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モンスターのご主人様 作者:ショコラ・ミント/日暮 眠都

2章.モンスターを率いる者

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22. 人形の友達

   22


「真菜。あなたは、ご主人様のことをどう思っているのですか?」

 わたしの問いを耳にした真菜は、表情を凍りつかせた。
 きっとそれは彼女にとって致命的な部分に触れる言葉だったに違いない。
 これまで誰も触れなかった、あるいは、触れさせてこなかった加藤真菜という少女の内面に、わたしはこのとき一歩足を踏み入れた。その実感があった。

「……やめませんか、ローズさん。きっとこの会話は愉快なことにはなりません」

 真菜の返した台詞は、少なくとも表面上は淡々としたものだった。ほんの一拍の間に、完全にいつもの無表情を取り戻していたのは、流石といったところだろうか。真菜はわたしに語りかける。

「ねえ、ローズさん。今日はとても楽しかったじゃないですか。いえまあ、わたしは恥ずかしい目に遭いましたし、ガーベラさんには悪いことをしちゃいましたけど……だけど、楽しい一日だった。違いますか? それなのに、最後に変な話をして一日を台無しにしちゃうなんて、そんなのもったいないですよ。だから、やめましょう?」
「いいえ。やめません」

 わたしは首を横に振った。
 確かに楽しかった。失敗もいくつかしてしまったが、それもいずれは笑って話せるような、これはわたしたちなりの日常のひと欠片だ。
 だが、真菜の言う通り、これで今日一日が台無しになってしまうのだとしても……あるいは、これまで積み重ねてきたものが崩れ去ってしまうのだとしても、わたしはこの話をやめるわけにはいかなかった。
 危機感があった。
 ここで踏み込まずに見過ごすようなことがあってはいけない。そんなふうに確信できてしまうくらいに、砦を見詰めていたときの真菜の微笑みは儚くて、いまにも消えてしまいそうに見えたのだ。

「前々から、疑問には思っていたのです」

 だから、わたしは踏み込む。
 他ならぬ真菜自身が、わたしに踏み込むだけの力を与えてしまっていた。

「真菜の振る舞いについての話です。ご主人様は真菜のことを疑っていました。それを真菜自身も知っていた。けれど、あなたはご主人様に手を貸し続けていました」
「……そのどこに、ローズさんが疑問を抱くようなことがありますか? なにか至らぬところがあったというのなら、謝りますけど」
「まさか。そんなはずがありません」

 わたしはかぶりを振った。

「ただ、わたしは思うのです。真菜ならもう少しやりようがあったのではないか、と」

 わたしはこれまでずっと、ご主人様と真菜のことを見てきた。
 彼らのことを考えてきた。理解したいと願ってきた。このふたりの間だけのことに限るなら、他の誰より思いを傾けてきたとわたしは胸を張ることができる。
 これは、そんなわたしだからこそ抱くことになった疑問だったかもしれない。

 わたしが真菜に魔法の手ほどきをする許可をもらおうとした、あの夜。
 ご主人様の心のなかに渦巻いていたのは、真菜に対する不理解と不審だった。
 元々、ご主人様はコロニー崩壊時の過酷な経験から深刻な人間不信に陥っていた。いまはともかく、少なくともあの夜までは、ご主人様はわたしからすれば異様とも思える疑り深さで真菜のことを見ていたものだった。

 ……しかし、それは本当にご主人様のトラウマだけが原因だったのだろうか?
 いまのわたしには、それが疑問に思えてならないのだ。

 ご主人様は真菜を疑っていた。
 そうと知っていながら、真菜は彼に力を貸し続けた。
 まだ名を持たない白いアラクネ時代のガーベラとの戦いのときには、作戦を立案するのみならず、自分の命を危険に晒した。
 暴走したリリィ姉様を冷静に立ち返らせるために憎まれ役だってやってのけた。
 未熟な心を持て余していたわたしに手を差し伸べたのだって、いまはともかく、その最初の理由は、わたしがご主人様の眷族だったからというのが少なからずあったはずだ。

 不平不満のひとつも言わず、怒ることも拗ねることもなく、戦う力のひとつも持たない少女は、ひたむきに自分にできることはないかと探し続けていた。

 ……見返りのひとつもなしに、だ。

 なにを考えてそうしているのかと疑問に思うのは、自然なことだろう。
 だけど、どうしてもその動機がわからない。
 となれば、どうだろうか? なぜそんなことを、と不審に思うのがふつうなのではないだろうか。
 ましてやそれが、ご主人様のような病を抱えた人間であるのなら?
 隠された見返りがあるのではないかと訝しみ、なにを企んでいるのかと疑惑を抱いてしまうことは、それほどおかしなことではないように思えるのだ。

 真菜本人が以前に言っていた言葉を借りるなら、真菜の振る舞いには人間の欲のうち、『なにかをしてあげたい』という部分しか見えなくて、『なにかをしたい』、『してほしい』が存在しないのだ。
 さながらそれは、かつて人形であることに囚われていたわたしのようでもある。結果、真菜の『人間らしさ』はいつまで経っても見えてこない……

 不思議なのは、わたしに関することに限っていえば、そのあたりの事情はかなり違っているということだ。
 最初からあまり真菜のことを疑っていなかったわたしとご主人様とで条件は違うにせよ、彼女はわたしに手を貸そうとしたときには、『共感を覚えている』、『感謝している』、『友達になりたい』などと、きちんと言葉にして気持ちを伝えてくれていた。
 それなのに、ご主人様に対しては一度もそうした『わかり合うための努力』を行った形跡がない。ある意味、それは疑いの芽に水をやるかのごとき行いとも言えた。

 そして、ここで一番の問題は、わたし程度でさえこうして気付けたようなことに、あの聡明な真菜が気付いていないはずはないということだ。
 となれば、畢竟、このような結論に至らざるを得ない。

「真菜はわざとご主人様に疑われるように振舞っていたのではありませんか?」

 ご主人様の目から見て、真菜の姿はいかにも疑わしく見えていたに違いない。
 少なくとも、わたしの知っている加藤真菜という少女はそこにいない。企みの牙を隠して雌伏する、ある種の『モンスター』の姿があるだけだ。
 しかし、そうだとしてもそれは、彼の疑心暗鬼のフィルターを通していることだけが理由ではなかった。真菜自身がそう振舞っている部分があったからこそ、ご主人様はどうしても彼女のことを疑わずにはいられなかったのだ。

「ローズさんの言っていることが正しいとして――」

 あえてわたしのいうことを否定することなく、真菜はこくりと首を傾げた。

「――どうしてわたしはそのようなことをしたんです?」
「そこがわたしも先程まではわかりませんでした」

 わたしでなくても、そんなのわかるはずがないと思う。
 どこの誰が、自分を信じさせないように振舞うというのだろうか。
 言ってしまえば、それは一種の自傷行為だ。そんな馬鹿げたことをする理由がない。それこそ、そうすることによる見返りがないのだ。
 だからわたしは、さっきも言った通り、これまでも薄々と真菜の行為を不審に思いながらも、自分の気のせいだと思い込んでいた。

「だけど、さっきの真菜の姿を見ていたらわかりました。真菜、あなたは――」

 わたしは友人の目を、仮面の下から見詰めて告げた。

「――ご主人様に人間のことを信じてほしくなかったのではありませんか?」
「……」

 真菜は無言で、ただかすかに目を見開いた。
 他の誰かなら見逃してしまったかもしれない小さな感情の発露は、わたしに確信を抱かせるに十分なものだった。その確信を後押しにして、わたしは続ける。

「真菜を信じるようになるということは、心を傷つけられたご主人様が、もう一度、人間を信じてみようと決意するということです。……わたしには想像することさえできませんが、それは口でいうほど簡単なことではないでしょう。ご主人様ひとりでは無理かもしれません。わたしでは力になれませんし、そのあたりはガーベラでも同じでしょう。あやめやアサリナはいうに及ばず……恐らく、支えになることができるのは、ご主人様の心にもっとも近しいリリィ姉様くらいのものでしょうか」

 といっても、姉様は姉様で、どうもこの問題には及び腰なふしがある。そのあたりはまた、別の話だが。

「この件に関してご主人様のお力になることは誰であっても難しい。ですが、真菜。わたしはあなたなら、そんなご主人様の心を解きほぐすことができたのではないかと思うのです」
「……それは流石に、ローズさんの買いかぶりではないかと思いますけど」

 真菜は微苦笑を浮かべていた。
 それはどうも作った表情ではなく、本気の苦笑らしかった。

「……そうでしょうか。わたしはそうは思いませんが。真菜がそういうのなら、そうなのかもしれませんね」

 わたしに真菜のことを買いかぶっているところがあると、他でもない本人がいうのなら否定はしない。
 ただ、わたし自身はそうは思わない。
 未熟なわたしの心をこれまで導いてくれた加藤真菜はすごい女の子なのだと、たったひとりでも信じられるし、信じている。それだけでわたしが言葉を紡ぐのには十分だった。

「ですが、『もしもの話』についてはともかくとして、現実に真菜がそれを試みることさえしなかったことは事実でしょう」
「……否定はできませんね。しかし、それこそなぜ、わたしはそのようなことをしたんだって、ローズさんは考えているんですか?」
「それは……」

 真菜の問いに、わたしはつい先程見た真菜の一途な瞳を思い浮かべた。
 わたしと同じように、ともするとそれより熱心に砦を見詰めていた真菜。その心が、わたしと同じ思いを抱えているというのなら……

「それは、真菜。あなたがご主人様の傍を離れたくないと思っているからです」

 ここで話は最初の切っ掛けへと戻ってくる。
 真菜はわたしと同じように、ご主人様の傍にいたいと思っている。だとすれば、理屈は通るのだ。なぜなら、わたしと違って真菜とご主人様との関係は、期限付きのものだからだ。

「ご主人様は真菜のことを保護したときから『安全なところまで連れていく』とおっしゃっていました。いまのご主人様は真菜に恩を感じていますから……いいえ、そうでなくとも、そう無責任に身柄を放り出すようなことはしないでしょう。安心して真菜のことを任せられる場所を、責任を持ってご主人様は探すつもりでいらっしゃいます。……ですが、これはとても難しいことです」
「難しい、ですか」
「ええ。ご主人様の性格を考えれば、自分が信じることのできない相手に大恩ある真菜の身柄を安心して任せられるはずがありません。しかし、その一方でご主人様は人間を信じていらっしゃいません。それでは、ご主人様が安心して真菜のことを任せられる場所なんて、どこにも存在しないではありませんか。少なくとも、ご主人様が人間を信じられないでいらっしゃる限りは」

 もちろん、それでもご主人様は探し続けるだろうし、いずれはなんらかのかたちで責任をまっとうするだろう。そのあたりについては疑う余地はないし、わたしが心配するようなことではないと弁えている。
 そう。心配するようなことではない。……だが、それが難しいことであることも、また事実だった。
 わたしが真菜の行動の理由はこのあたりにあるものと考えているのも、そのためだった。

「期限付きの関係でも、その期限を延ばし延ばしにすることはできます。疑いを解き、誤解を解消することがその期限を短くするのであれば、あえて疑惑を晴らそうとは思わない。そういう動機であるのなら、真菜の不可思議な行動を理解することは可能です」

 しかし、その行動はあまりにも不毛だ。
 痛々しさを覚えずにはいられないほどに。
 疑われ続けることで、真菜はご主人様の傍にいることができる。そうすれば、確かに関係は継続されるだろう。
 しかしその代わり、どのようなかたちであれ、決して彼らの関係は深まることがないのだ。

「疑われたままでも構わないから、それでも真菜はご主人様の近くにいようとしている。それだけの想いをご主人様に抱いている。そして、そうした想いを抱いているからこそ、真菜はご主人様のために見返りを求めずに力を尽くしもしたのではありませんか?」

 それはひょっとしたら、祈るような気持ちだったのかもしれない。
 だって真菜がどうしたところで、ご主人様が人間不信を克服してしまう可能性はあるのだ。
 そうなってしまえば、期限切れになった関係はお仕舞いだ。あとには、疑われ続けた少女だけが残されることになる。

 そんなの、黙って見ていられるわけがなかった。

「真菜はご主人様にとても強い想いを抱いているはずです。なのに、どうして自分の想いを蔑ろにするのですか。わたしに『自分の心を殺すな』と言ったのは、他ならぬ真菜ではありませんか」

 そんな方法を使わなくても、真菜はご主人様の傍にいられたはずだ。
 わたしには、あえて真菜が幸せに背を向けて、損な道を選んでいるとしか思えない。

 離れたくないのなら、離れたくないと言えばいい。
 ご主人様になにか特別な想いを抱いているのなら、それを告げればいい。
 わたしと違って、真菜は自分の感情を把握しているはずだ。だったら、いつだってそれを彼に告げられるはずなのだ。

「なんとなくですが、わかります。真菜がご主人様に抱いている感情は、わたしのそれと同じものなのではありませんか」

 ――望みが実現するように、努力しちゃおうじゃないですか。……ローズさんの望みは、叶えられるものなんだから。

 以前に真菜に掛けられた台詞が思い出される。
 わたしの望みが叶えられるものなのだとしたら、叶えられない望みとはなんなのか。
 諦めていたのは、本当は誰なのか。わたしたち眷族に共感していたのはどうしてなのか。何度も何度も口にしていた羨ましいとはどういうことか。
 もっというのなら、『手の届かない幸せを突きつけて心をへし折る』という白いアラクネを撃退したあの手口でさえ、ある種の自虐的な発想の賜物だったのではないだろうか。

 だとしたら、あんまりにも加藤真菜という少女は悲惨だ。ほうっておくことなどできるはずがなかった。だから――……

「真菜。あなたは、ご主人様のことをどう思っているのですか?」

 自分からは想いを告げようとしない少女に、わたしは問いを投げたのだった。

「……」

 わたしのことを真菜はじっと、計るような目で見詰めていた。
 わたしもまた、その目を見返した。ここで譲るつもりはなかった。

 やがて、真菜はふっと口元に微笑を浮かべた。

「……正直、驚きました」

 それは彼女特有のかげりのない、珍しく透明な笑みだった。
 ……なのに、意図が見通せない。
 砦を眺めていたときと同じ、穏やかな笑顔は、なぜだろうか? わたしの心を落ち着かない気持ちにさせたのだ。

「『人の心の機微がわからない』、『ご主人様のことがわからない』と嘆いていたローズさんが、これほど早くわたしの事情に気付くなんて思っていませんでした」
「……驚くほどのことではないでしょう。実際、わたしはまだまだです」

 わたし自身の至らなさは、わたしが一番知っている。

「ただ、こうした全ては真菜に教わったことでしたから」
「なるほど。相手がわたしだからこそ、ローズさんは気付くことができたと。それはなんだか、ちょっとくすぐったい話ですね」

 真菜はわたしの先生で、わたしの一番近くにいる人で、だからこそ、わたしでも彼女のなかの真実へと近づけたのだ。

 それに、もうひとつ。真菜はわたしのことを誤魔化そうとしなかった。
 言葉を弄してわたしを翻弄することくらい、やろうと思えば真菜にとってわけのないことだっただろう。

 そうしなかったのは、彼女の示してくれた誠意だ。友人として、真菜はわたしに向かい合ってくれている。『友達になりたい』と告げてくれた彼女に応えたことは間違いではなかった。そう思えばこそ、わたしは彼女をほうっておけなかった。

 そんなわたしの内心を、真菜は正確に把握したのだろう。口元の微笑みに、わずかに苦笑を混ぜ込んだ。

「わたしが真島先輩のことをどう思っているのか、ですか」

 そうつぶやいて、真菜は背中で手を組むと、くるりと体ごと向きを変えた。
 そうして彼女が目に映したのは、見下ろす位置にある砦だった。

「そんなに難しいことじゃないんですよ。ありきたりで、むしろ平凡な理由だと思います」

 口元には相変わらずあるかないかの笑みをたたえ、どこか刹那的な雰囲気をまとった真菜は告げた。


「だけど、ローズさんにはまだわからないかもしれませんね。人生でこれ以上ない酷い目に遭っているところを助けられた女の子が、助けてくれた男の子にどんな感情を抱くのか、ということは……」


 不用意に触れたら壊れてしまう。目を離したら消えてしまう。そんな空気が、ただでさえ華奢で小さな真菜の容姿に、不吉な透明感を与えていた。

 しかし、わたしはそんな危うげな彼女を前にして、なにも言ってやることができなかった。
 真菜のいう通り、わたしには『わからない』からだ。
 わたしはわたしのなかにあるこの気持ちを、未だにきちんと把握できていない。だから、わたしと同じ感情を抱いている真菜の心のうちも言葉にして語ることができない。
 わからないだろうと言われてしまえば、わたしは沈黙するほかなかった。そんなわたしのほうへと、真菜は視線を戻した。

「わたしはこの気持ちを真島先輩に伝えるつもりはありません」
「っ! なぜです……!?」
「伝えたくないんです」

 真菜はあくまで静かな口調で告げた。その静けさが、真菜の諦めを伝えてくるようで、わたしは冷静さを保てない。

「だから、どうしてですかっ。それが大事なものだとわかっていて、わたしにそう教えておいて、それなのに、なぜ……!?」
「だって、わたしにはこれしかありませんから」

 真菜はうっすらとした微笑みを崩さない。

「わたしは強い人間じゃありません。本当なら、全てが終わってしまったあの日のコロニーの混乱のなか、死んでしまうのが順当だったんだと思います」

 真菜のその人形のような表情を見て……ああ。いまのわたしは気付いてしまった。
 彼女がこの世界にやってきてから心に負った傷は、これっぽっちも癒えてなんていないのだと。

「それなのに、水島先輩のお陰で生き延びてしまった。その水島先輩が死んでしまって、あの山小屋で死ぬべきところを、今度は真島先輩のお陰で生き永らえた。だけど、その時点でわたしの中身はほとんど全部なくなっちゃってたんです」

 酷い目に遭って、絶望して、それでも立ち上がれるほど加藤真菜という少女は強くなかった。
 というより、人間というのは、そう強くはできていないのかもしれない。

 目を覆うような惨事に見舞われれば、自ら死を選んでしまうこともあるだろう。
 その気力さえなくしてしまって、二度と立ち上がれなくなってしまっても無理はない。
 恨みを糧に立ち上がれただけでも上等で、傷を抱えてそれでも前を向いて歩いていこうなんてのは本当に希少なケース。笑って許せたなら英雄で、なにも感じないなら化け物だ。
 そういう意味で、真菜は平凡だった。ありふれた少女であり、当たり前に繊細だった。

 かつての弱く繊細だった加藤真菜という名の少女は、あの山小屋で死んでしまった。
 鼓動は打っていたかもしれない。息もしていたのかもしれない。肌に温かみもあっただろう。だけど、彼女は一番大事なものを失っていた。
 ……心が、死んでいたのだ。

「真島先輩はリリィさんたちを率いて、わたしのことを助けてくれました。水島先輩の死や、彼女を死に追いやった邪悪、この世界に蔓延する理不尽に、本気で抱いた初めての殺意。色々なことがあって、それまでにも有り過ぎて、先輩の心は凍りついてしまっていたに違いありません。……それなのに、先輩はわたしのことをまず気遣ってくれた。わたしのもとに一番初めに来てくれた。あのとき、わたしは先輩の心に触れた気がしたんです」

 真菜はおさげを揺らして、首を振った。

「もちろん、こんなの錯覚でしょう。わかってます。わたしは人間なんですから。こんな錯覚なんて、眷族であるローズさんにとっては不愉快な話でさえあるかもしれません。……だけど、錯覚でもよかった。なにもかもなくしてしまって、からっぽになったわたしにとって、それは縋るべき唯一のぬくもりだったんです」

 真菜は自分の胸に手を当てる。
 そこに確かにあった感触を思い出すかのように。

「そのとき、わたしのなかの空洞になにかが生まれたんです。それがなんなのか最初はわからなかったですけど、ただ、この人についていかなくちゃって思いました。はっきりと自覚ができたのは、それこそ、ガーベラさんが襲ってきたあの夜のことです。自覚してしまったら、もう動くしかありませんでした。そうして、わたしはいまここにいます」

 踏み荒らされて、ぐちゃぐちゃになって、一度中身が死んでしまったのに、そのあとすぐにあとを追うはずだった肉体だけが生き延びた。
 自分のことを助けてくれた少年に、からっぽだった少女は『ある感情』を抱く。
 それが原動力になって、本来なら動かないはずのモノが動き出した。

 そうした真菜の在り方は、ある意味でわたしたち眷属モンスターに似ていた。
 違いはそれこそ、最初からなかったか、失ったかということくらいのものだろう。

 真菜はなにもかもを失った。なにも持っていなければ、なにも失うことはない。だからこそ、いまの真菜は強いのだ。リリィ姉様の心を負かし、白いアラクネ時代のガーベラの正面に立って怖じることがないほどに。
 既に死んでいる彼女には、恐いものなんてなにもない。屍が動いただけでも儲けもの。死んだところでそれはただそれまでのことでしかない。未練がない。執着がない。この世に彼女の魂をとどめるものは、なにひとつとして存在しない。怖じることも躊躇うこともなく、破滅が鼻先を通り過ぎていっても眉ひとつ動かさず、真菜は目的に向かって邁進し続けるだろう。
 ならば、いまの彼女は怪物だ。たったひとつ胸に抱いた感情を糧に、ただ目的に向かって真っ直ぐに歩き続けるだけの『生ける屍』。それこそが、加藤真菜という『モンスター』の正体だった。

「これがなくなったら、今度こそわたしはもとの死体に戻ってしまいます。想いを告げて、断られてしまったら、そこでわたしはおしまいなんです」
「だから、ご主人様に自分の想いを告げることをしないというのですか。それで真菜はいいんですか……?」
「いいもなにも、これが最良の結果じゃないですか」

 真菜は本気でそう言っていた。

「真島先輩は白いアラクネ襲来っていう最大級の危機を乗り越えました。リリィさんの危なっかしかったところも、彼女の成長によって克服されました。ガーベラさんも受け入れられて、あとはローズさんの真島先輩への想いだけです。これについては、もうほとんどわたしの手助けなんて要らないでしょう。わたしがいなくなったとしても、大丈夫。ローズさんはわたしが思った以上に成長していますから、多少時間がかかるかもしれないけれど、きっとひとりでだってうまくやれるはずです」
「……真菜。あなたはひょっとして」

 向けられる透明な微笑みを見て、わたしは改めてぞっとした。

 真菜が自分にできることを探しているのは知っていた。
 これまでご主人様やわたしたちのためにやってくれたことは言うに及ばず、回復魔法を習得したいと言い出したのだって、その一環だろう。これまで彼女がしてきた全てのことは、たとえどれだけちいさいことだとしても、この異世界でほとんどなんの力もない彼女が、必死で考えて見つけてきたものなのだ。

 だけど、それが全てなくなってしまったら?
 目的に向かって動いている間は、まだいい。
 だが、それが終わってしまったら?

 わたしは真菜の微笑みを見て、いまにも消えてしまいそうだと感じていた。
 しかし、それどころではなかったのだ。
 いま目の前にあるこの笑顔は、いずれ消えていくことを受け入れてしまっている者の微笑みだった。

 真菜は自分のなかの唯一無二を抱えたまま、消えていってしまうことを望んでいるのだ。ご主人様へと想いを打ち明けた結果として、自分のなかの特別な気持ちをなくしてしまうことなんて、それこそ受け入れられないに違いなかった。

 そして、真菜にはその『終わり』が既に見えかけているのではないだろうか。だからご主人様のいる砦を見て、あんな儚げな微笑みを浮かべていたのではないだろうか。

「大丈夫ですよ、ローズさん。なにも心配することなんてありません。きっとみんなうまくいきます」

 わたしが動揺していることを察して、真菜が気遣いの声をかけてくれる。しかし、その台詞には徹底して真菜自身が勘定に含まれていない。真菜の口にする『みんな』のなかには真菜自身がいないのだ。
 そんな未来予想図は、わたしにとってあまりにも受け入れがたいもので――

「みんなが幸せになって、真島先輩と彼を取り巻くみんなの物語は、ハッピー・エンドで終わるんです。だから……」
「馬鹿なことを言わないでくださいッ!」

 ――気付けば、わたしは大声で真菜の言葉を遮っていた。

「ローズさん……?」

 きょとんとした顔で、真菜がわたしを見つめている。
 ああ、その不理解が腹立たしい。
 ここでわたしの怒りを理解できていないということが、真菜の抱えた歪みを表している。加藤真菜はとっくの昔に破綻していたのだ。あれだけ他人の心の機微に聡いくせに、本人の心がスクラップになっているだなんて、それはどんな皮肉だろうか。

「真菜ともあろう人が、馬鹿なことを言うのはやめてください。みんなが幸せになる? そんなはずがないではありませんか。そのなかに真菜がいないのですから」
「……ああ。ローズさんは優しいですね」

 真菜は口元に苦笑を浮かべた。

「だけど、わたしのことなんて気にしなくていいんですよ。わたしは眷属じゃありません。真島先輩と眷属たちの物語の、ただの端役でしかないんですから。……それに、どうせ一度は死んだ身です。今更、幸せになろうなんて、叶わぬ夢を見たりはしませんよ」

 絶望的なくらいに、わたしの言葉は真菜に届いていなかった。『幸せになれ』といくら言ったところで、それに本人が価値を認めていなければ、そんなの届くはずがなかったのだ。

 ――自分を殺したら駄目だ。
 ――諦めちゃ駄目だ。
 ――あなたの願いは叶えられるものなのだ。

 真菜にもらった言葉を、なにひとつとしてわたしは返してやることができない。
 どの台詞もわたしが口にしたところで力がない。わたしたちが抱いている感情がなんなのか『わかっていない』わたしでは、『わかっている』彼女が定めてしまった決意を覆させるだけの説得力を持たせることがどうしてもできない。

 だから――だから? どうする?
 諦めて口を噤み、このまま黙って真菜の言い分を認めるのか?
 そうして真菜はいずれ無言のまま消え去り、わたしたちはご主人様と幸せに暮らすとでも?

 ……そんなこと、認められるはずがなかった。

 どうにかして、わたしは真菜に伝えなければいけない。
 確信があった。真菜は間違っている。どうしようもなく致命的な間違いを犯している。らしくもない失敗をしていることに気付いていない。わかったように微笑んでいても、わかってなんていないのだ。
 それも当然のことだ。たとえ、いまの真菜が自分の死を受容した一種の怪物であろうとも、なにもかもを悟ってしまえるはずがないのだから。
 ご主人様だって自分の未熟さに悩んでいた。真菜はそれよりひとつ年若い。わたしよりもわかっていることは多くても、彼女にだってわからないことはあるだろう。わたしがわかっていて、真菜がわかっていないことだってあるはずだ。

 それを伝えなければいけない。
 ……しかし、どう伝えればいいのかがわたしにはわからない。

 真菜の行いは間違っているのだとわたしの心は叫んでいるのに、それを論理立てることができない。

 伝わらない。伝えられない。
 それが歯痒い。悔しい。不甲斐なさに身が震える。
 少しは成長したと思っていたのに、わたしは友達ひとり救えないのか。
 どうしてわたしたちは真菜とパスが繋がっていないのだろう。仮にそうであったのなら、真菜がここまで思いつめることなんてなかったのに。

「真菜、わたしは……」

 それでもどうにかして伝えたいと思ったから、わたしは諦め悪く言葉を紡いだ。
 しかし、それが真菜に伝わることはなかった。

 わたしが失敗したからではない。ましてや、諦めたからでもない。
 そのチャンスが失われてしまったからだ。

   ***

 小さな音が、聞こえた。
 遠くから響いてくる。近づいてくる。小さな音は段々と大きくなり、破壊音さえ混じり始めた。

「……地響き?」

 わたしはいま真菜と一緒にいる崖が背負った斜面を振り仰いだ。
 山腹にあるこの崖へと向かって、なにかが斜面を駆け下りてきている。
 瞬く間に音が近づく。数が多い。危険が近い。
 真菜を連れてこの場を退避――は、間に合わない。あまりにも襲来が早過ぎる……

「こ、これは……っ!?」

 質量と推進力とに蹂躙されて、茂みが砕け、枝葉が舞い散る。
 現れたのは、緑色をした大芋虫――グリーン・キャタピラの巨体だった。
 ガーベラの『アラクネの巣』から北上してきたわたしたちが、最近このあたりにやってきてから遭遇するようになったモンスターだ。巨体を利用した強烈な突進攻撃と、しぶとい生命力を武器にしている。
 はっきりいえば、たいした敵ではなかった。
 これでもわたしはレア・モンスター。それも、ご主人様の眷属になってからは数十というモンスターを下しており、その間に戦闘経験を積み、単純に力も増している。ガーベラやリリィ姉様には戦闘力で一歩も二歩も劣るとはいえ、一対一で戦ったのなら、わたしでも下すことはそう難しい相手ではなかった。
 ただ、現れたグリーン・キャタピラは一体ではなかった。
 これは珍しいことだったが、有り得ないというほどのことでもなかった。同種のモンスターに限った話だが、ファイア・ファングのような群れるモンスターでなくとも、複数体が行動をともにしていることは、たまにあることだからだ。

 だから、わたしを動揺させたのは、『数』そのものだった。

「な、なんて数……!?」

 視界を埋め尽くすほどの数のグリーン・キャタピラが、木々の間をすり抜け、あるいはへし折りしながら、斜面を駆け下りてきていたのだ。
 下手をすると百体近いのではないだろうか。このあたり一帯のグリーン・キャタピラが集結したのではないかと疑うような光景だった。

 あからさまな異常事態だ。一体なにが起こっているのか。
 ……いや。考え事をしている時間はない。

 斜面を駆け下りる無数のグリーン・キャタピラのうちの一部――数体が進路上にあったわたしたちのいる崖に向かってきていた。
 がちがちと顎を打ち鳴らす音が近づく。
 あっという間に、左右みっつずつの複眼が目前に迫り――……

「真菜!」
「きゃっ」

 わたしは真菜を抱きかかえて、その場を飛び退った。さっきまで真菜がいた場所を、一体のグリーン・キャタピラが通り過ぎ、崖を転がり落ちていった。
 回避に成功。しかし、安堵している暇はない。
 この崖上の平地は狭い。飛び退った先にも、別のグリーン・キャタピラの突進が迫っていた。

「シィ――ッ!」

 真菜を抱えたまま、正面からあの巨体とぶつかりあうのは、あまりにリスクが大き過ぎる。そう判断したわたしは咄嗟に、迫る大芋虫に対して片手の戦斧を投擲した。
 グリーン・キャタピラは生命力が高い。投擲の一撃で殺し切るのは難しいだろう。しかし、大きなダメージを与えて足を止めてしまうことくらいはできるはずだ。
 ぶぉおん、と斧が唸りをあげる。
 魔法がかかった黒色の刃が、芋虫の緑色の外殻に食い込む。片側みっつの複眼を潰し、分厚く丈夫な外殻を断裂させ、どすりと重い音をさせて肉厚な刃が頭部にほぼ埋まり込む。

 期待以上のクリティカル・ヒット――……なのに、突進はとまらない。
 怯んだ様子のひとつもなく巨体が迫る。

「馬鹿な……!?」

 ダメージがなかった? そんなはずがない。頭部がふたつに割れているのだ。ほんの一瞬さえ動きをとめないなんて、そんなことがあるはずがない。本当に、なにが起こって……

「くっ、この――ッ!」

 背中の予備の斧で迎撃する時間はなかった。
 回避も不可能。とすれば、あとは耐えるしかない。
 着地と同時に襲いかかってくる傷ついた大芋虫へと、わたしは片腕の丸盾を突きだした。
 真菜を両腕に抱えるようにして、頭部と肩で盾を支えるように左半身を突きだして衝撃に備えて――……

「……ギィ、ガッ!?」

 凄まじい衝撃がわたしの人形の体を襲った。
 寸でのところで着地した足の下で、がりがりと地面が削れる。
 よりにもよってパワー・タイプのモンスターの勢いの乗った渾身の攻撃を真正面から受け止める羽目になり、比較的脆弱なジョイント部が悲鳴をあげる。
 このままだと体のどこかが壊れる。それがわかっていても、後ろに跳んで衝撃を逃がすわけにもいかない。背後はほとんど切り立った崖の斜面なのだ。

「ギ、ギギ、ギ……ッ!」

 堪え切れずに足が滑る。
 地面に熊手のように突き立てた足指が、負荷に耐えかねて何本か弾け飛んだ。

「ギッ……ギ、ギギ」

 突進がとまったのは、本当にぎりぎり、あと一歩さがれば斜面を転がり落ちてしまうという位置だった。

「こ、これで、どうにか……」

 だいぶ体にガタがきているが、それでも耐えきることに成功した。
 わたしは深く安堵した。
 最初についていた勢いさえなくなってしまえば、グリーン・キャタピラは怖くない。あとは、真菜を地面に下ろしてから自由になった手でどうにでも……

「っ! まだです、ローズさん!」
「――なッ!?」

 真菜の悲鳴がわたしに届く。そのときには、一拍遅れてわたしも状況を感知していた。
 グリーン・キャタピラの巨体を回り込んで、目の前に現れた大きな影があった。
 大型獣タイプのモンスター。凶悪な赤い眼球でわたしを見下ろす兎の頭部に熊の体躯。モンスターとしての名称は、ラフ・ラビット。

「ぐるぅおぅお!」

 グリーン・キャタピラと違って巨体ながら俊敏な動きでわたしに肉薄したラフ・ラビットは既に太い腕を振り上げている。

 ……なぜ、グリーン・キャタピラとラフ・ラビットが同じ場所に?

 そんなわたしの疑問は、振り下ろされた腕に打ち抜かれて砕け散った。

   ***

 無我夢中で動いたせいか、記憶の前後がはっきりしない。
 気付けば、わたしは崖の途中で、急な斜面にしがみついていた。

「……真、菜」

 最初に頭に浮かんだのは、大事な友人のことだった。
 真菜、真菜は――……ほっとした。大丈夫だ、まだ腕に抱えている。
 蒼褪めた顔で、真菜はわたしのことを見上げている。頬にできた擦り傷が痛々しいが、大怪我はしていないようだ。

「怪我、は……ありま、せんか。真菜」

 それでも一応、確認する。
 万が一があってはいけない。いま、ここにはリリィ姉様がいない。絶対に真菜に大怪我をさせるわけにはいかないのだ。

「ローズさん! ローズさん!」

 わたしの確認に対する返答は、泣き声だった。
 真菜の可愛らしく整った顔を、涙がふた筋流れている。
 彼女を泣かせるようなことがなにかあったのかと思い、わたしはほんの少し首を傾げた。

 ――ごろん、とわたしの眼窩から、左の眼球がこぼれおちた。

 造り物の眼球はころりころりと転がって、そのまま崖を落ちていく。
 あっという間に見えなくなった。

「……あ」

 思い出した。
 わたしはラフ・ラビットに顔面を殴打されたのだ。かぶっていた仮面は、そのときに砕けてしまったらしい。目玉が転がり落ちたことから察するに、折角造った顔のパーツも破損してしまったようだ。
 とはいえ、どうせ造り物だから、眼球が落ちたところで戦闘面に支障はない。
 それでも一応、状態を把握しておいたほうがいいだろう。わたしはトカゲのように斜面に慎重に身を張り付けながら、真菜を抱えていないほうの左腕で顔面に触れる。
 触れられない。

 左腕の手首から先がなかった。

 ……ああ。こちらも思いだした。
 ラフ・ラビットに殴られたわたしは、真菜を抱きかかえたまま切り立った斜面を転がり落ちてしまったのだ。そのまま勢いがついて下まで落ちてしまうと、わたしはともかく真菜の命が危険だった。咄嗟に左手をブレーキにして斜面に突き立てたのだが、かなり勢いがついていたために、がりがりと指先からやすりがけされることになったのだ。
 自分が指先から削り取られていく経験というのはあまり気持ちのいいものではないが、それでも命には代えられない。あとはもう、必死に斜面にしがみついていた。どうにか勢いを殺すことができたのは幸運と言える。
 真菜を斜面に押しつけまいとして立てていた膝にも破損があり、姉様から借用した服はところどころ破けていた。足の指先は斜面に埋まり込んで、こちらもどうも指が残っている気配がない。

 それらを全て点検してから、わたしは真菜へと向き直った。

「それで、真菜。もう一度訊きますが、体は無事ですか?」
「――っ! わたしのことなんか!」

 ガラにもなく叫んだ真菜が、わたしの顔に手を伸ばした。
 壊れてしまった顔の左側を覆うように、掌が当てられる。

「わたしなんかより、ローズさんこそ大丈夫なんですか!? こんなに傷ついて……体中ぼろぼろじゃないですか!」
「別に構いません。それくらい」
「構わないなんてこと、ないでしょう!」
「構わないんですよ。だって、真菜が無事だったんですから」

 わたしがそういうと、みるみるうちに真菜の眉が吊りあがった。
 本当に珍しい、真菜の怒りの表情だった。

「なにを言ってるんですか! ローズさんはもっと、自分のことを大事にしてください!」
「していますよ」

 わたしは即答する。真菜は言葉を失った様子で唇を震わせた。
 わたしが適当なことを言っているわけではないことは、すぐにわかったのだろう。顔には薄く困惑が張り付いていた。そんな彼女に、わたしは言葉を重ねた。

「わたしはちゃんと自分のことを大事にしています。蔑ろになんてしていません。それは真菜に教えてもらったことですし、ご主人様にも言われたことですから」

 今更、言われるまでもない。
 わたしは確かに頭のいいほうではないが、流石にそれは馬鹿にし過ぎではないかと思うのだ。わたしだって、成長のひとつくらいしている。

「だけど、仕方がないではありませんか。大事にするようになったわたし自身より、ご主人様のほうが大事ですし……それは真菜だって同じなんですから」
「わ、わたし、ですか……?」

 真菜は明らかに狼狽していた。信じられない、というふうに目が見開かれている。
 無理もない。わたしもまさか、自分がご主人様と同列に語るようになる人間が現れるなんて、かつては思ってもみなかった。
 いまは違う。
 真菜の問いにも、わたしは確信をもって頷くことができた。

「ええ。だから、死なないでください、真菜」

 必死になって真菜を守って、結果としてぼろぼろになってしまっても後悔はない。そんな自分に気付いたことで、わたしは自分にとってなにが大事なのか、それが一体どれだけ大切なものなのか、改めて自覚できていた。

 だけど、その大切なものは間もなく失われてしまうのだ。
 そう思ったら、わたしはもう言葉を選んでなんていられなくなった。

「『わたしなんか』なんて言うのはやめてください。消えてしまわないでください。わたしには真菜が必要です」
「ロ、ローズさん……?」
「わたしと過ごした一日が楽しいって、言ってくれたではありませんか。ご主人様とあんなに嬉しそうにお喋りしていたではないですか。わたしはそんな真菜のことを見ていて、本当に嬉しかったのです。幸せだったのです。だから――」

 細かいことを考えるのはやめた。どう伝えればいいのかなんて考えない。そうすることで口を噤むことになるのなら、論理なんてなんの意味もなかった。
 胸のなかにある気持ちを、全部そのまま口に出してしまう。大丈夫だ。きっと真菜ならわかってくれる。そう信じて、わたしは告げた。

「――生きてください。幸せになってください。……真菜が幸せになれないのに、わたしの物語がハッピー・エンドになるはずないではありませんか」
「……あ」

 真菜が愕然とした顔になった。
 自分の計算違いに気付いたような顔だった。

 ――実際、真菜は失敗していたのだ。

 真菜は自分の幸せに価値を見出していない。最初からそうした全てを諦めて、ただご主人様への想いだけで歩き出し、ここまで歩き続けてきた。そうした真菜の在り方は、今更わたしにどうしようもないくらいに完成してしまっている。
 しかし、その一方で彼女は、自分以外の人間の幸福にはきちんと価値を認めている。そうでなければ、あんなふうに真摯にわたしの願いを叶えようと力を貸すことができるはずがない。
 真菜は自分自身の幸せを捨てられても、わたしのそれを無視することはできない。それは彼女のこれまでの努力の否定であり、それになにより、きっと加藤真菜という少女の心は他人を蔑ろにするようにはできていないのだ。

 真菜は彼女なしには成立しないわたしの幸せを無視できない。
 それはつまり、真菜が自身の幸せを諦められなくなってしまったということだった。

「あ、ぅあ……」

 ずっと真菜がまとっていた刹那的な雰囲気が取り払われる。
 もう消えてしまいそうなところはない。真菜はここにいる。確かにわたしの腕のなかにいて、わたしのことを見上げていた。

「だ、だけど、そんなの、ない。そんなのってない」

 あの真菜のものとは思えないくらいに、返ってきた反論はたどたどしいものだった。

「ローズさんの幸せと、わたしは全然関係……」
「『関係ない』なんて言ったら怒りますよ、真菜」

 びくりと真菜は震えた。
 いまは幼い子供のように怯える彼女に、わたしはなるべく優しく声をかけた。

「友達になってほしいと言い出したのは、真菜のほうではありませんか」
「……あ」

 真菜がたったひとつだけ犯してしまった失敗が、ここにある。
 大事な友人が悲惨な終わりを迎えることを知っていて、自分だけ幸せになれるほど、わたしは冷酷でも無情でもないつもりだ。
 本当にただ消えていってしまいたいのなら、真菜はわたしと友人になるべきではなかったのだ。
 これはもう取り返しのつかない大失敗だ。
 取り返させてなんてあげない。

「ご主人様に対する感情以外、なにも持っていないなんて悲しいことを言わないでください」

 なにも持っていないから、加藤真菜という存在は怪物だった。
 だとすれば、わたしという友人を得た時点で、真菜はもう怪物ではない。
 ただの少女で、わたしの大事な友達だ。

 そして、怪物ではない友人になら、わたしの言葉も届けられる。

「わたしに友人の幸福を祈らせてください。幸せになった真菜を見せてください。真菜のいうハッピー・エンドには、真菜も一緒にいないとわたしは嫌です」

 真菜の目から再び流れ始めた涙をぬぐってやろうとして、わたしはそのための手がないことに気付いた。
 少し考えたあとで、わたしは真菜を抱きかかえているほうの無事な手で、真菜の顔を胸に抱きしめた。

 服に涙がしみていく。震えがわたしの体に伝わる。

「ローズさん。わ、わたしは……」

 それ以上は言葉になっていなかった。
 きっと、あの山小屋で出会ってから初めて、真菜は当たり前の女の子に戻って泣いた。

   ***

 わたしの胸で真菜は泣いている。
 背中に手を回して、ぎゅっと縋りついて、声もあげずに静かに咽び泣いている。
 友人としてそんな彼女を思う存分泣かせてあげたい気持ちはあった。

 けれど、状況はそれを許してくれないようだ。

「……無粋な」
「ローズさん……?」

 わたしがつぶやくと、真菜が顔をあげる。
 泣きはらして真っ赤な目が、わたしを見つめた。

「申し訳ありません。真菜。落ちないように体重を預けて、掴まっていてもらえますか。いまのわたしは片腕がありませんので」

 頷いた真菜が首に両腕を回すのを確認して、わたしは自由になった右腕で背中の予備の戦斧を手に取った。
 見据える先には、急な斜面をこちらへと降りてこようとしている、半液体状の体組織を持つモンスターの姿があった。

「今度はスライム、ですか。……いえ。それだけではない?」

 意識を崖から外へと向ければ、この崖のある山腹を駆け降りる影が多数あった。
 わたしと同種のマジカル・パペットの姿がある。ファイア・ファングが、トレントが、スタブ・ビートルが、それぞれの速度で山を駆け下りている。他にも、左右二対の鎌を持つカマキリや、影を押し固めたような真っ黒い腰から上の人影、頭部が体ほどもある巨大な犬など、わたしたちが見たこともないモンスターも多々見られた。

 もっとも数が多かったのは第一陣のグリーン・キャタピラのようだったが、それ以外のモンスターも全て数えれば五百は下るまい。明らかな異常事態だった。

「どうしてあんなにたくさんの種類のモンスターが一緒に行動を……?」

 わたしの首筋に抱きついた真菜も、事態に気付いて息を呑んでいた。
 彼女の言う通り、異種のモンスターが同時に現れることはまず有り得ない。遭遇すれば必ず戦闘になるわけではないにせよ、基本的に異種のモンスター同士が群れることはないからだ。

「それに、このあたりでは見かけないモンスターの姿もありますよね」

 先程襲いかかってきたラフ・ラビットをはじめとして、このあたりには生息していないモンスターの姿を多数見つけることができた。
 異常事態は進行している。なるべくなら、なにが起こっているのか把握したいところではあるが……

 わたしはすぐに思考を中断した。それは後回しでいい。

「真菜。不思議に思う気持ちはわたしにもわかります。ですが、まずは目の前の危険を乗り越えなければ」
「そう、ですね」

 崖をくだるスライムは、ゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてきていた。
 平時ならなんということもない相手だが、いまのわたしは切り立った斜面の中腹にいる。まともには動けないし、わたしの体に身を預けて掴まっている真菜だって大きく動けば振り落とされてしまうだろう。

「なかなか厳しい状況ですけど、ローズさんはどうするつもりですか?」
「一か八かになりますが、この斧を投げつけようかと」
「言うと思いましたけど、やめたほうがいいと思います。角度的に多分、そうするとあのスライム、ここに落ちてきちゃいますよ」
「……でしたら、時間を稼ぎながら少しずつ降りていきましょう」

 幸い、よくよく気をつければ降りられる程度の傾斜はあった。問題はあのスライムに追いつかれないかどうかだが……

「考えるよりはまず行動すべき、ですね。いざとなったら迎撃しましょう。ある程度降りたら、飛び下りることも可能になるかもしれません」
「わたしもそれがいいと思います」
「しかし、片腕がないのは痛いですね」

 降りるのにも、迎撃をするのにも支障が出る。現状はどうしようもないとして、これを乗り越えたら対策を講じる必要があった。

「こんなことなら、遠距離攻撃手段のひとつでも用意しておくべきでした。手足のスペア・パーツも常に携帯しておくべきでしたか。しかし、そうするとどうしても荷物が……」
「ローズさん」

 スライムから注意を外すことなく、慎重にかつ可能な限り迅速に斜面を下り始めたところで、真菜がわたしの名を呼んだ。

「なんですか、真菜」
「わたしのこと、守ってくださいね」
「――」

 それがいまだけのことを言っているのではないことは、明らかなことだった。
 それはきっと、これまでずっと消え去ることを受容してきた少女に訪れた、確かな変化の兆しだった。

「はい。必ずや」

 わたしは頷く。
 この小さく華奢で繊細な友人のことを、わたしは必ず守ってみせる。
 そう固く心に誓ったわたしは、そのとき、白い影を見た。

 ……どうやら、この場はわたしが出る幕ではないらしい。

「気をつけてください、真菜。――アレが来ます」
「え? わっ、きゃっ!?」

 わたしは降下を中断し、再び真菜の体を抱き寄せる。

 ――次の瞬間、白い弾丸が斜面に刺さり、着弾点にあったスライムの体躯が木っ端微塵に弾け飛んだ。

 振動が大きく崖を揺らし、危うく落ちそうになったわたしは真菜を抱えて崖にしがみついた。細かい小石が降り注ぎ、弾け飛んだスライムの粘着質な体液がぼたぼたと落ちてきた。

「大丈夫かの、ローズ殿」

 土煙が晴れて、そこに立っていたのは、案の定、巨大な蜘蛛だった。
 八本足でしっかりと斜面を掴むその姿は、この地形に最適なかたちに違いない。そうでなくとも、彼女に敵う戦力などそうそういるものではないが。

 ガーベラはかたちのよい眉をかすかに顰めた。

「随分と派手にやられておるな。危ないところであったの」
「……いまの衝撃で落ちかけたのが、一番危なかったのですが」
「それについては問題ない。落ちそうになったのなら、捕まえる準備はできておったからの」

 蜘蛛糸という特殊能力を持つガーベラのいうことだから、これは本当なのだろう。
 色々と残念なところはあるが、こと戦闘面においては彼女ほど頼りになる存在はいない。わたしは胸を撫で下ろした。

「礼を言います、ガーベラ。助かりました」
「たいしたことではない。いま、上まで引き上げよう」

 ガーベラはわたしたちのもとへとやってくると、蜘蛛糸でしっかりとわたしたちの体を固定した。わたしは真菜を抱えたまま、崖をひかれて歩き出した。

「しかし、どうも奇怪な事態になっておるようだの。妾のいたところにまで、あの有象無象どもは押し寄せてきたぞ」

 どうやらガーベラもあのモンスターの大群に行き遭ったようだ。なにが起きているのか、わたしよりも長い時間を生きているガーベラでも心当たりはないようだ。

「ガーベラは無事でしたか」
「問われるまでもない。向かってきたものは叩き潰しておいた。手の届かぬ範囲は流石に放っておいたがの。あれだけおるとキリがないし……それに、ローズ殿たちのことが心配でな。崖の中ほどにいたローズ殿たちのことを見つけたときには、それはもう心臓がとまることかと……」

 崖の上までわたしたちのことを引き上げてくれたガーベラが、そのとき、唐突に言葉を切った。どうしたのだろうか。
 首に抱きついた真菜と一緒に崖上に体をひきあげたわたしは、赤い目を見開くガーベラの美貌をみあげ、彼女が目に映しているものへと向き直った。
 そして、ガーベラと同じく絶句した。

「砦が……」

 呆然とした真菜の声が崖上に響く。
 何百というモンスターにまるで虫の如くたかられる、巨大な砦の姿がそこにあった。
◆このたび、本作が双葉社が創設する新規レーベル、『モンスター文庫』より書籍化することになりました。発売日は8月30日となります。
ダイジェスト化はありません。
詳細については活動報告にて報告させていただきます。

これまで応援してくださったみなさまのお陰です。
厚くお礼申し上げます。これからもどうか拙作をよろしくお願いします。
m(_ _)m ペコッ
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