶりなのだと気づいた。今では焼け朽ちたこの古都に好んで足を運ぶ者などなく、ましてやみすぼらしい老い木となった自分に目を向けてくれる者など絶えて久しかったから。
「まあ、しかし、君のその心遣いは素直に嬉しいよ、春蘭。この国にまだ私のことを覚えていてくれる者がいたのだと分かっただけで、いたずらに長かった我が生もいくばくか報われたような気がする。礼を言おう」
「何を言ってるの? あなたの存在は今でもそれなりに有名よ。李黒の遺した詩は、今でもたくさんの人に愛されているから」
「それは詩が独り歩きをしているだけで、人は詩がもたらす感傷に浸ることはあっても私を顧みたりはしない。現にこうして私に呼びかけてくれたのは、この数十年で君だけだ、春蘭。あとの者は皆、この老い木が詩の中の桜だとも気づかずに、ただ通り過ぎてゆくだけだった。人の記憶の中の私はこの都と共に死んだのだと、そう思っていたよ」
そう言って、桜龍はゆっくりと目を伏せた。瞼を閉じると、今でもこの都が焼けてしまったあの日の情景がまざまざと思い出される。
百年前、この宮城は帝位を簒奪した逆臣によって叩き壊され、城下共々大火に焼かれた。主君を弑し、自ら帝と称した逆臣は二百年もの間この国の都であったこの地を打ち捨て、住む家を失った民を奴隷のように率いて強引に西へ遷都した。
偽帝はのちに先帝の忠臣たちによって討たれたと聞いたが、その後もこの古都に人が戻ってくることはなかった。毎年春がめぐってくると、桜龍の下に集って咲き誇る桜の花を愛でていた人々も、二度と姿を見せることはなかった。
都が廃墟となった翌年の春、桜龍は力いっぱい咲かせた花が虚しく散っていく様を見て、自分はひとりきりになったのだと知った。
だがそうして孤独な春を過ごすのも今年で最後だ。胸の内でぽつりと呟き、桜龍がわずかに目を開けた、そのときだ。
「――なら、わたしが覚えているわ」
「え?」
「これからもずっと、わたしがあなたのことを覚えていてあげる。来年からは毎年この場所へ、あなたの花を愛でに来るわ。ていうか、今年だってもう春も半ばを過ぎているのよ? なのにどうしてあなたの枝には一輪の花も咲いていないの?」
桜龍は、胸を衝かれた。あまり自分の口からは言いたくないことだった。
けれども今ここで真実を告げなければ、この少女はまた来年も、本当に自分に会いに来てしまうだろう。
桜龍は気持ちを落ち着けるために一度深く息を吸い、吐いた。その息が風となり、辛うじて枝の先にしがみついている小さな蕾を微かに揺らす。
「春蘭。この木はもう寿命だ」
「え?」
「ここ数年、まともに花が咲いていない。だから誰も私が詩の中の桜だと気づかないんだよ。私はもう、咲けないんだ。恐らくこの春が、この木と私の最期の季節になるだろう」
春蘭はしばらくの間、茫然と立ち尽くしていた。先刻初めてその瞳に桜龍の姿を映したときのように、ただでさえ大きな目を更に見開いてこちらを見上げている。
「分かったらもうお行き。私の自慢の花を見せてやれないのは心残りだが、最期にこうして人と言葉を交わせて良かった。郷里へ戻ったら――」
「――そんなのだめよ!」
「え?」
「一番きれいな姿をみんなに忘れられたまま、たったひとりで枯れてしまうなんてだめ! だって、そんなの悲しすぎるわ!」
春蘭は、まるで自分のことのように必死だった。少女の瞳に映り込んだ桜龍の姿が滲んで見えたのは、きっとただの気のせいではないはずだ。
やがて春蘭は赤い袖で乱暴に目元を拭い、ぎゅっと唇を引き結んで桜龍を見上げた。
その眼差しのなんとまっすぐなことだろう。桜龍は言葉を失って、そんな少女の姿を見下ろすしかない。
「ねえ、桜守り。あなたの名前は?」
「名前?」
「そうよ。あなたにだって名前くらいあるでしょう?」
「ああ、まあ……名前と呼んでいいのかどうか分からないが、古の人々は私を〝桜龍〟と呼んだ」
「桜龍?」
聞き返すや否や、少女は直前までの泣きっ面など忘れて、至極不満そうな顔をした。
桜龍もまさかそんな反応を返されるとは思わなかったのでたじろぐしかない。桜龍。自分では分かりやすくて良い名だと思っていたのだが、春蘭はそれが大層気に入らなかったらしい。
「何、その拈りのない名前! 桜の龍なんてそのまますぎて面白くないわ! 却下!」
「きゃ、却下と言われても、私には他に呼び名など……」
「しょうがないわねぇ。それじゃあわたしがもっといい名前を考えてあげる。ちょっとそこで待ってなさい。桜守りの龍……桜……」
春蘭は一方的にそう宣言すると、白い顎に手を当てながらぐるぐると木の周りを歩き始めた。
桜龍は言われるがまま、その春蘭の思案が終わるのを待つしかない。まったく妙な子供に捕まったものだと思ったが、今ここで逃げ出そうものならまた火をつけるぞと脅されそうで、大人しく木の上でとぐろを巻いていることにした。
するとやがて春蘭が閃き、
「〝花王〟」
ぴたり、足を止めて言う。
「うん、そうよ。これがいいわ。あなたの名前は、今日から花王!」
「花王、か……〝花〟というのは、君の姓から取ったのか?」
「そうよ。〝花の王〟なんて、何だか強そうでいい名前でしょ」
「私は別に強さなど求めてないんだが……」
「え? 何? 何か言った、花王?」
「……。いや」
春蘭があまりに得意げにそう呼んでみせるので、桜龍は異論を唱えられなくなった。
だが、口の中でもう一度呟いてみる。
花王。
花の王。
何だかそれも悪くない。
「そうだな。いい名前だ。ありがとう、春蘭」
桜龍がそう礼を言えば、根元で立ち止まった春蘭が振り仰ぐようにこちらを見た。
その面輪には、花が咲いたような満面の笑み。
桜龍には、その笑顔がひどく眩しかった。
一方の春蘭はと言えば、体中に春のような歓喜をみなぎらせると、たちまち跳び上がって桜の木へと抱きついてくる。
「それじゃあ決まりね、花王! わたし、今日からあなたと一緒にいるわ! あなたがもう一度花を咲かせるまで、絶対に死なせやしないんだから!」
「……」
それは聞いていなかった。
本気か、と桜龍が問うと、当たり前じゃない、と胸を張って春蘭は言う。
説得して聞くような娘でないことは、ここまでのやりとりで桜龍も何となく察していた。
かくして桜龍は、花王と名を改めた。
桜の命が尽きるまでの、ほんのわずかな間のことである。
*
「――食糧が尽きたわ」
と、春蘭が桜の木の前で地面に手をつきうなだれたのは、彼女が花王の前に現われてから三日目の朝だった。
まあ、それはそうだろうと花王は思う。何せ今この廃墟にいる人間と言えば春蘭一人だ。
当然ながら食べ物を通りで購うことなどできないし、人がいない土地に行商の者が立ち寄る理由もない。むしろそんな状況でよく丸二日も持ったものだな、というのが花王の正直な感想である。
「だから早く郷里へ帰れと言ったんだ。ここじゃどう足掻いても食糧なんて手に入らないぞ」
「あなたは何も食べなくて平気なの、花王?」
「それは、私は桜の化身だからな。桜さえ無事なら飲み食いしなくても生きられる」
「龍っていいわね……私も龍に生まれたかったわ」
「そんないいことばかりじゃないぞ」
龍にだって龍なりの苦労や悩みはあるのだ。花王はもう少しで滔々(とうとう)とそれを語り出すところだったが、今はそんな話をしている場合ではないと思い直し、出かかった言葉を呑み込んだ。
それよりも今は、春蘭が生きてゆくための当面の食糧である。どうも彼女は故郷からここまで、保存が効く食糧を数日分携えて旅してきたようなのだが、それが尽きたとあっては文字どおり死活問題だった。
人間はか弱い生き物だ。特に春蘭のような小さな子供は、二日も食べなければすぐに弱って死んでしまうだろう。
それでは花王も後味が悪い。何しろ春蘭は花王の孤独を癒すために来た、と言い張っているのである。
それがあくまで春蘭の一方的な主張だとしても、だからと言って彼女を見捨てて良い理由にはならなかった。
花王はしばし考えたのち、一つため息をついて言う。
「私は、この桜のもとを離れてあまり遠くへ行くことはできないのだが」
「え?」
「そんな私でも辿り着ける邑が一つ、ここより南の方にある。そこへ行けば、何か食糧を購えるかもしれない」
「本当!?」
「ただし、君が銭を持っていればの話だ。私は邑には入れないから、君が自分で食糧を手に入れてくる必要がある」
「平気よ、お金なら作れるから。でも、どうして花王は邑に入れないの?」
「私のような生き物が突然現れると、邑の者たちが怯えて逃げ惑うからだよ」
「そうかしら。わたしなら、こんなにきれいな生き物が現れたら喜んで迎えに行くわ」
「君は変わり者だからな」
「失礼ね。感受性が豊かだと言ってくれない?」
春蘭は両手を腰に当て、むっとした様子で反論した。花王もそんな春蘭とのやりとりにはすっかり慣れ始めていたから、「はいはい」と適当な返事をして彼女の利かん気を受け流す。
この二日、春蘭は夜眠るとき以外はずっと花王の傍にいて、飽きもせず色々な話をした。
その話によると、どうも春蘭はここより西の新都から遥々旅をしてきたようである。生家は都でもそこそこ名の売れた商家で、幼い頃から学舎に通い、それはそれは大変優秀な成績を修めた、と本人は言った。
あくまで真偽の定かならぬ本人の談なので、花王は半信半疑である。ただ、春蘭が歳のわりに様々な物事に対し造詣が深いのは事実だし、言動が全般的にこまっしゃくれていることを考え合わせると、あながちでまかせというわけでもなさそうだった。
中でも春蘭が特に熱を上げて語るのは、花王が知らない今の都の様子や国の歴史、そして古今の詩歌のことだ。およそ百年の間この都から外へ出たことのない花王にとって、春蘭が得意げに語る蘊蓄の数々は大変興味深いものばかりだった。
しかし花王はそうした話を聞けば聞くほど、ああ、自分は本当に時に取り残されてしまったのだなという思いが強くなる。
春蘭に悪気はないのだろうが、彼女の話は花王と外の世界との間に横たわる百年の隔絶を――そして何より、花王がここに留まり続ける理由はもう何もないのだという事実を、はっきりと浮き彫りにした。
かつて花王が愛し慈しんだ人々は、もうこの世のどこにもいないのだ。
そして同じように、かつて花王を愛し手を差し伸べてくれた人々も、もうこの世のどこにもいない。
「――お待たせ、花王!」
やがて聞こえた呼び声に、花王は伏せていた瞼をすっともたげた。
束の間ぼやけた視界が鮮明になり、そこに佇むみすぼらしい姿の少女を映し出す。
……みすぼらしい?
そこで花王は我に返った。驚いて瞬き、更にぶるりと首も振るってみたが、どうも見間違いの類ではないらしい。
まるで襤褸同然の着古しをまとい、無邪気にこちらを見上げたその少女は、まぎれもなく春蘭だ。
「春蘭。何だ、その格好は? 私は邑に行く準備をしてくるようにと言ったのに」
「準備ならもうできてるわ。この袍、廃墟のお屋敷にあったのを見つけたの。百年も前の袍にしては案外きれいだと思わない?」
「いや、百年前の袍にしては確かにきれいだが、どうしてそんなものを着ていく必要がある?」
「言ったでしょう、〝お金は作れる〟って。つまりそういうことよ」
またしても得意げに春蘭は胸を張った。そこまで話を聞いて、花王もようやく彼女の考えを理解する。
要するに春蘭は、昨日まで身にまとっていたあの美しい赤の長襖を邑で売り、その金で食糧を手に入れようというのだった。それほど手持ちが乏しいのかと尋ねれば、そうではないと首を振る。
ただ、ここには思ったより長く留まることになりそうだから、一度にできるだけ多くの食糧を蓄えて、遥々買い出しへゆく手間を省きたいのだと彼女は言った。何もそこまでしてこの地に留まらなくても、と花王などは思うのだが、それを言うと春蘭が怒り出すのは目に見えているので、それ以上は触れないことにする。
「本当に後悔しないんだな?」
「どうして? そんなもの、する理由がないわ。それより花王、その邑まではどうやって行くの?」
「ああ、うん。空を渡っていこうと思う」
「空を!?」
聞き返してきた春蘭の声は、予想外の答えに対する驚きと、そんなことができるのかという期待に満ち溢れていた。
花王はいつものように桜の木に巻きつけていた体をほどいて、頭から地を這うように春蘭の前へ移動する。そうして大地に身を横たえた花王と春蘭とを比べると、春蘭の背丈は花王の角の付け根までも届かなかった。
「お乗り。私の鬣をしっかり掴んで、決して放してはいけない。邑までは、空を飛んでゆけばすぐだ。ただし飛んでいる間は、絶対に下を見ないように」
そう告げた花王の忠告を、春蘭がどこまでまともに聞いていたのかは分からない。何故なら春蘭はそのとき既に、龍に乗って空を飛べるという事実に心奪われ、それ以外はまったく上の空といった様子だった。
花王はそんな春蘭を促し、自らの頭の上に乗せる。花王の角の後ろ、首の周りは白くて長い鬣に覆われていて、春蘭の体は座るとその鬣に埋もれるようだった。
それから花王はぐんと頭をもたげ、天へ向かってゆるりと飛び立つ。長い体がしなるように宙を泳ぎ、瞬く間に雲の高さまで舞い上がった。
「わあ、すごい! すごいわ、花王! わたし今、空を飛んでる!」
「飛んでいるのは私だよ」
「どっちでも同じことよ! 何だかわたしまで龍になったみたい! とても高いわ!」
「だから、下は見てはいけないと言ってるのに」
まったく怖いもの知らずとはこの少女のことを言うのだろうか。春蘭は尋常ならざる高さにいるにもかかわらず、実に無邪気なはしゃぎようだった。
まあ、人間にしてみれば、空を飛ぶなどという経験は一生に一度あるかないか――いや、普通は一生に一度もないことなのだろう。
それを思えば、春蘭の感激ぶりにも納得がいく。かく言う花王もこうして空を泳ぐのは久しぶりで、鱗を撫でる風が気持ち良かった。
「しかし、春蘭。本当に邑へ向かって構わないのか?」
「どういう意味?」
「何だったら、私が行けるところまでだが、このまま君を西へ送り届けてもいい」
「それは、わたしに帰れと言ってるの? いやよ。わたしはあなたの咲く姿を見るまで、絶対に帰らないと決めたんだから」
「だけど、郷里には君を心配する者もいるだろう」
「いないわ、そんな人。誰もいない」
「本当に?」
「本当よ」
「君は嘘をついている」
「嘘じゃないわ。……そりゃあ、乳母くらいはちょっと心配してるかもしれないけれど」
頭の上から、少しむくれたような声がした。それを聞いて花王はちょっと目を上げたものの、さすがに飛びながら春蘭の姿を見ることはできない。
「両親はいないのか?」
「いないわ。母さんはわたしを産んですぐに死んじゃったって」
「父親は?」
「いなくなった」
「いなくなった?」
「そう、いなくなったの。店のことは全部できのいい番頭さんに任せて、ある日突然ふらりと消えた。初めは南の城市へ行商に行くと言っていたのよ。でもそれきり帰ってこなかった」
そう話す春蘭の声は、次第に小さくなっていった。
花王の白い鬣に、わずかだが春蘭が顔を埋めた気配がある。同時にぎゅっと鬣を握る両手に力が籠もって、花王にはそれが何かをこらえているように思えた。
「……わたし、捜しに行ったわ。父が何度か南へ行商に行っていたことは知っていたから、その伝を頼って父の消息を追った。初めはね、生きてるとは思ってなかったの。でも、生きているのか死んでいるのかも分からないままうやむやにはしたくなかったから、たとえ死んでいたとしても、本当のことを知りたかった。じゃないと、いつまでも気持ちに区切りがつかなくて」
「そうか」
「でも、今は知らなきゃ良かったと思ってる」
「どうして?」
「父は、生きていたわ。南の城市で新しい家族を作って、わたしの弟を二人もこさえて、都にいたときとはまったく別の人生を歩んでいた」
「春蘭――」
「初めは何かの間違いだろうと思った。もしかしたら旅の途中で事故に遭って記憶を失くしてしまったとか、そういうことなんじゃないかって。だけど、わたしが勇気を出して会いに行ったら……あの人、わたしから逃げたわ。新しい家族の前で、わたしのことを〝知らない子供だ〟と言って」
風の音が、やけにうるさかった。
花王は必死に耳を澄ます。春蘭が、泣いているのではないかと思った。
それきり春蘭は口をきかない。やはり、声を殺して泣いているのだ。
しかし花王はようやく合点がいった。
ああ、そうか。
だから彼女は私のもとに現れたのかと。
「春蘭」
「……」
「春蘭」
「……何よ」
「私は君を忘れない。これからもずっと覚えているよ」
たとえこの身が朽ちて天に還ろうとも。
花王が静かな声でそう言うと、そのとき初めて少女の零す嗚咽が聞こえた。
刹那、花王はぐんと頭を下げて、風の坂を滑り落ちるように速度を上げる。
強い風が吹きつけた。その風が、少女の悲しみを引き千切ってくれればいいと思った。
眼下に連なる山々が見える。
その山の斜面を、満開の桜が埋め尽くしていた。
*
雲行きが怪しかった。
今朝まではあんなに晴れていた空が、厚い雲に覆われ始めている。
時刻はまだ午を過ぎたばかりだというのに、あたりが既に夕方のように暗いのも、花王に不吉な予感を与えた。
ふと目をやった枝先の蕾は、初めて春蘭が現れたときのままだ。古都の外の山では若い桜たちが早くも散り始めているというのに、花王の蕾にはまったく膨らむ気配がない。
「ねえ、花王」
――この蕾は、もう死んでいるな。
花王は、諦めにも似た気持ちでそう思った。
同じような蕾が、他の枝にもたくさんついている。けれどもそれを咲かせるだけの生命の力が、この木にはもう残っていないのだ。
「ねえ、花王ったら!」
だがむしろ、よくぞここまで生きたものだ。花王が数百年の追憶に目を細めながらそんなことを考えていると、不意に思考を裂いて耳に刺さる声があった。
ようよう我に返って見やれば、そこにはいつかのように腰に手を当て、仁王立ちした春蘭がいる。どうやら先程から花王の意識の外で聞こえていた呼び声は、彼女のものだったようだ。
「ちょっと、聞いてるの!? 人がせっかく話し相手になってあげてるのに!」
「ああ、そうだな、すまない。少し物思いに耽ってしまった。で、何の話をしていたんだったか……」
「だから、あなたはどうしてこの木に宿っているの? って話。他のすべての桜にも、同じように龍が宿っているってわけじゃないんでしょう?」
もしそうなら、世間はとっくに大騒ぎになっているもの。そう言いながら花王を見上げた春蘭は老木の根元に座り込み、小さな背中を太い幹にもたれさせた。
その春蘭がわずかに頭を動かす度、二つに結われた黒髪が幹を撫でるのでくすぐったい。その度に花王はぶるりと身震いをして、腹のあたりに走るむず痒さをやりすごす。
「私のような存在は、俗に〝精霊〟と呼ばれている。そして精霊はこの木のように、長く生きて神聖な力を持ったものに宿るんだ。私たちはある日突然生まれて自我を持ち、己が何者であるかを知る。そして、自分が何のために生まれてきたのかもな」
「ふうん。それじゃあ花王は、自分以外の精霊に会ったことがあるの?」
「一度だけ、この都のずうっと向こう、街外れに立っていた梅の木の主と会ったことがある。雪のように白い毛皮をした、美しい獣だった。しかしある夏、ひどい嵐に遭って根元から折れてしまってな。それきり彼の姿を見ることはなかった」
それが〝精霊が死ぬ〟ということなのだと、花王は語った。
精霊の命は、常に宿主と共にある。だから宿主が滅べば精霊も自ずと消滅する。
花王にとってそれは至極当たり前のことだったが、話を聞いた春蘭は途端に暗い顔をした。
「桜の木は他にもたくさんあるんだから、たとえこの木が死んでしまっても、他の木に移って命を繋げればいいのに」
「……そうだな」
膝を抱えてうつむいた春蘭を見下ろし、花王は短くそう言った。
他の精霊なら、春蘭の言い分を〝馬鹿げている〟と笑っただろうか。精霊とは宿主の魂が具現化した存在であり、己の肉体が滅んだからと言って他の肉体を奪うことなどできるわけがないと。
けれど花王は春蘭の願いを一笑に付す気にはなれず、ただゆっくりと瞼を閉じた。
それからしばしの沈黙を挟み、今一度頭上の空を仰ぎ見る。
「それはそうと、春蘭。今日はもう寝床へお戻り。どうやらひどい雨が降りそうだ。ここにいては濡れてしまうよ」
「えーっ。でも、まだ花王とおしゃべりしていたいわ」
「濡れて風邪をひいてしまったら大変だろう。この廃墟に医者はいないのだから」
諭すように花王が言えば、春蘭は口を尖らせながらも立ち上がった。
そうして足腰についた土を払い、渋々といった様子で街へ帰っていく。
春蘭はこの古都へ来てからというもの、城下にある廃墟の一つを寝床にしていた。廃墟とは言っても、百年前の大火を逃れた比較的きれいな屋敷で、春蘭はそこに残された古道具を掻き集めて寝泊まりしているらしい。
まったく歳のわりにたくましい少女だった。実の父親に捨てられた過去が、彼女をあそこまでしたたかにしたのだろうか。
花王は次第に遠のいていく春蘭の後ろ姿を見つめながら、一つ深いため息をついた。
本当は、行かないでほしい。その無邪気な声をもっと傍で聞かせてほしい。
けれども花王は瞼を下ろし、自らのそんな想いを闇に閉ざした。
このところ、春蘭に対する別れ難い想いが日に日に強くなっている。
こんなことならもっと早くに、彼女を郷里へ帰してやるべきだった。
けれども一体いつからだろうか。初めは春蘭の奔放さに戸惑うばかりだったのに、今ではそのわがままさえ愛おしかった。
きっと人が我が子を愛しいと言うとき、胸を満たすのはこんな気持ちであるのだろう。精霊である花王は子を生すということがないから本当のところは分からないが、それでもほとんど確信していると言っていい心境だ。
「花王ー!」
そのとき遠くから春蘭の呼ぶ声が聞こえて、花王はふと顔を上げた。
そうして目を向けた先で、春蘭が大きく手を振っている。その笑顔に心が満たされていくのを感じながら、花王も枝から垂れた尾を小さく振り返した。
それを見た春蘭は満足そうに笑って街へと消える。
せめて一輪だけでもいい。
彼女のために最後の花を咲かせたい、と花王は思った。
けれどもその晩。
嵐は唐突にやってきた。
夕刻から荒れ始めた風が次第に勢いを増し、あたりがすっかり暗くなる頃には、花王でさえ飛ばされそうなほどの暴風が吹き始めた。
春の嵐だ。毎年この時期になると必ず訪れる荒天。花王もその到来は予感していた。
しかし今年の風を例年より激しいと感じるのは、ついに己の寿命が尽きようとしているせいだろうか。
雷が鳴り、雨が降り始めた。横殴りの風に乗って降る雨は、花王が守る老い木にも容赦なく叩きつけてくる。
花王は自らの体をしっかりと大木に巻きつけ、吹き荒れる風に耐えた。そうやって花王が押さえていなければ、桜の木は太い幹の又から裂けて真っ二つになってしまいそうだ。
(――春蘭)
降りしきる雨。暴れ狂う風。
それらに必死に耐えながら、花王は愛しい少女のことを思った。
春蘭。無事でいるだろうか。この嵐では、彼女が寝床としている廃墟もどうなっているか分からない。
しかし花王が今ここを離れれば、桜は間違いなく死んでしまうだろう。
否、あるいは花王の力を以てしても――。
胸を満たしていく悪い予感に、花王はうなだれて目を閉ざした。
明日の朝、自分がこの場所から消えていたら、春蘭は悲しむだろうか。彼女を泣かせてしまうだろうか。
(泣かないでおくれ、春蘭)
たった一人、誰もいないこの廃墟に残されて、声を放って泣く少女。
その姿を想像するだけで、花王は胸が張り裂けそうだった。
けれども雨は容赦なく降り続ける。暴れ回る風に煽られ、枝が悲鳴を上げている。
花王は最後の力を振り絞り、更にがっちりと桜の木を抱き込んだ。
どうか。
明日の朝まででいい。
持ってくれ。
せめて一輪。
別れの前に、どうしても咲かせたいのだ――
「――花王!」
そのとき突然聞こえた呼び声に、花王ははっとして目を見開いた。
少女のことを思うあまり、幻聴を聞いたのだろうか。初め花王はそう思ったが、それは幻聴などではなかった。
気づけば春蘭が、桜の木の根元にいる。そこで両足を突っ張り、小さな体で必死に桜を支えていた。
叩きつける雨で目を開けていられないのだろう。ぎゅっと固く目をつぶった春蘭はしかし、歯を食いしばってこの嵐に耐えている。
「春蘭、何をしてる」
「何って、見て分からないの!? あなたを手伝いに来たのよ!」
「ここは危険だ。早く寝床へ戻るんだ」
「いやよ! この嵐じゃこの木が一晩持たないことくらい、わたしにだって分かるわ! だからわたしがあなたを守る!」
「駄目だ、春蘭。早く安全なところへ――」
花王は必死に声を荒げた。宿主の大木より更に大きな花王でさえ飛ばされそうなのに、こんなに小柄な春蘭がこの風に耐えられるわけがないと思った。
果たして花王の予感は当たった。初めは必死にしがみついていた春蘭が、泥と化した地面に足を取られ、じりじりと風に流され始めた。
このままではまずい。花王は更に声を張り上げて春蘭を呼んだ。
その瞬間、ついに踏ん張りの効かなくなった春蘭の手が幹を離れ、体が地面から浮き上がる。
「春蘭!!」
風に飛ばされた春蘭の手が、宙を泳いだ。
必死にばたつかせた足はしかし、地面まで届かない。
彼女が吹き飛ばされた先には、高くそびえる宮城の塀が、
「花王――」
最後の瞬間、春蘭が自分を呼んだ。
世界から音が消え、春蘭の小さな体が塀に叩きつけられる――刹那。
花王は腹の底から咆吼を上げ、風に乗って宙を滑った。
そのまま限界まで開いた口で、塀にぶつかる寸前の春蘭を丸飲みにする。
ばくりと少女の体を飲み込み、それから一度舞い上がって、花王は風に抗いながら急降下した。
その花王の巨体が、桜の根元にある洞へ一瞬にして吸い込まれていく。
そうして古き城址の片隅から、桜色の龍の姿が、消えた。
残されたのは嵐に軋む桜の古木、ただそれだけだ。
*
《――春蘭》
誰かが自分を呼んでいた。
聞き覚えのある声だ。
けれど春蘭は、その声の主を思い出せない。
頭がひどくぼんやりとして、思考が上手く働かなかった。
瞼が重くて上がらない。
春蘭はまるで胎児のように体を丸めて、その空間を漂っている。
《春蘭》
優しく、春蘭を包み込むような声だった。
耳を澄ますと、呼び声以外にも何か微かな音が聞こえてくる。
こくん、こくん、と。
それは人の鼓動に似ていた。
けれど鼓動とは違う音。
何の音だろう、という疑問が、ようやく春蘭の意識を導いた。
春蘭は一度全身に力を込めて、それからそっと瞼を上げる。
目の前を、小さな気泡がいくつもいくつも立ち上っていた。
こくん、こくん、と。
まるで大樹が地下深くから水を吸い上げるように。
「……花王?」
目覚めた春蘭は、ついに呼び声の主の名を思い出した。
けれどあたりは青白い闇に包まれていて、あの桜色の龍の姿はどこにもない。
「花王」
今度は力のある声で龍の名を呼び、春蘭は周囲を見回した。
ここがどこなのかは分からない。けれど両足に触れる地面の感触はなく、息はできるのにまるで水の中にいるみたいだった。
もしかして、わたしは死んでしまったのかしら。意識が途切れる寸前の記憶を手繰り寄せ、そう考えてぞっとする。
しかしそのとき、春蘭は気づいた。
足元――と呼ぶにはだいぶ離れているが、青白い闇に浮かんだ春蘭の真下に、白くまばゆい輝きが見えるのだ。
(あそこへ行こう)
本能的にそう思った。何の確証もありはしないのに、あそこへ行けばこの未知の空間から抜け出せるような、そんな気がした。
春蘭はぐるりと頭を下にして、水を掻くように闇を掻く。両足を上下に動かすと、春蘭の体は確かに下へ下へと向かった。本当に水の中みたいだ。
光までの距離は、思いのほか遠かった。近づいている実感はあるものの、なかなかそこまで辿り着かない。
けれども不思議と、春蘭に恐怖はなかった。
この闇が自分を守ってくれている。
何故かそう思えたのだ。
闇は水の中のように冷たくはなく、むしろとても温かい。
『――桜龍』
そのとき突然聞こえた女の声に、春蘭ははっとして振り向いた。
その先に、ゆっくりと上へ昇っていく気泡がある。それは先程春蘭が見た気泡よりもずっと大きく、しかも淡い光を帯びて、春蘭の鼻先を掠めていく。
『今年も見事な花が咲きましたね、桜龍』
春蘭は目を疑った。昇っていく気泡の中に、美しい女の姿が見えたからだ。
長い髪を金と玉の簪で結い上げ、絹の着物を幾重にもまとった女だった。まるで昔話に出てくる傾国のお姫様みたいだ、と春蘭が思えば、女は泡の向こうからこちらを見つめ、優しく微笑みかけてくる。
『おう、桜龍。今年も満開だなぁ』
今度はいかにも闊達そうな男の声が響いた。
その声は春蘭の足元から聞こえる。見下ろせば先程女を映していたのと同じ気泡が、次から次へ、輝きながら立ち上ってくる。
『桜龍殿。今年はまだ咲きませぬか』
『桜龍、酒だ酒だ、酒盛りだ! お前も飲め飲め!』
『桜龍、見て。私とあの人の子よ。ようやく生まれてきてくれた。なんて愛おしいのでしょう』
『おうりゅう、みよ! 余がかいたそなたのえじゃ! よろこべ!』
『さよなら、桜龍。またいつか会えることを願っています』
『来年もまた、こうして貴殿と桜を眺めたいものよなぁ、桜龍』
たくさんの人の声と笑顔を宿した気泡。
春蘭は立ち上ってゆくそれらを見送り、そして気づいた。
ああ、そうか。
これはたぶん、花王が守り続けた桜の記憶だ。
彼はたくさんの人から愛されていた。本当に愛されていた。
そんな人々のために咲くことが、彼にとってどんなに嬉しく、誇らしいことだったのか――。
その想いがまるで自分のことのように胸に迫り、春蘭の頬を一筋の涙が伝う。
「待っていて、花王」
――会いに行くわ。必ずあなたに会いに行く。
誓うように呟き、涙を拭い、春蘭は闇を更に下へ、下へと泳ぎ始めた。
その間にも次々と、たくさんの気泡が春蘭の傍を通りすぎていく。
耳がいっぱいになるほどの声に包まれながら、春蘭はここが一体どこなのか、何となく分かり始めていた。
そのとき不意に、春蘭のすぐ耳元を通り過ぎた声がある。
『――うん、そうよ。これがいいわ。あなたの名前は、今日から花王!』
はっとして顔を上げた。
思わず振り向いた先に見えたその気泡は、他のどんな気泡より一際眩しく輝いて――
「――っ!」
ぷはっと大きく息を吸い、春蘭は覚醒した。
体中が濡れている。頭の上からぽたぽたと落ちてくるのは、雨垂れだろうか。
体を起こした春蘭は地面に手をついたまま、しばらくの間茫然としていた。
今は一体いつで、ここはどこだろう。状況を整理しようとしたが、思考がこんがらがって停滞している。
春蘭の周りは暗かった。おまけに狭い。小柄な春蘭が半身を起こすだけで精一杯だ。
けれどもどこからともなく、賑やかな鳥の鳴き声が聞こえた。振り向くと背後に大きな穴が空いていて、そこから陽光が降り注いでいる。
春蘭は地を這うようにして、暗い穴の中を出た。
穴の外に見えたのは、見覚えのある宮城跡。そこで春蘭は初めて、自分が花王の木の根元にある大きな洞に抱かれていたことを知る。
「花王」
あの龍が守ってくれたのだ。そう思い、とっさに木を振り向いた直後、春蘭は言葉を失った。
花王の木。
倒れていた。
二又に分かれた太い幹が無惨に裂け、根元に春蘭がいた片方だけを残して、もう片方の幹が力なく大地に転がっている。
「そんな……!!」
春蘭は、夢中で木に駆け寄った。
倒れた幹に抱きつき、撫でさすり、めちゃくちゃに折れた枝を見やる。
昨日まであんなに雄大に見えた幾本もの枝は、その先々に花の蕾を残したまま、物言わぬ骸と化していた。
春蘭は必死でその枝に取り縋り、腕に抱き、けれどどの蕾ももう死んでしまっていることを知って、こらえきれず体を震わせる。
「――うわあああああああん!」
やがて春蘭は空を仰ぎ、大声で泣いた。
涙で歪んだ空はしかし、憎らしいほどに晴れている。
花王。死んでしまった。もう会えない。
あの心優しい龍はきっと、春蘭を守って力尽きたのだ。
花王。
こんなはずじゃなかった。彼の孤独を癒してやりたかった。
自分は花王に救われたから。
だから自分も、せめて死にゆく花王の心を救ってやりたいと願ったのに――
「――春蘭」
名を、呼ばれた。
この世で最も愛しい声に呼ばれた気がした。
春蘭はぼろぼろと大粒の涙を零しながら、その声の主を顧みる。
「花王……!」
そこには、美しい桜色の龍がいた。
彼は残ったもう一方の幹の枝に、ゆったりと体を巻きつけている。
その姿が、霞のようにぼやけて見えた。初めは涙のせいかと思ったが、恐らく違う。
きっと前に花王が言っていた、この世に現れるための力が残りわずかしかないのだと春蘭は悟った。
つまり花王は今、消えようとしている。
それでも彼は最期の力を振り絞り、春蘭の前に現れてくれた。
「花王!」
春蘭は涙まみれの顔で立ち上がり、花王の乗る幹へ駆け寄っていく。
すると花王もゆっくりと頭を垂らし、鼻先を春蘭へ寄せてきた。そこへ思いきり抱きついた感触はまだ、春蘭の手の中にある。
「春蘭……無事で良かった。もう大丈夫だ。嵐は去ったよ」
「ごめんなさい、花王。ごめんなさい……!」
「どうして謝るんだ?」
「だって、わたしのせいで、あなたは……!」
「違うよ、春蘭。これが私の運命だったんだ。どのみち私の寿命はこの春で尽きると、冬が明ける前から分かっていた。だから、これでいいんだ」
春蘭にされるがままになっている花王の声は、どこまでも優しかった。けれど春蘭は泣きやむことができなくて、抱き締めた花王の鼻面に顔を埋める。
「春蘭。最期に君のような人間と出逢うことができて、私は幸せだった。孤独に終わるはずだった私の生に、君は最後の花を咲かせてくれた。ありがとう」
「花王……!」
「本当は、もっと君と一緒に生きたかった。けれど天命には逆らえない。私はもう、行かなければ」
「だめよ、花王! 言ったでしょう? あなたの一番きれいな姿を、みんなに忘れられたまま逝くなんて、そんなのはだめだって……!」
顔を上げ、花王の大きな瞳を見つめて春蘭は叫んだ。
そうやって叫ぶ間にも、涙は次から次へぼろぼろと零れてくる。
けれども、そのとき。
ふっと目を細めた花王が、春蘭には笑ったように見えた。
次の瞬間、彼はぐんっと頭をもたげ、春蘭の目の前から飛び上がる。
「きゃあっ!?」
勢いよく舞い上がった花王の体が、突風を呼んだ。
その風に煽られ、危うくひっくり返りそうになったところを、春蘭は何とか耐えしのぐ。
しかし風に乗ってびしびしと吹きつけてくる小枝や砂はどうにもならず、春蘭はとっさに両腕で頭を抱えた。
頭上、遥か高みから、透き通るような声がする。
天高く吼える花王の鳴き声だ。
春蘭は突風が止んだことを確かめ、恐る恐る目を開けた。
そうしてその声を仰ぎ見、息を飲む。
見上げた先には、満開の桜。
半身を失い、大きな傷口を晒しながら、しかしその桜はこれまで春蘭が見たどんな桜よりも美しく、堂々と咲き誇っている。
「春蘭。これは君が私の心に咲かせた花だ。そして私は、これからも咲き続ける。君のその心の中で」
言って、花王は再び春蘭の前へ舞い降りてきた。
その花王に何か声をかけようとして、しかし春蘭の口からは、何も言葉が出てこない。
そんな春蘭を見下ろして微笑み、花王はまたゆっくりと顔を寄せてきた。
そうして愛し子を愛でるように、そっと鼻先で春蘭の髪を撫でる。
「お別れだ、春蘭。君と共に過ごした日々を、私はずっと忘れない」
「花王」
「君も、どうか幸せにおなり。どんなに冬が長かろうと、春は必ず訪れるのだから」
春蘭は、頷いた。
力いっぱい、最後に花王を抱き締めた。
その腕の中で、花王が光に包まれる。
次の瞬間、龍の形をした光は勢いよく弾け、再び風を巻き起こした。
あたりに飛び散った光のかけらは、無数の花びらへと姿を変える。
風に乗った桜吹雪が、惜しみなく春蘭へと降り注いだ。
淡く色づいた花の雨。
それを全身で受け止めながら、春蘭は満開の桜を見上げて笑う。
「きれいよ、花王」
(了)
(イラスト:偽尾白様)