カスカニカスカナリ 8 ★
一通り両者の話を聞き終えて、成澄は愕然とした。
「〈投石〉だと? 今の時代にそんな真似をする輩がまだいたのか……!」
牛車の従者等が言うには、当邸の前を通りかかった途端、幾十、幾百もの礫がそれこそ雨霰のごとく降って来た。邸内の舎人や家司どもの仕業だと憤る。
一方、邸の舎人に郎党、家司等は全く身に覚えがない、と譲らない。第一、今時そんなことをするはずない、と言うのだ。
この点、成澄も大いに納得できた。
〝門前通過の牛車に投石する行為〟が後を絶たなかったのは、遥か長徳年間(997)、一条天皇の御代のこと。今は昔の話である。
かつて貴人の門前を牛車で通過するのは甚だ無礼と見なされた。どうしても通らなければならない時は、牛車の乗人はいったん降りて歩かねばならない。それをしなかった場合、邸の者たちは容赦なくその牛車に礫を投げつけるのである。
気位が高かった花山院の門前などはこうした投石行為が激し過ぎて、遂には怯えて誰一人前を通る者がいなくなった、と記録に残っている。
だが、現在は──
各々の邸の主人が分別を得た。かくのごとき行為が双方の家にどれほどの禍根を残すかを大いに悟り自重した結果、もはやこの種の狼藉は根絶した。
成澄自身、検非遺使になって以来〈投石騒ぎ〉など聞いたことがない。そのせいか、今、眼前で起こっている騒ぎがどこか夢幻のような気がした。それこそ狐に抓まれているような、遥か過去の往来へ迷い込んだような、朧ろげで取り留めもない不可思議な感覚……
とはいえ、牛車側の人員が嘘をついている風にも見えなかった。
実際、檳榔毛の車は投石によってかなり傷ついている。その周囲には大小の石が転がっていた。 ※檳榔毛=貴人の乗った最高級の車
「もし、大事はありませんか?」
成澄は牛車の乗人に声をかけた。
「──」
返答がない。
簾を跳ね上げると中には貴人が二人、抱き合って震えていた。
両者とも年の頃、十六、七の若き公達である。 ※公達=上流貴族の息子
成澄は既に従者から聞き取っていた名を呼んで確認した。
「藤原忠延殿と藤原雅通殿ですね?」
すぐに返事もできないほど貴公子たちの受けた衝撃は大きかった。
(無理もない……)
二人は従兄弟同士。どちらも藤原摂関家に繋がる血筋の若者である。大切に育てられた若君たちに取ってこんな野蛮な仕打ちは生まれて初めてだった。
叔父に当たる藤原頼長邸へ遊びに行く途上での災難とのこと。
成澄は源邸の舎人や家司たちには、今後二度とこのような振る舞い無きよう厳重に注意し、自身は牛車に付添って目的地まで送り届けることにした。
余りにも恐ろしい思いをしたので、この上は天下の検非違使殿が一緒でなければ一歩もこの場を動けない、と藤原忠延・雅通両君に泣きつかれてしまったのだ。
牛車の傍らに馬を進めつつ、成澄の心を占めていたのは盗まれて隠された鏡のことだった。
今日中に、叡山の何処かの寺の厠からそれが見つかったという知らせが届くことを成澄は心から願っていた。
(でなければ、謎を解き誤ったことになる。だが、あれ以外、一体どう読み取れと言うのだ?)
人間の汚濁や穢れを忘れさせまいと囃し立てる咒文が蹄の音に重なって何処までもついて来るような気がした。
シシリシニシシリシト ソソロソニソソロソト……
若君たちの牛車が藤原頼長邸の車寄せに着けられるのを見届けてから、成澄は馬首を改めた。
途端に、背後から声がかかる。
「成澄!」
振り返ると〈廂の間〉まで当家の主、頼長その人が出て来ていた。
「甥っ子たちが世話になったそうだな? 礼を言うぞ。ちょうどいい、おまえも寄っていけ」
成澄はいったん馬を降りると頭を下げた。
「私は仕事がありますのでこれで失礼します。使庁へ戻らねばなりません」
「フン。前関白の命令は聞けても、現執政の私の言うことは聞けぬか?」
ゆっくりと成澄は顔を上げる。
「──」
「相変わらず大殿の走狗を請け負っているのだろう? やれやれ、この男はな、金や地位では釣れぬらしい」
頼長はわざとらしく傍らの美しい随身に顔を顰めて見せた。
「その証拠に、幾度私の随身になれと誘っても首を縦に振らぬ。検非遺使なんぞより遥かに良い思いをさせてやろうというのによ。蛮絵の黒衣がそれほどにいいかねえ?」
「私は嫌だな」
美しい随身、秦公春は呟いた。
「おお、おまえには黒は似合わないさ! もっと艶やかな……今日のような赤花や濃紅がよく似合う」
「いえ、そうでなくて、私が嫌だと言ったのは──中原様が殿にお仕えしたら、私の立場がなくなってしまいます……」
長い睫毛を伏せて、殊更悲しげに俯く公春。
頼長は上機嫌に笑って、この自慢の随身の肩を打つ真似をした。それから、改めて成澄を振り返る。
「なあ、成澄、おまえを従わせるにはどうすればいいのだ? 本当に困った時、助けが欲しい時は力になってくれるか?」
「勿論です」
「本当に困った者の助けは嫌とは言えない、真実、頼りがいがある男子よ!」
一段と声を張って言ってから、頼長は唇の片方の端を上げた。皮肉の笑い。
「だがなあ、おまえのその〝美徳〟を大いに利用されているとは思わないか? 特に──私の親父殿なんぞに?」
漣のような笑い声が響く中、成澄は一揖して去った。
(兄弟揃って、全く……!)
今朝、使庁の別当室へ乗り込んで来た兄・忠通といい、今の弟・頼長といい……
様々な兄弟がいるものだ、と成澄は息を吐く。ふと、双子を思い出した。
あの二人はお互いなしにはやっていけないほど仲が良い。時に喧嘩をしても、それは口先だけのこと。いつもお互いがお互いのことを一番に思いやっている。そうかと思えば、この藤原摂関家の兄弟である。 常に父の寵愛の行方を気にし、お互いの腹を探り合っている。永遠の競争相手として競い合わねば気が済まないのか……?
一人っ子の成澄は兄弟の絆と言うものが羨ましくもあり、不思議でもあった。
「で? どうだった? ──ダメだったか」
成澄が一条堀川の田楽屋敷にやって来たのは夜も更けてからだった。
「ああ。これだけ待って何の知らせもないと言うのだから、ダメなのだろう」
実際粘れるだけ粘って、今日一日、今に至るまで使庁で待機していた成澄だった。
美丈夫は落胆して茵に腰を落とした。
狂乱丸は用意してあった酒を成澄の盃に注ぎながら、
「そう気をを落とすなよ、成澄。まだまだ時間はある」
それから思い出して、訊いた。
「そうだ、例の咒文を記した紙、今、持ってるか?」
「これか?」
検非遺使は未だ持ち歩いていた。懐から取り出す。
小さく畳まれたそれを狂乱丸は素早く広げて、引っくり返した。
「ああ、やっぱり!」
「何だ?」
「昨夜、常行堂の前で、おまえこれを翳して大殿に見せようとしたろう? その際、気づいたのだが──裏側にも何か書いてある」
「やや?」
薄くではあるが確かに文様らしきものが記されていた。
飛び石のような丸い印が七つ……