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モンスターのご主人様 作者:ショコラ・ミント/日暮 眠都

3章.ありのままの彼女を愛して

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29. 狂獣との戦い

前話のあらすじ:
追い詰められた高屋の固有能力が発動。
   29


 醜悪な獣人と化した高屋が、雄叫びとともに左腕を薙ぎ払った。

 大振りの重い一撃。
 戦いが終わった直後の気の緩みに、高屋純の変貌に対する驚愕とが重なって、身構えたときにはもう、岩のような拳は右顔面のすぐ近くまで迫っていた。

 まずい。

 と、思ったそのとき、ぐっと首根っこを引っ掴まれた。

「真島!」

 うしろに引き倒される。

 空気との摩擦熱さえ感じるような至近距離を、ごうっと凄まじい音を立てて、大きな拳が通り過ぎた。

 仰向けに倒れたおれが見たのは、膝立ちになった飯野の姿。

 ――が、再び繰り出された打ち下ろしの一撃を喰らって、吹き飛ばされる光景だった。

 交通事故を思わせる、鈍い音がした。
 続いて、野太い悲鳴が聞こえた。

 飯野のものではない。

 腹に響くその悲鳴は、獣のものだった。

 なにが起こっているのかを把握する前に、おれはまず動いた。
 とにかく、この場にいるのはまずい。

 背後に転がり、飛び退って、高屋から距離を取る。
 幸い、体勢を整えるまでの間に、追撃はなかった。

 立ち上がったおれが見たのは、天を仰いで悲鳴をあげる高屋の姿だった。

 剛毛の生えた太い人差し指と中指の間に深々と切り込む形で、左の掌に血塗れの細剣が刺さっていた。

 飯野の剣だった。

 一拍置いて、おれは状況を理解した。

 飯野はおれのことを引き倒すと、足がうまく動かないいまの状態では避けられない攻撃と刺し違えて、高屋に反撃を喰らわせたのだ。

 振り向けば、少し離れた場所に、飯野が俯せに倒れていた。

 転々と残った血痕から察するに、彼女は一度地面に叩き付けられてから、そこまで転がっていったらしい。

 右腕は肘が逆の方向を向いていて、ぶつけたらしい頭からは血が流れている。
 小さな呻き声があがったので生きてはいるようだが、焦点の合っていない目を見る限り、意識はほとんどないようだ。

 ここでは誰も死なせない、と飯野は言っていた。
 あいつは馬鹿だが、嘘つきではない。
 あの言葉は、偽りない本心からのものだったということだ。

 だが……同時にこれで、『韋駄天』は戦線離脱してしまった。

 状況を把握したおれは、腰に下げた『疑似ダマスカス鋼の剣』を抜き放ち、高屋に向き直った。

 頬を嫌な汗が伝う。
 非常にまずい状況だった。

「ご主人様、逃げて……っ!」

 悲鳴をあげるリリィは、獣人と化した高屋の向こうで倒れており、魔法道具『罪科の縛鎖』に捕らわれたままだ。

 ガーベラが戻ってくる気配はなく、気絶したらしいベルタは倒れて動かない。

 孤立無援……いや。

「ゴシュ、ジッ! サマッ!」
「……そうだな、お前がいてくれたな」

 励ますように、左手の甲から生えたアサリナが鳴く。
 おれは少しだけ笑って、変わり果てた姿となった高屋を睨み付けた。

 高屋は左掌の細剣の柄に噛みつくと、一息に引き抜いて地面に捨てたところだった。

 濁った黄色い眼が、おれの姿を映し出した。
 滅茶苦茶な歯並びで歪んだ口の端が、ぎこちなく吊り上がる。

 大きな口から、獣の咆哮が吐き出された。
 粘っこい涎が、びちゃびちゃと地面に飛び散った。

「高屋……お前もう、人をやめてるな」

 おれは引き攣った笑みを浮かべて、右手の剣の柄を強く握り締めた。

 ……大丈夫だ。
 絶望するには、まだ早い。

 幸い、飯野のおかげで、まともに戦えるだけの体勢は整えることができている。

 落ち着け。
 敵をよく見ろ。

 重要なのは、高屋純の発動させた固有能力――ではない。

 なにが変わったかだけではなく、なにが変わっていないかにも目を向けなければならない。

 能力の発動の前後で変わっていないもの。

 襤褸になった制服。
 そして、体に負った怪我だ。

 高屋純の傷は癒えていない。

 右の胸には、まともに動けないほどの深い傷が刻まれて。
 利き腕である右腕は、二の腕で引き千切れかけている。

 おまけに、さっき飯野が左の拳を使い物にならなくした。

 いまの高屋はただ、『狂獣化』によって、戦えない体を無理矢理動かしているだけなのだ。

 身体能力が引き上げられたところで、元の体がズタズタでは、本来出せるはずの力の半分も出せはしない。

 戦闘能力は、通常のウォーリアにも全く及ばないだろう。

 端的に言って、高屋純は死に体だ。

 ……問題は、たとえ死に体であったところで、おれにとって高屋純が格上の相手であることに変わりないということだが。

 それでも、いまなら決して敵わない相手ではない。

 それに……思い出せ。
 ガーベラと想いが通じ合ったことで、いまのおれは、これまでないくらいに調子が良かったはずだ。

 ……そんなの気持ちの問題かもしれないが、たとえそうであったところで、精神的な部分ではこちらのほうが有利だということに変わりはない。

 アサリナもおれの体に根付いた存在である以上、必然的に調子は最高ということになる。

 これでやれないわけがない。
 そう信じるのだ。

 幸いと言っていいものか、『飯野の攻撃で倒せなかったとき』のことも考えていなかったわけではない。

 まさか高屋純があんな姿に変貌するとは予想できなかったため、多少のアドリブが必要だが……いまはやるしかなかった。

「おおぉおおおお!」

 咆哮して前に出たのは、おれも高屋も同時だった。

 怪我が祟って、高屋の移動速度は鈍重だ。
 右腕は二の腕から下は動かず、ほとんど右半身を引きずるようにしている。
 気を付けなければいけないのは、握り拳も作れない左腕の一撃だけ。

 ……無論のこと、それだけのハンデがあっても、まともに喰らえば一撃でおれは戦闘不能に陥るだろう。それだけは避けなければならない。

 吐き気のするような緊張感を呑み込んで、おれは死線に身を投げ出した。

「グルゥォオオオオ!」

 高屋が左腕を振りかぶる。
 振り下ろしの動作の起点が目に入ったときには、おれは大きく身を横に投げ出していた。

 叩き付けられる一撃は、恐ろしく速い。
 しかし同時に、本来の速度を考えるなら、ありえないくらいに遅い。

 魔力によって身体能力を強化しての回避行為は、ぎりぎりのところで成功した。

「おおぉお!」

 高屋の左側面へと逃れたおれは、すれ違いざま、腹に剣を叩き込んだ。

 シランに手ほどきを受けているものの、おれの剣術は、まだまだ未熟だ。
 それでも、厳しい鍛錬は嘘を付かない。

 ローズ謹製の『疑似ダマスカス鋼の剣』の鋭利な切っ先が、獣人の頑丈極まりない体を浅く裂いた。

 もちろん、この程度の浅手では、高屋は怯みもしない。
 振り下ろされた左腕が、今度は裏拳の形で薙ぎ払われた。

 おれは思い切って、勢いよく身を屈めた。
 広い範囲を薙ぎ払った腕は、しかし、大きくなった体が災いして、地面から距離ができている。

 その隙間を掻い潜ったおれは、立ち上がる勢いで剣を振り上げた。
 先程の傷と斜めに交差する形で、高屋の脇腹に傷が走った。

 傷から血が滲み、高屋が苛立ちに眼光をぎらつかせる。
 その顔面を、鞭のようにしなって走るアサリナが、したたかに打ち据えた。

「ゴシュ、サマッ!」

 アサリナは長い体で高屋の顔にくるくると巻き付くと、その終点で、口を大きく開けて鼻面に噛み付いた。

 目に見えたダメージはなかったが、それなりに痛かったらしく、高屋が悲鳴をあげて顔に手を伸ばした。

「よくやった、アサリナ!」

 その隙を突いて、おれが更に一撃を加える。

 高屋が怒りの咆哮をあげる。
 アサリナが引き千切られた。

 仕切り直しだ。
 おれは再び、獣人に立ち向かっていく。

「おおぉお!」

 とにかく相手の攻撃を避けて、深追いし過ぎない程度に傷付けることに専念する。

 そうして必死になって戦っているうちに、徐々に戦場は移動して、リリィや飯野が倒れている姿が見えなくなった。

 これで、彼女たちが戦いに巻き込まれることはない。

 ますますおれは、目の前の脅威と手にした武器の感覚に没入した。

 獣人と化した高屋には、丈夫な毛皮と分厚い筋肉がある。
 与えられる傷は、どうしても浅いものになってしまう。

 それでも、何度も繰り返せば、ダメージは蓄積する。

 それに、いまの高屋は手負いだ。
 胸の傷からはいまも血液がこぼれており、激しい運動を強いれば、それだけでかなりの消耗を強いることができる。

 おれがしなければならないのは、一発でも喰らえば戦闘不能になる攻撃を残らず回避して、こちらの攻撃を叩き込むこと。

 言うまでもなく困難だが……逆に言えば、それは決して不可能ではない。
 強がりではなく、戦っている実感として、そう言える。

「ガァアアア――ッ!」

 いまの高屋は、獣の皮を纏ったバーサーカーだ。
 理性を失い、攻撃は酷く単調なものになっている。

 本来なら、それでも問題ないくらいの速度と強度を併せ持っているはずだが、重傷を負ったいまは、その単調さが付け込む隙となる。

 これまでおれは、ガーベラとの実戦形式の訓練では反吐を吐きながら回避の技術を身に着け、シランには足運びや打ち込み、体重移動などの、剣を振るうために必要な基礎を学んできた。

 高屋の攻撃を回避し続けることは、困難ではあっても、不可能ではない。

「うぉおおぉお!」

 綱渡りの攻防が続く。
 このまま、渡り切れるか――……。

「……ッ!?」

 と、不意に恐ろしく冷たいものが背筋を撫でた。

 それは、紛れもない死の気配だ。
 戦いのなかで鋭敏になった感覚器官が、警鐘を鳴らし――。

「……っ!?」

 ――次の瞬間、大木のような腕が、思いがけず視界に割り込んできていた。

「うぉお!?」

 仕掛けようとしていた攻撃を中断し、体勢が崩れるのも厭わず、おれは横っ飛びに逃げた。

 更に、アサリナが独自の判断で地面を叩いて方向を修正。
 辛うじて攻撃を回避した。

「なん、だ。いまのは……?」

 危うく直撃を喰らうところだった。

 油断した? 違う。そんなことはありえない。
 不意を突かれた……いや。速度が上がった、のか?

 混乱しながらも、おれは状況を把握するために、距離を取ろうと後退する。

「グルルゥォアアア!」

 醜悪な獣人が、牙を剥き出しにして追いすがってくる。
 彼我の速度差から、見る間にその姿は視界のなかで大きくなり――違う。

「……嘘だろ、おい」

 呆然と声が出た。
 目の錯覚などではなく、『実際に高屋の体が一回り大きくなっていた』のだ。

 なんてことだ。
 高屋の固有能力は、あれで打ち止めではなかったのだ。

 見誤っていた。『狂獣化』は、単に理性をなくした獣になる能力ではない。
 理性を失い、狂気が深まるほどに、その暴力を促進させる力だったのだ。

 追いかけてくる高屋の黄色い眼球は、零れんばかりに見開かれていた。
 体は筋肉でますます膨れ上がり、制服は裂けて原型を留めていない。

 襤褸切れになった制服が疾走の勢いに煽られて、ついには剛毛に覆われた獣の体から剥がれ落ちた。

 もともと、彼の制服がぼろぼろになっていたのは、以前にもこの『狂獣化』能力によって、体格を肥大化させたことがあったためだろう。

 前回までは辛うじて原型を保っていた制服が破れたということは、ここまでの状態になるのは、これが初めてということになる。

 その恩恵は絶大だった。

 先程より、明らかに速度が上がっている。
 身体能力が増強されただけでなく、痛みに鈍くなっているのも原因だろう。

「ガアァアア!」

 高屋の左腕が、大きく振りかぶられた。
 まだ距離はある。だが、本能的にまずいと感じた。

 背後に両足で飛んだ。

 間に合わなかった。

 毛むくじゃらの太い腕が、ぐんと伸びてくる。
 膨れ上がった巨体と、それ相応の腕の長さが、攻撃の間合いを広げていた。

 避けきれない。

「ぐ……っ!?」

 高屋の左手は、飯野の細剣で酷く痛めつけられている。
 だから拳を作れず、おれが正面に構えた盾にぶつかったのは、その指先だった。

「うぐっ」

 背後に飛び退っていたこともあり、おれは踏ん張ることもできずに、大きく弾き飛ばされた。

 かなりの衝撃があった。
 とはいえ、この程度ならダメージはない。

 これなら着地と同時に、追撃に備えることも可能だろう。

 即座にそう判断したおれは、着地に備えて空中で体勢を整え――そこで、こちらのことを見上げるおさげの少女と、目が合った。

 あっという間に、彼女の上空を飛び越えた。
 地面が迫る。

「ぐっ」

 危うく墜落しそうになったが、そのぎりぎりのところで、全身をバネにして着地の衝撃をやり過ごした。
 顔を上げる。

「せ、先輩……?」

 そこにいたのは、驚いた顔をしてこちらを振り向く加藤さんだった。
 胸には、ローズを抱えている。

 その向こう側には、鎖で拘束されながらも上半身を起こしたリリィの姿があった。
 少し離れた場所には、気を失った飯野が倒れ伏しているのも見えた。

 おれの顔面から血の気がひいた。

 ……しまった。
 失敗した。

 飯野が高屋を倒しきれなかったときの作戦――それは、弱った高屋を誰かが抑えている間に、別行動を取っていた加藤さんが、リリィを解放するというものだったのだ。

 そのために、あらかじめ加藤さんは、戦いに巻き込まれないくらい離れた場所に移動して、身を隠していた。

 切り札だった飯野がやられた時点でおれは、下半身を失って持ち運び安くなったローズを抱えた加藤さんが動き始めたことを、パスを通じて把握していた。

 だからおれは、理性を失った高屋をリリィのいる場所から引き離すべく、動いていたのだ。

 それなのにおれは、一段狂化を深めた高屋から逃げているうちに、知らず元いた場所に戻ってきてしまっていた。

 必然、狂える獣と化した高屋が、おれを追ってその場に現れる。

「ガァアアアアア!」

 雄叫びをあげながら高屋が現れたのは、座り込んだリリィのすぐ近くだった。
 おれのいる場所からは、リリィに駆け寄ろうとしていた加藤さんを挟んで、その向こう側になる。

「くそっ」

 即座におれは駆け出した。

 ……まだだ。
 まだ、このミスは取り戻せる。

 もしも、高屋が邪魔者である加藤さんを狙った場合。
 加藤さんとの距離と彼我の速度を考えると、恐らくだが、ぎりぎりで間に合う。

 それに対して、高屋がリリィを確保しようとすれば、さすがに間に合わないだろう。

 だが、いまの高屋は右腕が潰れている。
 リリィを確保しようとすれば、残った左腕が塞がるかたちになる。そうなれば、むしろこちらに有利な展開にさえなるだろう。

 状況がそのどちらに転ぼうと対応できるように、おれは高屋の動きを注視する。

「――」

 果たして。
 高屋の黄色い瞳が映し出したのは、拘束されたリリィだった。

 よし、とおれは内心で拳を握った。
 おれはミスをしたが、高屋もまた選択を間違えたのだ。

 この場面、リリィを確保するのは後回しにしても良かった。
 けれど、高屋はリリィを優先した。

 ある意味で、当然か。高屋はいまや理性を失っている。
 まともな判断力なんて、発揮できるはずもない。

 あとは、おれ次第だ。

 リリィを確保して、高屋はどうする?
 逃げるか。それとも、その場でおれを迎撃するか。

 そのどちらだとしても、喰らいついていくだけだ。

 覚悟を胸に、おれは高屋を見据えて走った。

 視線の先で、リリィに視線を落とした高屋が動いた。
 毛むくじゃらの腕を大きく振りかぶり――って。


 ……おい、待て。
 あいつはいったい、なにをしようとしているんだ?


 一瞬で、ぞっと全身が粟立った。

 おれの見間違いでないのなら……あれは、勢いをつけて腕を叩き付けようという、予備動作だ。

 だが、ありえない。
 どうして高屋が、リリィに攻撃をしかけようとするのか。
 奴にとって、リリィは水島美穂。大事な幼馴染のはずだ。

 それなのに、どうして……まさか。

 答えに辿り着いたおれは、魂が凍えるような気持ちになった。

 ……高屋の『狂獣化』能力は、そんなことまでわからなくしてしまったとでもいうのだろうか?

 リリィを狙ったのも、水島美穂の姿をした彼女に反応したわけではなく、単に『近くにいたから』?

 高屋は獣人と化すことで、工藤が追わせた三十体のモンスターを返り討ちにした。
 そのときには、リリィに手を出さなかった。

 それくらいの判断を下せるだけの理性は、まだ彼のなかに残っていたのだろう。

 けれど、高屋の『狂獣化』能力がここまで進行したのは、これが初めてのことだ。

 もはや最低限の理性さえ、高屋には残っていないのではないか?

 だとすれば、リリィは……。

 蒼褪めた顔をしたリリィが、こちらをぱっと振り向いた。

「やめ……っ」

 おれは彼女に手を伸ばした。
 遠い。届かない。

「グルウゥオオオオ!」

 完全に獣のものでしかない雄叫びをあげて、高屋は腕を振り下ろす。

 おれひとりではそれを、どうしようもなくて。

 だから、ここがいまのおれの限界だった。
 どれだけ奮戦しようとも、ひとりでやれることには限りがあった。

 ……けれど、忘れてはならない。

 この場にいるのは、おれだけではないということを――。

「姉様ッ!」

 ――少女の声が響き渡った。

 途端、高屋とリリィを隔てるように、土の柱が立ち上がった。

 振り下ろされた高屋の一撃は、立ち塞がった土の柱を破壊した。
 短い悲鳴をあげて、縛られたままのリリィが地面に転がった。

「リリィ!?」

 呼びかけるが、リリィは仰向けに倒れたまま動かない。
 とはいえ、一撃を喰らえば、それだけでいまの彼女の体は簡単に拉げてしまっていたはずだ。

 さっきの妨害のおかげで、直撃は避けられている。
 どうやらリリィは、意識を失っているだけのようだった。

 邪魔をされた高屋が、苛立たしげに頭を巡らせる。

 その視線を受け止めたのは、ローズだった。
 上半身だけになって加藤さんに抱えられたローズは、その手に高屋の宝剣、魔法道具『崩地の刃』を握っていた。

 さっき高屋が取り落としたものを、彼女は回収していたらしい。

「姉様はやらせません!」

 勇ましいローズの宣言に、高屋が怒れる獣の叫び声をあげようとして――

「シャアァアッ!」

 ――そこに、白い蜘蛛が飛びかかった。

 蜘蛛足の一突きは頭を下げてかわされたが、そのままガーベラは、高屋の巨体に組み付いた。

「けだものが! 妾の姉に、なにをしようとしておる!」

 細い両腕と数の揃わない蜘蛛足が、高屋の両腕を拘束しようとする。

 さっきまともに喰らった一撃の影響か、口元から血を零すガーベラの動きは、これまで見たこともないくらいに鈍かった。

 おれの魔力の扱い方は、彼女とよく似ている。だから特によくわかるのだが、いまのガーベラの魔力の流れはぐちゃぐちゃだった。
 ひょっとすると、内臓のひとつでも傷ついているのかもしれない。

 それでも、執念深くガーベラは腕を伸ばした。
 彼女は蜘蛛だ。捕えること、縛り付けることに特化している。

 更に、魔力の気配が立ち昇って、地面から生えた土柱が高屋の腹に突き刺さった。

 ローズの援護だった。
 高屋が使っていたときほどの連射は当然見込めないが、彼女もまたあんな体で戦っていた。

 ふたりの奮戦は、確かに高屋の横暴を喰いとめていた。

 しかし、傷ついた彼女たちには、どうしても限界があるのもまた確かな事実だった。

「ガァアァアア!」
「おおぅ!?」

 まず、ガーベラの拘束が振り払われた。
 毛むくじゃらの手が、ガーベラの手首を掴んだ。

 ガーベラの体が玩具みたいに振り回される。

 そして、投げ飛ばされた。
 その先には、ローズと加藤さんの姿があった。

 上半身だけのローズは自由に動くことができず、彼女を抱えた加藤さんは反応が追いつかない。

「真菜!」
「きゃあ」

 咄嗟にローズは加藤さんを振り払い、突き放した。
 宙に放り出される形になったローズは、投げ飛ばされたガーベラと激突した。

「がふ……っ」
「ギィ……!」

 絡まって転がるふたり。
 投げ出された宝剣が地面に落ちて、重い音を立てた。

 ここまで、数秒。
 忌々しげな唸り声をあげる高屋が、改めてリリィに顔を向けて――その濁った黄色の目を、おれは正面から睨み返した。

「グル……?」
「……間に合ったぞ」

 ガーベラたちが稼いだ貴重な時間を使って、おれはリリィのもとに駆け付けていた。

 やっと……やっと、取り戻した。
 胸元に抱き上げたリリィの温もりに、懐かしささえ覚えた。

 もう二度と離さない。

 おれは、高いところにある高屋の怪物の顔を見上げた。
 そこには、もはや理性なんて、欠片も残されていなかった。

 ただ、目の前の敵を――あるいは、現実を――破壊しようという意志だけが、狂ったように燃えていた。

 やはり、いまの高屋の頭には、水島美穂のことさえなくなっているのだろう。
 なんの呵責もなく、躊躇もなく、おれごとリリィを粉砕してしまえるに違いなかった。

 ……ガーベラたちは頑張ってくれたが、リリィを連れて逃げるほどの時間はなかった。

 リリィを抱えたままでは、高屋とは戦えないし、逃げ切れない。
 かといって、高屋にとってリリィが殺害対象になってしまった以上、この場でリリィを手放すわけにもいかない。

 絶体絶命の危機を前に、おれは静かに覚悟を決めた。
◆久しぶりの、主人公の直接戦闘回です。
チリア砦編以来ですね。

◆週末更新が続いてましたが、ちょっと次回更新は遅れるかもしれません。
二週間後になるかも。
そのときは、活動報告等で予告しますね。
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